立身出世の為、愛しい人を捨てた話 森鴎外『舞姫』

★森鴎外 短編小説

 

・題名           『舞姫』

・筑摩書房         ちくま日本文学全集

・1992年        2月発行

・1890年(明治23)  8月号『国民之友』発表

 

登場人物

◆太田豊太郎

明治政府の将来を嘱望されたエリート官僚。国費にて外国(ドイツ)に留学する。留学先にて、現地の踊子エリスと出会い、恋仲となる。その為、政府の庇護から追放処分を受ける。

 

◆エリス

ドイツの若き踊子。太田豊太郎と出会い、恋仲になる。

 

◆相沢謙吉

豊太郎の友人。天方大臣の秘書官。落魄した豊太郎を救う為、豊太郎を天方大臣に紹介する。

 

◆天方伯爵(大臣)

欧米視察に来た、日本政府の要人。相沢秘書官の勧めで、豊太郎に面会。豊太郎の才能を認め、才能を惜しみ、日本に帰国する事を薦める。

 

あらすじ

明治維新後の新政府誕生の際、旧藩士出身の太田豊太郎は若きにして成績優秀。才能を認められ、新政府と支えるべき人物となるべく、官命による国費の洋行(外国留学)を許された。

意気揚々、欧州の新興国ドイツ(プロシア)に渡航した豊太郎だった。本来の勤勉さと小心さの故、現地では脇目もふらず勉学に励んでいたが豊太郎であったが、或る日現地にて幼き少女エリスと出会い、恋に落ちる。

恋に落ちた豊太郎を上官・周囲の者は、豊太郎が堕落したとの烙印を押す。挙句に、豊太郎は免官。国費による援助を打ち切られてしまう。

 

援助を打ち切られた豊太郎は、東京いる友人相沢謙吉の口利きにより、現地通信社の職を得る。

通信の仕事を務め、僅かながらの収入を得る豊太郎は、恋仲となった現地の少女エリスと一緒に暮らし始めた。

細やか乍らも、仄かな幸せを感じていた豊太郎であった。エリスと暮らし始めた冬の或る日、エリスは豊太郎の子を身ごもった。豊太郎は何故かその時、気が動転した。

 

時を同じくして、友人の相沢謙吉から書が届く。相沢は新政府要人、天方大臣の秘書官をしていた。

相沢の書状では、「天方大臣の外洋の供をして、現在ベルリンに滞在中。至急会いたし」との旨だった。

 

豊太郎は、相沢に会いにいく。豊太郎と相沢は食事をし乍ら、近況などを報告し合い、旧交を温めた。

相沢は豊太郎の現状を攻めもせず、又肯定もしなかった。

黙って話を聞いていた相沢だったが、やがて相沢は豊太郎に対し、「貴殿の才能をこのまま朽ち果ててしまうのはあまりにも惜しい」と述べる。

この時の相沢の心境は、もし今の生活を捨てる気があれば、自分が天方大臣に話しをして、取りなしてやろうという心境であろうか。

そんな状況が一ヶ月ほど続いた或る日、天方大臣は豊太郎にロシアへの同行を求めた。豊太郎は一瞬返事に窮したが、咄嗟に了承した。

 

ロシア滞在中、豊太郎は主に通訳として任務を遂行した。ロシア滞在中、豊太郎はエリスの事を忘れた。

それ程ロシアでは毎日の業務もさる事ながら、忘れかけていた絢爛豪華な生活に浸り、豊太郎はドイツでの細々とした生活を忘れていたと云える。

ロシアにて豊太郎の活躍により、豊太郎はすっかり天方大臣の信頼を勝ち取る事に成功する。

 

ロシアからベルリンに帰った2,3日後、天方大臣から呼び出しがあり、豊太郎は大臣の許を訪ねた。その際、豊太郎は大臣から意外な言葉を聞いた。

このまま此処にいて才能を埋もらせてしまうのは、勿体ない。どうだ一緒に日本に帰らないかと。

豊太郎が返事に窮している時、友人の相沢はすかさず言葉を繋ぎ、豊太郎に否と云わせぬ状況に持ち込んだ。

豊太郎はその状況に逆らえず、思わず大臣の提案に了承してしまう。

 

