物事を卒なく熟す、信長の重臣『丹羽長秀』

今回は信長の重臣の一人、『丹羽長秀』を取り上げたい。
丹羽長秀を書くにあたり意外に思ったのは、長秀について書かれた資料があまり多くない。
信長の重臣で在り乍、何故かと考えた挙句、ある結論に達した。
後述するが、長秀は物事を卒なく熟す人物であった為、反ってあまり際立ったエピソードが少ないのに気づいた。
つまり「可もなく、不可もなく」仕事を進める為、普通すぎてあまり目立たなかったと云える。
大概戦国武将であれば、幾つかの武勇伝・失敗談が存在する。しかし長秀には殆ど見当たらない。
前置きが長くなったが、長秀の歴史を振り返りたい。
目次
経歴
・名前 丹羽長秀、万千代(幼名)、惟任長秀、通称:五郎左衛門
・生誕 1535(天文4)年(生)~1585(天正13)年(没)
・主君 織田信長→織田秀信(三法師)→豊臣秀吉
・家柄 丹羽家
・親族 丹羽長政(父)、丹羽長重(子)
・官位 越前守
生涯
1535(天文4)年、長秀は丹羽長政の次男として尾張国春日井郡に生まれる。
丹羽氏は尾張守護代、斯波家の家臣だったが、同じ家臣の家老格の織田家に仕えた。経緯は不明。
1550(天文19)年、あたりから織田家の嫡男信長に仕える。
信長と実弟信行が戦った1556(弘治2)年、稲生の戦いでは信長に味方し勝利する。
1560(永禄3)年、桶狭間の戦いにて信長が今川義元を奇襲に破った後、頭角を現す。
信長の美濃攻めに手柄をたて、重臣の一人として取り立てられる。
其の後、数々の戦功を立て、信長の重臣では初めて国持ち大名となる。
以後、本能寺の変で信長が討たれる迄、長秀は信長の重臣として働いた。
東美濃攻略で武功を立てる
信長の美濃攻めの際、活躍した人物を挙げれば、「墨俣の一夜城」で有名な秀吉であろう。
秀吉の美濃攻略は、主に西美濃方面の攻略だった。
秀吉が西美濃であれば、東美濃を担当したのは誰かと言えば、今回紹介する「丹羽長秀」だった。
長秀は主に、東美濃攻略に力を注いだ。
意外にも長秀が信長に大きな仕事を任されたには、此れが初めてだった。
初めて大きな仕事を担当した長秀は、先ず犬山城の攻略を目指した。
犬山城は同じ織田家で、信長から見れば従兄(信秀と信清に父信安は兄弟)にあたる織田信清が治めていた。
信清は信長の父信秀の死去後、信長の力量を見切り、織田家から離反していた。
長秀は本丸の犬山城を攻略する為、支城の黒田城・小口城を調略する。二城が信長方に寝返った為、犬山城の防備は手薄となった。
其処に長秀が攻め入った。1564(永禄7)年、犬山城は陥落。尾張国織田家のモノとなる。
犬山城攻略の翌年1565(永禄8)年、更に東美濃の金山城攻略に成功する。
犬山・金山城を手に入れた事で信長は、木曽川北岸の伊木山城・鵜沼城を攻略。
更に東の猿啄城・加治田城を調略する。
完全に美濃斉藤氏の本拠地、稲葉山城を囲む東側の城を攻略した。
飛騨川沿いの堂洞城は稲葉山城から完全に孤立。
堂洞城が孤立したのを見計らい、信長は自ら出陣。見事に小牧山城を攻略。
果れて1565(永禄8)年、堂洞城を力攻めで攻略した。
東美濃は信長に完全に攻略された。此れも偏に、長秀の力量ゆえできた仕事だった。
信長上洛、近畿制覇を目指す
1568(永禄11)年、前年美濃を攻略した信長は、越前に潜伏していた足利義昭を迎え上洛を果たす。
以後信長は岐阜・京都を中心として、近畿地方の制圧を目指した。
1570(元亀1)年、宿敵越前の朝倉氏を攻める。途中、義弟北近江の浅井長政の裏切りにあう。
直ぐに越前を撤退。二か月後、浅井・朝倉連合軍を姉川にて撃破。
長秀は長政の家臣、磯野員昌が籠る佐和山城を包囲。
包囲の末、城を開城させ、そのまま佐和山の城主となる。1571(元亀2)年の事。
朝倉家滅亡後
1573(元亀3)年、信長は宿敵朝倉家を滅亡させる。姉川の戦いから、3年後の事だった。
長秀は滅亡した旧朝倉家の一部、若狭国を信長から賜った。
長秀は信長の重臣として、初めての国に持ち大名となった。
長秀は若狭にて、内政面でも手腕を発揮。
旧武田家(元明)家臣を採用。領内の治安維持、経済の流通を積極的に進めた。
なかなかの善政だったようだ。
其の後も信長に従軍。各地を転戦する。着実に武功を挙げ、信長家の家臣の地位を高めていった。
長秀の特徴は、軍事・内政面の両面で優れた結果を残す。大きな失敗はなく、卒なく仕事を熟すと云える。
