美談なのか、それとも皮肉なのか 森鴎外『護持院原の敵討』

★森鴎外 短編小説

 

・題名      『護持院原の敵討』

・作者       森鴎外

・発表       大正2年10月

・筑摩書房     ちくま日本文学全集

          1992年   2月発行

 

登場人物

◆山本三右衛門

播磨の国、姫路城主酒井忠実に仕える侍。役職は大金奉行で、御年55才。

主人の金庫番をしている際、狼藉者に襲われ、重傷を負う。

自分の死期を悟り無念を晴らす為、嫡男宇平に敵討を遺言。絶命する。

 

◆山本宇平

山本三右衛門の嫡男、19才。父の遺言により、叔父山本九郎右衛門、文吉と供に敵討の旅に出る。

諸国を彷徨する中に、精神を病む。やがて敵討本来の意義も忘れ、どことなく行方をくらます。

 

◆山本九郎右衛門

殺害された山本三右衛門の実弟。山本宇平の叔父に当たる。

宇平、文吉と供に下手人探しの旅に出る。しかし、なかなか下手人が見つからず、難渋する。

途中で甥宇平と仲違い。袂を分かつ。

 

◆文吉

諸家に奉公している、43才の男。方々で奉公している際、下手人の亀蔵と顔見知りとなる。

敵の顔を確認する際、手助けになると同行を志願。宇平・九郎右衛門と供に、旅に出る。

 

◆山本りよ

山本三右衛門の娘、22才。嫡男宇平の姉に当たる。

 

◆山本三右衛門の女房

三右衛門の後添えの女房。因って、りよ・宇平の継母。

病弱がちで、夫三右衛門が災難にあい、ますます気弱となる。

 

あらすじ

1833(天保4)年、山本三右衛門は播磨国姫路の城主酒井雅楽頭忠実の江戸屋敷の金庫番を務める侍だった。

年齢は55才。或る夜の未明、いつものように邸の金庫番を務めていた。

本来金庫番は二人であるが、今宵たまたま連れの者が体調不良の為、一人で金庫番をしていた。

 

朝方6時過ぎ、三右衛門の宅から急用との事で、文を届ける輩がいた。

三右衛門は名前を知らないが、顔見知りの小間使いだった為、男から文を受け取った。

 

三右衛門が訝し気に文を開けば、文は白紙だった。

三右衛門がふと思った瞬間、不意を襲われ、文を届けた男から頭に一太刀浴びた。

 

三右衛門が刀と取り、抵抗しようとした際、二太刀目がきて右手の手首を斬られた。

三右衛門は左手で相手の胸倉を掴むと相手は三右衛門を突き飛ばし、逃げ出した。

 

三右衛門は相手を追って外に出たが、相手は既に行方知れず。

三右衛門は屋敷に戻り、金庫の錠前を確かめた。幸い錠前は外された形跡がなく無事だった。

無事を確認した後、三右衛門は意識を失った。

 

事の次第を聞きつけた邸の人間が大勢かけつけ、状況を把握した。

三右衛門は死期を悟り、家の者に以後を託した。

自らの無念を晴らす為、嫡男宇平に敵討を遺言。翌日亡くなった。

 

嫡男宇平は武士の慣習である、父の敵討を決意。

お上に敵討の赦しを得る為、役所に嘆願書を提出した。

 

親族会議の末、三右衛門の敵討には嫡男宇平、三右衛門の実弟九郎右衛門、そして下手人の顔見知りの文吉がゆく事になった。

宇平の姉りよは嘆願書に名と連ねたが、女と云う事で江戸待機となった。

3人は三右衛門が殺害された約2ヵ月後、江戸を旅立つ。

 

3人は江戸を立ち、全国各地を歩き、下手人亀蔵と捜し歩く。

必死に探し歩くが、なかなか下手人の行方がつかめない。

 

一同は約2年の月日を費やしたが、亀蔵の行方は杳としてしれなかった。

一同が大坂にいた際、所持金が尽きかけた。

 

その為3人は路銀を調達する為、木賃宿で宿泊しながら、働いた。

江戸を立ち既に2年近く。

3人が江戸を立った時の面影は既になく、3人はともに疲弊していた。

 