大臣の許を去った豊太郎は、途方に暮れた。今の話をどうやってエリスに話そうかと思い悩んだ。思い悩み、帰宅途中の記憶は定かでなく、家に着くなりそのまま意識不明で寝込んでしまった。

豊太郎が正気を取り戻したのは、数週間後の事だった。豊太郎が寝込んでいる間、友人の相沢が豊太郎の許を訪ね、大臣との経緯をエリスに話した。

エリスは相沢から話を聞き、身は窶れ、終いには正気を失い、精神障害(作中では、偏執狂と明記)となってしまった。

 

豊太郎は相沢と共謀。エリスの母に僅かばかりのお金を与え、精神障害を引き起こしたエリスを見捨て、帰国の途に就く

豊太郎は相沢に感謝すると同時に、心の片隅に彼を憎む気持ちを感じた。

 

要点

人間誰にでも一度は訪れる、挫折。主人公の太田豊太郎は今迄、人のゆわれるまま、人の期待に添えようとして、わき目も振らず必死に勉学に励んできた。

作中の言葉では、豊太郎を表す言葉として「所動的・器械的人物」と書かれている。

それは自分を律すると同時に、自らの小心からでた行為であった。そうして豊太郎の人生は、人が望むような生き方をして過ごしてきた。

 

豊太郎はドイツの大学に受講生として通い始めた。豊太郎は大学に通う中、大学にて初めて自由という雰囲気を味わった。

豊太郎が初めて「自我」に目覚めた瞬間であった。そんな最中、外出中に偶々出会った現地の娘(踊子エリス)との恋に落ちた。豊太郎としては初めての熱き情熱であり、初めて自分の意思で行動した恋だった。

 

エリスとの交際は、味気ない豊太郎のドイツでの生活に潤いを与えた。

しかし日頃、豊太郎の事を良く思わない連中は、豊太郎の行為を堕落と受け止め、上官に告げ口。

上官も他人の誹謗中傷を認め、豊太郎を免官する。

 

豊太郎とエリス、エリスの母は一緒に暮らし始めた。当面の生活費は、免官された豊太郎が得た職から捻出された。

豊太郎が職に就けた経緯は、豊太郎が免官された官報をみた友人の相沢謙吉が、現地通信社に口利きをし、豊太郎を駐在員に就かせた。

豊太郎は、今迄味わった事のない挫折を感じた。同時に豊太郎は、エリスとの束の間の生活に安らぎを覚えた。そんな生活が冬まで続いた。

 

冬の或る日、一通の手紙が豊太郎に届いた。書の主は、免官された豊太郎に職の口利きをした、相沢だった。

手紙の要件は、自分は今政府の要人、天方大臣と同伴。欧州視察でドイツの首都ベルリンにいる。至急、会いたいとの趣旨だった。

その時豊太郎には、何の考えもなかった。ただ懐かしさのあまり、相沢の許を訪ね旧交を温めるのみの考えだった。

豊太郎は相沢と面会した。食事をし乍ら、互いの近況を話しあった。相沢は豊太郎の近況を咎めもせず、肯定もせず、ただ黙って聞いていた。

しかし最後に相沢は、今後を予期するが如く、さりげなく豊太郎は窘めた。

 

一時の感情に惑わされる事なく、自分の将来を考えよと。 才能あるものが、だた世間に埋もれてしまうのはあまりにも惜しいと。

 

更に相沢は

今後、天方大臣に自分の才能を見せ、自分が有益な人物である事を証明し、大臣の信任を勝ち取れと助言した。

相沢から助言され、豊太郎は大いに葛藤した。作中では

 

貧しきが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。

 

と述べている。

※森鴎外 『舞姫』引用

 

しかし意志が弱い豊太郎は、その場で相沢にエリスとの情愛を断つ事を約束する。豊太郎が帰路中、その時の心象を、心の中で一種の寒さを覚えたと述べている。

 

