武家中心の社会を築いた『源頼朝』、「鎌倉幕府」の成立

★歴史人物紹介シリーズ

先日ブログ閲覧数を確認した処、或るブログの閲覧数が急激に伸びている事に気づきました。

そのブログとは、

3年前書いた「源頼朝は平家滅亡後、何故源義経を討伐したのか」。

 

理由を考えた末、或る事実に気づきました。

それは今年のNHK大河ドラマで、「鎌倉幕府」が題材に上がっている事に。

 

今更と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、今回それ程、私自身ノーマークでした。

検索されたキーワードを調べれば、「平家滅亡の原因」と云う言葉である事が判明。

今回それにあやかり、鎌倉幕府の成立と源頼朝を取り上げたいと思います。

 

尚、今回は主に源頼朝を中心に、第一弾。第二弾として頼朝の妻、『北条政子』を予定しています。

 

参考までに、上記のリンクを貼ります:源頼朝は平家滅亡後、何故源義経を討伐したのか

 

経歴

・名前    源頼朝、鬼武者(幼名)、鎌倉殿(別名)など

・生誕    1147(久安3)年(生)~1199(建久10)年(没) 享年52才

・家柄    源氏(清和源氏・河内源氏)

・主君    源頼朝

・親族    源義朝(父)、藤原季範の娘(母)、北条政子(妻)、頼家(子)、実朝(子)

・官位    従二位 

 

生涯

清和源氏、源義朝の三男として、尾張国熱田郡に生れる。

頼朝の母の実父藤原季範は、熱田神宮の大神宮と勤めていた。

父は清和源氏の祖となった、源経基の流れ。

 

父義朝が平治の乱で、平清盛に敗北。義朝は東国に逃げる途中、部下の裏切りで殺害された。

義朝の嫡男頼朝は近江国あたりで捕縛される。

 

本来ならば謀反者の子として処罰されるが、寸での処で助命。頼朝は伊豆(蛭ヶ小島)配流となる。

理由は後述する。頼朝当時、14才だった。

 

尚、頼朝がどうして伊豆に逃がされたのか?

それは頼朝の乳母「比企尼」の娘が、伊東の豪族「伊東祐親」の次男「伊東祐清」の許に嫁いでいた為と云われている。

 

頼朝の配流の近くに、後に鎌倉幕府成立後、執権として権力を振るう北条氏がいた。

北条氏は当時、北条時政が家督を継いでいた。時政には長女政子がいた。

 

頼朝は北条時政が大番役(都の警備)で伊豆を留守にしている際、政子と互いに心を通わす。

伊豆に戻った時政は、驚愕。無理やり政子を他の男(平兼隆)に嫁がせようとするも、政子が拒否。

政子は平兼隆の許を脱出。

当時、治外法権だった伊豆神社(別当寺)に逃げ込んだ。

 

政子は伊豆神社で、源頼朝と落ち合う。そのまま二人は夫婦となる。

頼朝は当時30才、政子は21才と云われている。

 

話は前後するが、頼朝は政子と結婚する前、実は伊東祐親の娘、八重と契りを結んだ。

頼朝当時20才頃と云われている。八重との間には、男も生まれた。

しかし八重の父伊東祐親は此の結婚に賛成せず、生まれた男子を殺害。

八重を無理やり、別の男に嫁がせた。

 

更に祐親は大番役で伊東を留守中、娘をたぶらかした頼朝を殺害しようとした。

当時の頼朝は成す術もなく、蛭ヶ小島に逃げ帰った過去がある。

 

因って政子との結婚は頼朝とり、二度目となる。

婚姻時は正確な資料は存在しないが、1177(治承元)年位ではないかと推測される。

因みに、翌年に長女の大姫が誕生している。

 

北条政子との婚姻後

政子との婚姻の3年後の1180(治承4)年、平家打倒の狼煙が上がった。

後白河天皇の皇子「以仁王」が、平家打倒の令旨を発令。摂津の源頼政が呼応する形で平家打倒の兵を挙げた。

頼政は全国の源一族に対し、「平家追討」を伝えた。

 

