「織田信長」を本能寺で抹殺 三日天下で終わった男「明智光秀」

来年のNHK大河ドラマは、「明智光秀」が主人公として放映される予定です。今回それに因み、明智光秀をとり挙げたいと思います。

 

謎の多い武将「明智光秀」

以前ブログにて、本能人の変での黒幕が誰かをテーマに描きましたが、その時に実行者は明智光秀で間違いないと書きました。

今回はその、明智光秀について述べてみたいと思います。

 

色々調べてみれば、意外にあまり詳しく描かれているものがなく、謎が多い人物である事が分かる。

信長に仕えてからの記録は多いが、それ以前は何をしていたのか、あまり記録が定かではない。

本能寺の変後、「山崎の戦い」で光秀が中国大返しで引き返してきた羽柴秀吉に敗れた為、記録が破棄・抹殺された可能性も高い。

 

もし記録が残っていれば光秀の係累と思われ、時の権力者(秀吉・家康)から、お咎め・処罰されるおそれがあった為、破棄・抹殺されたとも云える。

現に光秀が本能寺の変を起こす直前に催した連歌会の参加者の日記が破棄・改竄。

 

本能寺の変後に書かれた他の公家・寺社・町衆たちの日記が、山崎の戦い後、破棄・改竄された事を考えれば当然かもしれない。

世の中、往々にしてその様なものだと思われる。では具体的に分かる限り、述べたいと思う。

 

不確かな前半

美濃の名門「土岐氏の末裔」と云われているが、定かではない。父は「明智光綱」と云われている。生まれは1528年らしいが、これも確証がない。

父と供に当時美濃の支配者「斎藤道三」に仕えたといわれ、父は「明智城」を道三と対立していた「斎藤義龍」軍の攻められ(1556年)、討死にしたと伝えられているが真偽は不明。

1528年生まれであれば光秀、当時で28歳。

 

斎藤義龍
父斎藤道三と対立。1556年長良川の戦いで父道三を滅ぼす。その後、美濃を支配する。義龍の時代、後に秀吉に仕えた有名な「竹中半兵衛」も出奔。隠遁生活を送る。しかし1561年、義龍は急死する。

 

父が討死した後、諸国を放浪したと伝えられている。しかし正確な記録は存在せず、不明。謎多き人物。

信長に嫁いだ道三の娘「帰蝶:濃姫」と縁者だったも云われているが、確証がない。

もし従兄関係であれば光秀の父光綱と、濃姫の母小見の方は兄弟同士となる。

 

光秀が正式に歴史の表舞台に踊り出るのは、越前朝倉義景の一乗谷に食客となっていた時。

京から落ち延び、朝倉氏を頼ってきた「足利義昭」と巡り会ってからの事。

義昭に仕えたのは、1566年頃と云われている。美濃を出奔してからの約10年間は、全くの謎。

 

はっきり記録に名が載るのは1568年、足利義昭と織田信長を同じ義昭に仕えていた「細川藤孝:幽斎」と供に尽力。

信長と義昭を引き合わせた事による。信長の力を借り、義昭は上洛。義昭は室町幕府、第15代将軍に就任する。

細川藤孝と同時に義昭に仕えた。此処から光秀はトントン拍子に出世する。

 

義昭入洛後、織田方「羽柴秀吉」「村井貞勝」と供に、京都奉行を務める。

1570(元亀1)年頃、義昭と信長の関係が悪化。光秀は徐々に信長の臣下となる。

いつ乗り換えたのかは、分からない。

ただ藤孝も信長に加担している処をみれば、徐々に義昭よりも信長の将来性を見据え、鞍替えしたと思われる。

 

1570(元亀1)年は、信長が「浅井・朝倉攻め」を実行した年。

信長包囲網が、一番強固だった時期。表の首謀者は「武田信玄」だが、陰の首謀者は陰謀将軍と云われた「足利義昭」。

同1570年、信長は若狭守護「武田元明」を滅ぼす。

 

包囲網を打ち破るべく信長は、朝倉攻めに向かう。

この時突如、信長の義弟「浅井長政」は、信長に反旗を翻した(長政は信長の妹、お市の夫。因って長政は義弟となる)。

 

