声の記憶 松本清張『声』

★松本清張短編小説シリーズ

 

・題名        『声』

・新潮社       新潮文庫  

・昭和40年     12月発行   傑作短編集(五)『張込み』内

 

登場人物

◆高橋朝子

朝子は3年前迄、或る新聞社の電話交換手をしていた。

後に小谷茂雄と交際の末、結婚。新聞社を退社した。退社後、夫が失職。

 

再就職後、夫が就職した会社の人物が、以前ある殺人事件に関係した声の持ち主である事に気付く。

朝子がその事実に気付いた後日、朝子は死体となり発見される。

 

◆小谷茂雄

高橋朝子の夫。朝子と結婚後、暫くして失職。その後、職を転々とする。

そして漸く、ある薬品の卸会社に再就職した。

 

茂雄は再就職後、会社の人間を自宅に招き、しばし麻雀をした。

だが或る日を境に麻雀仲間だった会社の人間が、家に寄り付かなくなった。

その後、妻の朝子は何者かに電話で呼び出され、翌日死体となり発見される。

 

◆川井貢一

朝子の夫茂雄が再就職した会社の上司。年齢的に一番上にあり(40代)、リーダー的存在。

茂雄の家で暫し麻雀をするが、或る事がきっかけで茂雄の家に寄り付かなくなる。

 

◆村岡明治

川井と同様、茂雄が再就職した会社の同僚。年齢は30代。

 

◆浜崎芳雄

川井と村岡と同様、茂雄が再就職した会社の同僚。年齢は30代。

 

◆畠中係長

警視庁捜査一課の課長。小谷朝子(旧姓高橋)朝子殺しを担当する。

 

◆石丸課長

警視庁捜査一課の課長。小谷朝子(旧姓高橋)朝子殺しを担当する。

 

あらすじ

高橋朝子は3年前まで、或る新聞社の電話交換手をしていた。

後に会社員の小谷茂雄と交際の末、結婚。会社を退社した。

 

結婚後、しばらくして夫茂雄が失職。一時、極貧の生活を送る。

色々な職業を転々とし、漸く夫が再就職。

 

朝子は暫くして夫の会社の人間が、新聞社の交換手時代に聴いた声の持ち主と気付く。

それは重要な発見だった。

何故なら声の持ち主は、或る殺人事件に絡んでいた為。

 

朝子は当然その事を夫の茂雄に話せず、鬱積した日々を過ごした。

後日、朝子は誰かに電話で呼び出され、翌日死体となり発見された。

 

警察は殺人事件と断定。捜査に乗り出す。

捜査が進むにつれ警察関係者は、どうやら今回の殺人事件は夫茂雄の会社の人間が関係していると睨んだ。

警察が必死の捜査の末、浮かび上がってきた真相とは。

 

要点

朝子は小谷茂雄と結婚する以前、或る新聞社の電話交換手として働いていた。

朝子は電話交換手時代、職業柄社内約300人の声を聴き分ける事ができた。

 

或る日朝子は記者の要請で、ある会社重役の家に電話を掛けた。

電話は夜中と言う事もあり、なかなか出なかった。

 

漸く電話に出たかと思えば、電話にでた相手はどうやら本人ではなく、何か不愛想な返答をした。

朝子の言葉を借りれば、「無教養な低さと厭らしさ」。

 

相手は朝子に対し、間違い電話だと告げ、さらに朝子に対し揶揄いの言葉を投げかけた。

いつもの朝子であれば気にもしないが、今回は朝子も多少腹がたった。

一言二言、言い返した。

 

すると相手も向きになり朝子に言葉を返したが、相手の話の途中で電話が切れた。

本人が切ったというよりも、傍にいた誰かが、無理やり電話を切ったような印象だった。

朝子は、声の主と状況が気になった。

 

翌日の夕刊を見た時、朝子は飛び上がらんばかりに驚いた。

昨夜電話をかけた重役の妻が、殺害されたとの記事が掲載されていた。

 

朝子は警察の捜査本部に呼ばれ、事情聴取を受けた。

事情聴取を受けたが、捜査員に声の特徴を聞かれた際、説明に窮した。

 

