当時の既成概念を打ち破ったパイオニア的存在、『織田信長』

私は過去のブログにて、様々な歴史上の人物や事象を取り上げた。

今迄何度も登場してきた人物と言えば、やはり織田信長。その為、当然過去のブログで信長と取り上げたものと思っていた。

改めて見直せば、確かに信長に関する歴史的事象は取り上げたが、他の武将のように特集として扱ったことはなかった。

今更という訳ではないが、今回は織田信長を取り上げたい。

 

経歴

・名前    吉法師→織田信長

・通称    三郎、上総介、

・生誕    1534(天文3)年(生)~1582(天正10)年6月2日(没)

・家柄    織田氏

・主君    斯波義銀→足利義昭

・父母    織田信秀(父)、土田御前(母)

・親族    信広(庶長子)、信行(実弟:次男)、信包(実弟:四男)

       お犬の方(妹:長女)、お市の方(妹:次女)

・官位    従三位 権大納言、右近衛大将  正三位 内大臣

       従二位・正二位  右大臣

 

生涯

織田信長は尾張国(現愛知)の守護代織田氏の家老、織田信秀の三男として生まれる。

幼名「吉法師」。通称三郎。腹違いの兄(庶嫡子)に織田信広がいた。

しかし正妻(土田御前)の嫡男の為、父信秀の死後、天文20(1551)年に家督を相続。

永禄3(1560)年、西進する駿河太守今川義元を桶狭間にて奇襲。見事に勝利をおさめる。

 

義元を討った後、独立した松平(後の徳川家康)元康と永禄5(1562)年、織徳同盟を結ぶ。

同盟後、天下布武を目指すべく美濃攻略に着手する。

桶狭間の戦いから7年後の永禄10(1567)年、斎藤氏を滅ぼし、美濃を奪取する。

その後、越前朝倉氏の許で食客となっていた足利義昭を迎え、永禄11(1568)年、上洛する。

上洛後、近畿一帯の制圧に着手。

 

元亀1(1570)年、浅井・朝倉軍を姉川にて撃破。

3年後の天正1(1573)年、浅井・朝倉氏を滅亡させる。

同年、暫し信長に反旗を翻した室町幕府第15代将軍、足利義昭を京都から追放。

事実上、室町幕府は滅亡した。

 

天正3(1575)年、戦国最強と言われた武田軍を長篠にて撃破。武田家滅亡の要因をつくる。

天正8(1580)年、朝廷の斡旋により石山本願寺と和睦。法主顕如は紀州雑賀に退去する。

天正10(1582)年、長年の宿敵だった武田家を滅ぼす。

まさに天下統一を目前にした信長であったが、同年の6月、家臣の明智光秀の謀反により京都の本願寺にて自刃。

飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長だが、最後はあっけない49才の生涯を閉じた。

 

生い立ち

信長は尾張国守護代織田家の家老、織田信秀の三男(四男との説もある)として尾張那古野城にて生まれた。

尚、信秀には庶長子として生まれた信広がいるが、信長の母土田御前が正室の為、信長が実質的な嫡男となる。

信秀は42歳で没したが、信長を入れてなんと22人の子供を設けたとされている。

この子沢山が後の信長の性分に影響したとされている。子沢山ということは、当然跡目争いが激化するということ。

後述するが、実際に信長が実弟である信行と後継争いをすることになる。

実父信秀や実母土田御前も長男信長より、気立てや容姿が優れていたとされている弟信行を可愛がったようだ。

 

当時尾張国は八郡に別れ、信秀は尾張下四郡(海東、海西、愛智、知多)を支配する織田大和守広信の家老の一人に過ぎなかった。

残りの上四郡は織田伊勢守信安が支配していた。因って信長は、生まれた時から尾張太守の嫡男ではない。

更に尾張国の正当な支配者は守護斯波氏。信秀は守護代織田家のいち家老に過ぎなかったが下剋上に乗し、織田家の実力者にのし上がった。

こういう処は何か、後に信長の家臣となる松永久秀に似ている。戦国の世ではいわば常識とも言える。そうでなければ生き残これなかった時代。

信秀の死後、信長が家督を相続した際、信長は先ず尾張国統一から始めなければならなかった。

 