信長軍が越前の金ヶ崎城を攻めた時、浅井長政の裏切りを知る。

一説では、妹お市が長政の裏切りを信長に知らせる為、書面ではバレる為、両口を紐で縛った袋の小豆を届けさせ、裏切りをしらせたとのエピソードがある。

「袋の鼠」の意。

 

この時の光秀の然したる記録は殆どない。信長は長政の裏切りを知り、撤退を決意。京都に逃げ帰る。

撤退時、殿軍(しんがり)を務めたのは、羽柴秀吉・徳川家康。

信長は態勢を整え、北近江の姉川で浅井・朝倉軍を撃破。但し、実際浅井・朝倉家を滅ぼすのは3年後。

 

1571年(元亀2)、信長の比叡山延暦寺を焼き討ち。この時、光秀は信長の命令を確実に実行。手柄を立てた。

尚、比叡山延暦寺は「浅井・朝倉」に好意的だった。基地まで提供している。

 

この功で光秀は近江志賀郡を拝領され、坂本城主となる。美濃を出奔、各地を放浪。苦労の末、光秀は漸く城持ち大名に出世する。

 

近江坂本
坂本は昔からの要衝の地。1428年(正長1)正長の土一揆が発生した地でもある。当時の馬借は陸運の中心だった(今で言う運送会社であろうか)

 

信長軍団の中核に出世

信長包囲網に合わせ、武田信玄が上洛の途に就く。時を同じくして、足利義昭が信長に反旗を翻す。

この時、信長に密告した人間が「細川藤孝」。この頃には既に藤孝は、義昭を見限っていた。

 

1573年(元亀3)、足利義昭を京都から追放。事実上、室町幕府の滅亡となる。

義昭は1572年、上洛の途についた武田信玄が、年の暮れに亡くなったのを知らず、上洛するものと思い込み信長に反旗を翻す。

義昭は追放後、毛利氏を頼り「備後鞆の浦」に移り住む。

信長、1573年(天正1)。遂に宿年の敵「浅井・朝倉」両家を滅ぼす。

 

1575年(天正3)。信長から九州の名族「惟任:これとう」姓、官職「日向守」を与えられる。

1576年(天正4)。信長の命で丹波・丹後の波多野氏攻略を手掛ける。

一旦、恭順の意を示した波多野秀治が離反(1575年)。平定に4年を費やす。

この手柄により丹波一国(約29万石)を与えられ、坂本と合わせ約35万石の大名に出世する。

 

講和の際、八上城に光秀は実母を人質として差し出したが、安土に赴いた波多野秀治・秀尚を信長が処刑。

実母は波多野家臣に、なぶり殺しにされた(1579年)。

真偽は不明だが、此れが本能寺の変の怨恨説に繋がったとの見方もある。

 

1578年(天正6)、伊丹城主「荒木村重」が突如離反。

鎮圧に凡そ、一年近くかかる。伊丹城は当時中国攻めの羽柴軍、丹波攻めの明智軍をつなぐ要衝地であった。

光秀の息女が、村重の嫡男「村安」に嫁いでいたが、離反後、離縁されている。

息女はその後、明智秀満と再婚する。因って秀満は入り婿。

 

1580年(天正8)、石山本願寺和睦にて退去。信長、畿内ほぼ統一。光秀、信長の家臣「滝川一益」と大和の検地役を命ぜられる。

 

1581年(天正9)、京都にて信長が「お馬揃」を催行。光秀、奉行に命ぜられ役を果たす。

光秀が目覚ましい活躍が記されているのは、ほぼこの辺りであろうか。

以降、あまり活躍した記録が見られず、信長との関係も微妙なものとなっていく。

 

信長との蜜月の終了

1582年(天正10)2月、宿年の敵「武田家」攻めに着手する。

信玄亡き後、武田家は「勝頼」が家督を継いでいたが、1575年長篠にて織田・徳川連合軍に完敗。その後、没落の一途を辿っていた。

 

武田勝頼
諏訪頼重の娘(おここ)と信玄の間にできた子。初めは諏訪家を継ぎ「諏訪四郎勝頼」と名乗っていた。武田信玄の長男:太郎義信、謀反嫌疑の故、廃嫡。次男:竜芳、盲目の為、出家。三男:信之、11歳で死亡。諏訪家から武田家を継ぐ事になる。

