嫉妬に駆られ、侍女を殺害した美人詩家 森鴎外『魚玄機』

★森鴎外 短編小説

 

・題名          『魚玄機』

・作者           森鴎外

・大正4年(1915)   7月発表

・筑摩書房         ちくま日本文学全集  1992年 2月発行

 

登場人物

 

◆魚玄機(ぎょげんき)

名は魚、字は幼微。遊郭街で生まれた女郎部屋の娘。幼少の頃より、詩才が秀でる。

魚玄機が15才の時、漢詩の才能名高い、温鍾馗の弟子となる。

 

◆温岐(おんき)

太源の温岐。名は庭筠(ていいん)、字は飛卿。容貌魁偉で風貌が鍾馗(しょうき)に似ている為、温鍾馗と呼ばれている。

漢詩の才能に恵まれていたが、頗る品性乏しく、且つ傲慢な為、しばし上司から疎んぜられる。その為、出世面で損をしている。やがて官に見切りをつけ、官を辞す。

齢40才にして、当時15才の魚玄機に会う。一目見た際、魚玄機の詩才を認め、師事を許す。

 

◆令孤滈(れいこかく)

時の宰相、令孤綯(れいことう)の子息。宴会を催し、しばし魚家の妓女を呼んだ。

宴会には、いつも鍾馗と呼ばれる人物がいた。

人物の名は温岐(おんき)であるが、実は漢詩の才能に優れた人物と判明する。

 

◆李億(りおく)

温の知人の素封家(金持ち)。年齢約30才。

温から魚玄機の存在を聞きつけ、自分の妾にと画策。魚玄機の宅を訪ね、両親に大金を渡し、玄機を妾にする。

妾にはしたが、魚玄機はなかなか李億を受け入れなかった。

その後、李億の妻に妾(魚玄機)の存在が発覚。二人は別れる羽目となる。

 

◆采蘋(さいひん)

玄機が感宜観にて修行中、仲良くなった女道士。玄機よりやや若く、年齢は16才。

仲の良い2人だったが、或る日、旅の職人と供に失踪する。

 

◆陳某(ちんなにがし)

貴公子(位の高い家の子息)と供に、玄機の許にやって来た音楽家。

名は陳であるが、字は定かでない。その為、某(なにがし)とのみ明記されている。

見た目善しで、柔和。玄機より少し若い。玄機と深い仲になり、繁く玄機の許を訪ねる。

 

◆緑翹(りょくぎょう)

玄機が雇っていた老婆の死後、玄機に仕えた侍女。当時26才の玄機より若い、18才。

玄機の許に通っていた陳と戯れた為、玄機の嫉妬を買う。

玄機の嫉妬により、殺害される。

 

作品概要

 

魚玄機は中国王朝、唐の時代に生まれた。884年生まれと云われている。時代的には、晩唐の人物。

魚の生まれた場所は長安(唐の都)の遊郭の一帯で、実家は女郎部屋を営んでいた。

 

玄機は幼少の頃から漢詩に興味を持ち、両親も将来玄機を金の生る木として育てようと計画。

喜んで玄機に、漢詩の基礎を学ばせた。

 

玄機は5才にして才覚を現し、既に数々の有名な漢詩を暗記、諳(そら)んじて見せた。

13才にして詩を作り、15才の頃には巷でちょっとした噂になる程だった。

所謂、「神童」であろうか。

 

或る時、魚家の芸妓がしばし宴会に呼ばれた。

宴会の主催者は、時の宰相「令孤綯」の子息令孤滈だった。

 

令孤滈は友人と頻繁に宴会を催していたが、宴会参加者に、一風変わった人物がいた。

令孤滈と友人はその人物を、温鍾馗と呼んでいた。人物の風貌が何か、鍾馗(しょうき)に似ていた為。

温鍾馗は、漢詩の才能に優れていた。その為、宴会に参加する芸妓から必然的に、噂が玄機の耳に届いた。

 

一方、温鍾馗も芸妓から玄機の存在が耳に届く。

玄機に興味が湧いた温鍾馗は、一度玄機に会いたいと思い、面会を申し出た。

 

