情に厚い猛将だが、政治力の無さ故、敗れた武将『柴田勝家』

今回は、織田信長の宿老として有名な『柴田勝家』を取り挙げてみたい。

信長の統一事業で欠かす事のできない武将の一人。

 

猛将でありながら、政治力な無さ故、同じ信長の配下で「人たらしの名人」と云われた羽柴秀吉に敗れた人物と云えるかもしれない。

 

経歴

・名前    柴田勝家、権六郎、権六、

・生涯    1522年(生)?~1582年(没)

・主君    織田信秀→織田信行→織田信長→織田秀信(三法師)   

・家柄    柴田氏

・官位    従六位下・左京大進、従五位下・修理亮

・縁者    お市の方(正室)

 

生涯

1522(大永2)年、尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)にて、土豪柴田勝義の子として生れるとされているが定かではない。生年は諸説がある。

信長の父信秀に仕える。1551(天文20)年、信秀が流行りの病で急逝後、信秀の子信行(信勝)に仕える。

信行に仕える頃、既に家老の位だった。家老である為、信秀時代から重臣の地位にあったと思われる。

 

信秀の死後、織田信行を担ぐ

信秀が1551(天文20)年、死去。

最も史実に近い『信長公記』に記されている逸話では、信長は父信秀の葬儀の場で、父の仏前で抹香を投げつけるという奇行を行う。

 

一方、弟信行は正装して鎮座。礼儀正しく振舞っていたと記されている。

この記録は、二人の人物の対比を示すものとして有名。

 

この様な不行跡を家臣一同が集まる父信秀の葬儀で行った信長に対し、家臣一同に動揺が広まった。

家臣間では、当時「うつけ」と呼ばれた信長に対し、織田家を支えきれないとの意識が浮上したのは当然。

家臣間では、兄信長を廃嫡。弟信行を担ぎ出そうとする動きが起こった。

その中に柴田勝家、林秀貞(通勝)等がいた。

 

実際、当主信秀がいた末森城は信行が相続した。

此れは何気に、信長・信行の実母土田(どた)御前の影響が大きいと思われる。

 

信長・信行の母である土田御前は長子信長ではなく、弟信行を可愛がった。

何かと奇行が目立つ信長よりも、容姿端麗と云われ、信長に比べ落ち着いた雰囲気をもっていた信行に愛情が注がれたのも無理はない。

此れは戦国時代に限らず、現代でもよくある話。

 

仮令を紹介すれば、徳川幕府成立後の3代将軍を座をめぐる、後の長男竹千代、次男国松の騒動が有名。

二人の実母お江(お市の方の三女:信長の姪)は、長男の竹千代でなく、次男の国松を寵愛した。

当時の2代将軍秀忠もお江にほだされ、国松を3代将軍にするべく心が傾いた。

 

それを察知した家光の乳母春日局は、駿府で隠居した大御所(徳川家康)に泣きつき、家康を担ぎだした後、家光の3代将軍就任を秀忠に確約させた。

此れは当時「春日の抜け参り」と云われた。

当時勝家は信行の家老職でもあり、信長でなく信行を織田家の家督相続が適任と考えていた。

 

稲生の戦い

1556(弘治2)年4月、信長の舅斉藤道三が長良川の戦いにて息子斉藤義龍に討たれ、死去する。

道三が敗れた事で、尾張国内の信長は苦境に立たされた。

 

それを見越して同年8月、信行擁立を企む一派の柴田勝家・林秀貞などが、反信長を兵を挙げた。

信長・信行軍は8月24日、稲生で激突する(稲生の戦い)

 

勝家約1000人、秀貞約700人、対する信長約700人の兵力だったが、信行を擁立する勝家・秀貞は信長軍の奮闘の前に敗戦する。

敗戦した勝家・秀貞をはじめとする信行側は、実母土田御前の必死のとりなしもあり、信行・勝家・秀貞の3人は助命された。

 