 

時機到来と判断した信長は、長子「信忠」を中心部隊として甲斐に攻め込む。

信玄存命時、戦国最強と言われた軍団も内部家臣の離反もあり、武田家はあっけなく滅ぶ。

天目山にて、武田家一族は自刃。武田家は滅亡する。1582年(天正10)3月11日の事。

 

光秀は従軍する程度だったらしく、然したる手柄を挙げていない。この時すでに主君「信長」との関係は、微妙なものとなっていた。

 

例えば武田家滅亡後の戦勝の宴で、光秀が

「長年、骨を折った甲斐があった」と述べると、

 

信長がそれを聞き咎め、

「お前はどれだけ骨を折ったのだ」と叱りつけ、

面前で光秀を打擲したと伝えられている。

 

事実かどうか定かでないが、信長としては、光秀はどちらかと言えば、近畿・西国中心に活躍していた。

その為武田家に関してあまり関与していなかったと思われたので、光秀の言葉が癪に障ったのかもしれない。

 

どうやら1581年を境に、信長と光秀が微妙な関係なっているのが分かる。

1582年5月15日、武田家滅亡の戦勝祝いで、徳川家康と旧武田家家臣「穴山梅雪」が安土を訪れる。

 

5月17日、饗応奉行を仰せつかるが、何故か途中で役を解任され急遽、中国にて毛利氏と対陣している羽柴秀吉の援軍に向かうよう命じられる。

 

5月26日、丹波亀山城にて出陣の準備をする。

 

5月27日、戦勝祈願と称し、愛宕神社に参籠する。おみくじを引いた際、3回引いたが、3回とも「凶」だったと伝えられている。

 

5月28日、京から文化人を呼び、連歌会を催す。連歌会で有名な歌を詠む。

 

「時は今、雨が下しる、五月哉」。

 

この時すでに謀反を決意した模様。その日のうちに亀山に戻る。

 

5月29日、武器・弾薬などを中国方面に送る。カモフラージュとも言われている。

 

6月1日、夜亀山城を出発。京と中国路に分かれる「老ノ坂」で休憩をとる。

私はこの時、京からの情報を待っていたと推測する。待っていた情報は、「信長の近況」

 

情報を聞き、明智軍は出発。何故か中国路に向かわず、京を目指す。桂川を渡った時、光秀は全軍に告げる。

「敵は、本能寺にあり」と。

後は周知の如く、本能寺は炎上。織田信長、自刃。享年49歳の生涯を終える。

 

尚、本能寺の変の経緯、動機などは以前のブログにて、詳しく書き記してありますので宜しければ、其方をご参考にされて下さい。

参考:稀代の英雄「織田信長」を葬った明智光秀。背後の黒幕は?

 

本能寺の変とその後

6月2日、本能寺で信長を討ち取った光秀は、信長の拠点「安土城」の制圧に向かった。

光秀の最初の誤算は、大津に掛かる瀬田川の橋が落とされていた事。橋が落とされていた為、その日の安土城攻略は諦めざるを得なかった。

 

光秀は坂本城に帰り、各大名に味方してくれるよう書状を発した。

細川藤孝、筒井順慶、中川清秀、高山右近などであったが、光秀の予想に反し、誰一人味方してくれる者はいなかった。

 

6月3日、細川藤孝の嫡男「細川忠興」の正室は光秀の息女「玉:ガラシャ」である。

藤孝は本能寺の変を聞くや否や、剃髪隠居し、嫡子忠興に家督を譲っている。

 

6月3日、信長横死の知らせを毛利方にしらせる書状を認めた密使が、秀吉側に捕まったのも不運。

6月4日、秀吉、高松城の陣を撤収。6月6日、姫路に戻る。

6月5日、安土城接収。城番として明智秀満を置く。秀吉の城、長浜などを接収。8日の京の向かう迄、安土にて朝廷工作、周辺大名などの投降、恭順などの工作などを画策していた模様。

 

6月7日、朝廷からの勅使「吉田兼和」を安土にて迎える。

6月8日、秀吉軍、姫路を出発。光秀、安土から京に帰還する。

6月9日、細川藤孝に書状を送るも、相手にされず。

 

