源頼朝は平家滅亡後、何故源義経を討伐したのか

1185(文治元)年、長門の壇之浦で平家が滅亡。

平家滅亡後、源頼朝と源義経の対立。兄頼朝が弟義経を討つかたちとなる。

何故、兄弟同士が争う羽目になったのか。今回はその経緯を述べたい。

 

平家滅亡

1185(文治元)年、平清盛出現後に栄耀栄華を誇った平家一門は、源義朝の遺児「源義経」を総大将とする源氏軍に攻められ滅んだ。

 

1183(寿永2)年の都落ちから2年、平家はあっけなく滅んだ。義経の匠な戦術で平家は1184年、一の谷の戦いに負け敗走。

同年、屋島の戦いに負け、更に西国に敗走。

1185年、長門の壇之浦にて義経に攻められ、安徳天皇が二位尼(清盛未亡人)に抱かれ入水自殺。平家一族は滅んだ。

 

宿敵平家がいなくなると義経は、兵を退き返し凱旋。しかし兄「源頼朝」が義経を非難、対立へと発展。

平家を滅ぼした後、兄頼朝は何故、弟義経を敵対視したのであろうか。

よく言われる原因として、兄頼朝が弟義経の軍事的才能を嫉んだ。

軍監である「梶原景時」と折り合いが悪く、景時の讒言であると言われているが、そればかりが原因とは思われない。

そのあまり語られていない原因とは。

 

頼朝が目指した武家社会

兄頼朝と弟義経の対立は、あまり詳しく語られる事なく、学生時代の歴史の授業でも、1192年(いいくにつくろう)鎌倉幕府成立と教えられたのみで、あまり深く考えた事はなかったのではなかろうか。

私も学生時、同じ状況だった。

いつも思うが歴史と云うものは只暗記ではなく、物事が起こった歴史的背景を学ぶ事が大切だと思う。

 

話を戻すが平家を滅ぼした後、何故頼朝と義経が争う羽目になったか。

私は小学校の時、弁慶と義経の関係を描いた絵本、社会科の授業等で兄弟の対立を知ったのだが、何故兄と弟が争うのか理解できなかった。

 

戦後教育の影響もあり、兄弟仲良くすべしとの考えが影響していたのであろうか。

前述した事実(頼朝の嫉妬、梶原景時の讒言)も一理あろうが、詳しく見れば決してそればかりが原因とは言い切れないようだ。

 

結論を先に述べれば、頼朝が目指していた政治は「武士を中心とした社会」であり、義経行為は、頼朝が目指していた構想とかけ離れていたからと言える。

義経は確かに軍事面では天才だったが、政治面に関し全くの無能だった。

 

先ず初めに、武士がどういった経緯で歴史に登場したのか、説明したい。

そもそも武士という階級が、何故誕生したのか。

武士が誕生した歴史背景

そもそも何故、武士が登場したのか。当時の社会では、「荘園」という寺社・有力貴族を中心とした私有地が存在した。

荘園では暫し、他の荘園・国有地などから所有権を巡り、争いが多発した。

 

現代では土地紛争が起きれば、裁判所にて所有権を争う事が可能。しかし昔は土地紛争が生じても、公的に訴える手段がなかった。

仮令自分の正当性が認められても、不法に占拠している輩に対し、強制的に立ち退かせる手段がなかった。

その為、土地の所有者は自らの土地を死守する為、防衛手段を採った。自分の土地を守る為、傭兵を使った。

洋画の西部劇に登場するガンマンを思い出して頂ければ、分かり易い。

町の無法者・ならず者から自分達の家屋・牧場を守る為、雇われた傭兵と思えば理解し易い。

 

武士の登場も同じようなものだった。自警団から発展したと言える。

平安時代は国軍と言うものが存在せず、治安は乱れた。その為金持ちが自らの生命・財産を守るべく、出来た私設軍・傭兵部隊と云える。

 

