意外に知られてないが、織田信長が何故、歴史の表舞台に躍り出たのか

戦国時代の魔王と云われた「織田信長」。

戦国時代の中心的人物となり、戦乱の世を終結に向かわせた英雄。

信長軍が天下統一の主導権を握った理由は様々だが、今回は意外に当たり前すぎて、あまり意識されていない事象を述べたい。

 

信長の天下統一の動き

 

以前ブログで何度も信長の天下統一の動きを述べた為、詳細は省くが、簡単に述べれば、

 

①ポルトガルから伝来した鉄砲等の新技術を積極的に取り入れた事。

②楽市・楽座政策を実施。座を撤廃、商業の自由を奨励した事。

③当時の既得権益の代表格であった比叡山を焼き討ちした事。

④同じく既得権益で最大の勢力を誇った、一向宗を駆逐した事。

⑤当時の先進地域であった近畿地方を支配下に治めた事など。

 

様々挙げられるが、あまり地味すぎて、いやあまりにも当たり前すぎてあまり意識されていない事柄が存在する。

それは何であろうか。

 

足軽重視の信長軍

 

信長軍の特徴を挙げるとするならば、他の大名と違い、足軽を重視した事であろう。

足軽とはご存じの通り、武士の身分では、最下層の部類に属する存在。

 

つまり軍隊の中では、一番身分が低い地位だった。一番身分が低い存在を重視する軍隊。

それは言い換えれば、常時スペア・補充が可能で、誰でも成れると言う事。

 

もし騎馬武者と一対一で戦えば、あっけなく負けてしまう兵。

しかし何故信長軍が、天下統一の表舞台に躍り出たのか。

 

意外と弱い信長軍

 

歴史の時間で天下統一の項目で必ず学ぶ人物と云えば、おそらく織田信長であろう。

しかし意外とも思われるかもしれないが、実は信長軍は意外に弱かった。

 

上杉軍・武田軍等と一対一でまともに戦えば、おそらく負けたであろう。

島津軍と同数の兵力で戦えば、惨敗した可能性もある。

 

しかし何故信長軍が天下統一の中心に躍り出たのか。

結論を先に述べれば、他国に先駆けて「兵農分離」を進めた為。

 

いち早く、農民を中心とした軍隊ではなく、戦う集団を専門とした軍を編成した為である。

つまり傭兵制を導入した事。

 

なんだそんな事、当たり前ではないかと思う人もいるかもしれない。しかしそれは、現代の感覚。

 

当時は「半農半兵」が当たり前であった。

つまり信長は他国に先駆けて、戦闘常備軍を創設したのである。

 

当時は半農半兵が常識

 

戦国時代は、半農半兵が当たり前。「一領具足」という言葉が存在するように、普段は農作業に従事。

何か事が起これば、直に領主の許に駆けつける為、作業の近くに槍・鎧を備えているのが常識だった。

信長軍は当時常識とされていた、半農半兵の制度を打ち破った。

 

足軽が活躍した戦いと云えば、当時最強と言われた武田軍を討ち破り、武田家没落のきっかけとなった「長篠の戦い」

長篠の戦いは、後の戦国時代の戦いの転換ともなった。

 

長篠の戦いは、武田騎馬隊を足軽鉄砲隊が、完膚なきまで打ちのめした戦いで有名。

名もなき足軽が、武田家の歴戦の勇者達を死に至らしめたのである。足軽の面目躍如といった戦いであろうか。

 

武田軍が何故、負けたのか。

それは先代信玄の時代から原因があったと言える。甲州・信濃の武田軍は、半農半兵であった。

思い起こせば、信玄が上洛の途に就いたのは1572(元亀3)年の暮れ。

 

何故暮れも押し迫った時期に、上洛の途に就いたのか。

甲州・信濃が雪に覆われ、農閑期にしか兵を動員できなかった為。

 

どうして上杉軍と武田軍が川中島で5度戦い、決着がつかなかったのか。

それは戦いが決められた期間でのみ、行われた為。農閑期を見計らい、間隙をぬっての戦いであったからと推測する。

 

だから5回も相まみえ、勝負がつかなかった。

たまたま第4次川中島が何故激戦になったのか。それは、互いに時間の制約があった為

 

過去のブログでも述べたが、第4次川中島の戦いで信玄軍は、「啄木鳥」と云われる戦法で、上杉軍をおびき出そうとした。

武田軍が奇襲を掛けようと上杉軍が陣取る妻女山を目指したが、上杉軍が武田軍の裏をかき、妻女山を下山。

上杉軍は妻女山に向かった武田軍が、八幡原の本隊(信玄本隊)に合流するまでに勝負をつける必要があった。

時間の制約があった為、稀にみる激戦となった。

 

信長軍は、半農半兵の欠点を見事に解消した。

常時戦闘ができ、自分の城下町に常駐。事が起これば、すぐさま軍を編成。出陣可能だった。

 

信長軍の迅速・神出鬼没は有名。1573年、浅井・朝倉両家を滅ぼしたのも、ほんの僅かな期間。

戦となれば、すぐさまぐ軍を編成、出撃する。

仮令戦いが長期戦になろうとも、農作業など気にしない。戦いの専門軍隊である為、何も心配する事はない。

 

