信長の死後、出世競争に負けた男 『佐々成政』

今回は信長が生存時、羽柴秀吉・前田利家とほぼ同格だったが、信長の死後、二人の後塵を拝するようになり、やがて没落した人物を紹介したい。
その人物とは、『佐々成政』。歴史番組などで利家と供に登場するが、あまりぱっとしないのか人気がない。
成政も利家のように世渡り上手であったならば、評価も高かったかもしれない。
目次
経歴
・名前 佐々成政、内蔵助(別名)
・生誕 1536(天文5)年(生)~1588(天正16)年(没)
・主君 織田信長→織田秀信→豊臣秀吉
・家柄 佐々家(近江源氏)
・親族 佐々成宗(父)、正妻:慈光院(村井貞勝の娘)
・官位 従五位上 陸奥守 従四位下 侍従
生涯
佐々氏は尾張春日井郡比良城の土豪であり、成政は成宗の三男として生まれる。
佐々氏は近江宇多源氏ゆかりの名門家で室町幕府の三管の一つ斯波家に仕え、同じ斯波家の家臣だった織田家に仕えたとされている。
尚、織田家は越前国斯波家の神官の家だったと伝えられている。
長男政次、二男孫介がいたが、いずれも戦死。その為、三男成政が家督を継いだ。
正式に家督を継いだのは、次男孫介が1560(永禄3)年、桶狭間の戦いにて討ち死にした後と云われている。
元々成政は幼少の頃の信長に小姓として仕えた。同時期に後のライバルとなる、前田利家(犬千代)がいたとされている。
1567(永禄10)年、信長がほぼ美濃を制圧した頃、戦功により信長の親衛隊的存在の黒母衣衆の筆頭格となる。
因みに赤母衣衆の筆頭は、前田利家だった。
其の後、信長の勢力が拡大するに連れ、成政も徐々に出世。信長軍の中心的存在となる。
1575(天正3)年、長篠戦いでは黒母衣衆として、鉄砲隊を編成。信長軍の勝利に大きく貢献した。
越前府中時代
長篠の戦いに勝利した信長軍は、返す刀でそのまま越前国の一向宗を蹴散らした。
越前国は1573年の朝倉氏滅亡後、一度は支配下に置いていたが、越前国一向宗勢力が加賀の一向宗と結託。
反乱を起こし、信長の支配下から離れていた。
1575年9月、信長は再び越前を平定。信長は越前約60万石を重臣柴田勝家に授け、勝家を北陸方面担当の師団長に任命。越後の上杉対策に備えた。
成政は越前府中にて、約10万石を信長の側近前田利家、不破光治の供に分け与えられ、晴れて大名格となった。
尚、どの様な形で10万石を3人で分けたのかは、不明。
10万石を与えられた3人は勝家の与力となり、勝家の家臣というよりも、軍監的役目を負わされた。
此の関係は、後の本能寺の変まで続く。
一方利家、成政のほぼ同期だった秀吉は既に二人を追い越し、中国方面の師団長に出世していた。
秀吉の存在は、後の二人の運命に大きく左右する。
成政、勝家の家臣から富山城主へ
成政は勝家の与力となり、以後勝家の指揮下で活躍した。1577(天正5)年、勝家軍は西進した上杉謙信軍と加賀国手取川で戦い敗北を喫す。
敗北後、勝家は守りを固め、北ノ庄にて守りを固める。
翌年の1578(天正6)年、上杉謙信が急死。謙信の死後、越後国は後継者争いとなり(御館の乱)となり、国内が分裂した。
越後の混乱に乗じ勝家は、軍を発し1580(天正8)年にほぼ加賀国の一向一揆を制圧する。
その勢いをかり、越中富山城まで進出する。柴田軍は越後の最前線の越中に兵を勧めた。
1581(天正9)年、成政は富山城主に任命され、入城する。
越中進出の際、越中の有力者神保長住の助力を得たが、後に神保勢内部に争いが起こり、長住は失脚。成政は名実ともに富山城主となった。
この頃がほぼ、成政の絶頂期と云えるかもしれない。ライバル視された前田利家は、七尾城主となっていた。
もし信長が健在であれば、成政の出世はこのまま続くかと思われた。しかし運命の悪戯であろうか。
信長軍団全ての命運を変え、やがて成政が没落していく切っ掛けとなる事件が発生する。
本能寺の変
1582(天正10)年、本能寺の変が勃発。信長軍に所属する人間全ての運命を変えた事件と云える。勿論、成政のその一人。