都に近い地方では其れほどでもないが(検非違使・放免等がいた)、地方になれば自ずと中央の

管轄から離れる為、統制が行き届かず、治安が悪化した。

因って当時の関東、東北、九州などでは有力な武士団が誕生した。特に関東は代表的な地域の一つだった。

 

当然武士団が誕生すれば、武士も自分達の社会的身分、利権を要求し始める。自分達の生活が成り立たせる為の、当然の利権と言える。

此れが武士が台頭してきた、歴史的背景。

武士の力を利用した朝廷・貴族

一方、荘園所有者・貴族は何をしていたのか。

貴族・有力な荘園所有者たちは自らの利権拡大の為、積極的に武士を利用した。

初めは自分達の土地防衛の為、武士を利用した。

徐々に他人の荘園を侵す為、また紛争の解決手段として、積極的に武士を利用した。

 

貴族・有力な荘園所有者たちは、自らが手を染めるのではなく、荒事は他人(武士)に任せていた。

詳しい説明は省くが、「ケガレの思想」である。

 

昔は争い事・警察沙汰は、身分の高い人間が行う行為ではなく、身分の低い者・下賤な者が行う行為とされていた。

前述した代表的な令外官である検非違使などは、その考えに由来し、後に追加された役職。

 

武士団が次々に誕生する中、頭角を現してきたのが、皇室を租とする清和源氏と桓武平氏の台頭だった。

源氏は主に関東を中心に、平氏は主に西国を中心に発展した。これが後の源氏と平氏の争いに繋がる。

 

源氏が関東を中心に発達したのは、しばし中央政府に反乱した蝦夷を征伐する為、関東地方が派遣された中央軍の前線基地になった為。

武士団が発展する要素が、関東には十分存在した。

 

平氏が西国に勢力を増大させたのかと云えば、源氏と同様に、しばし中央の統制から外れた九州などの有力豪族が反乱を起こし、前線基地が西国に置かれた為。

どうして平氏が源氏に攻められた際、都落ちで西国に逃れ、滅亡となった本州の果ての壇之浦まで逃げおうせたのか。

それは平氏の勢力が、西国で強かった為。

 

源氏は「坂上田村麻呂」が初めて「征夷大将軍」に任命され、東北鎮圧に赴いた頃より、武士が育つ素地があった。

中央政府は諸国の反乱に備え、追捕使・押領使などに任命。次第に各地に置かれた。

源氏は次第に東国を基盤として、勢力を伸ばしていった。

武士の台頭と朝廷・貴族の衰え

武士が世の中に進出する切っ掛けとなったのは、皇位継承に絡み、皇族・公家等の貴族が武士を利用した事。

具体的に言えば、1156年の「保元の乱」

皇位継承を巡り、二つの勢力が対立した。それぞれが貴族・武士を巻き込み争った。

 

勝ったのは、「後白河天皇」に味方した勢力。戦後、平氏が力を持つようになった。

具体的には「平清盛」である。

争いを境に貴族の力が衰え、武士の力が無ければ何も争いが解決できない状態となる。

 

保元の乱の3年後、今度は清盛は保元の乱で供に戦った「源義朝」と争い、勝利。

清盛の力は絶大なものとなった。「平治の乱」

 

敗れた義朝の遺児「源頼朝」は、伊豆に配流。源義経は、鞍馬寺に入れられた。

歴史に「もし」はないが、この時二人が処刑されていれば、後の平家滅亡は全く違ったものになったかもしれない。

 

平治の乱以後、清盛は絶大な権力を誇った。栄耀栄華を極め、「平家でなければ、人にあらず」と云われた程。

しかし清盛の死後、平家の天下は長く続かなかった。

平氏は、藤原氏の摂関政治を真似ただけ。出身母体の武士の地位・権利を認める政治を、全く行わなかった。

 

清盛が存命中はまだ抑えが効いていたが、清盛の晩年から死後、いままで不満を抱いていた武士達の怒りが爆発。

各地で平家打倒の動きが起こる。要するに、「俺たちにも分け前をよこせ」といった状態だろうか。

 