信行を見限り、信長につく

稲生の戦いでの敗戦後、助命された勝家であったが、次第に勝家に対する主君信行の信頼は揺らぎつつあった。

更に信行は、新参者の津々木蔵人を重用した。

 

津々木蔵人はあまり実力のない人物であったが、信行の信用を嵩に徐々に勝家等の旧臣を蔑ろにした。

この様な状況下で勝家は信行を見限る事を決意する。

 

信行が再び反信長の動きを見せ始めた為、裏切りを前提に勝家は信長に密告。

信長の傘下になる事を赦された。

信長は勝家からの密告を聞き、信行殺害を計画。実行する。

 

1557(弘治3)年、信長は仮病をつかい床に伏せる。

頃合いを見計らい、勝家が信行に信長の見舞いを勧める。

 

何も知らずに信長の許を訪れた信行は、信長の家臣河尻秀隆に討たれる。

この時勝家は、正式に信長の家臣となった。

因みに勝家と同じく、信行擁立を計画した林秀貞も一緒に信長の陣に参入した。

 

以降信長の家臣となった勝家だが、信行の元家老で信長の家臣としては新参者扱いだった為か、暫くは信長に重用されていない。

この頃まだ完全に尾張を掌握していなかった信長は、尾張統一、其の後の桶狭間の戦い、美濃攻めに勝家を参加させた形跡はない。

 

勝家が重用されるのは、信長が美濃を制圧。

越前国にいた足利義昭を美濃に迎え、上洛する時となる。

 

信長が義昭を奉じ、上洛の途につくのが、1568(永禄10)年の事。

その頃、漸く勝家の疑い晴れたと思われる。

勝家は約10年近く、雌伏の時を過ごしたと云える。

 

勝家、信長の重臣として活躍

信長上洛の際、重用された勝家。その後は信長の躍進と供に、目覚ましい活躍を見せる。

信長上洛後、畿内平定に尽力。信長軍の先方隊として活躍する。

 

1570(元亀元)年、越前朝倉攻めの際、信長の義弟浅井長政が離反。

勝家はその時、長光寺城に籠城した。

 

この時有名な話が「甕割りの柴田」と渾名された出来事がある。その出来事とは。

浅井長政が信長から離反。朝倉は信長が上洛の際に滅ぼされた六角義賢と手を結び、信長の本拠地岐阜城と京の途を遮断した。

 

六角氏は長光寺城に立て籠もった柴田軍の水を絶った。

水を絶たれ苦しい柴田軍だったが、敵の目を欺く為、勝家は態と水がふんだんにあるかの様にふるまった。

 

敵の使者が訪れ城の様子を探りにきた時も、使者が所望した水を惜しげもなく与え、城内では不自由してないかのように見せかけた。

敵もその様子をみて、まんまと騙されたと伝えられている。

 

出陣の際、城内の水を出陣する兵に鱈腹飲ませ、まだ水が入っていた甕を割らせたとの逸話。

この事から「甕割りの柴田」と渾名された。

 

しかしこの話は、後世の作り話と云われている。

昔の中国の歴史書『史記』、「項羽紀」の中にある破釜沈船(はふちんせん)の話を捩ったと云われている。

項羽が反秦の兵を挙げ、鉅鹿を攻める際、使った戦術。不退転の決意で臨む事。

退路を断ち、必死で挑む事の譬えとして使われる。

 

兎も角、柴田軍は勇猛果敢に六角軍を撃破。浅井・朝倉連合の姉川の戦いにも参陣。

勝利を収める。

 

同年、信長包囲網に参加する形で講和状態であった石山本願寺が、突如信長軍に攻撃参加する。

同年の1570(元亀元)年、石山本願寺で呼応する形で、伊勢長島で一向一揆が起こる。

伊勢長島では信長の実弟織田信興が討たれた。

 

翌年の1571(元亀2)年、勝家は伊勢長島の鎮圧軍として派遣されたが、戦いの最中負傷している。

この時信長が美濃攻めの際、西美濃三人衆の一人である氏家卜全(うじいえぼくぜん)が戦死。

其の後、勝家は同年信長の比叡山焼き討ちに従軍している。

 

