お佐代さんの望みは 森鴎外『安井夫人』

★森鴎外 短編小説

 

・題名       『安井夫人』

・筑摩書房     ちくま日本文学全集

・1992年    2月発行

・大正3年3月   発表(1914年)

登場人物

◆仲平

江戸時代の日向国宮崎郡清武村の士族、滄洲翁の次男。背が低く、幼少の頃の疱瘡が原因で、隻眼。風采が頗る悪く、周囲の者から常に馬鹿にされ、猿と蔑称されていた。風采は悪いが、学問に秀でており、若くに藩主の書の教授を務める。

 

◆文治

仲平の兄で、仲平に比べ背も高く、容貌も良い。将来を期待されていたが、若くにして早逝する。

 

◆滄洲翁

日向国、宮崎郡清武村の士族。飫肥藩に奉公する。次男の仲平と同じく、疱瘡を患った際、眼の一つを失う。長男の文治が早逝した為、次男の仲平に家督を継がせ、仲平に嫁をとらせようと試みる。

 

◆長倉のご新造

滄洲翁の娘で、仲平の姉。仲平の嫁の仲介役として、川添のご新造(一家の妻)を訪ねる。

 

◆川添のお豊

滄洲翁の嫁の実家の娘。つまり仲平や長倉のご新造(仲平の姉)とは、いとこに当たる。仲平の嫁にと仲介役としてきた仲平の姉に対し、はっきり断る。

 

◆川添のお佐代

同じく滄洲翁の嫁の実家の娘。同じく仲平や長倉のご新造とは、いとこ。姉と仲平との縁談話を聞き、姉が仲平との縁談を断った事で、自分が仲平の許に嫁ぎたいと母に申し出る。

 

あらすじ

日向の国、飫肥藩に奉公する滄洲翁は二人の息子がいた。長男は文治といい、なかなかの器量持ちで聡明であったが、早逝する。

次男の仲平は兄とは違い、背も低く容貌もあまり宜しくない。おまけに疱瘡を患った際、片目を失っていた。兄が家を継ぐ予定であった。その為仲平は学問で身を立てる為、大坂(当時の表記)で学問の修業をしていた。

 

仲平が大坂にいる時、兄文治を訃報を聞き、急遽家を継ぐ為に実家に呼び戻された。仲平は兄よりも学問に敏く、更に磨きをかける為、今度は江戸に行き勉学に励んだ。

その甲斐もあり、若くにして自藩の藩主の学問指導をする役を仰せつかった。

 

翌年、参勤交代で藩主が国元に帰るに伴い、仲平も供をして帰藩した。帰藩した時仲平は、29歳になっていた。

仲平の父滄洲翁は、そろそろ仲平に嫁をとらせたいと思った。しかし自分と同じくあまり風采の宜しくないない仲平の嫁には誰が良いかと考えた時、嫁の相手に悩んだ。

滄洲翁は悩んだ末、自分の妻の実家の川添の家の娘、つまり仲平とはいとこにあたる、「お豊」が良かろうと考えた。その仲介役として自分の娘であり、仲平の姉である「長倉の新造」に白羽の矢を当てた。

 

長倉の新造は果たしてお豊が仲平の許に嫁ぐには疑問を呈したが、父の頼みでもある為、渋々仲介役を引き受けた。

仲介役として川添の家を訪れた仲平の姉であったが、お豊にあっさり断られた。

断られた仲平の姉は、川添の家から帰る途中、川添の下男に呼び止められ、再び川添の家に引き返した。

引き返した後、川添のご新造から聞かされた話は意外だった。

お豊の妹の「お佐代」が姉から仲平の話を聞き、「姉の代わりに仲平の許に嫁に往きたい」と申し出てきたと言う事だった。

 

妹のお佐代は、なかなかの別嬪との噂。仲介役の娘から話を聞き、滄洲翁は意外に思った。一番意外に思ったのは、仲平本人だった。

しかし当人同士は問題がないと言う事で、二人は祝言を挙げ、夫婦となった。

細君となったお佐代は今迄の内気な態度を翻し、社交的な態度に満ち溢れ、世間に対し見事な賢妻振りを発揮した。

 

仲平は藩主の参勤交代の江戸行きに同行した。その後仲平は度々江戸に行き、藩に奉公した。

この頃になると仲平の学識も漸く世間に認められ、仲平は藩の職を離れ、個人の私塾を開校する事を計画する。

仲平は江戸住まいの際は自炊し、質素な生活を続けていた。自分の住家が正式に決まれば、故郷の妻子を江戸に呼ぶ心算であった。

 

仲平は私塾の場所を決めた後、正式に妻子を江戸に呼び寄せた。仲平、お佐代、娘二人の生活が始まった。

慣れない江戸での生活であったが、お佐代さんは女中を使わず、一人で必死に家事を切り盛りした。

仲平とお佐代との間には多くの子供が生まれた。しかし幼少の頃、早逝した子、成人した後に流行りの病で亡くなった者もいた。

安井家は度々江戸にて転居を繰り返したが、いつも生活は質素だった。

 

江戸では浦賀にアメリカからの蒸気船が来航(1853年)、時代は幕末の動乱期を迎えていた。仲平はペリーの来航で、攘夷・海防策を唱えた。

1860年、桜田門外の変の年、仲平は隠居した。隠居した翌年、お佐代さんが51歳になった時、病でなくなった。

 