唐の年号、「大中11年」とされている為、玄機は凡そ15才の頃であろうか。

※大中とは、唐の年号で847~860年まで用いられた。

 

温鍾馗は温岐(おんき)と云った。

温岐は玄機を一目みた瞬間、玄機の詩歌の才能を認め、玄機に師事を赦した。

この時を境に、師匠温岐と弟子魚玄機の詩歌のやり取りが始まった。

 

温岐は詩歌(漢詩)の才能は優れていたが、甚だ人間性に問題があり、その人間性故、しばし上司から疎んじられていた。

その為、官吏としての出世も遅れていた。

自分の才能に託け、しばしば他人を小馬鹿にする癖があった。

 

或る日、温岐の許に長安の素封家(金持ち)李億が訪ねてきた。

李億は温の机にあった玄機の詩歌を見入り、興味を持った。

李億の興味を持ったのは詩歌ではなく、玄機の人物そのものだった。

つまり自分の側女(そばめ)にしようとしていた。

 

李億は早速玄機の実家を訪ね、大枚を叩き(はたき)、玄機の両親を説得した。

あまりの大金と玄機が拒否しなかった為、李億は玄機を側女にした。

李億の計らいで玄機は、城外の林亭(別宅)に住む手筈となった。

 

李億が玄機の林亭に通うが、何故か玄機は李億を拒んだ。

暫し玄機が李億を拒む為、李億は次第に精神衰弱を来した。

 

その様子が徐々に妻(本妻)に知れ、妻も李億の様子を訝り(いぶかり)、李億の使用人を買収。李億の行動を探らせた。

結果、たちまち玄機の存在が本妻に知れ渡る事になり、李億は無理やり玄機と別れる羽目となる。

 

別れ際、玄機は実家に戻れば両親は赦すだろうが、自分は他の者から笑い者となる。

その屈辱が耐えられないと李億に告げる。

 

玄機は李億の知り合いの、趙錬師道士に預けられる事となった。

玄機が咸宜院(かんぎいん)で道士の修行を行う事になったのは、この様な経緯。

※咸宜院とは、門下生を集めた私塾の事。

 

咸宜院で道士として修業する身となった元機は、自分のより少し年下の道士采蘋(さいひん)と仲良くなった。

その仲睦まじいのは、他の道士も羨むほどだった。

 

しかし或る日、采蘋は咸宜院から出奔した。

出奔の原因は、おそらく当時咸宜院で塑像を作っていた旅の職人と思われる。

旅の職人が姿を晦ましたと同時に、采蘋も姿を消した。

采蘋の出奔により、玄機は嘆き悲しんだ。

 

玄機の許には、しばし書を借りにくる輩がいた。

中には玄機の美貌の噂を聞きつけ、書を求めるに託け、玄機の許を訪れる輩もいた。

 

そんな輩の雰囲気を感じとった玄機は、使用人にそんな輩を退出させた。

貴人の供としてきた人物でも無学と分かれば、それとなく無視。

本人に気まずい思いをさせ、早々に退出させるのが常であった。

 

しかし玄機は采蘋失踪を期に、何か心変わりしたのであろうか。

僅かばかりでも教養がある人間に対しては、談笑するようになった。寂しさの故かもしれない。

しかし相変わらず無学の徒には、冷たくあしらった。

 

訪問客と談笑する玄機であったが、客の帰宅後、何か虚しさが漂った。

それは玄機自身も何が原因なのか、理解できなかった。

 

玄機は詩歌を認め(したため)、温岐師匠に送った。

果たして温師匠からの返書が来たが、その返書は決して玄機を満足させるものではなかった。

 

物思いにふける玄機であったが、何を思ったのか、10日程前に2,3人の貴公子と供に訪ねてきた楽人の陳某に詩歌を認(したた)めた。

陳は風貌雄偉の器量よしの少年で、玄機より少し若かった。

 

玄機から詩歌を受け取った陳は、翌日玄機の許を訪れた。

玄機は使用人に、今後誰が来ても取り次がないよう命じた。

 