当然、源氏の棟梁だった義朝の嫡男頼朝の許に、平家追討の令旨が届いた。

当時頼朝、34才。伊豆に配流となってから、約20年の時が過ぎていた。

 

以仁王と源頼政の反乱はあっさり鎮圧された。

しかし此れをきっかけに源氏を始めとして、平家支配に不満を持っていた全国の武士は、平家打倒の動きをみせた。

反平家の動きは燎原の火の如く広まり、今後約5年続く、「源平争乱」の始まりとなる。

 

頼朝と北条時政

時政は以前も示したように、平家の家臣。

一方、婿殿である源頼朝は、反平家の狼煙を挙げた源氏の一族。

内心、時政の心は大いに揺れたであろう。

一歩間違えれば、天下の反逆人の義父をして一族誅殺は免れない。

 

政子の父時政は、平家の天下が長くは続かないと読み、頼朝に味方する事を決意。

時政は平家打倒を目指し、頼朝に加担した。

 

因みに、時政が平家打倒の決断した際、武士団の大庭景親・首藤経俊は、こぞって反対した。

「所詮、頼朝が平家打倒を唱えても、勝てる筈がない」と。

 

結論から述べれば、大庭景親、首藤経俊、平兼隆(政子の最初の結婚相手)、伊東祐親(頼朝の最初の結婚相手の父)等は頼朝に滅ぼされる羽目となる。

 

頼朝の敗走

北条時政の支援を受けた頼朝は先ず、嘗て妻政子の初めの嫁ぎ先だった平兼隆を夜襲した。

夜襲は見事に成功。頼朝は緒戦に勝利した。時は1180(治承4)年8月の事だった。

 

緒戦に勝ち意気揚々とした頼朝だったが、頼朝は平家から正式に源氏を討てと命令を受けた大庭景親との大軍と石橋山で戦った。

 

結果は、頼朝の惨敗。大庭景親の軍に加え、伊東祐親軍が加勢。

頼朝は命からがら、箱根権現に逃げ、其の後舟にて安房に逃げた。

 

普通であれば、此処で頼朝が討ち取られ、後の鎌倉幕府は存在しなかったかもしれない。

頼朝は父義朝が平治の乱で平清盛に敗れた後、清盛の父忠盛の後妻(池禅尼)の助命を受け、死罪を免れた。

 

因みに、池禅尼が何故頼朝の助命を清盛に嘆願したのか。

それは嘗て「若死にした我が子と、頼朝が似ていたから」との理由だった。

 

後の歴史を振り返るのであれば此の時、池禅尼の助命嘆願を聞かず、頼朝を死罪にしていれば、平家の滅亡をなかったかもしれない。

それは腹違いの弟義経にも言えるが。

 

兎にも角にも、頼朝はこの時も死地を免れ、安房に逃げた。

稀にみる、幸運。英雄は必ず偶然とも云える幸運に恵まれる事がある。

 

桶狭間の織田信長。本能寺の変後の羽柴秀吉。同じく、関ヶ原での小早川秀秋の裏切りによる東軍の勝利(徳川家康)も然り。

やはり天下を取るには、「運の強さ」も必要。

 

安房に逃げた頼朝は味方に付いた平広常の勢力圏で兵を募りながら、再び西に向かった。

途中で平広常の大軍と合流。漸く、まともに戦える兵力となる。

その後頼朝は天嶮の要害、鎌倉に本拠地を構え、徐々に関東の地盤を固めていく。

 

富士川の戦い、義経と面会

以後頼朝は鎌倉に拠を置き、関東の地盤固めに勤しんだ。

頼朝が関東の地盤固めを正式に聞いた都の平家は、正式に頼朝追討の兵を挙げた。

 

総大将は清盛の孫、平維盛(これもり)だった。

清盛の嫡男重盛(しげもり)は、前年に病で亡くなっている。

 

清盛も石橋山の戦いで頼朝が敗れた為、自ら出馬する必要もないと判断。

実戦経験のない孫の維盛で充分と思ったのだろうか。

 

総大将維盛の軍は、頼朝を棟梁として仰ぐ軍と富士川で対峙した。

有名な話だが、維盛の軍は水鳥の羽音に驚き(伏兵がいると勘違い)、全軍総崩れとなった。

此れは頼朝が挙兵してから、僅か二か月後の事である。

 