足利義昭追放。浅井・朝倉氏を滅ぼす

1573(元亀4)年2月、信長包囲網の中心人物であった足利義昭が、今堅田で反信長の兵を挙げる。

この時義昭は去年の暮、包囲網の一角である甲斐武田信玄の上洛の報を聞いていた。

 

義昭の動きは、信玄の動きに呼応したものであった。

しかし義昭は上洛の途中、信玄の身が病に冒され、年明けに亡くなっている事をまだ知らずにいた。

武田軍は野田城を落とした後、死亡。武田軍は甲斐に引き返した。

当然来るべき筈だった武田軍は来ず、義昭は敗退する。

 

この時は助命されたが、7月再び槙島にて反信長の兵を挙げるが敗退。

義昭は京から追放となる。

義昭が京を追放されたをもって事実上、室町幕府が滅びた。

 

義昭追放後の8月、信長は朝倉氏の本拠地一乗谷を攻め、勝家も従軍。

朝倉氏を滅亡させた後、返す刀で北近江の浅井氏を攻めた。

この時の先方は、後にライバルとなる羽柴秀吉だった。

 

これも後の歴史を見れば、何か因縁めいたものが漂う。

信長の妹お市の方が嫁いだ浅井家の本拠地小谷城は、秀吉に手により落城。浅井家は滅亡する。

お市の方と浅井長政との間にできた長男は、秀吉の手で処刑されたと云われている。

 

翌年の1574(天正2)年、勝家自身負傷させられた相手、伊勢長島の一向一揆鎮圧に着手。

講和を持ちかけ成立後、信長はだまし討ちで一向一揆を鎮圧する。

 

勝家、越前北ノ庄にて大名となる

1573(元亀4、天正元)年、浅井・朝倉を滅ぼした信長であったが、年が明けた1574(天正2)年、早速反信長の火の粉が上がった。

反信長の動きが発生したのは、前年朝倉氏を滅ぼし平定した越前だった。

 

越前は朝倉氏滅亡後、旧朝倉家臣前波吉継、富田長秀が統治していた。

二人は信長に降伏後、越前を分け与えられていた。

その二人が領土を廻り、仲違い。

争いの末、前波は富田に討たれ、其の後越前に一向一揆が発生。

一揆集団により、富田も殺害された。

 

富田亡き後、越前は隣国加賀と同じ「百姓の持ちたる国」となってしまった。

信長は怒り心頭だった。

 

早速、一揆鎮圧の為、勝家を中心とした軍が派遣された。

信長の統一事業の妨げとなった一向一揆だが、この時も加賀の一向宗が加担したのは云うまでもない。

 

加賀の一向一揆の総本山は勿論、石山本願寺。

石山本願寺は1570(元亀元)年から信長と抗争を始め、約10年後に漸く終了する。

その際も朝廷(正親町天皇)の勅命で、和議が成立。

本願寺(顕如)が石山を退去する形で終えている。

信長の最大の敵は実は、本願寺だったと云われる所以。

 

前述した伊勢長島一向一揆鎮圧も同じ年。

信長は年明け早々、越前が一向宗により強奪された為、本格的に一向宗と戦う決意を固めたと云える。

この一向宗との戦いは、徹底的に行われた。

 

信長が越前制覇を目指したのは、翌年の1575(天正3)年の事。

信長は全軍を率い、越前国内の一向宗勢力を徹底的に殲滅した。

2年前朝倉氏を滅ぼしたが、再び同じ事を繰り返した怒りもあったと思われる。

信長軍により、越前国内の一向宗は凡そ壊滅した。

 

越前国を平定した戦功により、勝家は越前北ノ庄、約50万石を信長から与えられた。

考えてみれば、信長の弟信行の家老であったが信長に鞍替え。

僅か20年程で、信長の重臣としての地位に昇り、石高約50万石の大名に出世した。

此れも偏に勝家の実力が信長に認められたからであろう。

 

