戦国時代きっての極悪人、アクの強い男「松永久秀」

戦国時代の蝮(マムシ)と云えば、おそらく「斎藤道三」を思い浮かべるのではなかろうか。

もう一人の梟雄を挙げるとすれば、「松永久秀」を思い浮かべるかもしれない。

 

道三が蝮であれば、久秀は「サソリ」と云う言葉が当てはまるのではないか。

今回は戦国時代、あまり評判が宜しくない松永久秀と取り挙げてみたい。

 

松永久秀の生き様

松永久秀を語る上で、忘れてはいけない言葉。

 

「公方を弑し、其の主三好にあだを成し、且つ大仏殿を焼き此の三大事は古来のなし難き処成」

 

現代風に訳せば

「室町将軍(第13代義輝)を殺し、主君三好家に背き、奈良の大仏を焼き払った事。此の三つは、昔の人にはできなかった事」

 

であろうか。松永久秀と云う男は、昔から誰もできなかった

①将軍(室町将軍、足利義輝)殺し

②自分が仕える主家(三好家)に反乱

③奈良の大仏を焼き払った人間

と評価されている。

 

つまり戦国きっての極悪人であり、極めてアクが強い男と言える。

上記の言葉が、織田信長が徳川家康に久秀を紹介する際の言葉とされている。

 

久秀という男、三好家に仕えるまでの出自・経歴は、あまり知られていない。

同じ戦国で蝮(マムシ)と云われた「斎藤道三」と同郷、同じ油売りの出身との説もあるが、はっきりした事は分からない。

久秀が歴史に顔を現すのは、阿波の名門三好家に仕えてからの事。

 

頭角を現したのも、かなり年齢がいってから。

数少ない史料によれば、三好家に仕え右筆(記録などに携わる仕事)等をしていたらしい。

三好家が京の室町幕府の役職として力を持つに連れ、久秀の地位も徐々に上がっていった。

 

久秀が武将として活躍するようになったのは既に50歳を越え、三好家から大和信貴山城主に任命されてからの事。

昔の年齢の感覚では、かなり遅い出世と言える。

 

大和と云う国は昔から興福寺の影響が強い土地であり、興福寺の荘園が多い処でも有名。

つまり多くの利権が入り組んだ土地と言える。

 

興福寺と云えば、当然藤原氏の縁の寺。

藤原氏の関係と云えば、皇室・公家などに繋がる関係。

 

三好家が大和国を支配する為、久秀が派遣された。

久秀は、大和国で勢力を持っていた筒井家を滅ぼした。

 

しかしこの時、筒井家の世継ぎ「筒井順慶」を取り逃した。

後に順慶は信長に仕え、久秀と対抗するようになる。

 

この頃から久秀は主君三好家に堂々と、反逆心を持つ。

1563(永禄6)年、主君三好長慶の嫡男義興が亡くなった。

 

長慶はその後養子を貰い、三好家を継がせようとしたが、長慶も息子の後を追う形で間もなく病死した。

その後三好一族は、次々と謎の死を遂げた。三好家は一挙に衰退する。

 

現代でも同様。人が死んだ時、一体誰が得をするのか。

今回の三好家の度重なる死により、誰が一番得をしたのか。

云うまでもなく、久秀であろう。

情況証拠の域でしかないが。久秀の影響は強大なものとなった。

 

将軍殺し

 

当時の将軍家は足利義輝(第13代)が就任。

将軍家は臣下の三好家が徐々に勢力を拡大する事を、苦々しく思っていた。義輝自身、三好家の没落を喜んでいたのは間違いない。

義輝は各大名の力を使い、三好家に代わる久秀の排除を企んだ。

将軍の企みを察知した久秀は、今度は主君三好家の三人衆と共謀。逆に将軍暗殺を企んだ。

 

1565(永禄8)年5月19日、久秀は兵を率い、入京。将軍館を取り囲んだ。

将軍義輝は、当時の将軍としては珍しい剣術の達人だった。

兵に囲まれた際、将軍家伝来の家宝の刀を地面に刺し、襲い掛かる兵に応戦した。

 

将軍は多くの兵を斬ったが、所詮多勢に無勢。とうとう討ち取られてしまった。

義輝には二人の弟がいたが、それぞれ門跡に入っていた。

 

三男は将軍と同じく討ち取られ、次男は危うく難を逃れた。

次男は僧籍で覚慶と云ったが、覚慶は後の第15代将軍「足利義昭」の事。

 

将軍を暗殺した久秀は、自分の言いなりとなる傀儡(かいらい)将軍を立てようとした。

第11代将軍義澄の孫「義栄」が阿波国にいた為、将軍にすべく画策した。

 

将軍暗殺に手を貸した三好三人衆だが、日増しに久秀の専横に腹を立てた。

今度は久秀と対抗する為、大和で滅ぼした筒井家の世継ぎ順慶と組み、久秀の排斥を企んだ。

 

戦いは近畿地方一帯に及んだ。戦いの中、反久秀軍が大和東大寺に陣取った。

久秀は躊躇せず東大寺を攻撃した。

 

1567(永禄10)年10月10日の事。

この日付けは、後々の話にも絡む為、是非記憶して頂きたい。

 

久秀の攻撃で火の手が回り、東大寺の大仏は焼け落ちた。見事に三大悪事を達成。

久秀という男、己の為であれば、人が躊躇する事も全くお構いなしで成し遂げる人間と言える。

 

斎藤道三は美濃一国を収奪した男で評価が高いが、久秀の場合は己の欲の為なら、お構いなしと云った人間。

まさに極悪人。

 

織田信長に恭順

 