其の後頼朝軍に幼少の頃、頼朝と同じく鞍馬寺に預けられ、後に脱出。

奥州藤原氏に匿われていた腹違いの弟、源義経が頼朝軍に加わった(駿河国黄瀬川あたり)。

 

稀代の英雄、清盛の死

頼朝が挙兵した半年後、1181(治承5)年、稀代の英雄、平清盛が64才で亡くなった。

清盛は高熱に冒され、あっけない最後だったと伝えられている。

俄に平家の行く末に、暗雲が立ち込めてきた。

 

頼朝は軍事指揮では天才的才能を発揮した源義経を、平家打倒の総大将に任命した。

義経は天才的力を遺憾なく発揮した。

 

同時に甲斐の武田信義、安田義安が頼朝に味方。関東の有力な武士団が頼朝に味方し、ほぼ関東の地盤を固めた。

その間、頼朝の挙兵に反対した大庭景庭、伊東祐親は滅ぼされた。

 

一方、平家は清盛の死後、屋台骨を支える人間がいなく、凋落の一途を辿った。

此れは生前の清盛の行いだが、清盛は都を一時福原(今の神戸)に、半年ほど移した。

福原遷都は天皇を始めとして、公家・寺社たちから非難轟轟。

 

此れも結果的に、平家没落を早めた原因となる。

他に南都、奈良の大仏を焼き付くなど、平家は失策を行った。

 

平家、都落ち

栄耀栄華を極めた平家だったが、1183(寿永2)年、頼朝と同じく以仁王の令旨を受けていた、木曽義仲が上洛。

平家はとうとう都を捨て、地盤の多い西国に落ちていった。

 

平家を追いやり上洛した木曽義仲は、朝廷から官位を拝命した。

流浪人だった義仲が、正式に朝廷の臣下となった。

だが義仲は著しく、人気を落とすヘマをした。

上洛した義仲軍は此れで目的が果たせたと思い、都で略奪を始めた。

 

所詮は、寄せ集めの軍勢。

平家が都からいなくなれば、今度は自分達が良い目をみようと思うのは当然の事。

義仲軍は統制を失い、忽ち都の人間からの支持を失った。

 

義仲の失墜と、頼朝の台頭

上洛した義仲は、後白河法皇と皇位継承権で対立した。

現天皇は前高倉天皇と、清盛の娘(建礼門院徳子)との間に生れた、幼少の安徳天皇だった。

平家は安徳天皇と供に、三種の神器を従え、都落ちした。

 

三種の神器と言えば、現在でも天皇が位に就く際、必要な神器。

当然、無ければ、正式な天皇と言えない。

しかしこの時は後白河法皇の無理やりのこじ付けで、自分の孫で一番下の皇子を、天皇の位に付けた。

 

これが三種の神器なしで即位した、初めての天皇。

因みに此の天皇は、「後鳥羽天皇」。

後鳥羽天皇は後の話に深く関わる為、是非記憶して頂きたい。

 

何故義仲と後白河法皇が、皇位継承を巡り対立したのか?

それは当時義仲が平家打倒の狼煙を挙げた以仁王の子を庇護していた為。

 

上洛後、義仲は当然の如く、平家打倒の功労者となった故以仁王の遺児が、皇位に就く事を主張した。

一方、後白河法皇は、以前保元の乱を紹介した際に説明したように、稀にみる自分勝手で我儘な人物だった。

 

後白河は平家を都から追放した功績は認めたが、皇位継承は自らの直系の孫である事を主張した。

対立は当然の成り行き。

前述した義仲軍の略奪、皇位継承での争い等で、義仲軍は次第に後白河から見放される結果となった。

 

後白河は先に上洛した義仲を見捨て、東国で地盤固めをしていた頼朝に密使を送った。

密使の要件は、義仲軍を逆賊と見做し、頼朝(関東武士団)が義仲軍を討てとの事。

 

此れが「天下の大天狗」と云われた、後白河法皇の小狡い処。

まさに自分勝手で、我儘と云われる所以。

 