信長という男、あまり後世の歴史家には評判が悪いが、どんな人間であれ実力で人物を評価。

使える人物であれば重用し、力がないと判断すれば、あっさり切り捨てる。

戦国の世を勝ち抜く為には、必要だったかもしれない。

しかしそれが後に信長の破滅を招く事になるが。それは又、後程。

 

勝家は信長から破格の待遇を受けた。勿論この処遇は、加賀の一向一揆。

その先の越中・越後に及ぶ、信長の上杉対策の一環といえた。

 

勝家が越前に封じられた際、信長の側近であった前田利家・佐々成政・不破光治の3人が、勝家の与力として加わった。

与力というよりも、信長の目付(軍監)といった方が、正しいかもしれない。

 

1576(天正4)年、勝家は正式に信長から、北陸方面の師団長に任命される。

「甕割りの柴田」として有名だった長光寺城は、信長の家臣蒲生賢秀に譲られた。

 

勝家、北陸方面に侵攻

勝家は越前に封じられた後、加賀国に侵入。

越前を平定した余波もあり、勢いのまま加賀も制覇した。

 

1488年以来、守護富樫氏を滅ぼし、百姓の持ちたる国として約100年近く自治領だった加賀国は、とうとう信長に平定された。

 

越前・加賀を所領した勝家であったが、翌年の1577(天正5)年、越後の上杉謙信が越中を越え、能登の七尾城に侵攻してきた。

勝家は七尾城を救援すべく出陣。柴田軍は能登の七尾城を目指した。

 

この時、同じ信長軍で参加していた羽柴秀吉は、勝家と意見が合わず衝突。軍は混乱に陥る。

秀吉軍は勝手に戦線離脱。秀吉は領土、長浜に帰還する。

 

足並乱れた勝家軍は進軍ままならず、七尾城の救援に向かう最中、城陥落の報を聞き撤退を決意。

撤退中、加賀の手取川で渡河するに手間取っていた時、来襲した上杉軍に攻撃され、大打撃を被る。

 

猛将と云われた勝家の大惨敗であると同時に、上杉軍と織田軍が直線対決した最初で最後の戦いだった。

結果は、信長軍の惨敗。

 

これ以後、信長は上杉軍との直接対決は避け、翌年の1577(天正6)年、上杉謙信が急死するまで守りを固めた。

その為、勝家は北ノ庄で籠り、守備固めをする。

 

越後の虎、上杉謙信死去

前述したが前年の1577(天正5)年、手取川で柴田軍に大打撃を与えた上杉謙信が、翌年1578(天正6)年に急死する。

謙信急死の報を聞き、勝家は再び加賀・能登・越中を目指し侵攻する。

 

謙信急死後、越後の上杉家では御家騒動(御館の乱)が勃発。

周辺国はもとより、本国の越後ですら統治がままらなぬ状態だった。

 

勝家軍は越後のどさくさに紛れ、加賀・能登・越中に攻め入る。

2年後、信長と本願寺との和議(1580年)が成立。

一向宗の抵抗がなくなった為、勝家は軍を一挙に越後の国境まで進める。

 

因みに石山本願寺との和議成立後、石山本願寺攻めの中心だった佐久間信盛は、信長から能無しの烙印を押され高野山に追放。

以前勝家と供に信行を擁立、信長に歯向かった過去の科を問われた林秀貞も、信長から追放処分を受けた。

因って勝家は、名実ともに織田家の重臣、宿老の立場となる。

 

勝手に戦線離脱した秀吉は本来なら打ち首の処だが、信長が秀吉の才能を惜しんだのであろうか。

秀吉は信長から、西国の毛利家を攻せめの方面師団長に任命された。

此れは互いの(勝家と秀吉)後の命運を分ける出来事となる。詳しくは、後程。

 

1580年代には、ほぼ加賀・能登は勝家により平定される。

勝家軍は越後国境まで勢力を伸ばす。

御館の乱後、家督を相続した上杉景勝の領土を伺う処までになった。

 