元服、そして濃姫との婚姻

信長は少年の頃、かなり奇抜な恰好をして気の合う仲間を引き連れ、野山や街を歩き回ったようだ。

所謂「尾張のうつけ」と言われたのはこの頃。信長の両親はおろか、家臣・城下の者まで織田家や尾張の将来を案じた。

実際は戦ごっこが好きで、馬術、槍、弓などの教練とも言えた。しかし他の大名の嫡男とは聊か異なっているかもしれない。

 

この時代、人質として尾張にいた竹千代(後の徳川家康)と面会していたと言われるが真偽は定かでない。

後世の作り話の可能性もある。兎に角、やんちゃであったことは確かのようだ。

 

信長は那古野に預けられ、傅役として有名な平手政秀の手に育てられた。政秀は信長の奇行に手を焼き、かなり苦しんだ様子。

実父と実母に育てられなかった影響もあり、あまり家族に対し関心が薄かったとも言える。

 

天文15(1546)年、信長元服。名を三郎信長と改名する。その翌年、初陣。吉良大浜にて今川勢と戦う。

初陣はさしたる記録もない為、大した戦績もなく形式的なものと思われた。

 

天文16(1547)年、傅役平手政秀の尽力にて美濃のマムシと言われた「斎藤道三」の娘濃姫との婚姻がまとまる。

当時信長15才、濃姫14才と言われている。俗にいう政略結婚だが、道三が尾張を手にいれる濃姫を輿入れしたとも言われている。

以前ブログにて言及したが、濃姫に関し詳細のことは分からない。名は「帰蝶」、「胡蝶」とも言われている。

 

天文20(1551)年3月、父信秀が42才で急逝。死因は流行り病とも言われているが、詳細は不明。

父信秀の死後、信長が織田家の家督を継ぐ。

 

父の葬儀での奇行と弟信行との対立

父信秀の葬儀が、織田家菩提樹の萬松寺で執り行われた。その時の信長の行いが又奇特。

父の葬儀にて親族・家臣が参列する中、遅刻をしてきた信長はいつもながらの出で立ちで位牌の前に歩み寄り、父の位牌に焼香を投げつけた。

投げつけた後、信長はそのまま立ち去ったと伝えられている。

 

一方、弟信行は正装にて鎮座し、家臣から一目置かれたとされている。

これが織田家内紛の火種となったのは言うまでもない。家臣の多くはうつけ信長より、弟信行が後継者に相応しいと思ったに違いない。

後に信長の重臣となる柴田勝家・林道勝もこの時はまだ、信行の家臣だった。

当然、跡目は我が君である信行が後継者に適任と考えたのは想像に難くない。

 

この火種は、軈て現実となる。

因みに葬儀での信長の奇行の責任をとる形で2年後、傅役の平手政秀が切腹している。

責任をとる形と言われているが、この切腹にもいろいろ所説があり真偽は不明。

しかし何故信長が、父の位牌に焼香を投げつけたのかは今でも謎。

早世した父に対する怒り、戦国の最中、盛大な葬儀をおこなうことへの反抗等、様々言われているが、これも確証はない。

 

信長、舅道三と正徳寺にて面会

天文22(1553)年、信長は濃姫の父道三と尾張正徳寺にて、顔を合わせることとなった。

面会はどうやら、道三のほうから申し出があった。

道三としては信秀の死後、信長という男が尾張一国を治めるに足る人物か、興味が湧いた様子。

面会場所は美濃と尾張の国境にある、尾張の正徳寺が選ばれた。正徳寺は当時、中立的立場だった。

その為、両者が会うには都合の良い場所だった。

 

道三は正徳寺で面会する前、信長を一目見ようと町家に身を潜め、信長が来るのを待った。

すると信長軍がやってきた。信長の身なりはいつも通りだったが、信長が率いる軍隊は最新鋭の兵器と精鋭部隊だった。

信長の風貌に気落ちした道三は、正徳寺で信長する気が失せてしまったとされている。

 

処が正徳寺と会談で信長は、先程までの出で立ちとはうって変わり、正装にて道三と対面した。

すっかり気をよくした道三は信長との話も弾み、又信長を只者ではないと感じた。

更には将来斎藤家は織田家の家来となるであろうと予言した。英雄は英雄を識るといったところだろうか。

その予言は道三の死後、現実なものとなる。

 

