織田・徳川軍が武田騎馬隊を撃破 戦法の転換期となった「長篠の戦い」

1575(天正3)年5月21日、奥三河の長篠城の攻防を巡り、織田・徳川連合軍と武田軍との戦闘が行われた。有名な「長篠の戦い」である。

この戦いで織田・徳川連合軍は、当時最強と言われた武田の騎馬隊を撃ち破り、勇名を天下に轟かせた。

 

長篠の戦いは今までの戦法に変化を齎し、以後の戦いに大きな影響を与えたと言われる。

今回は、長篠の戦いを見ていきたい。

 

武田信玄死後、勝頼家督を相続

1573(天正元)年4月、西上の途中で武田信玄が死去した。

家督を継いだ勝頼は翌年1574(天正2)年6月、遠江の高天神城を陥落させた。

高天神城は父信玄ですら落とせなかった城。

 

血気盛んな勝頼は、信玄以来の重臣の重圧・頸木から逃れる意味もあったであろう。

次々に版図拡大に乗り出した。

因みに武田家の最大版図は勝頼時代である。

 

勝頼、長篠城攻め

勝頼は信玄の死後、武田家から徳川家に靡いた奥三河の諸城を奪還しようと目論んだ。

武田家動くの報を受け、家康は作手城主の奥平貞能の嫡子「貞昌」を長篠城に入れ、長篠城を守らせた。

 

奥平親子には、面白い話が残されている。

奥平貞能は武田信玄の死後、勝頼を見切り、徳川家に就こうとしていた。

処が計画が事前に漏れ、武田方に詰問される為、呼び出された。

 

呼び出された貞能は武田方から詰問されども、しらぬ存ぜぬとしらを切り通す。

おまけに腹が減ったと湯漬けを御馳走になり、長話をして何のお咎めもなく作手城に帰った。

 

帰城後、武田家に反旗を翻した強者である。

反旗を翻した事で、武田家に人質として取られていた妻と末子は勝頼に処刑された。

貞能の嫡子貞昌は、家康の長女亀姫と婚姻の予定だった。

前年武田家から徳川家に寝返り、功として家康は娘を嫁がせる事で報おうとしていた。

 

勝頼は前年、高天神城を落とした事もあろう。

1575(天正3)年3月、約1万5千の兵を従え、失地回復すべく国境を越え、徳川領に侵入した。

足助を攻め、長篠城を囲み始めた。

長篠城の兵は約500人。奥平は当然籠城戦法をとり、徳川方の援軍を待った。

 

武田軍来たるとの報を受け、家康は信長に援軍を依頼した。

畿内平定に忙殺されていた信長も、流石に武田家のこれ以上の拡大を憂慮。

信長は家康の求めに応じ、自ら長篠城援軍に赴いた。

信長は約3万といわれる軍を率い、5月13日に岐阜を出立した。

 

5月8日、武田軍は本格的に長篠城攻めを敢行した。

奥平貞昌は寡兵でありながら家康の娘婿に選ばれるだけあり、武田家の猛攻を必死に耐えた。

 

5月14日、信長軍が岡崎に到着。長篠は落城寸前。

城内から援軍の急を告げる為、足軽の中から泳ぎの上手い者を抜擢、岡崎に派遣した。

 

鳥居強右衛門の活躍

援軍の急を告げる使者として「鳥居強右衛門」と言う人物が選ばれた。

強右衛門は夜陰に紛れ、長篠城を脱出。5月15日、岡崎城に入り、貞昌の密書を手渡した。

 

14日には、信長軍が到着していた。強右衛門は安心したであろう。

密命を果たすと一刻も早く、長篠城内の者に知らせたいと思い、すぐさま岡崎を出発。

長篠城を目指した。

5月16日、城に入ろうとするが、強右衛門は武田軍に捕縛された。

 

捕縛された強右衛門は、織田・徳川軍の援軍が来ることを勝頼に告げた。

今度は武田軍のピンチ。大軍がくる事で、城と大軍の挟み撃ちになる恐れがある為。

 