1580年~1581年の約2年間、勝家にとり信長に仕えてから最も安定。

且つ、全盛期だったのではなかろうか。

そして一年後、勝家をはじめとする信長家臣団の運命を分ける出来事が発生する。

 

1582(天正10)年、本能寺の変

1582(天正10)年、過去のブログで何度も述べた日時。

此の日に、戦国最大の事件が発生する。

 

勝家・秀吉と同格の重臣明智光秀が、主君信長を京の本能寺で弑殺する。

過去何度も述べている為、詳細は省くが、信長の支配が一夜にして崩壊した。

 

勝家は本能寺の変の際、上杉攻めの為、越中魚津城にいた。上杉方の松倉城を包囲中だった。

6月2日未明に本能寺の変が発生したが、当然まだ知らず3日に松倉城を落とす。

 

本能寺の変の3日後の6日に、漸く信長が明智光秀に討たれた事実を知る。

勝家は大急ぎで撤退を開始。北ノ庄に戻る。

 

主君殺しを成敗する為、出陣しようとしたが、越後の上杉が本能寺の変を知り、勝家の後方を攪乱。

その為、勝家は出陣が遅れ、6月18日北ノ庄をたつ。

 

勝家が京に着いた時、明智光秀は山崎の天王山にて「中国大返し」を成功させた羽柴秀吉に討たれた後だった。

明智光秀を討ったのが勝家のライバルとされた秀吉だった為、後の「清洲会議」では秀吉の発言権が増し、勝家は甚だ不利な状況となった。

 

1582(天正10)年6月27日、清洲会議にて

6月2日未明、本能寺の変が発生。6月13日、山崎の戦いにて秀吉が光秀を討つ。

約2週間後の6月27日、清洲にて今後の織田家の後継者、領土分配をめぐる清洲会議が行われた。

 

清洲会議の詳細も過去に述べている為、省略する。

簡潔に云えば、後継者争いでは勝家が推す三男信孝、秀吉が推す信長の家督相続人であった信忠の遺児(通称三法師:信長の孫)の意見が対立。

結果は、他の重臣丹羽長秀・池田恒興が秀吉の意見に賛成した事もあり、秀吉の意見がまかり通った。

勿論、丹羽・池田の両名は、会議前に秀吉に買収されていた事は有名な話。

 

清洲会議にて、勝家と秀吉の対立は決定的となった。

会議の概要は三法師が正式な後継者となるが、まだ3歳と幼い為、後見人として信孝が信長縁の城「岐阜城」で養育する事となる。

秀吉の城下町だった長浜は、勝家の領土となる。

 

秀吉は山城以下、本拠地姫路に近い近畿一帯を相続する。

後継者争いに敗れた勝家であったが、会議で得た実利はなかなかのものだった。

 

尚、会議で勝家は浅井家滅亡後、織田家に帰っていた信長の妹お市の方を正式な妻に迎えた。

此れは信長の三男信孝の口添えもあった。

 

お市の方としては1573年浅井家滅亡の際、先方として夫長政を滅ぼした秀吉に対する、当てつけもあったと思われる。

お市の方は長政との間にできた3人の姉妹(お茶々、お初、お江)を連れ、勝家の本拠地北ノ庄に向かった。

 

結論を先に述べれば、勝家・お市の方にとり、此れが最後の尾張清洲となった。

その時の二人は、知る由もなかったが。

 

1583年、勝家・秀吉直接対決:賤ヶ岳の戦い

清洲会議後、勝家は婚姻したお市の方、三姉妹を引き連れ北ノ庄に帰った。

その後、着々と秀吉の織田家乗っ取りの計画が始まる。

 

まず秀吉は信長の弔うとの名目で、信長の養子秀勝を喪主として大徳寺で盛大な葬儀を行う。

勿論、勝家・信雄・信孝は、葬儀に呼ばれていない。

 

葬儀後、秀吉は突如信孝の岐阜城を攻めた。後継者である三法師を奪還する為。

この時何故、柴田の支配地であった長浜が何もせず、秀吉がやすやすと岐阜城を攻める事ができたのか。

それは長浜を守備していた勝家の養子勝豊が、勝家を裏切り秀吉に就いた為。

何故、養子の勝豊が養父勝家を裏切り、秀吉に就いたのか。

 