一ヵ月程経った或る日、天方大臣がロシア視察に赴く際、豊太郎に対し同行の意思を確認した。語学が堪能でない大臣は、通訳として豊太郎の同行を求めた。

豊太郎は傍にいた相沢の無言の圧力に屈し、ロシア同行を了承する。

ロシア同行で豊太郎は、絢爛豪華なロシアの宮廷生活に圧倒され、すっかり舞い上がってしまった。

ロシアにいる間、豊太郎はエリスの事など念頭になかった。

此れも人間の性とも云える。金と権力の誘惑に負けたとも云える。

 

以前紹介した、井上靖作:『敦煌』でも似たような場面が存在した。

若き青年「趙行徳」は、戦場でウイグル娘と出会い、恋に落ちる。

恋に落ちた二人であったが、趙行徳は西夏文字を学ぶ為、西夏の都イルガイに行く。

イルガイで西夏文字を学ぶ間、行徳は戦場の喧騒などすっかり忘れ、イルガイで安穏無事な生活を送る。

2、3年と月日が流れる中、行徳はウイグル娘の事など、すっかり忘れてしまう。

人間、現在の生活に満足してしまえば、時として過去の事など忘れてしまう。それと同じかもしれない。

 

話を戻すが、豊太郎はロシアで全く異なる世界を見た為、しばし圧倒された。20日間のロシア滞在は、豊太郎の心に微妙な変化を齎した。

ロシアから帰国後、豊太郎の心は揺れた。

以前自分の運命は、所属していた省の上官に委ねられていたが、今度は天方大臣に委ねられていると豊太郎は、薄々感じていた。

 

豊太郎がエリスの許に戻った際、家は一変していた。エリスは豊太郎と自分との間にできた子供を迎える為の準備をしていた。

豊太郎の心は、益々揺れた。

 

2,3日後、大臣から呼び出しがあった。

豊太郎が大臣の許を訪れた際、大臣は豊太郎に対し、自分と供に日本への帰国を勧めた。

豊太郎が返事に窮している間に、相沢はすかさず大臣に返答。

豊太郎に有無も言わさぬ、状況をつくる。豊太郎は元来の意志の弱さで、つい大臣の問いかけに、了承してしまう。

 

さて此処からが大変だった。豊太郎の懸念は勿論、妊娠したエリスの事。

エリスはよもや豊太郎が自分を見捨て、日本に帰る約束をしている等、露もしらない。

ただ豊太郎との間にできた子供の誕生を待ちわびている、健気な少女だった。

 

作中では、豊太郎は帰宅途中、全く記憶がなく、どの様に帰ったのかも覚えていない。ただ罪人のような心境で彷徨ったと書かれてある。

途中で何度も転び、服は裂け、髪は乱れ、泥だらけになったと描写。それ程、酷い状態だったと思われる。

ほうほうの体で帰宅後、意識不明となり何週間は寝込んだ。

 

豊太郎が寝込んでいる間、相沢がエリスの許を訪ね、今迄の経緯を話した。そのせいでエリスの風貌は、すっかり変わってしまった。やつれたと記されてある。

若き少女に取り、相当な心理的圧迫と衝撃だったと思われる。

 

「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまいしか」

 

※森鴎外 『舞姫』引用

 

と叫び、その場に卒倒れした。目が覚めた際、半狂乱の状態になり、周りの物を投げつけ手に負えない状態になった。

ただ一つ此れから生まれてくる子の為、用意したオムツをみた時、母性本能からであろうか。オムツを掴み、顔に当て泣き叫んだ。

エリスは精神錯乱に陥った。原文では、パラノイア(偏執狂)と記されている。今後、回復の見込みなしとの事。

豊太郎は病が癒えた後、半狂乱で豊太郎の子を身籠ったエリスを捨て、日本への帰国の途に就いた。

エリスの母には、僅かばかりのお金を手渡して。

 

小説最後に豊太郎の揺れた心境が描かれている。引用するに

 

あゝ、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れけり。

 