とくに源氏勢力が色濃く残る関東地方では、動きが活発だった。

繰り返すが、源氏は主に関東中心に勢力を伸ばしていた為、殊更不満が強かった。

 

義朝は清盛との争いに負け、関東に落ち延びる際、味方の裏切りにあう。入浴中の丸腰の際、襲われ落命している。

恨みもひとしをだったと思われる。

清盛の晩年と死後

清盛の晩年、今まで平家の横暴を苦々しく感じていた勢力が、一斉に平家打倒の狼煙を上げた。

木曽山中に潜伏していた同じ源氏を祖とする「木曽義仲」。伊豆に配流の身となっていた源頼朝など。

 

中でも関東武士団の棟梁に祭り上げられた頼朝の存在は大きかった。

やはり源氏の元棟梁「義朝」の子と言う事もあり、出生も問題なく、また大義名分も申し分なかった為。

 

簡単に言えば、地方武士は中央勢力のやり方が気に食わず、反乱を起こした。あわよくば、自分達の権利・勢力を拡大するのが目的で。

担ぐ神輿として頼朝が、丁度都合が良かったと言える。

これは後にも関係するが、かなり重要な事実。

 

平氏打倒で、各地の武士が反乱を起こした。当然源義経の許にも知らせが耳に入る。

義経は兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げたと聞き、兄に呼応する。

平家にとり不幸な事は、清盛が1181年に死去したのは、大きなダメージだった。

 

この時の朝廷の状況を説明しておきたい。

平治の乱の当時天皇の位にあった「後白河」は、清盛のごり押しで退位させられ「院」となり、当時3歳であった安徳天皇が即位していた。

安徳天皇は清盛が娘徳子(建礼門院)を第80代高倉天皇に入内させ、産ませた子。

因って清盛の孫となり、清盛は外戚となる。

前述したが、平家が藤原氏の摂関政治を真似たという理由。

 

当然、後白河法皇は面白くない。

後白河は各地で平家打倒の機運が高まると、その動きを巧みに利用し、自分の復権を図った。

 

後白河は具体的な動きとして、関東で武家の棟梁として祭り上げられた頼朝に御墨付きを与え、「平家を打倒せよと」の命令を下し、棟梁としての地位・実権を認めてしまった。

頼朝も渡りに船と、法皇の求めに応じた。これは後々まで、法皇と頼朝の争いとなる。

しかしこの時点では、互いに利用した。

義経の働き

義経は平治の乱で父義朝が討たれた際、命は助けられたが、鞍馬寺に入れられた。しかし鞍馬寺を脱出。

当時東北で権勢を振るっていた奥州藤原氏を頼り、奥州に落ち延びていた。

 

兄頼朝が平家打倒の兵を挙げたと聞き、義経は頼朝の許に馳せ参じた。

頼朝は富士川の戦いでの勝利後、まずは関東での地盤固めに勤めた。

 

当時各地で平家打倒の機運が起こり、木曽山中にいた「源義仲」が北陸路から京を目指し、都に侵攻していた。

義仲の侵攻で平家軍は、都の維持が困難と判断。1183年、平家の地盤が強い西国に落ち延びていった。

 

平家は当時の安徳天皇と「三種の神器」を伴い、都落ちした。

都落ちしても当時の天皇と三種の神器を持っていれば、政権の正統性は認められた。

これは現代でも同じ。

今年の改元の際、三種の神器の継承儀式が行われたのは記憶に新しい。

 

都に残った後白河法皇は、平家を都から追い出した義仲をしぶしぶ認めた。

しぶしぶ認めたのは前述の如く、頼朝との盟約があり、頼朝に期待した為。

 

義仲軍は入京後、略奪を働いた。

所詮寄せ集めの軍勢。義仲に付いてゆけば、何か良い目が見られると思った連中が集まった寄せ集めの軍勢に過ぎなかった。

京に入り目的を達成した途端、各軍がそれそれ己の欲で動き始めた。

 

義仲軍が狼藉を働いた為、京の人間からは信用を失い、後白河法皇も義仲排除を決意。

義仲追討の院宣を発した。

 