当時養子の身であった勝豊と勝家の関係が、かなり悪化していた。

秀吉はその情報を掴み、巧みに利用した。流石秀吉は、信長譲りの情報通とも云える。

 

秀吉は長浜を守る勝豊を時には脅し、宥めすかし、自軍に寝返らせた。

此処が人たらしの秀吉と云われる所以。

 

長浜・岐阜城を落とされた事で、流石に勝家も出陣せざるを得なくなった。

しかし此の頃は既に冬の季節で、越前は雪に閉ざされ、行軍ができなかった。

 

勝家が苦々しく思う中、秀吉は着々と自軍に勢力を拡大した。

秀吉は岐阜を陥落させた後、三法師を奪回。

子の後見人であった信孝を捕らえ、領地を没収。おまけに人質までとった。

人質は信孝の生母と娘だった。

 

更に秀吉は北伊勢に兵を進め、上野から逃げかえり勢力を回復しつつあった、滝川一益を攻め克服させた。

一益は本能寺の変後、北条氏政に攻められ、部隊が全滅。

領土を奪われ、命からがら旧領地に戻っていた。

 

一益は嘗て同格だった秀吉に攻められ、賤ヶ岳の戦い後、降伏する。

一益は上野で本能寺の変に遭遇し、部隊が全滅。

因って、6月27日に開かれた清洲会議には出席していない。

 

甲斐武田攻めで功があり、甲斐にいた河尻秀隆は本能寺の変後、領土で一揆が発生。

旧武田家家臣に殺されている。

 

織田家旧家臣でまともな重臣は、勝家と秀吉であった。三男信孝は前述した通り。

二男信雄は、当時暗愚と云われ、まったく上に立つ器でなかった。

本能寺の変に際し信雄は、恐れおののき領土の伊勢にとどまっていたとされている。

 

その為後継者として勝家が三男信孝を推したのも、無理はなかろうと思われる。

信雄は今で言う、「バカ殿」。

 

勝家は秀吉のあまりにも横暴に耐え切れず、春の雪解けを待たず北ノ庄を出陣した。

1583(天正11)年3月と云われている。

 

「勝家、北ノ庄をたつ」との報を受けた秀吉は、すぐさま北伊勢から軍を引き返した。

越前からやって来た柴田軍と、江北の賤ヶ岳で対峙した。

賤ヶ岳の戦い様子も、過去に前田利家を紹介した際、詳しく述べている為、省略する。

 

参考:世渡り上手な武将 『前田利家』世渡り上手な武将 『前田利家』

 

この時勝家の与力であった前田利家は、信長に仕えていた小姓の頃からの付き合いで、既に秀吉に寝返っていた。

利家は本来なら、勝家と供に秀吉と戦うのが筋だった。

 

しかし利家は勝家の陣から、勝手に戦線離脱。

息子利長がいる越前府中に帰ってしまう。

 

賤ヶ岳の柴田軍の敗戦の原因は、佐久間盛政の軽率な行動ゆえとされているが、直接の原因はやはり、与力前田利家が戦線離脱した事。

その為、柴田軍の士気が下がり、柴田軍は壊滅した。

 

秀吉軍に敗れた勝家は北ノ庄に逃げ帰る途中、前田利家の府中に立ち寄り、湯漬けを所望している。

その際勝家は利家に対し、恨み言を一切云わなかったと伝えられている。

 

北ノ庄に逃げ帰った勝家は秀吉軍に攻められ、もはやこれまでと断念。

前年婚姻したお市の方と供に落城寸前、自刃した。

 

お市の方と供に北ノ庄にやってきた3姉妹は、敵将の秀吉に託され、養育。成人する。

3人はその後、数奇な運命を辿り、其の後の歴史に大きな影響を与える。

 