6月10日、筒井順慶は返事を寄越さず、光秀は順慶が来ることを信じ、「洞ヶ峠」で待ち続けたが、貴重な時間を只無駄にしただけだった。

光秀が待ち続けた場所に因み「洞ヶ峠を決め込む」という諺が生まれている。

 

6月12日、「中国大返し」の羽柴軍、天王山に布陣する。秀吉の下に「丹羽長秀、織田信孝、池田恒興、中川清秀、高山右近」などが参集。兵力約3万5千程になる。

信長の弟信行の遺児「津田正澄」は、光秀の息女を正室にしていた為、本能寺の変後、謀反を疑われ丹羽長秀に殺されている。

 

6月13日、山崎の戦い。光秀軍約1万4千。光秀あっけなく敗戦。勝竜寺城に逃げ帰る。夜中、脱出し坂本城を目指す。

6月14日、京都山科の「小栗栖」まで来た処、土民の落ち武者狩りにあい、竹槍で脇を刺される。もはやここまでと思い、自刃。享年55歳と云われている。

 

信長は死体が見つからなかったが、光秀の首も見つからず。光秀が襲われたと思われる場所は現在、明智藪と名付られている。

6月15日、安土城謎の炎上。同じ15日秀吉軍、坂本城包囲。秀満、明智一族自刃。

 

光秀の失敗と挫折

本能寺の変の後、僅か12日で光秀の天下は終わった。

その短さをもじり「三日天下」と云われているが、光秀が死ぬまでの間、旧信長家臣はいろいろな運命を辿った。

 

滝川一益は本能寺の変後、北条氏政の軍勢に攻められ全滅している。

河尻秀隆は武田家滅亡後の甲斐にいたが、旧武田家臣の一揆にあい、殺されている。

 

如何に信長のカリスマで、統制されていた軍団だったと云う事が理解できる。カリスマなき後、軍団は一瞬にして瓦解した。

光秀は信長を討つまでは良かったが、後のビジョンが全くなかった。

本能寺の変後、一時光秀に靡いた人間も山崎の戦いで敗れると、みな手の平を返し保身に走った。

朝廷、公家、町衆、文化人、門跡、寺社など然り。

 

頼りにしていた各勢力たちが、何れも光秀に味方しなかった。光秀の誤算と言える。

6月9日、細川藤孝に送った書状を見ても、何か虚しさが漂う。

光秀の行動を時系列で眺めれば、本人とは全く別の、見えない意思が働いていたとしかみえない。

 

光秀が本能寺の変を引き起こした原因は、未だに謎。

山崎の戦い後、親交があった人物が次の権力者の処罰を恐れ、日記などを破棄・改竄した事。

明智の居城坂本城が全焼した事。

信長亡き後、天下を獲った豊臣家が徳川家との戦いに敗れ、資料が喪失してしまい、記録が紛失した事などが大きい。

 

最後に天下を獲った徳川時代になれば、何とでも歴史は書き換えられる。光秀の動機は、今後も歴史の闇に包まれたままと思われる。

当然だが光秀の歴史は信長と供に現れ、信長と供に歴史の闇に消えてしまった。

信長暗殺を実行したのは光秀だが、引き金となった切っ掛けは何だったのか。今となっては、知る由もない。

 

最後に光秀の人柄を示す言葉とルイス・フロイスの光秀の人物評で締めくくりたい。

 

「仏の嘘は方便と云ひ、武士の嘘を武略と云ふ」

 

 儒学者:江村専斎「老人雑記」より

 
ルイス・フロイス評
・忍耐力に富む         ・計略、策略の達人である
・裏切りや密会を好む      ・戦では熟練の者を使いこなす

 

・参考文献一覧

【逆説の日本史10 戦国覇王編】井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2006年7月発行)

 

【私説・日本合戦譚】松本清張

(文藝春秋・文春文庫  1977年11月発行)

 

【CG日本史シリーズ ⑱織田信長と本能寺の変】

(双葉社・双葉社スーパームック 2009年5月発行)

 

【週刊新説戦乱の日本史 15本能寺の変】

(小学館・小学館ウイークリーブック 2008年5月発行)