玄機と陳は、長い間二人きりとなった。陳はその後、足繁く玄機の許に通った。

1ヵ月後、玄機は今の使用人に暇を出し、代わりに無口な老婆を雇った。

 

無口な老婆であれば、秘密が世間に漏れないであろうとの企みだった。

咸宜院の主宰者である趙は道士修行には厳しいが、人の出入りには口やかましく云う事はなかった。

 

7年の月日が流れた。玄機は既に26才となっていた。

陳と玄機との関係は相変わらず続いていたが、咸通9(868)年、雇っていた無口な老婆が亡くなった。

 

老婆が亡なった為、かわりに新しい使用人を雇った。

使用人は18才の娘で、名を緑翹(りぎょく)と云った。

緑翹は器量は善くないが、聡明で笑いに愛嬌があった。

 

久しく長安を離れていた陳が、戻ってきた。陳は連日、玄機の許を訪ねた。

暫くして陳が玄機の許に通う際、度々使用人の緑翹に対し、揶揄(やゆ:かるく談笑、からかう事)するのを見かけるようになった。

 

初め玄機は何故、陳が緑翹を揶揄するのか理解できなかった。

玄機は緑翹を女として見ておらず、又玄機は自分の魅力に自信を持ち、緑翹など自分の足元にも及ばないと自負していた。

 

俄に、3人の関係が拗れてきた。

陳はほんの興味本位で、緑翹を揶揄っていたのであろうが、玄機にはそれが面白くない。

 

簡潔に言えば、玄機の嫉妬。

 

玄機は今迄美貌と才覚では、決して他人に負けた事がなかつた。

しかし今回は自分より醜く、才能もないと思われる人間に愛しい人を取られたような心境になった。

日増しに、玄機の緑翹に対する不信感と憎悪は増すばかりだった。

 

或る日、玄機は女道士と供に外出した。玄機が外出中、陳が訪ねてきた。

玄機は緑翹からその事を聞くと、何やら疑念を感じた。

 

何時ならば、自分が外出中でも書斎にて玄機を待ち続けていた陳であったが、今回は帰宅したとの事。

玄機は次第に猜疑心にかられ、猜疑心は緑翹への怒りと変わった。

 

元機は緑翹を呼びつけ、事の次第を問い詰めた。緑翹はただ、知りませんと呟くばかり。

玄機は怒りのあまり思わず緑翹を押し倒し、首を絞めた。

首を絞めた後、玄機が正気に戻った時、緑翹は既に絶命していた。

 

緑翹を殺めた翌日、陳が訪ねてきた。陳は特別、緑翹がいなくなった事を気にも留めていなかった。

逆に玄機が陳に対し、緑翹が昨日から行方不明である旨を告げた。

それでも陳は何ら反応もしなかった。

陳としては、ただ緑翹を揶揄っていただけなのかもしれない。

 

作中では数年前から玄機は「生ける秘密」の為、人との面会を拒んでいたと書かれている。

されど今では「死せる秘密」の為、恐怖を抱き面会を拒めば、逆に怪しまれると思い、今度は人との面会を進んで受けたとされている。

 

「生ける秘密」とは勿論、陳との密会の事。「死せる秘密」とは、自分が犯した殺人の事。

 

しかし終わりは突然やってきた。

初夏の或る日、玄機は2,3人の訪問を受けた。

その中の一人が暑さを凌ぐ為、咸宜院の後ろに回った。

 

その時、土を掘った後に新しい土が盛られ、その上に無数の蠅が集っているのを発見した。

男は何気に不思議に思い、その事を自分の従者に話した。

 

従者はその話を、自分の兄に語った。兄は役所の下級役人だった。弟の話を聞きつけ、兄は興味を持った。

兄は以前、陳が玄機の咸宜院から出てくるのを目撃した。それをネタに玄機に対し、強請り(ゆすり)を企んだ。

玄機の許を訪ね、強請ろうとしたが、あっさり玄機に拒否された為、兄は玄機を憎んでいた。

 

夜、数人を引き連れ、男は咸宜院に忍び込み土を掘った。土の中から、殺された緑翹の死体が出てきた。

即座に玄機は捕縛された。玄機は罪をあっさり認めた。

 