勝頼は焦った。そこで勝頼は強右衛門に一計を講じた。もし城に向かって

「援軍は来ない、速やかに開城しろ」

と言えば、城内の兵の士気は衰え、援軍が来る前に落城するであろうと。

城主と城兵の命を助けるとの条件付きで。

 

強右衛門は勝頼の策を、受諾するかに見えた。強右衛門は城が見える高台に臨み、

「もう過ぐ援軍が来る。もう少しの辛抱だ」

と思いっきり叫んだ。言葉を聞いた城兵たちは、士気を取り戻し吶喊(とっかん)を上げた。

 

強右衛門は捕らえられ、磔刑(たつけい)に処された。

後世、強右衛門の功績を称える碑が立てられ、強右衛門の磔刑の図を家康の家臣「落合佐平次」が指物とした。

 

5月17日、長篠城を囲み既に10日。織田・徳川軍の援軍も到着寸前。

勝頼は撤退か、迎撃かの選択を迫られた。

信長は18日、設楽原に到着した。

 

信長軍、設楽原にて馬防柵を築く

織田信長、設楽原に布陣。

武田軍の騎馬隊の来襲に備え、3重の馬防柵を築く。

騎馬隊の突撃に備え、空堀・土塁を築く。

 

更に勝頼が決戦時、突撃してくるように間者を放ち、織田・徳川軍の士気の低さ、臆病さを吹聴させた。

武田軍は軍議を開き、織田・武田軍の士気がそれ程高くないと判断。

決戦に臨む決議を下す。

 

軍議では、信玄以来の重臣山県昌景、内藤昌豊、原虎胤、馬場信春、穴山信君(梅雪)は決戦に反対だったが、勝頼は跡部大炊助の意見を採用。決戦に臨んだ。

 

資料では、長坂釣閑斎も登場しているものもあるが、此れは誤り。

長坂釣閑斎は、その場にいなかった。

 

鳶ヶ巣山砦を奇襲

5月20日軍議にて酒井忠次が、鳶ヶ巣山砦奇襲策を提案。

一時却下されるも、後に採用。実行された。

 

軍議で愚策と信長が却下。

後に呼び出され、採用されたというエピソードの真偽は定かでないが、兎に角実行された。

 

酒井忠次は約4千の兵で豊川下流を渡海、大きく迂回。

5月21日の鳶ヶ巣山の武田軍に奇襲をかけ、武田信実(信玄の弟)、三枝守友などが戦死した。

いよいよ武田軍は決戦を仕掛けるより他、選択肢はなかった。

 

武田騎馬隊の突撃

5月21日、連吾川を隔て織田・徳川軍が陣を布いた。

武田軍とは互いに「鶴翼の陣」で対峙した。

 

前夜の雨は晴れ、火縄が使える状態となる。

織田・徳川軍で3000挺と云われている鉄砲が、一斉に火を噴いた。

 

鉄砲隊の前には、騎馬隊の突撃を防ぐ馬防柵が設置されていた。

織田・徳川軍は鉄砲隊を1000挺を3連隊に分け、鉄砲を撃ちかけた。

 

昔の鉄砲は玉を込める際、「先込め式」で時間がかかる。

玉を鉄砲に詰めている間に、前の鉄砲隊が射撃。撃ち終われば、隊は後ろに下がる。

 

後ろに控えていた鉄砲隊が前に出、射撃。

これを永遠に繰り返せば、敵が騎馬で突撃しても、間髪いれず敵を射撃する事が可能。

 

現代のマシンガンを想像してもらえば、分かり易いかもしれない。

玉が連射でき、敵を自軍に近寄らせる事なく、手前で打ち倒す事が可能となる。

仮令玉をすり抜けてきても、馬防柵にひっかかり次の鉄砲の餌食となる算段。

 

更に鉄砲隊に有利なのは、馬は大変「臆病な生き物」で、音に敏感に反応する。

つまり鉄砲隊の轟音に対し、馬が怖気ついたり、轟音に驚き、乗っている人間を振り落とそうとした筈。

かなりの効果があったと思う。

 