更に3人は、流行りの病で床に伏せるようになった。

漸く3人が病から回復した際、宇平が何やら精神に支障を来した。

 

普段から神経質な処があった宇平だが、病を経たのち、ますます元来の性分に輪をかけたように精神不安となる。

些細な事に、他人に掴みかかり口論をする。気が沈んでいたかと思えば、急に明るくなる。

宇平に様子は誰の目からみても、異常に見えた。

 

或る日、宇平は叔父九郎右衛門に尋ねた。

このまま旅を続けていても、果たして意味があるのかと。

宇平はどうやら長旅と病が基で、父三右衛門の敵討をすると意志が薄れてきた様子。

 

叔父九郎右衛門と議論の末、宇平は敵討の使命を忘れ、出奔した。

叔父九郎右衛門はその時は単なる気まぐれと感じたが、宇平はそのままいなくなり、二度と行方しれずとなった。

 

宇平が大坂で行方知れずとなって暫くして、江戸で留守番をしていた三右衛門の親族から文が届いた。

親族からの文によれば、どうやら亀蔵らしき人間が、ふと江戸に舞い戻っているとの知らせだった。

 

知らせを聞いた二人は、急ぎ江戸に向かった。

江戸に着いた時は、盂蘭盆の花火の当日。

多くの見物人がいる中、文吉は亀蔵の顔を確認した。

二人は亀蔵の後をつけ、人気のいないところで亀蔵を捕獲。下手人亀蔵を再確認した。

 

文吉は三右衛門の敵討をする為、三右衛門の娘りよを呼びにいった。

りよが護寺院原に着いた後、3人は亀蔵の縄を解き、三右衛門の敵討を果たした。

敵討の際、下手人は亀蔵でなく、虎蔵と判明した。

 

敵討後、3人はお上から褒美を貰った。

三右衛門の娘りよは、出奔した宇平の代わりに婿をとり、山本の家を継ぐ事を赦された。

 

叔父九郎右衛門は、国元の播磨で僅か乍だが加増され、仕えていた主君から褒美のシロモノを賜った。

 

文吉は、小間遣いの町人の身分から、侍に取り立てられた。侍身分となり、扶持米を貰い小役人となった。

 

大坂で出奔した三右衛門の宇平は、とうとう行方が分からず、其の後どうなったのか定かでない。

 

要点

時代は天保4年と書かれてある為、1833年と断定可能。

此の年は有名な「天保の大飢饉」が発生した。

文中にもあるが、天明の大飢饉と並ぶ凶作だったと記されている。

 

飢饉は此の年から6年、1839年まで続く。

まさに世の中が米不足に陥り、世情不安であった時に発生した事件。

 

題名、作中にも使われている「敵討」または「仇討ち」と呼ばれる行為。

これは直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行うの事。

武士が台頭した頃、認められた行為であり、江戸時代では武士の当然の権利とされていた。

 

山本三右衛門の敵討を一番望んだのは、長子宇平だった。

宇平は父の遺品である長刀と脇差(短刀)を貰い受けた。

 

姉りよは、泣いてばかりいたが、どうしても脇差を貰いたいと主張する為、宇平は脇差を姉りよに譲った。

三右衛門の親戚一同は、敵討の為に評議を重ねた。

 

評議の結果、宇平の敵討の連れとして三右衛門の実弟九郎右衛門を頼りとした。

九郎右衛門は本国(播磨)にいたが主君に事の次第を告げ、暇をもらい江戸に駆け付けた。

 

叔父が江戸にかけつけた時、敵討の嘆願書をお上に提出していたが、まだ許可が降りていなかった。

その時、叔父九郎右衛門が呟いた言葉が、興味深い。

 

「大きい車は廻りが遅いのう」

 

森鴎外『護寺院原の敵討』引用

 

この言葉が今回の小説のテーマの一つを云える。

組織も大きくなれば成程、動き・行動・沙汰(決定)が鈍くなるという皮肉。

官僚・形式主義の批判とも取れる。

 