院宣を受けた頼朝は、直ちに総大将として義経を派遣。義経は見事に義仲軍を討ち、京を奪取した。

この時、義経の軍監として付いた人間が「梶原景時」。あまり義経とはそりが合わなかった。

義経は義仲軍を滅ぼした後、西国に逃げた平家を滅ぼす為、兵を西国に進めた。

義経軍、連戦連勝

平家打倒の為、西国に進出した義経軍は、各地で連戦連勝を重ねる。

主な戦場の一の谷の戦い、屋島の戦いなど奇策とも言える作戦で平家軍を圧倒した。

 

連戦連勝したのは良いが、軍監の梶原景時とは何れも意見が合わなかった。

景時は今でいう事務屋さん。官僚的気質と云えば良いであろうか。

常に前例踏襲主義に凝り固まった人間。義経が行う作戦に、常に異議を唱えた。

義経は勝つには勝ったが、景時は頼朝にあまり良い印象で報告していなかったと思われる。

 

義経と景時の関係の良い例として、戦国時代の秀吉「朝鮮出兵」の際、前線の武将と後方の官僚(奉行)の関係を思い出せば分かり易い。

「石田三成」が軍監として名護屋城に赴き、秀吉に戦況を報告。

実際に出兵した武断派の連中から、あまりよく思われなかった事象と似ている。

大概、現地司令官と軍監とは仲が悪い。

 

互いに仲は悪かったが、義経は奇跡とも言える勝利を次々おさめた。

遂に平家を本州の果て、長門の壇之浦に追い詰めた。壇之浦で義経が勝利。

平家が西国落ちして約2年。とうとう平家一門は、義経軍に滅ぼされた。

 

九州に逃げる直前、それまで平家を支持していた勢力も、とうとう平家を見限った。

遂に平家は滅亡した。

頼朝が義経に対し激怒した理由

平家を滅ぼす事に成功したが、義経はヘマをしでかした。安徳天皇は入水自殺を図り崩御した。

義経はその際、三種の神器の一つである「草薙の剣」を取り戻す事ができなかった。安徳天皇の入水と同時に、壇ノ浦の海底深く沈んでしまった。

 

此れが頼朝が義経を、心良く思わなかった理由の一つと思われる。

神剣の一つぐらい良いのでと思うかもしれない。

しかし当時としては三種の神器が揃い、初めて皇位の正当性が認められた。

現存の神剣は、いろいろ理由をこじ付け、むりやり神剣とした複製。

 

平家が都落ち後、後白河法皇の力で後鳥羽天皇を即位させたが、この時はまだ三種の神器がない即位だった。

頼朝は三種の神器は、後白河法皇に鎌倉側(武士団)の要求を呑ます為の絶好の交渉道具だった。しかし義経は失敗した。

 

次に頼朝を怒らせた、義経の行動。

義経は1184年、一の谷の戦いの勝利後、一時京に凱旋した。

その時義経は頼朝の許しを得ず、後白河法皇から官職を受けてしまった。

これが頼朝から怒りを買った最もな原因。

 

官職の内容は「左衛門小尉検非違使」。位としては6位~7位程。

因って、あまり高い位ではない。だからこそ義経も軽々しく受けたと想像する。

 

因みに官職にあやかり、平家物語で「判官」と云われているのは、義経の事。

言葉の「判官贔屓」とは此処に由来している。

 

参考
官位は小初位が最下級位で、徐々に上がっていく。小初位から始まり、凡そ30段階を経て正1位になる。勿論、臣下で最高位は、秀吉で有名な関白。その下に太政大臣左大臣右大臣等がある。余談だが、戦国最後の英雄、真田幸村は官職では左衛門佐。

 

何故頼朝が激怒したのか、分からない人もいるかもしれない。

こう考えれば分かり易い。頼朝は後白河法皇を利用し、巧みに関東武士の地位・権益を認めさせようとしていた。

 

