稀代の英雄『織田信長』を葬った明智光秀。背後の黒幕は?

信長を葬った実行犯は明智光秀。背後にいた黒幕は?

 

織田信長を本能寺で葬った実行犯は、明智光秀に間違いない。では、その犯行を唆した人間(達)がいるのでは? 

そんな疑問が頭をよぎる為、此れまで述べられてきた数々の論を吟味したい。

 

既に様々な人物が各論議を展開し、語り尽くされた感は否めないが、改めて述べてみたい。

先ずは今迄、語られてきた様々な犯行説を列挙し、一つ一つ検証したい。

 

検証

①光秀怨恨説

光秀は犯行に至る数年前から信長に周囲の人間も認める程、酷い仕打ちを受けてきた。

長年の宿敵であった武田氏を滅ぼした後、その祝いの席で「長年の労が報われた」と発言したのを信長が聞き咎めた。

其の後、「お前はどの様な苦労をしたのた」と発言・立腹し光秀を掴み欄干に押し当て、面前の前で打擲した。

 

丹波の波多野氏を攻めた際、講和の人質として八上城内に光秀の母を送り込んでいたが、信長が講和に来た波多野氏を斬ってしまい、その報復として城内の兵に母を嬲り殺しにされた。

これは実際に替え玉だった節もあるが。

 

武田氏滅亡後、徳川家康の祝賀を安土城で信長が受ける事になり、接待役を光秀が仰せつかったが、何故か突然、役を解かれた。

其の後、中国方面で毛利氏と対峙している羽柴秀吉の下に、援軍として行かされる事になった。

 

因みに、今の現代社会では接待と言えば、会社から経費が落ちる。しかしこの時代は、その役に就いた者の負担。

つまり自腹。大名として俸禄を貰っている為、それぐらいは当たり前といった感覚であろうか。

 

当然光秀も自腹で饗応の為の食器、食材等を当時の最高の物を揃えていた。

仮にも信長の名代として、同盟国の大名を接待をする立場。

 

サラーリマンなら一度や二度、経験あると思うが、会社代表としての接待役は、大概あまり割の良い役とは言えない。

どちらかと云えば、損な役割りかもしれない。

何故なら気遣いばかりで、事が上手く運ぶのが当然と思われる任務。

もし上手く行かない場合、一方的に責められる立場でもある。

 

身近な例で謂えばPTA、町内会役員の様なものだろうか。

あまり褒められる事なく、いつも文句しか言われない役目。

その役を信長から仰せつかり、そしていきなり解かれた。

 

光秀も表には出さなかったであろうが、内心面白くなかった筈。

事もあろうか、同格の秀吉の副官つまり秀吉の下に就けとの命令である。

怒るなと言う方が無理かもしれない。

 

②四国の長曾我部攻め阻止説

信長は友好関係を保っていた四国を制覇した長曾我部氏を攻めようとしていた。

本能寺の変が起こる直前、三男信孝、重臣丹羽長秀は実際、四国攻めを計画。

この時、難波で兵を集めていた。

 

しかしまさにその時、本能寺の変が起こり計画は頓挫。兵も雲散霧消し四国攻めは中止となった。

光秀は外交交渉にて、長曾我部氏の担当。光秀の重臣斎藤利三は、妹を元親に嫁がせている。

 

その間にできた子が長曾我部信親。後に信親は関ケ原、大坂の陣でも登場する。

中止になった事で、長曾我部氏は攻められずに済んだ。

 

③光秀の将来不安説

光秀は饗応の役を解かれ秀吉の援軍に向かう際、信長から領地の近江・丹波召し上げられ、

「援軍に赴く現毛利氏の領地(出雲・石見)を切り取り次第、その方の領地とせよ」

という空手形に近い命令で、出陣を余儀なくされている。

 