どの組織も立ち上げ当初は迅速で臨機応変だが、組織が肥大化するに連れ、動きが膠着化。

閉塞感が漂うようになる。

これは洋の東西を問わず、何処も同じ。

お役所、官僚機構など最たるもの。役所の手続きの煩雑さを詰ったものと云える。

 

この様な状況では緊急下ではなんの役にも立たない事が多い。

現在の新型ウイルスに対する、政府・事務方の対応を見ても明らか。

膠着した組織では、非常事態に際、全く太刀打ちできない。

常に後手後手に回っていると思われる。

 

私事で申し訳ないが、最近感じた身近な話題を例に挙げてみたい。

私は今年、運転免許の更新の年に当たる。

免許証更新連絡書が、現住所の公安委員会から届いた。

 

親展と印字された表紙を見るに、現在新型ウイルスの対策の為、更新業務を停止しています。更新期間が過ぎてしまいそうな方は、有効期間の延長の手続きをしています。地域の運転免許センター、若しくは警察署などの郵送して受付しています。業務再開の時期はHPなどで確認して下さいとの事。

 

長々と引用したが、この文章を一読して、私は何か不思議な感覚にとらわれた。

一見丁寧に見える文章だが、どこか矛盾している。

何が矛盾しているのかと云えば、言葉は丁寧だが、穿った云い方をすれば

 

「自分たちは新型ウイルス対策の為、いま窓口業務を停止している。もしその期間に更新の対象者であれば、更新業務ができない為、有効期限の延長の為の書類を提出しろ」

 

と云っているに等しい。

 

此方の立場から言えば、どうせ更新しなければならないのであれば、危険を承知で更新所にいき、更新するつもりである。

しかし肝心な更新所が業務停止の場合、免許の更新できない。

 

つまり更新できない為、対象者は更新延長の手続きをせざるを得ない。

何故なら、いつ業務再開をするのか分からない為。

いつ再開するともしれない時期を待つ事などできない。

その間に更新期間が過ぎてしまう恐れがある。

(令和2年5月10日、現在)

 

だいぶ長くなったが、つまり言いたい事は、

 

其方(お上)の都合で業務を停止しているのであれば、其方が業務停止していた期間、自動的に延長すればよいだけではなかろうか。

 

此れが役所(お上)の形式主義・権威主義が現れた顕著な例。

「自分たちの都合を、平気で他人に押し付けている事」にまるで気づかない。

此方としては、何か納得がいかない。

今回鴎外の作品を紹介するにあたり、この様な感情が沸き起った。

 

更に九郎右衛門は、甥の宇平に旅支度はできたのかと尋ねた際、宇平はお上からお許しがでた時点でと返答した時に、又渋い顔をしたのも印象的。

叔父は心の中で、なんと頼りのない倅と思ったに相違ない。

 

その証拠として宇平に対し、「旅支度は別に先にしておいても構わないだろう」と、暗に宇平に忠告ともとれる言葉を投げかけている。

これが叔父九郎右衛門の宇平に対する、一抹の不安だった。

その不安は後に現実となるが、この時にはまだ叔父にも分かる筈はなかった。

 

追加で叔父九郎右衛門は、りよが敵討の許可書に名前を連ね許可が降りた際、宇平と供に旅立とうしている事に異議を唱えた。

「いつ出会うか分からない相手の為、女の身では荷が重い」との理由で。

りよは叔父九郎右衛門にさり気なく反論したが、りよの願いは却下された。

 

愈々お上から敵討の許可が降りたのは、2月26日。

事件発生が去年の暮の12月26日である事を考えれば、約2ヵ月近くかかった事になる。

叔父九郎右衛門が日皮肉るのも、当然と思われる。2ヵ月はあまりにも長すぎる。

 

許可が降りた二人は敵討の旅に出かけた。いつ終わるとも知れない当てのない旅であった。

二人の旅に、一人の男が同伴した。

名は文吉と云った。

文吉は諸家を奉公して42才になる男だが、方々で奉公している時、下手人の亀蔵と顔見知りとなる。

その為文吉は、是非敵討に同行したいと願い出、二人は許可した経緯。

 