後白河法皇に関して説明した保元の乱について、リンクを貼っておきます。

武家台頭のきっかけとなった、皇位継承争い『保元の乱』

 

木曽義仲は西国落ちした平家を追討する為、都を留守にした。

義仲軍は備中(現在の岡山あたり)で、平家軍と遭遇。都落ちした平家軍に敗れた。

 

不思議なもので、人間は一度勢力を失うと、坂を転がり落ちるように没洛の一途を辿る。

義仲も平家軍に敗戦後、鎌倉から義仲追討として派遣された義経軍にあっけなく敗れ、成敗された。

 

木曽義仲、平家打倒の令旨を受け、僅か4年後の1184(寿永3)年、無念の死を遂げた。

享年30才と云われている。

 

義経、連戦連勝。そして平家の滅亡

頼朝から平家打倒軍の総大将に任命された義経は、其の後各地で連戦連勝を重ねた。

有名な戦いでは、「一の谷の戦い」、「屋島の戦い」。

平家物語でも有名な下りだが、総大将の義経が奇襲を決行。見事、平家軍を打ち破った。

 

そして平家滅亡となった本州の南端、長門の「壇ノ浦の戦い」。

壇ノ浦の戦いは1185(元暦2)年、旧暦3月の事。

壇ノ浦は屋島の戦いから、僅か一ヵ月後の事だった。

 

本当に平家物語の初めの件が頭に浮かぶ。

「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり~」で始まるあの件。

 

1180年、平家打倒の動きから約5年後、権勢を誇った平家は、壇ノ浦で滅んだ。

安徳天皇は清盛の未亡人に抱かれ、海に沈んだ。

当時生き残っていた主要な平家一族は、入水自殺した。

 

清盛の娘で安徳の母(徳子)は、入水自殺を遂げようとしたが、源氏の兵に生け捕りとなった。

徳子は後に滅んだ平家一族を供養するとの名目で尼となり、建礼門院と称した。

5年をかけ全国を二分した「源平争乱」は、此処で幕を閉じた。

 

平家滅亡後、頼朝と義経の対立

今回の冒頭にも説明したが、今回のブログを書くきっかけとなったのは、思いがけず以前紹介したブログ「源頼朝は平家滅亡後、何故源義経を討伐したのか」の閲覧数が伸びた為。

詳しい内容は既に過去のブログに述べている為、詳細は省きます。

 

要点だけ述べれば軍事面で優れていた義経だが、政治面に於いて、全く頼朝の意思を理解していなかったと云える。

両者の対決は決定的なものとなった。

 

例の如く「大天狗」と云われた後白河法皇は初め、義経に対し頼朝を討てとの院宣を出した。

何故後白河は頼朝討伐の院宣を義経に出したのか?

 

それは日増しに勢いをつけた頼朝に対し、京の後白河法皇は良しと思わず、軍事指揮に優れた義経を使い滅ぼそうとした為。

 

人間とは不思議なもの。

初めは自分の目的の為に人を利用するが、目的が達せられれば、今度は協力した人間が邪魔になる。

此れは後の鎌倉幕府成立後、全く同じ事が繰り返される。それは後述するが。

 

頼朝と義経が対立するのは、平家が滅んで僅か二か月後の事だった。

本当に歴史は「あざなえる縄の如し」と言える。

後白河法皇から院宣を貰った義経は、一旦兵力を蓄えようと関東から遠い九州を目指した。

 

処が木曽義仲と同様。一旦ツキが無くなった人間は、とことんツキがなくなる。

海路にて九州を目指した義経軍は、嵐に遭い壊滅状態となる。

 

九州を目指す事もできなくなった義経は雌伏の時、匿って貰った奥州藤原氏を援助を得る為、奥州を目指した。

此処で有名なのが、歌舞伎でも十八番とされる「勧進帳」。

勧進帳とは寺社の修復などの為、寄付を募る文書をかいたもの。

 

話の舞台となるのは、加賀国小松の「安宅の関」。

安宅の関で山伏一行に扮した義経たちが、関守に富樫左衛門に詰問され、家来の弁慶が疑いを晴らすため、泣く泣く主の義経を金剛杖で打つシーン。

関守の富樫は義経一行を分かっていたが、弁慶の姿に心を打たれ、義経一行を見逃すという有名な話。

その話から推測するに、おそらく義経一行は北陸路を通り、奥州に逃げたと推測される。

 