そんな最中、相手から恩賞・褒美を貰えばどうなるか。世間は、相手の軍門に降ったと見做す(懐柔された)。

因りによって、弟の義経がしたのであれば尚更。他の者に対し、全く示しがつかなくなる。

 

案の定、義経の動きに追随。法王から官職をもらう人間が続出した。

頼朝は怒り、官職を受けた人物のリストを見た後、該当する人間を御家人の資格を剥奪した。

 

何故剥奪したのか。それは頼朝の指示なく、他の組織から恩賞を貰った為。

ヤクザの世界で言えば、「絶縁」だろうか

 

分かり難いかもしれないが、組織を束ねる為に必要なものは、人事権と賞罰権(論功行賞)。

義経は所属している組織、つまり関東武士団(頼朝)と違う組織から恩賞を貰った形となる。

 

現代政治も同じ。政権を運営する与党を束ねる為に必要なものは、人事と金(金庫)を握る事。

政党で云えば、幹事長になる。幹事長が政党の人事権と党費を掌握している事を見れば、理解し易い。

 

義経は関東武士の棟梁である頼朝の意向を、全く無視した形となった。頼朝が激怒するのは無理もない。

しかし義経は兄頼朝が激怒した理由を、全く理解できなかった。

 

これが義経の政治性の無さ、周りに的確な助言をする参謀的人物がいなかった不幸と言える。

有名な側近「武蔵坊弁慶」がいたが、弁慶は所詮武闘派であり、頭脳的要素は欠けていた。

 

更に義経は、梶原景時の讒言と思い込んでいた。義経を見ていると、何か関ヶ原での小早川秀秋に似ている。

秀秋は朝鮮出兵では、石田三成の讒言で減封を喰らったと逆恨みした。実際は明らかに、秀秋の力不足だったが。

 

挙句に関ヶ原では西軍を裏切り、東軍に勝利を齎した。

只し義経と秀秋の決定的な違いは、義経は軍事的天才だったが、秀秋は軍事・政治の両方が劣っていた。

 

頼朝は義経を自分の名代から外し、平家から奪い義経のものとなっていた土地を没収した。

つまり、軍事権と恩賞を剥奪した。

ここに至り義経は、兄頼朝と戦う決意をした。義経は頼朝と戦う為、後白河法皇に院宣を求めた。

法皇は渋った。しかし最後に院宣を認めてしまった。

 

院宣を貰い兵を募ったが、兵は集まらなかった。

平氏を討つ時は関東武士団の棟梁の名代であったが、解任された今では、既に武士の地位・利権を守る名代ではない為。

単なる義経の私軍である為、恩賞などの見込みがなかった。

 要するに人間は、タダでは動かないと言う事。 

 

前述した重要な点、頼朝がどうして武士の代表である「棟梁」に担がれたのか。

それは当時冷や飯を喰っていた武士団が、自分達の地位向上・待遇改善を達成する為、頼朝を神輿として担いだ。

決して頼朝の力だけで棟梁になったのではない。

だから頼朝は法皇の再三の上洛の要求にも応じず、関東で徐々に武士の権利を法皇に認めさせ、着実に武士団の支持を集めた。

 

今の義経には、武士団の地位向上・利権獲得をする要素は何もない。当然味方する武士はいなかった。

義経は一旦都落ちを決意。源氏の影響が薄い九州で兵を募る計画を立てた。

何か皮肉な事に、自分が平氏打倒の時とは立場が逆転したと言える。

 

しかし人間一度ツキがなくなれば、とことんツキがなくなる。船で九州を目指したが、途中大嵐に遭い、部隊は全滅。

仕方なく北陸路を通り、嘗て幼少の頃、世話になった奥州藤原氏を頼り、生き残った一行と奥州を目指した。

 

※逃亡の途中、歌舞伎の十八番で有名な「勧進帳」が生まれたのも此の時。

加賀国「安宅の関」で富樫氏の尋問にあい、弁慶が泣く泣く主君の義経を金剛杖で叩いた逸話。

 

こうなれば立場は逆転。頼朝は反対に義経討伐の院宣を法皇を求め、認めさせた。

更に重要な事は、法皇に各国に「守護・地頭」を置く権利を認めさせた事。

 