バランスの取れた武将と云えるであろうか。
そのバランスのとれた処が信長に重宝がられ、信長の新城(安土城)普請奉行にも抜擢されている。
安土城は1576(天正4)年に着工。3年の歳月をかけ、1579(天正7)年にほぼ完成している。
此の様に卒なく仕事を熟す長秀を捩り、長秀は「米五郎左」と渾名(あだな)されている。
「どんな仕事も器用にこなし、まるで生活の米のように欠くことのできない存在」という意味。
因みに他の家臣にも渾名があり、秀吉は「木綿」。勝家は「かかれ柴田」。佐久間は「退き」。
其々の意味は、
「木綿」は華やかさはないが、丈夫で便利と云う事。
「かかれ」は戦となれば、いの一番に駆け出すと云う事。
「退き」は、そのまま。戦いで退却ばかりすると云う事。
実際佐久間信盛は1580(天正8)年、石山本願寺開城後、信長から能無しの烙印を押され、追放の身となる。
追放から2年後、信盛は紀伊国熊野にて亡くなる。
本能寺の変
以前から何度も述べているが、1582(天正10)年に発生した本能寺の変は、各武将の運命を変えた。
変が発生した際、長秀は四国の長曾我部攻めをする為、信長の三男信孝と難波にいた。
まさに四国攻めの為、渡海する寸前だった。その時、本能寺の変が発生する。
本能寺の変を聞いた後、長秀・信孝軍はあっけなく瓦解。軍は雲散霧消してしまう。
如何に軍団が、信長というカリスマ性で統率されていたというのが分かる。
この時長秀は信孝と供に、蜂屋頼隆の接待を受けていたとされている。
大将二人が本隊と別行動をしていた為、兵が動揺。兵の逃亡が相次いだと云われている。
長秀・信孝軍には嘗て信長と家督を争った、信行の忘れ形見の「津田信澄」がいた。
信澄は光秀の娘を正妻としていた為、謀反を疑われ処罰される。
濡れ衣に近いが、信長の思いもよらぬ死の為、現場も相当混乱していた。
長秀は畿内で光秀に最も近い位置にいたが、前述の如く兵力が激減した為、やむを得ず中国方面から引き返してきた秀吉軍と合流するしか術がなかった。
名目は信孝が総大将だったが、実質は秀吉が中心の軍だった。
長秀は秀吉と供に山崎の戦いにて、逆臣明智光秀を討つ。
清洲会議
秀吉が光秀を討った後、清洲にて今後の織田家の行く末、領地分配を決める会議が開かれた。
俗に言う、「清洲会議」である。
清洲会議の経緯は此れ迄何度も述べている為、詳細は省くが、会議は紛糾。
宿老柴田勝家と、重臣羽柴秀吉の対立は決定的となる。
会議では勝家は、信長の三男「信孝」を後継者に押す。
一方秀吉は、嫡男信忠の遺子「三法師(後の織田秀信)」を後継者に押す。
二人は激しく口論する。秀吉は会議が紛糾した為、一旦中座する。
大概この場合、中座した人間が負けとなるのが常識だが、会議では秀吉の意見が罷り通った。
何故秀吉の意見が通ったのか。
それは会議の前に秀吉は、出席者の池田恒興・丹羽長秀を懐柔していたと云われている。
会議では、重臣の一人である滝川一益が参加しておらず(北条軍に攻められ没落)、票が一つ減っていた。
此れも秀吉に有利に働いたと云える。
かくして清洲会議は、ほぼ秀吉の勝利となった。
長秀は清洲会議で秀吉に味方した。翌年の賤ヶ岳の戦いでも、秀吉に味方する。
その功ゆえ若狭に加え、越前の一部、加賀一部を秀吉から賜り、約123万石ほどの大々名となった。
長秀の死
清洲会議から3年後の1585(天正13)年、丹羽長秀が亡くなった。
亡くなったと言うよりも、死因は自刃と伝えられている。
自刃の原因は常日頃、腹痛に悩まされ、痛みに耐えかねたと云われている。
史料によれば、胃潰瘍だったとも云われているが、どうやら寄生虫の痛みによる腹痛と云われている。
サナダ虫とも云われているが、どうや腹の中で蛆虫が湧いて成長していたと伝えられている。
何事も器用に仕事を熟す長秀も、自分の体の中だけはコントロールできなかったと見える。
長秀の跡は、嫡男長重が継いだ。長秀、享年51才。
其の後長重は、秀吉の謀略で領土を縮小される。秀吉が天下統一後、難癖をつけ丹羽家の力を削いだと云われている。
関ヶ原の際、西軍に味方。一度は改易の身となるも、其の後復帰。
最終的に、白河藩10万石の大名に返り咲いた。
因みに今回採用した肖像画は、福島県二本松の大隣寺所蔵のもの。長秀の子孫が白河藩にいた事実を如実に物語っているのではなかろうか。
(文中敬称略)