数々の悪行を施した久秀に転機が訪れた。

将軍義輝を暗殺した際、取り逃がした覚慶が還俗。足利義昭として、信長の後ろ盾で上洛した。

 

義昭は京を脱出後、越前朝倉家の庇護の下にいた。

しかし朝倉が一向に上洛の意思を見せない為、美濃を攻略した信長を頼り、上洛した。

1568(永禄11)年の事。

 

機を見るに敏と言うのか。久秀は早速、信長に恭順の意を示した。

将軍義昭は兄を殺した男である為、当然反対した。

しかし信長は何故か、久秀の申し出を承服した。義昭との関係が悪化したのは云うまでもない。

 

此れが信長の不思議な処。

能力の無い人間は即座に切り捨てるが、能力のある人間は多少問題があっても配下に召し抱える。

 

実力主義は信長の力が増大する要因の一つだが、これが後々信長の命取りとなる。

勿論それは、明智光秀の事。

 

信長の麾下で活躍

 

信長に服属後、久秀は近畿地方の制圧に尽力する。

信長のお墨付きを得た為、宿敵筒井順慶討伐に力を注いだ。

 

もう一つ久秀の活躍を挙げれば、1570(元亀元)年、信長は越前朝倉攻めを決行した。

越前に攻め込んだ信長だったが、義弟「浅井長政」の裏切りにあい、信長は越前金ヶ崎で撤退した。

信長は近江の朽木谷経由で京に逃れる際、久秀は土豪「朽木元綱」を説得した。

 

信長が撤退する最中、いつ土地の豪族が裏切り信長を襲ってくるとも限らない。

その為、久秀は先遣隊として、朽木元綱を説得する役を請け負った。

久秀の働きにより、信長は無事京に到着。信長は危うく死地から逃れる事ができた。

 

久秀、信長に反旗を翻す

 

越前撤退で功をなした久秀だが、1572(元亀3)年、信長に対し突如反旗を翻した。

義昭の信長包囲網の求めに応じ、武田信玄が上洛の途に就いた。久秀も呼応。

信長に反旗を翻した。

 

この頃、信長と義昭の関係は相当悪化していた。義昭は、信長包囲網の張本人だった。

しかし久秀と云う男、やはり少し理解に苦しむ。

自分を嫌っている人間(義昭)に呼応して、反信長勢力に加わる処が少し解せない。

 

久秀の反乱はあえなく頓挫。上洛の途にいた信玄が病死した為、反乱は失敗に終わる。

信長から信玄に乗り換えようとしたのかもしれないが、久秀は失敗した。

 

久秀は何とか信長に言い訳して、難を逃れた。

信長の性格で、久秀を赦したのも珍しい。

しかし此の時を境に、久秀の運命の風向きが変わった。

 

宿年の敵だった筒井順慶が信長に服属を申し入れ、信長に許可された。

当然久秀は面白くない。

嘗て信長が上洛した際、久秀も信長に服属を申しいれ、許可されたと全く同じなのだが。

 

其の後信長は久秀ではなく、順慶を重用。大和国守護の地位を与えた。

久秀は順慶と完全に、立場が逆転した。

 

久秀、二度目の反乱

 

1577(天正5)年8月、越後の上杉謙信が織田領の能登・加賀国に侵攻。

それに乗じて久秀は、二度目の反信長の旗を翻した。

8月23日、加賀国手取川にて、上杉軍と織田軍が激突した。

 

結果は織田軍の大敗。このまま上杉軍の進撃が続くかと思われた。

しかし上杉軍は戦い後、何故か春日山城に撤退。京に近づく事なく、引き返した。

久秀の目論見は脆くも外れた。

 

信貴山城に籠った久秀は、流石に二度目の反乱の為、今度は赦されないと観念。

鎮圧軍として信忠軍が派遣された。中には宿敵順慶もいた。

 

有名な逸話だが、信長は久秀に命だけは許すとの条件で、当時名器とされた久秀が所有する「平蜘蛛の釜」を要求した。

 

久秀は当然、要求を撥ね退けた。

久秀は平蜘蛛の釜を家臣にもってこさせ、自らの手で粉々に打ち砕いた。

あくまでも信長に渡したくないと云う意地の現れだった。

 

約二ヶ月の籠城後、もはや此れ迄と観念。久秀は自刃を決意。

自刃する際、いつも習慣でお灸をすえた。部下が訝り質問した処、久秀は

 

「自刃する際、中風で自刃ができないとどうする。死ぬのが怖くて自刃できなかったと言われる。死ぬ直前まで養生すべきだ」

と答えた。

 

何か関ヶ原で負けた西軍の石田三成が処刑される際、のどが渇いたので籠をもつ兵に水を所望した折、輸送の兵は

「水はないが干し柿がある」

 

と答えた。すると三成は

「干し柿は喉に悪い」

と云い、断った話に何か似てる。

 

お灸の後、久秀は自刃。

自分の首が信長に渡るのを嫌がり、自分の体を天守閣もろとも火薬で吹っ飛ばした。

悪人最後の見事な散り様だった。

 

因みに久秀が爆死したのが、東大寺の大仏を焼いた「10月10日」と同日。

人々は、仏罰が下ったと言い囃した。確かに因縁めいたものを感じる。

まさに悪人らしい最後と言える。

 

久秀と云う男、目的の為なら手段を択ばない男。それはどんな極悪非道と云われ様が、決して容赦なく、悪を貫き通す。

繰り返すが、アクが強くまさに極悪人。目的の為には、相手をも殺す「サソリ」と言える男だったのかもしれない。

 

・参考文献

【神霊の国 日本 禁断の日本史】

井沢元彦
(K・Kベストセラーズ 2000年5月発行)