長安の人士は驚き、且つ玄機の有り余る才能を惜しんだ。玄機を知る者は、玄機を救おうと尽力した。

玄機の師の温岐は、再び官吏となり遠方の地域に赴任していた為、玄機の力になる事ができなかった。

玄機の犯した罪は忽ち、長安住民に遍く知れ渡り、都の司法長官も法を枉げる事叶わず、とうとう玄機を処刑した。

玄機、26才の時だった。

 

温岐は玄機が処罰される二年前、都を離れ、江南の揚州にいた。揚州では宰相を辞した令孤綯が、地方長官となっていた。

温岐は自分が揚州にいる事をしり乍、挨拶に来ない令孤綯に腹を立てていた。

 

或る日、温岐は酔った勢いで遊女屋敷にいた時、州の役人(警備・警察の役目を果たす)に暴力を振るわれ、前歯を折られ、顔に傷を負った。

 

役人の行為があまりにも横暴な為、温岐は役人の横暴を都に赴き、直訴した。

時の宰相は温岐の訴えを、却下。そのまま温岐を遠方に追いやった。

 

温岐は更に左遷され、その地で亡くなった。

温岐には実弟がいたが、実弟も民衆が蜂起した乱に巻き込まれ、死亡した。

 

佳人薄明。この言葉ば、まさに当て嵌まると云え様。

魚玄機に関わった人物は本人を含め、あまり良い人生を送ったとは言えないであろう。

 

要点

 

優れた美貌と詩歌の才覚に恵まれながら、何故魚玄機は殺人を犯したのか。

それは人間の感情、つまり「嫉妬」が原因と思われる。

玄機は嫉妬からくる猜疑心の為、緑翹を殺めてしまった。それは単なる玄機の思い過ごしだったのかもしれない。

 

その証拠に緑翹がいなくなった翌日、陳が玄機の許を訪ねてきたが、取り立てて緑翹の所在を気にする様子もなかった。

陳としては緑翹を女として見てなく、単なる妹、或いは下僕として見做していたのかもしれない。

其処が、人間の感情の怖さとも云える。

 

何故元機は、李億の側女の申し出を受けたのか。初めて読んた時、疑問に感じた。

理由が作中にて述べられていた。

 

「玄機は男女の欲で側女となるのを了承したのではなく、男子が如く漢詩の才能が世間に認められたいが為」と書かれある。

 

現代の感覚では頗る疑問だが、当時の感覚では男子に生まれた際、漢詩の才能が優れていれば、当然科挙(官吏登用試験)に合格。

官吏として出世する事が、当時の価値観では常識だった。

 

作中にて軽く「中気真術」に触れているが、此れは道士の修行の一環で「「房中」、つまり男女という陰陽の交わりの術の事。

四目四鼻孔云々とあるが、難しい説明を省けば、おそらく気功の修練と思われる。

私自身、言葉の意味を色々調べてみたが、何の事だかさっぱりわからなかった。

 

余談だが、秀作が数多い鴎外の作品だが、此の作品はあまりにも難点がある為、おそらく今後も教科書等に採用される可能性は甚だ低いと思われる。

 

追記

 

魚玄機とは中国晩唐の頃に、実在した人物。844年~871年、女流詩人であり、女道士であった。

幼少の頃から、詩才に優れていた。

色々調べた結果、ほぼ鴎外の小説と違いない一生を送ったとされている。

 

(文中敬称略)

 

他の森鴎外作品

人間一体、何が幸せなのか分からない。森鴎外『高瀬舟』

さり気ない一言で、お上から父の命を救った話 森鴎外『最後の一句』

見知らぬ物に対する盲目の尊敬と権威主義。森鴎外『寒山拾得』

現代社会でも然程変わらない話 森鴎外『山椒大夫』

お佐代さんの望みは 森鴎外『安井夫人』

美談なのか、それとも皮肉なのか 森鴎外『護持院原の敵討』

立身出世の為、愛しい人を捨てた話 森鴎外『舞姫』