頼朝は謀反人を取り締まる目的で追捕使を設置したが、今度は武士団(後の幕府)の権限による設置を認めさせた。

追捕使は後に守護となった。守護は警察のようなもの。

地頭の主な役割は、年貢・兵糧の取り立て。

 

守護・地頭設置の権利を得たのは武士としては初めて自分達の権利を認めらた結果となり、画期的な出来事だった。武士団の戦略勝ちと言っても良い。

武士団が頼朝を担ぎ、権利を認めさせた末の勝利と言える。

「日本一の大天狗」と云われた後白河法皇も、頼朝にまんまとしてやられた。

その後の義経と頼朝

奥州に逃れた義経は、「藤原秀衡」の庇護を受けた。

秀衡も平家が倒された後、矛先が自分に向くであろうと予測。あわよくば義経に兵の指揮をまかせ、頼朝に対抗する心算だった。

 

しかし秀衡は義経が奥州に来て、数ヶ月後に亡くなった。死因は不明。

しかも急死だった。何か陰謀の匂いを感じなくもない。

 

秀衡の跡は子である、泰衡が継いだ。泰衡は父秀衡とは異なり、中央政府と鎌倉側に恭順の意を示した。

恭順の意を示す為、匿っていた義経一行が邪魔になった。邪魔と感じた泰衡は軍を差し向け、義経一行を襲った。

 

多勢に無勢。軍事的天才の義経もとうとう討ち取られ、非業の最後を遂げた。壇之浦から僅か4年後の事だった(1189年)。

義経を裏切った泰衡も僅か数ヶ月後、頼朝軍に攻められた。

権勢を誇った奥州藤原氏は、あっけなく滅びた。

 

一方頼朝は奥州藤原氏を滅ぼした後、1190(文治元)年、京にて後白河法皇と対談。

法皇に武士に有利となる権利を、次々と認めさせる。

 

各権利とは、前述の通り。

頼朝は上洛後、「右近衛大将、権大納言」職に任命された。しかし僅か3日後、辞官する。

理由は、義経と同様。官位を貰えば、貰った者の臣下となる事を意味する。

 

戦国時代の織田信長も全く同じケース。足利義昭が信長に副将軍に地位を与えると言ったが、信長は固辞している。

更に朝廷が室町幕府滅亡後、信長に右大臣職を授与したが、信長はこれも直ぐに辞退している。

本能寺の変の当時、信長は無位無官だった。

 

義経の死後、其の後を簡単に振り返ったが、改めて頼朝が行った事を纏めてみたい。

頼朝の行った事は、武士の悲願であった地位向上と権益拡大を果たした。

 

具体的には、自分達の領土所有権が認められた事。自分で開墾した土地を、明確に自分の領土であると認められた事。

頼朝を棟梁に担ぎ出した関東武士団は、目論見が達成された。

政治機構の一員として、武士が認められた瞬間でもある。

 

しかし頼朝は明確に、関東独立を唱えなかった。今回の議題は、「頼朝と義経の対立」。

詳細は省くが、義経死後の頼朝の詳細な動きは、また別の機会にしたい。

 

政治とは所詮、利権とエゴの拡大。それは今も昔も変わらない。

利権の拡大が主な目的。頼朝は関東武士団の後ろ盾があった為、達成された。

 

戦国時代に織田信長が何故、延暦寺を焼き討ちしたか。

それは当時の寺社勢力は既得権益の塊であった為。延暦寺はその象徴とも言えた。

 

信長の行った事は、既得権の打破。

つまり既得権益で苦しんでいた多くの人間の支持を得たのは間違いない。

 

「楽市・楽座」も同じ。利権集団の座を解体。誰でも自由に商売ができる様にした。

同様に、頼朝は武士達の悲願を叶えた。因って各武士団が挙って頼朝に支持・味方した。

頼朝の誤算

武士団の願いをほぼ叶え、絶頂期であったが、頼朝は一つミスを犯した。

それは嘗て藤原氏・平清盛が行ったように自分の娘を入内させた事。

※参考までに江戸時代の話になるが、二代目将軍秀忠も自分の娘を無理やり天皇に入内させている。

 