皆様にも、ご経験があるかと思われる。

自分では分かるが、いざ他人に話そうとすると説明するのが困難な場合が。

 

顔も同じ。

自分では分かるが、いざ他人に特徴を説明しようとすると、なかなかうまく説明できない。

 

まして声を他人に説明するなど、なかなか難しい。

本人の耳では分かるが、その声を全く聞いた事のない他人に説明する等、不可能に近いのではないだろうか。

 

今回は電話の送受器を通じての声の為、朝子は捜査員に対し、うまく説明できなかった。

捜査員も朝子の漠然とした説明の為、大した手掛かりにもならず、捜査は難航。

そのままお宮(迷宮入り)となった。

作中では、捜査員の尋問が反って、朝子の声の記憶を曖昧にしてしまったと書かれてある。

 

※私自身も経験がある。

仕事上である人物と電話で会話後、面会した際、電話の声の印象と実際の人物とのあまりにもの違いに驚いた経験がある。

電話では「野太く、低い声」だった印象を持った。年齢が40代かと想像していた。

しかし面会した際、20代前半と聞き、驚いた記憶がある。

 

今回のキーワードは、「電話を通しての声」。電話を通しての声を聴いた為、朝子に不幸が訪れた。

 

朝子は事件後、会社員小谷茂雄と交際の末、結婚。新聞社を退社した。

夫茂雄は結婚以前から、何処か見栄っ張りで怠け癖があった。

交際中、朝子はあまり気にもしなかった。

結婚後、夫のその様な処を自分が矯正するという意気込みすら感じていた。

 

しかし結婚後も茂雄のだらしない処は、直る気配はなかった。

茂雄は勤めていた会社を、本当に辞めてしまった。

その後茂雄は色々な職に就いたが、どれも長続きせず、半年ほど極貧の生活が続いた。

 

半年後、茂雄は漸く、薬品会社の卸売りをしている様な会社に就職した。

就職した先は羽振りが好いのか、なかなかの給料を茂雄にくれた。

朝子の言葉では、「夫婦は愛情が基本と言うが、やはり経済的安定が必要だ」と述べている。

女は何気に、現実的と言う事だろうか。兎に角、漸く家庭に安定が訪れた。

 

経済的には安定が訪れたが、朝子には一つの懸念があった。

それは夫茂雄がお世話になっている会社関係の人間が、茂雄の家で徹夜麻雀をする事だった。

しばし茂雄の宅で麻雀が行われ、その度朝子は眠れない日が続いた。

 

そんな或る日、麻雀仲間の一人浜崎が電話で都合が悪くなった為、来れないと電話をかけてきた。

朝子は浜崎の電話を取る為、近所の食料品店の電話に出た。

浜崎の電話にでた時、朝子は忘れていた或る記憶が蘇った。

それはあまり思い出したくない記憶の為、朝子自身が無意識に忘れかけようとしていたのかもしれない。

 

電話を通して聴いた声は、嘗て聴き覚えのある声だった。

朝子の記憶が間違いでなければ声の主は、朝子が交換手をしていた3年前、夜中に或る重役宅に電話をかけ、電話に出た声の主に。

 

清張の言葉では、

「職業的に発達した聴覚」

と述べている。

 

朝子が電話を掛けた先の重役の妻が、何者かに殺害された。

電話に出た声の主は、極めて犯人に近い人物。

 

朝子は何故、今迄気付かなかったのか。

 

朝子は事件当時の浜崎の声を、電話(送受器)を通して聴いた。 自宅で浜崎の声を聴いていた際、直で聴いていた為、若干印象が異なっていた。

 

その為、朝子は浜崎の声に気づかなかった。

 

朝子は動揺した。此の事は勿論、夫茂雄には言えずにいた。

偶然、麻雀メンバーの川井が、茂雄の妻の名前が「朝子」である事に気付いた。

 

川井は電話後、朝子の様子が若干いつもと違うのに気付いた。

その為川井達は、何やらそそくさと茂雄宅を退出した。

 

其の後、3人は茂雄宅に、全く寄り付かなくなった。

どうやら川井達も、「朝子が以前聴いた声の主が浜崎である事に感ずいた」と悟ったものと思われる。

 