義経の滅亡

義経が奥州藤原氏に匿われていると知った頼朝は、朝廷に奥州藤原氏に対し、義経追討の宣旨を出させた(1188年、治承4)。

当時奥州藤原氏は前年、義経を幼少期から庇護していた秀衡から、泰衡に変わっていた。

泰衡は父秀衡を異なり、義経より朝廷・頼朝側に対し、恭順の姿勢を示した。

 

その為泰衡は、義経を討つ決意をする。

1189(治承5)年、泰衡は衣川館の義経を攻め、義経一行を自害に追いやった。

この時有名な「武蔵坊弁慶」は、立ち往生した。

 

一方、義経が流浪から追討されるまで、頼朝は何をしていたのか。

頼朝は義経追討を後白河法皇に迫り院宣を出させると、義経追討の名目で各地に、「守護・地頭」を設置する権利を迫った。

その際、頼朝の代理として「北条時政」が兵を率い、上洛。

朝廷に圧力をかけ、1185(文治元)年、正式に守護・地頭を設置する権利(当時は、惣追捕使)の勅許を得た(文治の勅許)。

頼朝は武士団の権利向上を、着々と朝廷に認めさせた。

 

奥州藤原氏の滅亡

頼朝の圧力に屈し、義経を討った泰衡だが、頼朝は藤原氏の存在を疎んじ、正式に奥州藤原氏の討伐を決定。実行した。

義経滅亡から約5ヵ月後、奥州にて名を馳せた藤原氏は、頼朝軍に攻められ、滅亡した。

逃げる泰衡は、最後は家臣の裏切りにあい、命を落とした。

まさに、あっけない最後を遂げた。

 

頼朝、満を持して上洛

義経・奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、翌年の1190(建久元)年、自ら兵を率い、上洛した。

平家打倒に兵を挙げ、10年の歳月が流れていた。

 

頼朝は上洛後、約一ヵ月の滞在中、後白河法皇・後鳥羽天皇と暫し対談した。

上洛中、頼朝は正式に右近衛大将兼、権大納言を朝廷から任命された。

頼朝は一度は正式に官職を得たが、数日後、辞任した。

 

おそらく頼朝の腹には、朝廷の臣下となる官職ではなく、更に高い官職を望んだのであろうと思われる。

その更に上の官職と云えば、征夷大将軍。つまり、幕府を開く権利を求めたと云える。

此れは後に現実となるが、それは約二年後の事。

 

源頼朝、征夷大将軍となる

頼朝の上洛から二年後。頼朝の征夷大将軍に就任する事に反対していた後白河法皇が死去。

其の四ヵ月後、後鳥羽天皇より征夷大将軍に任命された。

尚この年、後の三代将軍となる「実朝」が誕生している。

 

此れを以て江戸の幕末まで続く約700年の間、武家を中心とする社会が形成された。

頼朝の功績は、明治維新まで続く「武家社会」の基を築いた人物だと云える。

皆様は社会科の教科書で、「いいくに作ろう、鎌倉幕府」。1192年、鎌倉幕府成立と学んだ人も多いと思う。

私自身も、そう教えられていた。実際、鎌倉幕府が成立したのは、平家が滅び、義経追討の令旨が出されたあたりと思われる。

 

だが正式な事象が明確でない為、おそらく鎌倉幕府の成立は、頼朝が征夷大将軍に任命された年としたのであろう。

その方が史書をかく上で、便利だった推測される。

私も便宜上、鎌倉幕府の成立は、1192年とさせて頂く。

 

大姫の入内騒動

征夷大将軍に任命され得意の絶頂にあった頼朝だが、頼朝は晩年、過去の権力者が行った出来事を、自らも行おうとした。

それは藤原氏、一つ前の武家平家が行った、自分の娘の入内(天皇家に嫁入りさせる事)である。

 

