会社の人事における逆恨み 松本清張『偶数』

★松本清張 短編小説シリーズ
・題名 『偶数』
・新潮社 新潮文庫
・昭和40年 7月発行 『駅路』内
登場人物
◆城野光夫
大手一流会社の社員。調査の副課長であるが、会社中では閑職に近い。自分が七年近く閑職に追いやら得ているのは、以前上司であった現営業部長、黒原健一に出世を止められていると推測する。その為、黒原に復讐しょうとある計画を企む。
◆黒原健一
城野が勤める、一流会社の営業部長。以前城野の直属の上司であった。しかし城野とはそりが合わず、城野を閑職に追いやる。その為、城野から恨みを買う。
◆小山運転手
城野が黒原の愛人宅前で乗り合わせた、タクシーの運転手。殺人事件が起こった時、何も支障がないと思われたが、後に城野に取り、重要な役割を果たす。
あらすじ
城野光夫は大手一流会社に勤める会社員であったが、ここ七年間昇進が止まっている。
更に現在既に40近くになろうとしているが、未だに副課長のポストで、しかも閑職に近い調査部に所属していた。
城野は社交性がなく、学生時代は学業は優秀であったが、元来の人付き合いが下手な性分だった。その為、会社内でも孤立していた。勿論、派閥など疎遠な人間だった。
会社内で特に城野を毛嫌いする人間がいた。その人物は以前城野の上司だったが、城野の人間性を嫌い、城野を閑職に追いやった張本人とも云える。
その人物は会社では出世頭と見られ、現在営業部長職にいた。名を「黒原健一」と言った。
黒原は城野を閑職に追いやった張本人ではあるが、現在会社には上にポストの空きがなく、此処4、5年人事異動のない状況が続いた。
その為、黒原も更に上の重役職に空きがなく、営業部長職にとどまっていた。
城野は自分が出世できないのは、黒原の手引きであると考えた。
黒原は営業部長になり、既に5年。会社の信任も厚く、次第に自分の勢力(黒原派閥)を会社内に扶植してる最中だった。
城野は会社に黒原がいる限り、決して出世が望めないと考えた。考えた挙句城野は、会社内での黒原の失脚を目論んだ。
幸いにも、黒原には囲っている女がいた。
城野は長い時間をかけ、黒原と愛人との関係を調べ上げた。
調査の結果、以前世間を賑わせた愛人殺害容疑となった会社員が、社会から抹殺された事件を思い出し、そのまま黒原に対して、同じ内容を実行する決意を固めた。
つまり城野が黒原の愛人を殺害。その罪を、黒原に擦り付けようとする算段。
譬え殺人の嫌疑が晴れても、黒原の会社での地位・名誉は失墜。社会的に抹殺されるという寸法。
城野の綿密な計画の結果、計画は上手く運んだ。
城野のほぼ計画通りに事が運び、黒原は部長職を解かれ、会社人間として出世の道を閉ざされた。
黒原の失脚後、ポストに空きができ、会社人事が玉突きのように動いた。
城野も晴れて課長職に昇進した。
城野が気分爽快でいた或る日、一人の男が城野の会社を訪れた。
訪れた男の正体は、城野が黒原の愛人を殺害後、愛人宅の前で城野を車に乗せたタクシーの運転手だった。
運転手は「小山」と言った。
小山は略事件の概要を城野に話した。話を小山から聞いた城野は、自分の目の前が真っ暗になるのを自覚した。
要点
事件を解く鍵となったのは、なんと黒原の愛人が、城野に出した湯呑茶碗だった。
城野が事件現場から持ち出した一つの湯呑茶碗が切っ掛けとなり、城野の殺人が暴露されたのである。
黒原の愛人は物持ちが良かったようで、お客様用に出した湯呑茶碗は、なかなか品のよいシロモノだった。
品が良い為、反って印象に残り、事件と結びついた。
城野が事件現場から持ち去り、途中川に投げ捨てた湯呑茶碗は、実際発見されなかった。
警察と小山運転手が城野をひっかける為、一芝居うったのである。
しかし城野は、まんまと芝居にひっかかってしまった。城野が川に捨てた時、小山運転手は城野が川に何かを投げ捨てる音を聞いた。
小山運転手は音を聞いた為、投げ捨てたものを茶碗に結びつけた。
まさに小山運転手の名推理と言える。城野は湯呑茶碗を途中で処分せず、持ち帰り安全な処で処分すれば、足がつかなかったかもしれない。
まさに運命の悪戯とでもいおうか。
もう一つの運命の悪戯は城野の調査によれば、黒原は愛人宅を訪れる際、何故か偶数日が多かった。
城野はそれに賭けた。偶数日を見計らい、犯行を実行した。計画は成功するかに見えた。
しかし前述した湯呑茶碗が一つ欠けていた事により、事件が発覚した。
日本では茶碗等をセットで購入した場合、大概奇数が基本となっている。主に3、5、7等が基本。
此れは日本人の感覚では、切れないと言う意味。つまり素数で「縁が切れない」に由来しているものと思われる。
会社の株式も同じ。最低7人は必要と言われている。割り切れない事で、縁起が良いという意味かもしれない。
一方欧米では、大概偶数が基本。2、4、6等。
推測するに、欧米では「ホーム・パートナー」が暫し催される。ホーム・パーティーに招待される際、大概夫婦単位で招待される事が多い。
夫婦を基本に考えれば、奇数より偶数が都合が良いと思われる。あくまでも私の想像の域だが。
城野は目の上のたん瘤だった、黒原営業部長の失脚を目論んだ。
黒原の失脚に成功したが、同時に自分の人生も失脚したと言える。
まさに此の諺が頭に浮かんだ。
追記
今回の作品の内容をサラリーマンであれば、一度や二度、経験した事があると思われる。
この作品が発表されてから50年以上の月日が経つが、会社と言う組織は殆ど変化が見られない。
そのまま現代社会にも当て嵌まると言える。それだけ会社と言うものは変化がなく、膠着したものと言える。膠着した狭い組織内で、数々の人間の欲望が渦めいている。
此れは別に会社だけに止まらず、個々の人間関係にも同じ事が云えるであろう。
それ程、人との関係は、ドロドロしたものであろう。
(文中敬称略)