川井達もおそらく茂雄の妻が、初めは新聞に出ていた「高橋朝子」とは気付いてなかった。

まだ結婚前だった為、旧姓で名前が載っていた。朝子の現在の姓は「小谷」だった。

その為、川井達は今迄、茂雄の妻の名前が「朝子」とは知らなかった。

 

結論を述べれば、朝子は此れが原因で、川井・村岡・浜崎の3人と川井の愛人、鈴木ヤス1人を含む4人の共謀で殺害される。

殺害の手筈は、川井が朝子の夫茂雄に緊急事態が発生したと電話で誘い出し、身柄を拘束。

愛人鈴木ヤス宅にて監禁後、殺害。

 

殺害直前、アリバイ工作・殺人現場偽装の為、狭い密室で田端にある国電(当時は国鉄と呼ばれ、其の後民営化され、JRとなった)の貯炭場にて採取した石炭の粉末を嗅がせ、絞殺。

 

絞殺後、朝子の死体を田端の貯炭場まで担ぎ、遺棄。

アリバイ工作の為、朝子が所持していたハンドバックを浜崎が、時間差で田端の死体遺棄現場にて遺棄する。

4人すべてがアリバイ工作の為、共謀していた。

そのトリックを見破ったのは、警視庁捜査一課の畠中係長。

 

川井が取調べで語った動機は、やはり3年前重役宅に3人が強盗に押し入り、重役の妻を殺害。

偶々電話が鳴り、浜崎が電話を取り、電話をかけてきた相手に揶揄いの言葉を投げかけた。

電話をかけてきた相手が、当時電話交換手をしていた朝子(高橋朝子)だった。

 

朝子は浜崎の声を電話で聴き、その事に気付いた。

川井も、朝子が浜崎の声と気付いた様子に見えた為、これ以上生かしてはおけないと思い、4人は共謀上、殺害したとの事。

 

尚、川井以下、村岡、浜崎が経営する薬の卸もどきの会社の実体は、麻薬の密売だった。

それで茂雄の給料も大きかったと見える。

 

以前殺人を犯した一味の声を聴いた人間が、後に加わった人間の妻だったとは。

何とも言えない、人生の皮肉とも云える。

 

追記

現代社会で電話と言えば、皆様は「スマートフォン」を連想されるのではなかろうか。

今でこそ携帯電話が当たり前の時代だが、携帯電話が一般に普及したのは、ほんの僅か20数年前の事。

 

普段私たちが何気に当たり前として生活しているものは、意外に約20、30年前に開発され、普及したものが多い。

携帯電話もその一つ。

サムネイルを見て頂ければ分かるように、簡単に電話の変遷の歴史を振り返る意味で、今回採用した。

 

この作品が発表された時代は、当然写真右の黒電話の時代。

私にも記憶があり、幼少の頃の昭和40年代(1970年代)は、まだ黒電話が主流だった。

 

今では民営化されNTTとなったが、当時は「電電公社」と呼ばれていた。

電話がない家も、当時はチラホラ見られた。

 

家に固定電話がない場合はどうするのか。

近所の電話のある家に借りるか、商売をしている家に設置されている電話を借りるかのどちらかだった。

自分に電話が掛かってきた場合、取り次いで貰うのが当たり前の時代。

 

今回殺害された朝子が呼び出されたのも、他人の家の電話の取り次ぎによるもの。

なんとなく時代を感じさせる。

 

企業に電話をする際、直通電話を使う時もあるが、普通は代表番号に電話をかけ、必要な部署に繋いでもらう場合が多い。

朝子は退職前、或る新聞社の電話交換手をしていた。

 

昔は電話交換手も資格が必要で、一時期働く女性の「花形職業」と言われていた時代があったた。

昔はバスに女の車掌さんがいたが(バスガールと呼ばれていた)、あれと同じであろうか。

今では全く、お目にかかる事はなくなったが。

 

電話もさること乍、作中に登場する「国電」という名称が登場するのも、何か懐かしい。

当時は国鉄と呼ばれていた。

 

後に民営化され、国電は「JR」と呼ばれるようになった。

懐かしいと思うと同時に、何か犇々と時代を感じさせる作品だった。

 

(文中敬称略)