此れは江戸時代初期、二代目将軍秀忠もした行為である。

やはり権力者となった人物は、今度は「権威」を欲しがるのであろうか。

よく言われるが「権威」と「権力」は、似て非なるものである。

 

此の行為には、流石に頼朝を武家の棟梁として仰いでいた主に関東の武家団から、反発を喰らった。

平家が摂関藤原家を真似、貴族化しようとして失敗した事。

 

然し計画は実現しなかった。

実現しなかった理由は、入内する直前の1197(建久7)年、頼朝の娘大姫が病死した為であった。

 

いつも思うが、あまりにも突然の大姫の死。以前も述べたが、歴史の合間に何か人物の突然死がある。

何か意図的な死とも、言えなくはない。つまり暗殺ではないかとの疑いが持たれる。

 

更に入内しようとした後鳥羽上皇が、退位。親王の土御門に位を譲り、自らは上皇となった。

此れも第二弾で話す予定の、「承久の乱」の遠因と云えるであろう。

兎にも角にも頼朝は、娘を入内させようと試み、少なからず武士団(御家人)の支持を失った。

 

何故棟梁だった頼朝が、支持を失ったのか?

思い出して頂きたい。頼朝は平家打倒の狼煙が上がった時、近衛兵とも云える直属の兵を持っていなかった。

平家打倒の挙兵は当時頼朝に味方した、ごく少数の武家団に担がれ兵を集める事ができた。

それはやはり嘗て源氏の嫡流だった父義朝の息子をいう、「錦の御旗」があった為。

 

その錦の御旗の許に、徐々に関東武士団が終結。

其の後、弟義経の活躍もあり、見事平家打倒を果たした。

つまり社会参加の権利拡大を目指した、武家団の神輿に担がれ、平家打倒の中心人物になったに過ぎない。

 

実際平家打倒に動いたには、頼朝の舅である北条時政などの、関東を中心とした武家団。

担がれた人物が本来の役目を果たさず、己の意思で動くようになれば、一体どうなるのか。

自ずとその人物は、支持層から用済みとなる。

 

それが果たして現実だったのかどうか知らないが、後に頼朝は歴史の役目を終えるかのように、突然死と云える不可解な死を遂げる。

 

頼朝の死去

1199(正治元)年、頼朝が死去した。原因は「落馬」との事。

そう云えば不思議と頼朝の死は、何故か皆に知られていない。

例えば歴史に名を馳せた人物であれば、人々の記憶に残っているものと思われる。

 

戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、そして信長を討った明智光秀等。

頼朝の死の原因とされる「落馬のよる死」は、武士として恥とされるからだろうか。

落馬の死が恥と思われ、あまり記載されていない或いは喧伝されていないとすれば、そう思わなくもない。

しかし、果たして本当にそうなのだろうか。

武士としての嗜みがある頼朝が、本当に落馬によるあっけない死を遂げたのか。

甚だ、疑問。

 

頼朝は1198(建久9)年の暮に体調を崩し、翌年の1199(建久10)年1月、死去した。

疑いたくなるような稀代の英雄「源頼朝」は、52年の生涯を閉じた。

 

頼朝の死去後

頼朝の死去後、将軍職は息子頼家が継いだ。

次回のブログにも繋がるが、二代目頼家は初代頼朝より力量が足らず、御家人達の反乱を招いた。

幕府の実権は、頼朝の妻政子の実家「北条家」が握った。

北条家は権勢を振るい、頼家を幽閉。二代目将軍の座から引きずり下ろした。

 

其の後、三代将軍には頼家の弟実朝が継いだが、実朝は後に頼家の子「公暁」に鶴岡八幡宮で暗殺されている。

鎌倉幕府は初代頼朝から数え、三代にて滅んだと云える。

 

しかし何故その後も鎌倉幕府は存続したか。

それは前述した幕府では「執権」と呼ばれ、職を世襲した「北条家」が権力を握ったからである。

 

その経緯は次回のブログに譲るとして、今回は主に源頼朝を中心とした、「鎌倉幕府」成立を過程を、皆様に紹介した。

此れで今回は幕を閉じたいと思う。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献一覧

【逆説の日本史5 中性動乱編】源氏勝利の奇蹟の謎 

 著者:井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2000年1月発行)