要点

仲平は日向の国、飫肥藩藩士、滄洲翁の次男として生まれた。仲平には兄文吉がいて、兄は背が高く風采も良好。聡明であった。

一方弟の仲平は、兄以上に聡明であったが、兄より背が低く、風采もあがらず、おまけに疱瘡を患った際に片目を失った。

その為兄と比較され、いつも周囲から馬鹿にされ、猿など蔑称されていた。

当然家は兄文吉が継ぐものと思われ、次男の仲平は親の計らいで将来学問で身を立てる為に、大阪に学問の修業に出されていた。

 

その修業先の大阪にて、突然兄の訃報を聞いた。兄が急に亡くなった為、仲平は急遽安井家の家督を継ぐ立場となった。

家督を継ぐ身となった仲平は、一旦江戸に出て学問の修業を行い、江戸在住であった藩主の供をして帰藩した。仲平の学問の知識を認められ、そのまま藩主の学問の師となった。

その時、仲平29歳。仲平の父滄洲翁はそろそろ仲平に嫁をとらせたいと画策した。

 

しかし仲平の風貌を考え、滄洲翁は悩んだ。おいそれと簡単に仲平の許に嫁に来るおなご等、なかなか見当たらなかった為。

滄洲翁は悩んだ挙句、自分の嫁の里の仲平のいとこにあたる、お豊に白羽の矢を当てた。

お豊は器量が十人並みだが、歯にものを着せぬ口っぷりであるが、それが全く嫌味のない処が滄洲翁は気に入っていた。

 

仲介役として仲平の姉(長倉の新造)が、川添(妻の実家)を訪れた。仲平の姉がお豊に直接話を切り出したが、お豊にあっさり断られた。

お豊にあっさり断られ、すごすごと変える仲平の姉だった。しかし仲平の姉は川添の下男に途中で呼び止められ、再び川添の家に引き返した。

 

引き返した後、仲平の姉は川添のご新造から、意外な話を聞いた。

器量良しとの評判のお豊の妹が、姉に変わり仲平に嫁ぎたいと申し出たとの事。

仲平の姉は、意外な感じがした。

姉よりも器量が良く、控えめな妹が姉の縁談を聞き、自分が変わって仲平と夫婦になりたいと実母に申し出た事に。

 

仲平の姉は、川添のご新造の話を安井家に持ち帰った。父滄洲翁も意外に思い、一番驚いたのは、仲平本人だった。

しかしお佐代さんが問題ないと言う事なので、話は進み二人は祝言を挙げた。

夫婦になった後、今迄内気で控えめだったお佐代さんは、まるで打って変わったように甲斐がいしく仲平に仕えた。誠に、見事な女房振りを発揮した。

 

仲平は学問の博識が藩と世間に認められ、どんどん出世していった。

仲平は地位は上がったが、決して贅沢する訳でもなく、質素な生活を続けた。

同じく妻のお佐代さんも、使用人を雇う訳でなく、自ら進んで家事をこなした。

 

二人の間には、子には恵まれたが、何故か病気で早逝したものが多かった。

譬え成人した子でも自殺したり、他家に嫁いでも、離縁するなどした。

一方仲平の学識は世間に益々認められ、地位も向上した。

 

時に時代はペリーの浦賀来航などにより、動乱を迎えていた。仲平は儒学者の立場で海防策、攘夷閉港を唱えた。

しかし時は開国の流れとなり、仲平は63歳に藩主から許可を貰い、隠居の身となった。

 

仲平が隠居した3年後の64歳時、お佐代さんは51歳で亡くなった。子には沢山恵まれたが、何故か子には薄幸な者が多かった。

 

お佐代さんは綺麗な容貌であったが、身なりと生活は質素、そのものであった。お佐代さんは仲平に仕える事を労苦としなかった。そして見返りは、何も求めなかった。

お佐代さんは精神的に、何者にも固執しない性格だった。お佐代さんには確かに普通では計りしれない何か得体にしれない貴いものを望んでいた。

しかしそれが何であったのか、おそらく誰にも分からない。

世間の人は、きっと仲平の出世を望んだのであろうと言うが、そうとも思われない節があった。

 

お佐代さんは遠いものを見つめる様な目線で、将来を見据えていたのではなかろうか。そして自分が死んだという事実すら、不幸とも感じなかった程、人生を達観していたのではなかろうか。

お佐代さんに先立たれた半年後、仲平は江戸の将軍家から呼び出しを受け、飫肥藩士族から幕府の直参となった。

飫肥藩では安井の家名を残す為、仲平の次男で里子に出した謙助を呼び戻し、飫肥藩の安井家を継がせた。

しかし謙助も幕府直参となった為、飫肥藩の安井家は、仲平の孫娘に婿を取らせ継がせた。

1868年、ついに幕府は滅亡。仲平は表向き隠居した。

 

幕府滅亡後、仲平は各地を転々としていたが、78歳の時なくなった。

お佐代さんに先立たれた、14年後の事だった。

 

斯うして眺めてみれば、お佐代さんの一生は、仲平の為に存在したのかもしれない。

仲平は自分の学問を世間に広める為、私塾を開いたが、開国そして幕府滅亡で仲平が広めた学問も、今や殆ど意味をなさなくなった。

お佐代さんの望みを敢えて考えるならば、家の存続と子孫の繁栄、歴史の継承だったのだろうか。物質的な満足より、精神的な満足を欲していたのかもしれない。

お佐代さん自身、自覚していたかどうかは分からない。しかし無意識であろうともお佐代さんは、自らの役目を自覚していたと思われる。

 

(文中敬称略)

 

※文中にて、度量衡の参考

一反(たん)は、畳600畳分。一辺が約31.5mの正方形と同じであり、31.5×31.5=面積にして約992㎡すなわち1,000㎡程。

一丁とは、現代の約109.0909メートル。

 

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