人間一体、何が幸せなのか分からない 森鴎外『高瀬舟』
少子高齢化が進む今日の日本社会。今後必ず検討されるであろう、安楽死。
安楽死は、100年以上前から検討されていた問題。
タブーと言う事で、俎上にのらないだけだが、将来的に避けて通れない議論となろう。
更に深く読めば、決して安楽死だけではないと思える作品。
・題名 『高瀬舟』
・森鴎外作
(大正5年 1月発表)1916年作
目次
登場人物
・喜助 :30歳ほどの罪人。
・喜助の弟 :喜助の弟。病気を患い、自殺を図る。
・羽田庄兵衛 :町奉行同心。高瀬舟の護送人
作品概要
高瀬舟とは、京都の高瀬川を行き来する舟の事。徳川治世では罪人を運ぶ際、使用した川。
京都の牢屋から罪人を浪速に移送する際、使われた。
京都奉行は高瀬舟に罪人を乗せて移送する際、与力の下で働く同心と言う役職の者が移送を担当した。
移送の際、これはお上も黙認であったが、罪人の最後の別れの為の親戚縁者をのせる事を許可していた。
非公認の温情であろうか。
お役所仕事とは言え、高瀬舟は同心仲間には、あまり不人気な仕事だった。
現代でいえば、拘置・刑務所に面会に来た人間の、監視役とでも言おうか。
時代は寛政期、「喜助」という罪人が牢屋から高瀬舟に乗せられた。
高瀬舟担当の同心は、「羽田庄兵衛」。
庄兵衛は高瀬舟に喜助を乗せたが、喜助の挙動・雰囲気を通じ、何か今まで移送した罪人とは全く違う意識を感じた。
罪人と言うよりも、何か清々しさを感じた。あまりの清々しさの為、庄兵衛は喜助に問うた。
すると喜助は臆する事なく、答えた。
庄兵衛が詳しく尋ねた処、喜助は幼い頃、流行り病で両親を失った。
残った兄(喜助)と弟(死亡)は町内の人間達から、捨て犬がその時々の憐みで施しを受け、生きている有様だったと述べた。
そんな状況で二人は助け合い乍、成人し、西陣織の職人として供に働いていた。
しかしある時、弟が病に伏せ寝込んでしまった。
兄喜助が帰宅した或る日、弟は血だらけで布団に伏せていた。
兄が弟に様子を聞けば、弟はどうせ治らない病気だと自覚。自分で刃物で自殺を図ったとの事。
しかし切り口は致命傷まで至らなかった。
兄は驚いて医者を呼びに行こうとするが、弟はそれを制し、早く苦痛から逃れたい為、助太刀して殺して欲しいと懇願。
兄も了承。手助けした時、たまたま近所の婆さんが入ってきて、その状況を見られた模様。
結局、弟は自殺を図ったが死にきれず、死にきれなかった処に、兄(喜助)がやってきて事情を説明。
両人の了解を得、兄の自殺幇助の末、弟は最終的に死に陥った状況。
弟の最後を偶々、普段介護していた婆さんに現場を見られたと言うのが、本音であろう。
弟は助からないと見込み、覚悟の上の自殺と言える。
言わば「安楽死」とも言える。
兄は弟が失敗した為、手助けをした。不運にも手助けを見られた為、殺人罪に問われた。
庄兵衛は何か矛盾を感じた。
そして自分は役人勤めをし、罪人を裁く側にいるが一体罪人と、どれ程の違いがあろうか。
役人勤めの自分は月の手当を貰うが、一ヶ月後には殆ど手元に残らない。
罪人喜助は、罪を犯していない時、食うや食わずの毎日。つまり、生き地獄のようなもの。
しかしお上から弟殺しの科で御用。遠島先での手間賃まで貰い、まだ手付かず。
本人は、今迄こんな大金を手にした事さえないと喜ぶ。
弟殺しの科も、弟が自殺を図ったが失敗。手助けをしたに過ぎない。
どちらが正義か、まるで分らない。
庄兵衛は喜助の話を聞き、自分の生活と喜助の生活を比べた。
果たして何方が精神的に幸せで、心が満たされているのか、判断し兼ねた。
一方は、罪人。もう片一方は、役人。
なんだか罪人の方が、心豊かに思える。庄兵衛は、何か心の何処かで矛盾を感じた。
追記
作者森鴎外は、明治時代の官僚組織の一員。嘗て陸軍軍医だった。
その為官僚機構・階級の重さは、人一倍、理解していたと思われる。
だからこそ、作者は高瀬舟でお上の裁きを通し、お上の判断の矛盾を読者に投げかけたのではなかろうか。
因みに、鴎外は軍医だった。
つまり医者の立場から高瀬舟の作品の趣旨、「安楽死」にも深く関わる。
日本では現在、延命治療が施されているが、欧米では、安楽死は本人の選択肢の一つ。
既に法令化されている。
鴎外は維新当時、医学生としてドイツに留学している。その影響もあろう。
(文中敬称略)
他の森鴎外作品
◆さり気ない一言で、お上から父の命を救った話 森鴎外『最後の一句』
◆見知らぬ物に対する盲目の尊敬と権威主義。森鴎外『寒山拾得』