農民兵であれば、やはり農作業が気になり全体の士気が下がる。

挙句に国の一年の石高にも影響する為、農民はおろか国主(大名)まで士気が下がった。

 

信長軍は今までの欠点を、常備軍を持つ事で解消した。

当然何もない平時でも常備軍を維持する為、必要な経済力を保有していた。

 

信長の経済力は前述した楽市・楽座政策に繋がり、更に堺などの各商業都市を支配下に治め貿易で潤い、自軍を養ったと言える。

 

鉄砲を多く保有できたのも他の大名に比べ、桁違いの経済力を誇っていた為。

これが一対一で戦いでは決して強いとは言えないが、集団になれば、信長軍が強いと云われる所以。

 

信長の死後

 

信長は天下統一を目前にして、家臣の明智光秀に討たれるが、信長のやり方を踏襲したのが、羽柴秀吉。

秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討った後、並み居るライバルを蹴散らし、後継者レースで勝利を収め、見事に天下統一を成し遂げた。

 

信長の政策は、そのまま秀吉に受け継がれた。

秀吉は信長の政策を更に押し進め、京都方広寺の大仏建立の名目で、「刀狩り」を実行。

農民から武器を没収した。秀吉は兵農分離を進め、秀吉亡き後に天下人となった徳川家康に受け継がれた。

 

こうして一連の動きをみれば、信長が実施した兵農分離制度が、如何に優れていたか理解できる。

兵農分離は江戸時代にも受け継がれ、士農工商を経て、明治維新まで生き残る。

 

信長が初めに実施した兵農分離は明治維新を迎える頃の世間では当たり前として認識され、信長の功績は忘れ去られる結果となった。

 

斬新とされたアイデアが常識となった時、考案・採用した人間の功績が忘れられる事が多々ある。

 

現代社会も同じ。

今では常識とされるTV・自動車・携帯電話・インターネット等、普段何気に利用しているが、振り返れば、誰が一番初めに考案・開発したのか思い出せない事が多い。

 

おそらく私も含め、記憶している人は少ないと思う。所詮、世の中とは、そんなもの。

素晴らしい発明も、一般化された後は誰も初め事など記憶にない。

 

話を戻すが、信長軍は当時としては珍しい、戦闘常備軍を保有していた。

歴史を語る上でしばし、もし武田信玄が長生きしていれば、信長の天下はなかったとよく言われる。

 

しかし仮令1572年冬の上洛で、信玄が一時的に上洛しても、信玄の天下はそう長く続かなかったのではないかと予測する。

 

何故なら武田軍はやはり、兵農分離をしていない為

農作業の繁忙期になれば、甲斐・信濃国に帰らねばならず、都を留守にせざるを得なかった。

 

その為隙を見計らい、又誰かが上洛した筈。以前周防の大内氏が都にいた時、大内氏は都より自国領が気になり、帰国した。

大内氏はその後、新興勢力の毛利氏に領土を侵食され、最後に滅亡した。

 

信長の上洛前、信長より領土が都近くにあり、当時足利義昭を手中に納めていた朝倉義景は、上洛の意図はなかった。

大内氏・朝倉氏も自国領を気にしていた事もあるが、決して常備兵がいなかった事と無縁ではない。

大名本人が本国に帰りたかったと同時に、家臣たちも本国が気になり、帰国したであろう。

 

信長が常備兵を於いた利点の一つは、軍隊がスムーズに移動できる事。

信長の占領政策の特徴として、信長は占領先に本拠地を移した事である。

これが常備軍を移動させる為に、有利に働いた。

 

もし元の領土に土地があれば、人間の心情として転居を渋りがちになる。

しかし常備兵であれば、すぐさま移動が可能。次の侵攻先にも近くなる為、出陣し易い。

 

信長が美濃を攻略した後、本拠地を清洲城から稲葉山城に移した。

心機一転、統治者が変わった事を天下に知らしめる為、稲葉山城を岐阜城に改名したのも有名。

 

臣下も同じ。

北国地方の上杉に対し、越前の柴田勝家。

中国地方の毛利に対し、姫路の羽柴秀吉。

関東地方の北条に対し、滝川一益。

 

そして臣下ではないが同盟相手の徳川家康は、今川氏を滅ぼした後、遠江の浜松城に本拠地を移した。

皆最前線に本拠地を移し、敵に当たった。ひとえに兵農分離が進み、異動し易い状況だったと言える。

足軽であれば、領土内の農民と違い、金を出せば常に採用が可能だった。

 

これが信長軍の特徴。

更に斬新なアイデアと強力な実行力で数々の政策を行い、天下統一に邁進したのは云うまでもない。

 

今回はあまり知られていないが、何気に重要な信長軍の秘訣を述べてみた。

話を聞けば、其れほど大した事ではないと思われるかもしれないが、当時の常識としては信長軍の常備軍(傭兵制)は、珍しい事だった。

足軽は一人戦えば弱いが、集団で戦えば強かった。それが信長軍の特徴だったのかもしれない。

 

(文中敬称略)