成政は勝家軍の靡下で、攻略したばかりの魚津城にいた。宿敵上杉軍の居城春日山城とは、目と鼻の先だった。
もう少しで上杉軍(謙信死後、御家騒動後に養子景勝が家督を継いでいた)と対峙しようかと云う時、本能寺の変が起きた。
後の歴史を考えれば、もし京にて本能寺の変が起きなければ、後の上杉家は存在していなかったのかもしれない。
上杉家は関ヶ原後、大幅に減封されたが生き残り、江戸時代に何度か御家断絶の危機が訪れたが、上杉鷹山などの活躍もあり、江戸時代を生き抜き、明治維新を迎えた。
勝家軍は本能寺の変を聞いた後、撤退に手間取った。
後輩の羽柴秀吉に信長の仇を討たれ、信長家の後継者を決める清洲会議では秀吉に主導権を握られた結果となった。
勝家が秀吉の後塵を拝す事により、成政の運命は大きく変化する。
勝家と秀吉の激突
清洲会議での勝家と秀吉との対立は翌年、武力による直接対決となった。
賤ヶ岳の戦いも過去何度も述べている為、詳細は省くが勝家の与力だった成政と利家は当初、勝家軍として参陣した。
しかし成政は上杉軍の備えの為、富山城を動けず、約600人の援軍を送ったのみだった。
合戦は、前田利家の戦場離脱もあり、柴田軍の敗走。勝家は北の庄に前年の清洲会議で、信長の三男信孝の斡旋で正妻に迎えた「お市の方」と供に自害した。
成政は勝利した秀吉に対し娘を人質として差し出し、何とか本領安堵された。
しかし利家があっさり勝家を裏切り、秀吉の配下となった事に成政は大いに疑問を持った。
此れは後の火種ともなる。
以前も述べたが、秀吉と利家は尾張にいる頃から家が隣同士で、妻同士(おねとまつ)は仲が良かった。
一方成政は名門出身と云う事もあり、又正妻は信長の重臣村井貞勝(本能寺の変時、京都所司代だった)の娘だった為、二人に比べ少し格が上との意識があったのかもしれない。
成政、利家は違いに黒母衣衆・赤母衣衆だったが、遺恨を残す形となった。
小牧・長久手の戦い
信長の死後、秀吉は巧妙に織田家を乗っ取った。秀吉の横暴に耐え兼ねた織田家一門の次男信雄は、嘗ての信長の同盟者徳川家康を誘い、反秀吉の軍を起こした。
俗にいう「小牧・長久手の戦い」である。
小牧・長久手の戦いは、信長の死の2年後、1584(天正12)年に勃発した。
尚、信長の三男信孝は前年の賤ヶ岳の戦いの際、信孝の母(坂氏の娘)と供に処罰されている。
戦いでは、数で優る秀吉軍は苦戦した。
成政は当初、秀吉軍に味方する意向を示していたが、後に本意を翻し、信雄・家康軍に就いた。秀吉軍の後方攪乱する為、加賀の利家の領土を攻めるも撃退される。
再度利家の領土である能登と加賀を分断する為、出兵するが有名な「末森城の戦い」にて、利家軍に敗走する。
其の後、成政の後方の上杉軍が不穏な動きを見せた為、成政は越中にて釘付けとなった。
小牧・長久手は戦いで苦戦していた秀吉が得意な調略を経て、信雄と単独講和に成功。
同盟者であった信雄が秀吉と単独講和を結んだ為、家康は既に戦う名分がなくなり、止む無く矛を収めた。
反秀吉の信雄・家康が停戦した為、仕方なく成政も矛を収めざるを得なかった。
此れを境に成政の立場は、益々苦しいものとなった。
成政のさらさら越え
成政は局面を打開すべく、小牧・長久手での反秀吉の一角だった家康に再度挙兵を促す為、家康に直談判を決意した。
有名な成政の「さらさら越え」である。
成政は浜松城にいる家康に直談判する為、浜松行きのルートを考えた。
一つ目は、越中・加賀を抜け浜松に向かうルート。
二つ目は、東の越後を通り、浜松に抜けるルート。
三つ目は、越中から美濃を抜け、浜松にいくルートだった。
しかし何れの道も敵国を通過する為、成政は浜松に到達するのは不可能に思われた。
其処で成政が選んだルートは、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)を越え、浜松に向かうルートだった。
まさに奇想天外なアイディア。記録では旧暦の11月23日(現在の12月の暮頃であろうか)、約50人ほど従え、成政は出発したとされている。