下手人は「仲間口入宿」から紹介されたと書かれてあるが、「口入宿」とは今で言う「人材派遣会社」のようなもの。

よく口利き屋と云われているのと同種。

求めに応じ、人材を紹介。紹介した折、紹介先からお礼と手数料を貰う生業。

昔ながらの呼び方が多い為、なかなか理解するのが難しいのが、鴎外作品の特徴と云える。

 

3人は亀蔵を求めて、全国を歩きまわった。

少しでも亀蔵らしき人物の噂を聞きつければ、現地に行き亀蔵の行方を捜した。

しかしなかなか亀蔵の行方がつかめない。

上野高崎から始めり関東一体、甲斐・信濃、北陸、木曽、美濃、伊勢、近畿に行くが、全く亀蔵の行方はつかめない。

 

一同が近畿熊野あたりに着いた頃には、年が明け既に江戸を出立してから約10ヵ月が過ぎようとしていた。

3人は伊勢松坂にて、亀蔵らしき人物の噂を聞きつけた。

 

亀蔵らしき男は伊勢松坂に舞い戻ってきたが、実家にすげなくされ、そのまま旅立ったとの事。

3人は亀蔵らしき男を求め、大坂にいき、更に男が四国に渡ったのではないかと予測。

3人は四国に渡った。

 

しかし四国では全く手掛かりがなかった。

そのまま3人は九州の豊後に渡った。九州では阿蘇、島原、長崎、小倉、佐賀と捜したが、手掛かりなし。

 

3人が再び本州下関い着いた時は既に12月6日となり、ほぼ一年が暮れようとしていた。

この時点で江戸を出立して、ほぼ1年10ヵ月の歳月が流れていた。

 

この時3人の中の叔父九郎右衛門が支障を来した。長い旅疲れの為か、九郎右衛門が足痛を起こした。

なかなか足の状態が良くならない為、九郎右衛門は一旦本国の姫路に船で戻り、養生する事となった。

 

2人となった一行は、中国路を渡り歩いた。

2人は叔父がいる姫路に着いたにが、1月20日。叔父と別れ、一ヵ月近く過ぎていた。

その時はまだ叔父の足の状態は良くなかったが、約2週間後、足の状態が良くなり、2人が向かった大坂に叔父も向かった。

 

再び大坂で3人となった一同だが、今度は旅の路銀(旅費)が尽きそうになった。

3人は大坂で糧を得る為、それぞれ働いた。当時流行した儒教の考えでは、「商売は悪」とされていた。

武士が働くには、なみなみならぬ苦労があつたと思われる。

 

この時宇平と叔父九郎右衛門は文吉の境遇を憐れに思い、暇を出す事にした。

文吉に事の次第を告げると、文吉は涙を流して同行を懇願した。

二人は文吉の言葉に揺り動かされ、言葉を撤回した。

 

3人が大坂で苦難な生活をしている中、更に悪い事が重なった。流行りの風邪で、3人が罹患した。

質が悪く、3人はなかなか回復しなかった。3人の病状がようやく回復した時、一つの懸念が生じた。

 

普段から気の変わりやすい宇平が、病気後なにやら精神に支障を来すようになった。

宇平は元来おとなしい性で、どこか世間慣れしていないと処があり、又何にでも反応する神経過敏な処があった。

 

今回の当てのない長旅と病気の為であろうか、宇平の精神に明らかな変調が見られた。

文中の宇平の症状を推測するに、おそらく神経過敏のよる躁鬱病ではないかと思われた。

 

宇平の変化は際立っていたが、実は他の2人も同じ貧困・病気・旅疲れで同じ症状をしていた。

江戸を出立した意気込みと3人に様相は、とうに枯れていた。

生活苦と環境悪化が人を貶めたと云える。

 

或る日、木賃宿の連中が出払い、宇平と九郎右衛門が二人になった時、二人は問答となった。

宇平が云うにもは、今迄我々は方々を探し回ったが、亀蔵の行方がしれなかった。

宇平は約2年近く敵討の為、方々を探し歩いた末、父三右衛門が殺害された当時の意志などとうに忘れ、緊張の糸が切れたかの様に見られた。

 