信長と面会後、道三は上機嫌で美濃に帰ったと伝えられている。

信長と濃姫は道三を、国境の田代城まで仲良く見送ったとされる記録が残されている。

実は濃姫が歴史の記述に登場するのは意外だが、これが最後。

信長が美濃を手に入れた時、用済みとなり処罰された。

或いは濃姫は、信長が本能寺にて明智光秀に討たれる直前まで一緒で、一生を供に添い遂げたともいわれているが定かでない。

 

繰り返すが、この時を境に濃姫の存在は歴史から姿を消した。信長との間には、子もなかったようだ。

濃姫に関しては、過去に取り上げたブログがある為、興味のある方は其方をご覧ください。

戦国の歴史の闇に消えた女性 『濃姫』

 

信長、尾張統一を進める

弘治1(1555)年、信長は尾張統一に邁進する。信長は清州城を根城とする守護代本流の織田広信と戦う。

信長の意向をしり、織田広信は信長の叔父にあたる織田信光に同盟を申し出た。

広信と信光の二人が信長に当たり、信長を滅ぼそうと画策した。

 

処が広信が頼みとした信光は、既に信長と気脈を通じていた。広信が騙すつもりが逆に騙され、滅ぼされた。

しかしその約7カ月後、今度はその信光が自らの家臣の手で暗殺されてしまった。

信光亡き後、信長は信光と分け合った下四郡をなんなく手に入れた。この暗殺に経緯も実に怪しい。

信光の暗殺により、最大の利益を得たのは信長。なんとなく謀略の匂いも漂う。

 

更に謎なのは、信長のもう一人の叔父である信次の所業。信次は信長とのトラブルで一時国外に退去していた。

トラブルの原因は、信次の家臣が誤って信長の弟秀孝を射殺した為。

信次が退去し空になった守山城は、信長の弟信時に与えらえた。しかしこの信時も信光と同様、家臣に暗殺される。

同じような偶然が二度も続いた。流石にあまり人を疑わない人間も、疑わざるを得ない。

信長の父信秀は子を22人、設けたとされている。信秀が急逝した為、俄かに後継者問題が浮上した。

更に当時信長は家臣一同や城下の者からも「うつけ」と呼ばれていた為。織田家の行く末を考えた際、一抹の不安がよぎるのも詮無きこと。

次に話す事象が信長家最大の後継者争いだったと思われる。

 

舅道三の死

信長と信行との争いを書く前、時系列的に信長の舅である斎藤道三の死を述べたい。

信長が尾張統一に動き出した時と同じくして、美濃では道三と嫡男義龍との諍いが起こっていた。

弘治1(1555)年、道三は次第に長男義龍ではなく、次男孫四郎、三男喜平次を寵愛。

義龍を疎んじていた。それを察した義龍は同年5月、弟の孫四郎と喜平次を暗殺。道三と対立した。

 

翌年(1556)1月、義龍は道三が隠居していた鷺山城討伐の兵を挙げた。

2月の合戦に敗れた道三は城田寺に逃げたが、義龍が追撃。4月20日、長良川の河畔にて希代の梟雄「斎藤道三」は討ち死にした。

道三からの知らせを受け、信長は救援に向かうが、道三討ち死にの報を聞き兵を退いた。

この時道三は遺言として、信長に美濃一国を譲るという「国譲り状」を書いたとされている。

 

信長、遂に弟信行と干戈を交える

舅道三と無くした同年(1556)年8月、今度は信長の弟信行が信長打倒の兵を挙げた。

所謂「稲生の戦い」である。稲生とは尾張国春日井郡稲生郷で起きた戦いのこと。

現在の名古屋市西区あたりと言われている。

 

前年(1555)、本流織田信広を滅ぼした信長は清州城に移った。

弟信行は末森城を根城としていた。鳴海城主山口教継は信長を見限り、今川義元に寝返った。

更に1556年の道三の死により、信長は美濃の後ろ盾を失った。

これ幸いと尾張上四郡を支配する岩倉織田家(織田信賢)が斎藤義龍と誼を結び信長に対抗した。

これに乗じ信行の家臣だった柴田勝家、林道勝などが主君信行を担ぎ、信長に反旗を翻した。

 