又ここ数年、譜代の家来であった佐久間信盛・林秀貞(通勝)等が、既に時効と思われていた昔の咎を責められ、追放されている。

いずれ光秀が、自分にもその矛先が向かうのではないか、と云う不安感から実行に及んだ説。

 

④羽柴秀吉の陰謀説

本能寺の変が起きる直前、秀吉は中国地方の雄「毛利氏」と対陣していた。

備中高松城を水攻めにし、高松城は落城寸前だった。

 

そこに突然の信長の横死の知らせが届いた。その報を聞くや否や毛利氏と和睦。

すぐさま中国路を引き返し、主君を仇を討つべく、京に向かった。

俗に云う「中国大返し」である。

そして見事、信長の仇を討ったのは周知の事。

 

大返しがあまりにも鮮やかだった為、秀吉は光秀が謀反を起こすのを事前に知っていた。

だが敢えて知らないふりをし、あろう事か光秀を唆したのではないかとする説。

 

⑤徳川家康の陰謀説

この説も④に似ている。

家康が本能寺の変が起こった時、堺にいた。僅か数名の家来を引き連れたのみの遊覧旅行中。

直前まで戦勝祝いで安土城を訪れており、戦闘準備など全くしておらず、殆ど丸腰に近い状態だった。

 

そこに本能寺の変が起こり、一行は慌てふためいた。

急いで伊賀を越え伊勢にいき、海路経由で命からがら三河まで逃げ延びた。

 

家康は運良く生き延びた為、秀吉の如く、本能寺が起こるのを事前に知っていて黙っていた。

或るいは、唆したのではないかと云う説。

 

⑥足利義昭の陰謀説

信長に京を追われた足利義昭は、毛利氏の庇護を受け、備後鞆の浦に身を寄せていた。

その義昭が皇室や伝統、有職故実を重んじる光秀を操り、信長を暗殺させたという説。

 

この義昭という将軍、なかなかの曲者。

信長は傀儡として担ぎ出したのだが、義昭本人はそれを好まず、いつも信長に逆らっていた。

 

信長のお陰で将軍になったにもかかわらず、その恩義を全く感じず、事もあろうか信長包囲網を作った張本人とさえ言える。

各大名・勢力に書状を送り、包囲網を作らせた人物。まさに陰謀将軍と云われる所以。

 

信長最大の危機であった武田信玄上洛の際、もし信玄の病死がなければ、流石の信長も危うかった。

三方ヶ原で大敗した家康も同様、最大の危機だった。

いずれにせよ此の将軍は亡くなる迄、信長を恨み続けた。

 

⑦朝廷・公家勢力の暗殺説

あえて朝廷だけでなく公家を付けたのも理由がある。この頃の朝廷は権威も財力も廃れ、見るも無残な状態だった。

朝廷がその様な状態であり、公家等は、それ以下の状態。

 

そんな状況下で、京より鄙びた田舎から来た新参者の信長・家臣連中を朝廷・公家勢力は、決して好意的に見ていなかった。

表向きはその様な素振り・態度は見せずとも、内心は苦々しい心持だった。

本能寺が起こった際、「ざまあみろ」といった日記を書いた公家もいた。

 

しかし山崎の戦いで明智光秀が敗れると、慌てて日記を破棄・改竄した者がいた。

光秀は皇室・伝統を重んじ、又その方面の担当をしていた。

信長も内心では、皇室・公家連中が好きでなく、光秀に押し付けたと云うのが真実だと思われる。

 

皇室・公家・その他の勢力が光秀を唆し、暗殺させたとしても何ら不思議ではない。

当時の既存・既得勢力は、信長より光秀の方がましと見ていたと思われる節がある。

 

ざっと考えられる説で、これだけ存在する。更に諸説を挙げれば数えきれない。

次回は上に挙げた説を更に詳しく検証したい。

 

・続編:稀代の英雄「織田信長」を葬った明智光秀。背後の黒幕は? 続編

 

(文中敬称略)

          安土城跡大手道からの眺め(写真:個人撮影)