飛騨山脈を越え、家康の居城浜松城に到着したのは、旧暦12月25日とされている。富山城から飛騨山脈を越え、約1ヵ月を要したと云われている。
苦労して浜松に赴き家康の説得を試みた成政だったが、既に講和が成り、家康は成政の訴えを冷たくあしらった。
更に反秀吉だった織田信雄、滝川一益も成政に同意しなかった。
成政は失意にくれ、渋々もと来た道で富山まで引き返したと伝えられている。
富山に帰った成政の一行は、約6名ほどだったと云われている。
現代のような登山術もない時代、成政は約2ヵ月を掛け、冬の北アルプスを横断した。
違った意味で、快挙と云える。しかしそのような苦労の甲斐もなく、翌年成政は秀吉・利家約10万石の大軍で富山城を攻められ、仕方なく降伏する。
降伏後の成政
成政は1585(天正13)年、秀吉・利家の大軍に攻められ降伏した。領地の越中は没収。
元来秀吉との旧知の間柄と云う事で、なんとか助命はされた。助命はされたが、妻子ともども大坂住まいを強要された。
この時既に秀吉は信長の後継者として、旧石山本願寺跡に城を築城していた。後の大坂城である。
成政が秀吉の降伏の2年後、秀吉は九州征伐を画策した。成政は秀吉の九州征伐に従軍。手柄を立てた。
成政は戦功により、秀吉から肥後一国を与えられた。
成政は赴任後、早速検地を始めた。成政の手法があまりにも強引だった為、国人衆の反感を招き、一揆が発生した。
一揆の言い訳をする為成政は大坂城に赴くが、秀吉の怒りは収まらず、そのまま成政を捕らえ幽閉する。
幽閉後、秀吉は成政を許さず、そのまま切腹を命ずる。
成政は秀吉の切腹の命に従い、1588(天正16)年、切腹した。
成政の死は、本能寺の変から僅か6年後の事だった。
僅か6年で、絶頂期から地に堕ち、滅亡した。誠にあっけない幕切れだった。
前田利家と主に幼少期から信長に仕え側近となるも、信長の死後に後ろ盾をなくし、あっけなく滅んだ。
同じ人生を歩んだ利家と比較すれば、まさに対象的とも云える。
利家と成政の違いは、前田利家を紹介した際も述べた、世渡り上手というものが欠けていたのかもしれない。
前述したが、近江源氏の血を引く名門意識が、戦国の世において邪魔をしたのかもしれない。
戦国の世は所謂、「下剋上」。血筋を重んじる日本でも、例外的な時代だったと云える。
だからこそ最下級だった水呑み百姓だった秀吉が、人臣の最高位の「関白」にまで出世できた。
成政も名門意識を捨て、大義名分に拘らず義でなく、利で生きれば、後の百万石の祖となった前田利家のように生き残る事ができたかもしれない。
何時も述べるが、歴史は生き残ったモノの勝ち。理由は後で何とでもなる。偽造・改竄など当たり前。
成政もリアリズムで生きれば、後世もっと違った意味で評価が高かったかもしれない。
そんな思いがする武将だった。
追記
さらさら越えで有名な成政であるが、史実に最も近いと云われている「信長公記」では、意外な場面で成政が登場している。
それは信長があまり神仏を信じない有名なエピソードの一部に登場する。
題名は「蛇がえの事」と綴られている。
内容は、当時尾張の比良城にいた佐々成政の近くの池に、大蛇が住むとの噂が立った。
噂を聞いた信長が真偽を確かめるべく、多くの百姓を動員して池の水を掻き出した。
しかしなかなか水が減らない為、信長自らが小刀を口に咥え、池に潜り、大蛇の存在を確かめたとの事。
しかし大蛇は発見できず、清洲城に引き返したと伝えられている。
エピソードとはあまり関係がないが、実はこの話では当時信長に逆心を持っていた佐々成政が、大蛇騒動に託け、信長を討とうとした動きがあった。
その為信長は、そうそうに清洲に引き上げたとされている。
意外な事だが、この時成政は主君信長に対し、何らかの敵意を抱いていたとされている。
それはやはり、嘗て名門出身の成政が成り上がりの信長に対し、ほんの軽蔑の意を含んでいたのかもしれないという話だった。
(文中敬称略)
・参考文献一覧
【逆説の日本史10 戦国覇王編】井沢元彦
(小学館・小学館文庫 2006年7月発行)