武田軍は攻撃中、鳶ヶ巣山の異変にも気付き、挟撃を防ぐ為、中央突破しか道が残されてなかったのかもしれない。

 

波状攻撃を繰り返す武田側には、次第に死屍累々の山が築かれる。

戦闘で武田軍は、信玄以来の遺産とも言うべき重臣を一挙に失った。

山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、馬場信春、真田信綱、真田昌輝、甘利信康、土屋昌継など。

 

午前6時頃始まった戦いは、午後2時頃に大勢が決した。

勝頼は従者に守られ、ほうほうの態で戦場離脱した。

武田軍は惨敗。撤退の際、敗残兵僅か4000人と云われている。戦死者約1万人近く。

 

一方、織田・徳川軍は、これ程の大勝を予測していなかったのではないかと思われた。

設楽原に布陣する前、長篠城が落城していれば、こうも大勝ができなかった可能性が高い。

戦い翌日の5月22日、信長は早々に陣払いをした。

 

かくして長篠の戦いは、織田・徳川連合軍の圧勝に終わり、武田家はこの戦いを境に没落の一途を辿る。

奥三河から武田軍を駆逐した後、家康は約2年程かけ、嘗て武田家に奪われた旧領地を奪還した。

 

戦いにより、旧来の戦法が一変した。

騎馬隊中心の戦いから、足軽を主とし鉄砲を中心とした戦法に。

長篠の戦いは、戦国時代の日本史の方向性を決定付けたとも言える。

 

尚、織田・徳川軍の3000挺の三段撃ちは資料にはなく、現代の研究によれば無理ではないかと云われている。

しかし今回いろいろ異説はあるかもしれないが、従来通りの三段撃ちを前提として述べてみた。

 

追記

長篠の戦いを振り返れば歴史を見る際、常に大きな流れの中で、歴史と言うものを見つめなければならないと実感する。

今回の長篠の戦いは、戦国時代における戦法の転換期であった。

長篠の戦い以後、戦いに変化が見られ、それに伴い築城法も変化した。

 

元来は、山城が有利であるとされていたが、鉄砲の出現により守るには高台から見下ろす必要があった。

攻められた場合、相手の鉄砲の飛距離から逃れる為、石垣を設け城郭を築き、鉄砲櫓・天守閣等が必要とされた。

 

歴史は細かく一箇所を見つめれば点だが、点を繋げれば線となる。

線は正に、歴史の流れ・歴史の綾とも言える。

 

歴史の流れと言えば、面白い事実が存在する。

長篠の戦いで武田家の惨敗により、戦国時代の終焉まで影響を与える一家(人物)が登場する。

「真田家」である。

 

真田家は今迄、信濃の土豪として武田信玄に仕えていたが、長篠の戦いで真田信綱・昌輝兄弟は戦死。真田本家を昌幸が継ぐ事になった。

昌幸、長男信幸、次男信繁の活躍は、過去のブログで述べた通り。

 

もし昌幸が家督を相続しなければ、第一次上田城の戦い、関ヶ原での犬伏の別れ、第二次上田城の戦い、そして豊臣家滅亡の戦い「大坂の陣」での幸村(信繁)の活躍はあり得なかった。

まさに歴史の綾とも言える。

 

戦国時代の表の主役が「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」とすれば、陰の主役は「真田家」と言えるかもしれない。

 

余談だが、以前ブログで紹介した黒澤明監督映画「影武者」は武田信玄死後の影武者の生き様、長篠の戦いを題材としている。

参考:盗人から一国城主となった男の数奇な運命を描く 黒澤明『影武者』

 

・参考文献

【逆説の日本史10 戦国覇王編】井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2006年7月発行)

 

【私説・日本合戦譚】松本清張

(文藝春秋・文春文庫  1977年11月発行)

 

【週刊新説戦乱の日本史 1長篠の戦い】

(小学館・小学館ウイークリーブック 2008年2月発行)

 

【真説戦国史⑬ 織田信長合戦論争】

(新人物往来社・歴史読本 3月号 1999年3月発行)

 

(文中敬称略)