叔父九郎右衛門は必至に宥めるが、宇平は自分の現在の境遇に嫌気がさしたのか、そのまま木賃宿を抜け出し、行方知れずとなった。

 

行方知れずとなった宇平を方々探すが、見つからなかった。

文吉は途方に暮れ、ふと玉造の予言を聞き入った。

要件は敵の行方と、出奔した宇平の行方であった。

 

玉造りのお告げは、下手人亀蔵は東国の繁華街にいるとの事。

しかし宇平の行くえは見当がつかないとの事。2人がお告げに対し、口論している際、木賃宿の主人が江戸からの手紙を差し出した。

 

手紙の内容は、亀蔵らしき人間が、江戸で目撃されたの事。

手紙を見た二人は、大急ぎで江戸に向かった。7月11日二人は江戸に着いた。

 

既に2年5ヵ月の月日が流れていた。その日は丁度、隅田川の花火の日(盂蘭盆:7月15日)。

花火見物の中、文吉は亀蔵らしき人物を探しあてた。

 

二人は、怪しい男の後をつけた。

神田橋外元護持原二番原に来た時、九郎右衛門と文吉は、怪しげな男を捕まえた。

九郎右衛門は捕まえた男に名を名乗った。捕まえられた男は、頑強に否定した。

 

しかし文吉が即座に亀蔵である事を認めた。

すると捕縛された男は文吉の顔を見た際、もはや言い逃れできないと悟り、観念した。

 

文吉は九郎右衛門の遣いで、りよを迎えに遣らせた。

りよは旅に出かけたいた文吉の顔を見るなり、全てを悟った。

そして父三右衛門がなくなった際、譲り受けた脇差を携え護持原に向かった。

 

一同は護持院原に到着後、亀蔵は全てを告白した。

今迄亀蔵と思われていたが、実の名は虎蔵だった。

虎蔵はたまたま博打場で知り合った亀蔵の名をかたり、亀蔵になりすましたとの事。

 

三右衛門の娘りよが護寺院原に到着。

九郎右衛門は下手人亀蔵に対し、三右衛門を殺めた事の次第と素性を尋ねた。

 

下手人は山本三右衛門を殺めたのは、過失であり、自分はた勝負事(博打)に負け、金に貧窮。金目当てに三衛門を手に掛けてしまった。

更に自分は亀蔵でなく、虎蔵であると。

亀蔵はたまたま博打場で知り合い、紀州出身の亀蔵の名を名乗ったのみと告白した。

 

下手人虎蔵との口上を聞いた後、りよと文吉は敵討の為、虎蔵の縄目を解いた。

虎蔵はいままでしょげていたが、急遽りよに襲い掛かった。

 

りよは父三右衛門が当夜所持でていた脇差で、虎蔵を斬った。

虎蔵は一太刀浴び、よろけた処で、りよは2,3度虎蔵と斬りつけた。

 

様子を見ていた叔父九郎右衛門は、りよを制し、とどめを刺した。

3人は敵討ち許しがでた一昨日の2月26日から凡そ、2年5ヵ月。

漸く山本三右衛門の仇を果たした。

 

役目を終えた3人は、ともに使命を果たし涙ぐんでいた。

普通であれば、此処でめでたし、めでたしで終わるであろう。

しかし作品は、此の後もしばらく続く。

 

敵討を果たした3人は、事の次第を、一番下の役所(お上)に報告した。

3人に届けを聞いたお上は、色々な処を回り、徐々に上(位の高い部署)に報告された。

 

報告が上役に回る都度、3人は呼び出され、事情聴取を受けた。

作中では色々な部署、役職が書かれてあるが、あまりにも煩雑すぎて、敢えて書く気にならない。

又書く必要もないと思われる。

それだけ、複雑な為。数頁に渡り、事細かく書かれてあるが、あまり意味がない。

鴎外は敢えて意味のないものを、書いたと思われる。

その理由は、お上という組織の矛盾・無駄という事を、敢えて表現したのではなかろうか。

つまり事務的な形式主義・官僚機構の無駄さを表現しているのではなかろうか。

 