信行の許に岩倉織田家の同様、斎藤義龍と誼を通じていたとも言われているが定かでない。

あったかもしれない。否定はできない。似たような状況に、後の同盟国となる三河がある。

松平元康は三河の当主だが、桶狭間の時は今川家の属国だった。

何故属国だったのかと言えば、やはり三河も後継者問題に揺れていた為。

元康の父が暗殺され、お家騒動が勃発。その仲介として乗り出した今川家の介在により、今川家の存在が増した。

 

大概お家の後継者争いで他人の介在を招いた時、譬え後継者争いに勝ったとしても後継者は介在した他人に頭が上がらない。

これは家に限らず、国家間でも同様。他国の力を借りた後、その国の影響を断ち切るのはなかなか難しい。

譬え断ち切ることが出来たとしても、かなりの時間を要する。

皮肉にも元康の場合は、桶狭間にて今川義元が信長の手により討たれた為、独立を果たすことができた。

その2年後、信長と元康は積年の恨みを忘れ同盟に至るとは、夢にも思わなかったであろう。

 

信行の動きを察知した信長は佐久間盛重に命じ砦を築かせ、迎撃態勢を布いた。

そしてついに8月24日、稲生原にて両軍が相まみえた。

数的に信長軍約700人に対し、信行軍約1700人だったが信長軍の奮闘して信行軍は後退。

信行軍は末森城・那古野城に撤退した。

 

敗れた信行は、信長と実母の土田御前の取り成しにより、漸く赦しを得た。

赦しを得た信行だったが、翌年の弘治3(1557)年、再度信長に対し反旗を翻す。

信行は尾張上四郡を治めていた織田信安と組んだ。しかしこの頃には重臣だった柴田勝家も信行を見限り、信長に寝返った。

勝家が寝返った理由は、次第に信行に重用されなくなり、信長に走ったと言われている。

 

勝家は信長に信行謀反の計画を密告した。信長は勝家の密告を逆手にとり、病と称し信行に謀略をしかけた。

信長が病に伏せている為、見舞いを勧め信行を清州城に誘った。

疑われてはまずいと悟ったのか信行は、勝家の誘いに乗った。

見舞いに清州を訪れた信行は、信長の家臣河尻秀隆に討たれたとされている。

信行の死により信長は、漸く尾張の半分を手に入れることができた。残りの半分は前述した織田信安が支配していた。

 

信長、尾張を統一

弟信行を討った信長は尾張統一を目指すべく、尾張上四郡を支配する織田信安の攻略に着手した。

因みに信長の居城清州と信安の居城岩倉は、距離にして約3キロほどしか離れていたない。

まさに目と鼻の先と言える。永禄1(1558)年7月、浮野にて両軍が戦い信長軍が勝利。

翌年の永禄2(1559)年3月、岩倉城を攻め、遂に織田信安を追放する。

ここに於いて1551年、父信秀の死後、尾張は漸く信長の手により統一された。

運命の悪戯とでもいうのだろうか。翌年の永禄3(1560)年5月、今川義元が尾張に侵攻する。

信長の尾張統は、まさに紙一重だった。もし1年前に尾張が統一されてなければ、尾張は義元に蹂躙されていたかもしれない。

本当に歴史の綾とも言える。

 

これ先立ち同年2月、信長は上洛。当時室町幕府第13代将軍、足利義輝に謁見している。

上洛の目的はおそらく尾張統一を目前にして、将軍から尾張国の正式な支配者としてお墨付きを得ようとしたと思われる。

この謁見にて信長は目的を遂げることはできなかった伝えられているが、信長としては将来的に京を治めるという野望もあり、視察を含め充分目的を果たしたと思われる。その証拠として、後に越前国朝倉氏にいた足利義昭を招き、上洛している。

 

此処までが桶狭間にて信長が、今川義元を討ち破るまでの主な出来事だと思われる。

桶狭間以降は、これまで過去のブログにて何度も述べてきた為、ご興味のある方はご参照されて下さい。

一応ここで区切りますが、後に気づいた事があれば、逐次加筆したいと思います。

(文中敬称略)

 

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