本能寺の変を境に、没落した男 『滝川一益』

★今回は戦国最大の事件「本能寺の変」を機に、没落した男を紹介したい。

本能寺の変は今迄の戦国史を一遍させる出来事だった。

あるものは危機をチャンスに変え、或る者は運命に翻弄され、没落の道を辿った。

今回紹介する「滝川一益」は、信長軍団の重臣でありながら、没落した男の一人。

 

経歴

・名前    滝川一益、久助(幼名)、彦左衛門(通称)

・生誕    1525(大永5)年(生)~1586(天正14)年(没)

・家柄    滝川氏

・親族    滝川一勝、又は滝川資清(父)

・主君    織田家→羽柴秀吉

・官位    従五位下、左近尉、伊予守

 

生涯

滝川家は近江国甲賀郡の国人と云われている。一益の父は滝川一勝、若しくは滝川資清といわれているが定かでない。

滝川家の一族である事は間違いない。甲賀郡出身と云う事で忍者ではないかとの説もあるが、此れもはっきりしない。

 

滝川家は南近江を支配した六角氏の傘下にいたともされているが、一益自身は信長が六角氏を滅ぼす以前から信長に仕えていたとされている。

1560(永禄3)年、信長が桶狭間にて駿河太守、今川義元を奇襲にて打ち破った時、既に仕えていたとも云われている。

 

一益は鉄砲の腕前を信長に買われ、仕えていたと伝えられている。

信長に仕えた後、信長に従い各地を転戦。伊勢長島一向一揆。石山本願寺攻めなどで功績を挙げたとされている。

信玄亡き後、家督を継いだ勝頼を1575(天正3)年、長篠の戦いにて大打撃を加え、1582(天正10)年、信長は宿敵だった武田家を滅亡させ、一益も大功を挙げた。

 

その功績が認められ、論功行賞にて上野国を信長から下賜される。

一益は関東にて北条、上杉家の牽制として赴任するも、武田家滅亡からほんの約3ヵ月後に本能寺の変が勃発。

 

一益は変当時、厩橋にいたが、変の知らせを聞いた北条家に攻められ一益軍は壊滅する。

其の後、一益は信長軍崩壊後の出世レースから脱落する。

 

尾張時代

生涯の項目でも述べたが、一益がいつ信長の配下になったのかは、はっきりしない。

凡そ1560(永禄3)年の桶狭間の戦いの頃には、幕下にいたと思われる。

 

参考となるエピソードとして、信長の小姓だった前田利家の兄利久がまだ荒子城主だった頃、利久は滝川一益の側室だった女性に一目惚れ。

 

利久は一益に話し掛け、ほぼ無理やりの形で一益の側室の女性を側室に迎えた。

当時女性は妊娠していたが、利久は生れた子が男子であったならば、家督を譲ると約束したと伝えらえている。

 

その女性から生まれた子が、前田利益(慶次郎)。

あくまでもエピソードだが、前田慶次郎が一益の子であるかは確証はない。

しかし滝川家の一族であるのは間違いない。

 

利久は生まれつき病弱だった為、信長の美濃攻略直前の1567(永禄10)年、信長の命で利久は廃嫡。

其の後の前田家の家督を、利家が継ぐ事になる。

 

※尚、前田利久が廃嫡。其の後利家が家督を継いだ件に関し、色々な資料をみた際、1567年とするもの、或いは1568年、1569年とする説もある。

石川県の観光案内では、1568年説を採用しているものもあるが、正式には分からない。

不思議と此の件に関しては、一致していないものが多い。研究の余地があるかもしれない。

 

この話から考えれば、一益は1560年には信長の家臣だった事が伺える。

但しこの時代、一益自身あまり目立った動きがみられない。

一益の名前が歴史にの中で頻繁に出てくるのは、1570年代になってから。

 

信長が1567年(永禄10)年、美濃を攻略。

翌年越前にいた足利義昭を迎え、上洛。

上洛を果たした後、信長が近畿地方を平定するに連れ、一益の名が登場する。

 

伊勢長島一向一揆

1570(元亀元)年、信長包囲網が形成され、その一角である石山本願寺が、信長包囲網に加わった。

石山本願寺が反信長を明確にした為、それに呼応する形で伊勢長島で一向一揆が発生した。

 

伊勢長島の小木江城では、信長の弟信興が願証寺を中心とする一揆衆に討ち取られた。

翌年の1571(元亀2)年、信長自身も出陣。

一揆鎮圧に赴くが、家臣の氏家卜全が戦死。重臣柴田勝家も負傷するという、散々な結果となった。

 

1573(元亀3、天正元)年、信長は一揆に対抗する為、対岸に矢田城を築く。

一益を城主とした。此処からが、一益が信長軍団として功績を挙げ、出世する。

 

翌年の1574(天正2)年、信長の本格的な伊勢攻めが開始された。

今回は鳥羽の九鬼水軍を味方に引き入れ、水陸両方から攻撃した。

この攻撃で小木城を奪取。一揆勢はさんざん打ち破られ、信長は漸く伊勢長島を平定した。

 

一益はこの功績が認められ、北伊勢を信長から下賜される。

この地盤は武田家が滅亡。一益が関東上野に転封となるまで続く。

 

其の後一益は、翌年の長篠の戦いに参加。

更には各地の一向一揆の鎮圧に従軍。

1580(天正8)年、石山本願寺が信長と和議を結ぶまで、各地を転戦した。

 