前述した山本九郎右衛門の言葉ではないが、「大きな車は動きが遅い」と述べた事と粗同じ。

鴎外はご存じの様に、以前も述べたが明治政府の高官。

それも一番厳しいと云われた、帝国陸軍の軍医だった。

最終的には、軍医総監まで昇進した人間。

何か官僚機構にどっぷり嵌り乍、膠着した官僚機構を皮肉っているようにも見える。

 

実は鴎外の作品は、此れが初めてではない。

以前紹介した、鴎外の作品『最後の一句』も似た作風と思われる。

お上の構造の複雑さと、責任転換の盥回しが似ている。最も、それが狙いと思われるが。

 

皆様もご経験があるかと思われる。一度や二度は。

何か役所で書類を申請した際の、複雑で時間を要すると感じた事が。あれと同じ感覚かもしれない。

要するに書類による形式主義、上意下達機関による、判子主義、稟議書の重要視とでもいえば良いであろうか。

3人の敵討後は、そのような様子が書かれてある。

 

因みに3人は、無事敵討を成した遂げた功により、お上から賞された。

お褒めの言葉を頂いた中には、時の権力者(老中)で天保の改革で有名な「水野忠邦」の名も登場している。

お上からの沙汰で山本三右衛門の娘りよは、婿を取り、山本家を継ぐことを赦された。

更にそれ相応の品物を下賜された。

 

山本九郎右衛門は本国播磨の許で、以前と変わぬ役目を言い渡された。

九郎右衛門の主君は九郎右衛門に対し、100石を加増。僅かな昇進とシロモノを下賜された。

 

文吉は山本三右衛門が仕えていた酒井家に引き取られ、元三右衛門の家来との身分で小役人として召し抱えらえ、金子と扶持米を下賜された。

その後苗字を与えられ「深中文吉」となった。町人から侍に出世したという事。

 

3人それぞれ、敵討の役目を果たし、目出度くお上から褒美を頂いたのであるが、大坂で出奔した三右衛門の嫡男宇平は、其の後とうとう行方しらずとなり、どこにいつたのか記録すらなく話は終了している。

姉のりよが無事父の無念を晴らし、本来敵討を果たすべきだった宇平は、父の無念を晴らせずに終えた。

これも又なんと皮肉な終わり方であろうか。

 

更に皮肉を述べれば、父山本三右衛門の敵虎蔵(亀蔵)を探しだす為、約2年5ヵ月、全国方々を探し歩いた。

しかし3人(宇平、九郎右衛門、文吉)が探し求めた相手は、実は3人が出発した江戸にいたという事。

此れもまた何か鴎外の無意識な皮肉ともとれる。

其処まで穿った捉え方をするのも、流石に考えすぎであろうか。

 

追記

以前同じ鴎外の作品『最後の一句』の際、説明したが昔の人物を紹介する時、官位と幕府職が明記される事が多い。

今回の場合、初めに酒井雅楽頭忠実と明記されているが、雅楽頭とは官職(朝廷の役職)の一つ。

位としては、従五位上あたり。よく官職と幕職を混合しがちになるので注意が必要。

 

大概、祖先に役職が下賜された際、子孫が役職を世襲することが多い。

酒井氏は元々、徳川家康が三河にいた頃からの譜代の家臣。

因って、酒井家は名門。

 

題名の「護寺院原」とは、江戸の神田橋外(東京都千代田区神田錦町付近、現在の気象庁の近く)にあった真言宗の寺院の事。

1717(享保2)年、火災で焼失。その後は火災の延焼を防ぐ為、火除け地となった。

 

(文中敬称略)

 

他の森鴎外作品

人間一体、何が幸せなのか分からない。森鴎外『高瀬舟』

さり気ない一言で、お上から父の命を救った話 森鴎外『最後の一句』

見知らぬ物に対する盲目の尊敬と権威主義。森鴎外『寒山拾得』

現代社会でも然程変わらない話 森鴎外『山椒大夫』

お佐代さんの望みは 森鴎外『安井夫人』

立身出世の為、愛しい人を捨てた話 森鴎外『舞姫』

嫉妬に駆られ、侍女を殺害した美人詩家 森鴎外『魚玄機』