お市の方にすれば、再び生き残り政争の具にされるのを嫌ったか。

それとも2回の落城を経験。

落城させた相手が、2度とも兄信長が引き立てた羽柴秀吉であるのを考えれば、秀吉に降る事を潔しとしなかったのかもしれない。

 

お市の方としては、自分は今後生き伸びても、生きる屍しかならない。

その為、死を選んだと思われる。

しかし母としての母性ゆえ、憎き相手ではあるが、秀吉に自分の娘の将来を託したのではないかと想像される。

 

何れにしてもお市の方もやはり、時代に翻弄された薄幸の女性。

尚、お市の方に関しては過去のブログに紹介していますので、宜しければご参考までに。

 

参考:戦国時代、数奇な運命を辿った悲劇の女性 『お市の方』

 

勝家は利家から取っていた人質の娘(三女:麻阿)を、丁寧に利家の許に送り返している。

此処が猛将でありながら、律儀者の勝家といった処であろうか。

 

勝家は更に生き残る家臣に対し、

「決して生き残る事は恥ではない。各々生きよと」

と述べ、殉死・追い腹は求めなかったと云われている。

 

一方、「人たらし」と云われ現代でも人気がある秀吉は、勝家と供に再び反旗を翻した信孝に対し、条約違反として信孝が差し出した人質の母と娘を処罰している。

これはあまり知られていないが、本当の話。

 

よく家康は豊臣家を乗っ取たと云われ評判が良くないが、何の事はない。

秀吉も同じ事をしている。

秀吉の場合、人柄が善かった為、悪く云われていないだけ。

 

勝家の行動は、本当の話。何故なら恩を受けた前田家が記録として載せている為。

流石に勝家を裏切った前田家も、勝家の厚き行動に筆を枉げる事ができなかったと思われる。

これが 「猛将であるが、情に厚い武将」 と云われる所以であろう。

 

勝家の敗因は秀吉に比べ、政治力が足らなかった処と思われる。

政治力とはある意味、「皆に自分の行いを、他人に納得させる行為」とも云える。

 

勝家の場合、正当性はあったのかもしれないが、人間決してそれだけでは動かない。

何故なら人間は、

「感情と欲の生き物である為」

 

思えば本能寺の変後、僅かな期間だが天下を獲った明智光秀も、秀吉との直接対決では格の違いを見せつけられ、全く太刀打ちできなかった。

一年後の勝家も、光秀と全く同じ立場だった。

 

秀吉が持つ、政治センス・謀略・カリスマには到底及ばなかったと云える。

これが勝家が猛将でありながら、悲劇の将と云われる所以であろう。

 

勝家を滅ぼした後、世の中は秀吉に敵う相手がなくなり、秀吉は信長の意志を継ぎ統一事業に邁進する。

その説明は又、別の機会に譲りたい。

 

追記

簡単に柴田勝家の歴史を振り返ってみたが、意外に巷で伝えられている事の他、勝家に関する資料が少ないのはどうしてなのか。

 

理由を考えてみるに、やはり信長亡き後、同じ重臣で後輩であった羽柴秀吉に賤ヶ岳で負けた事が大いに影響していると思われる。

 

賤ヶ岳で秀吉に負けた為、それまで勝家と関係が深かった人間が生き残る為、勝家との関係を抹殺。

殆どが秀吉に靡いたのが影響していると推測する。

 

それが当時、生き残る為には必要だった。

賤ヶ岳では日和見だった者。

両方に加担しながら、結果がでた後、勝者に擦り寄った者もいた。

 

そのような連中は、当然資料・日記・手記等の類を破棄。又は改竄した。

前年起きた本能寺の変後、明智光秀が敗北した時と同じ様相。

 

毎度述べているが、歴史とは勝者・生き残った者が、都合よく書き換える事ができるシロモノだと改めて認識させられた。

 

勝家は敗れはしたが、一方では猛将で情に厚い人物であったと評価があるだけ、極悪人と名指しされた他の武将に比べ、まだましなのかもしれない。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献

【逆説の日本史11 戦国乱世編】井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2007年6月発行)