転機

ほぼ近畿、北陸方面を平定した信長は、長年の宿敵甲斐の武田攻めに着手した。

武田家は1575(天正3)年、長篠の戦いにて織田・徳川連合軍に大敗。

衰退の一途を辿っていた。

 

以前直江兼続の紹介した際、越後の「御館の乱」を説明したが、御館の乱の際武田家は同盟中だった相模北条家との関係が悪化。

武田家滅亡の遠因ともなった。

 

1582(天正10)年2月、武田家の外戚だった木曽義昌が、武田勝頼を見限り、織田方に靡いた。

頃合い良しと見た信長は、信忠を総大将として武田攻めを命じた。

一益は同格の河尻秀隆と供に、信忠の軍監として従軍する。

 

一時期、戦国最強と云われた武田軍も既に面影はない。

徳川・北条軍の3方面から攻められ、僅か一ヵ月後、武田家一族は天目山にて自刃した。

新羅三郎から継く甲斐の名門武田家は、あっけなく滅んだ。

これも戦国の世の常と云うべきであろうか。

 

一益は戦功により、信長から上野一国を下賜。

東北の伊達、越後の上杉、関東の北条の押さえとなるべく役を任された。

 

逸話では、一益はこの時、上野一国より、茶器の名器である「珠光小茄子」を所望したとされているが、定かでない。

当時の茶器は、大事な取引材料として扱わた。

一益自身文化人として知られており、茶器を所望したとのエピソードが作られたと想像する。

 

一益は信長の命により、北伊勢から上野に転封となった。

此処が一益の人生の一番の絶頂期と思われる。

其の後ご存じのように、武田家滅亡後の約3ヵ月後、戦国史を揺るがす大事件が発生した。

 

本能寺の変

1582(天正10)年6月2日未明、事件は起きた。

信長の家臣明智光秀が、主君信長を本能寺で急襲。

結果、信長が横死する。

 

本能寺の変の際、一益は上野の厩橋(現前橋)にいた。

一益が変の報を聞いたのは、5日後だと云われている。

 

信長横死の知らせを聞いた北条家は、直ちに軍勢を上野に向けた。

6月19日、神流川の戦いにて一益軍は、北条軍に大敗。全滅した。

 

一益は其の後、信濃に逃れ、佐久郡依田信蕃、真田昌幸に助けられ、旧領地に伊勢に這う這うの体で戻った。

旧武田領は信長が死後、無法地帯となり上杉、北条、徳川などに切り取られた。

 

清洲会議に出席できず

6月19日、一益は神流川の戦いで北条軍に大敗した。

敗北後、一益は信濃経由で旧領の伊勢を目指した。

 

一方、旧信長家臣で信長の後継者・領土分配を決める「清洲会議」は、6月27日に行われた。

因って一益は清洲会議には参加していない。

参加していないというよりも、参加できなかったと言った方が正しいかもしれない。

 

会議が行われていた頃、一益は「生か死か」の瀬戸際にいた。

稀にドラマにて、一益が清洲会議に出席したとされるものがあるが、あれは真っ赤なフィクション。

暫し、正史と勘違いされる方もいますが、ご注意下さい。

 

尚、清洲会議は以前に柴田勝家を紹介した際、詳しく述べていますので、今回は省略します。

清洲会議の結果、宿老柴田勝家と重臣羽柴秀吉の対立は決定的なものとなった。

 

賤ヶ岳、小牧・長久手の戦いにて

翌年の1583(天正11)年、両者は賤ヶ岳にて激突した。

賤ヶの戦いが起こった時、喜んだのは一益だった。

 

一益は前年、北条軍に大敗後、旧領の伊勢に戻り、力の回復に努めていた。

一益の回復を良しと見なかった秀吉は、大軍を率い伊勢に攻めてきた。

 

秀吉が伊勢の一益を攻める直前、越前の柴田勝家が春を待ちきれず、南下。

賤ヶ岳まで進出した。

勝家来るの報を聞いた秀吉は、すぐさま軍を反転。勝家と対峙する為、軍を北上させた。

 

両軍賤ヶ岳でにらみ合い、決戦。結果は秀吉の勝利。

勝家は北の庄に逃げ帰り、前年正室として迎えた「お市の方」と供に自刃。北の庄を落城した。

 

秀吉の勝利で勝ち目はないと、一益は観念。秀吉に降伏した。

降伏後、剃髪して入庵と号す。

 

翌年の1584(天正12)年、一益に変わり伊勢の領主になった織田信雄が、今度は家康と手を組み、反秀吉の兵を挙げる。(小牧・長久手の戦い)

 

一益は、今度は秀吉軍に味方。尾張の蟹江城に籠るも、信雄・家康軍に包囲され開城。

一益は伊勢の楠に退去。秀吉と信雄の和議成立後、一益は越前大野に移り、その地で没したとされている。

 

一益の晩年

斯うして一益の晩年を見るに、やはり1582年の武田家滅亡までが、一益の絶頂期。

同年6月の本能寺の変後は、まさに天国から地獄に落ちたような人生だったと思われる。

 

一益自身、本能寺の変の4年後に亡くなっている。

享年61才だが、最後の4年間は当に生き地獄だったのではなかろうか。

 

信長の生存中は中核として活躍したが、信長死後は後輩の秀吉の後塵を拝すまでに至った。

清洲会議では早々と秀吉支持を表明した丹羽長秀・池田輝政。

一方、一益は本能寺の変の際、上野にいて動けず、北条軍に大敗。

後継者を決める清洲会議に出席できなかった一益としては、さぞかし心残りであったと思われる。

そんな気がしてならない一益の晩年だった。

 

(文中敬称略)