結局頼朝も昔は京の生まれで、伊豆配流になるまで京で育っていた為、京の風習が抜け切らなかった。

いくら幼少期に伊豆に流され、関東武士に担がれ棟梁となっても、やはり京が心の拠り所と思われた。

 

しかしこれは関東武士にとり、裏切りに等しい行為。

自分達が担ぎ挙げたお殿は辞官したが、朝廷に屈したと同じ意味を持つ。

 

皆様、唐突だが頼朝の死が何か、ご存じであろうか?

あまりしられていないが、意外にも「落馬」。

稀代の英雄としては、まさにあっけない死。それも突然。それ以上詳しく述べた資料は見当たらない。

1199(正治元)年1月、享年53歳。

 

頼朝の死後、将軍は三代続くが、三代将軍「源実朝」の暗殺後、ほとんど空席か、いても傀儡将軍に過ぎなかった。

将軍は不在だが、鎌倉幕府は何故100年以上も続いたか。

それは執権と呼ばれる「北条氏」が事実上、幕府の実権を握っていた為。

 

朝廷が事実上、幕府に屈したのは何時か。

それは1223年(貞応2)、承久の乱で幕府側が朝廷に勝利した以後と思われる。

承久の乱以後、幕府の実質的支配が完了。武士の悲願が叶ったと言える。

 

つまり棟梁であった頼朝も所詮、武士団に担がれた頭目に過ぎない。

頭目が組織の事を考えず、自己保身に走れば、組織を形成する人間達から抹殺されるか、地位を追われる。

頼朝は自己保身に走った段階で、歴史的役目を終えた。

 

同例として、関ヶ原の戦いでの石田三成も似た動きをした。

「東軍の家康は大垣城を攻めず素通り。大坂を目指し、石田三成の居城佐和山城を攻める」

と家康が流言飛語を放った際、三成は佐和山城が心配の為、一時関ヶ原の戦場を離脱した。

他の将の士気に影響したのは、云うまでもない。其れが後の戦いの裏切りを招いた遠因とも云える。

 

参考までに義経と最後までソリが合わなかった梶原景時は、1199(正治元)年1月の頼朝の死後、同年12月に失脚。

翌年1200(正治2)年1月、謀反の罪で処刑された。

まさに平家物語の「盛者必衰」と言えよう。

最後に

歴史とは不思議なもので、時代の流れにそった時、一人の英雄が誕生する。

しかし歴史的役目を終えた途端、不思議とその英雄も歴史の闇に葬られる。

 

織田信長も然り。時代が求めた英雄だが、役目を終えれば歴史の表舞台から、あっさり退場する。

信長を抹殺した明智光秀も全く同じ。

 

江戸時代の幕藩体制では御家存続の為、殿としての素質に欠ける人物と家臣が認めれば、家臣が無理やり殿を隠居させてしまう事例がある。「主君押込」と云われる。

当時としては徳川幕府に睨まれ、お家断絶になる事が家臣・郎党には大問題だった。何故なら失業して、路頭に迷う為。

頼朝の場合も、押込に近い暗殺だったのではなかったかとの推測もなり立つ。しかしあくまで推測の域でしかないが。

 

こう考えてみれば結局、頼朝も義経も所詮武士団の為に働く、一つの駒に過ぎなかったと云える。

歴史的に見れば、確かに英雄だが。

 

長い歴史を振り返れば、各時代で英雄と呼ばれる人物が誕生する。

しかし歴史の流れを見れば「時代が欲した英雄」であるが、歴史的役目を終えれば、たいがい歴史の表舞台から消える。

今回、頼朝・義経の対立を眺めた時、しみじみ歴史の深さを感じた。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献

【逆説の日本史5 中世動乱編 源氏勝利の奇蹟の謎】

 井沢元彦作

(小学館・小学館文庫 2000年1月発行)