果たして豊太郎にとり、何方が幸せだったのだろうか。

 

追記

作中にて登場する天方大臣とは幕末、雄藩として活躍した長州出身、山県有朋と思われる。山県は多くの幕末の志士が学んだ「松下村塾」出身。

山県と並ぶ明治の元勲、伊藤博文も同塾出身。

 

つまり二人は萩出身。萩と云えば、毛利藩。毛利と云えば関ヶ原の際、西軍に与し敗北。本来改易となる処を、何とか分家の吉川広家の執り成しで大幅減封の末、毛利家は存続する事が出来た。

詳しい事は、以前の関ヶ原のブログにて述べている為、今回詳細は割愛する。

当然毛利家は、幕府(徳川家)を恨んだ。

その恨みが幕末期、倒幕運動となり爆発。同塾出身の多くは、長州藩の倒幕運動の志士となった。

山県もその一人。高杉晋作、木戸孝允、久坂玄瑞なども同塾出身。

 

倒幕後、明治新政府が誕生。山県は政府の要人となり、主に新政府の陸軍を牛耳る事となる。

因みに海軍の実権を握ったのは、主に薩摩藩出身。此れが俗に言う、「藩閥政治」の基。

 

長州閥は以後陸軍の中心となり、その流れは昭和の敗戦まで続く。如何に維新後の山県(長州閥)の影響が大きかったと云えるであろう。

作中で登場する天方大臣とは、山県有朋。一度免官された豊太郎も、山県の鶴の一声で、再び新政府の高級官僚に復帰できた。

豊太郎は作品では秩父出身となっているが、モデルは勿論「森林太郎(森鴎外)」自身。森は津和野(現在の島根県津和野市)出身。

津和野は萩と極めて近い。その為、天方大臣に取り入り、豊太郎は再び官僚に戻れたという話。

実際、森鴎外が陸軍軍医にて出世できたのも、おそらく山県の引けがあったと思われる。

 

森林太郎は、東京帝国大学(現東京大学)医学部を19歳時で卒業(当時は飛び級が存在した)。

卒業後、暫く父の病院を手伝っていたが、其の後陸軍に入省。国費にて、ドイツに留学している。作品はその時を経験を生かし、書いたもの。

実際に林太郎がドイツから帰国後、現地で知り合った女性が林太郎を追って日本に来た事実がある。

その時は林太郎の親族が、女性を必死に説得。無理やりドイツに返した経緯がある。此れは本当の話。

 

作品では豊太郎がベルリン滞在中、豊太郎の母が亡くなっているが、鴎外の母は鴎外が洋行中も健在だった。

作品と同じなのは、鴎外の母が頗る教育熱心だった事。林太郎の立身出世による、森家の隆盛を望んでいた事であろうか。

林太郎本人も、母には従順だったように思われる。今で言う、「マザコン」だったのかもしれない。

 

此の作品は私が高校の現代文の授業で、初めて読んだ作品。当時高校生だった事もあり、非常に強い衝撃を受けた。

それは現代社会の価値観で、当時の社会状況を考えたからであろう。

正確に言えば当時主人公の豊太郎に対し、強い嫌悪感を抱いたものだった。

立身出世を目指す男として立派であるが、人間として最低な男であると感じたからだ。

しかし人間とは年を取れば誠に不思議なもので、又違った考えになる。それは、「若き故の、過ち」とでも謂おうか。

 

人間は一度や二度、犯してしまう若き故の「過ちと挫折」。

主人公の豊太郎は、今迄わき目もふらず、ただ一途にエリート街道をまっしぐらに歩んできた。

それだけに一度横道に逸れてしまえば、なかなか軌道修正がきかない。真面目すぎた故の、反動とでも謂おうか。

皆様にも、きっとご経験あるのではなかろうか。

勿論、私にも経験がある。その影響は、歳をとった今日まで影響していると云っても過言でない。

 

今回の作品は何か身につまされるような、苦々しさを感じた。

作品を読み返した後、えも言われぬ不快感が自分を襲った。

 

(文中敬称略)

 

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