機を見るに敏 見事な遊泳術『細川藤孝:幽斎』

今回は戦国時代屈指の気をみるに敏な武将?(文化人)を取り挙げてみたい。

名前は「細川藤孝」、または「細川幽斎」と呼ばれている。

 

・名前    細川藤孝、長岡藤孝、細川幽斎

・生涯    1534年(生)~1610年(没)

・主君    足利義輝→足利義昭→織田信長→羽柴秀吉→ 徳川家康 

・家柄    三淵→細川→長岡→細川

・官位    従五位下、兵部大輔→従四位下 、侍従

・縁者    細川忠興(嫡男)・興元・伊也、尚、孫忠隆は廃嫡。同じく孫興秋は出奔。

 

経歴

1534(天文3)年、幕府奉行衆三淵晴員(はるかず)の次男として、京都東山に生まれる。

一説では、室町第12代将軍「足利義晴」の四男とも云われているが定かではない。

 

1538(天文7)年、第12代室町幕府将軍、足利義晴に謁見。

翌年6歳にて、幕臣細川元常(伯父)の養子となっている。幼名「万吉」。成長後「与一郎藤孝」と名乗る。

義晴の死後、第13第将軍足利義輝に仕え、1553(天文22)年、従五位下・兵部大輔に任じられる。

将軍義輝に仕えた際、名を「藤孝」と改めている。

 

1565(永禄8)年、将軍義輝が松永久秀と三好三人衆に暗殺された際、義輝の弟「覚慶」を興福寺一乗院より救出。

隙をみて一条院を脱出。近江・若狭を経て、越前朝倉義景の食客となる。覚慶は還俗して、「義昭」と名乗る。

やがて義昭は。朝倉義景が上洛の意図がないのに見切りをつけ、新興勢力の尾張織田信長を頼った。

 

織田信長は義昭の求めに応じ、義昭と面会。1568(永禄11)年、足利義昭を奉じ、上洛する。藤孝は義昭に仕え、行動を共にする。

其の後信長と義昭との関係が悪化。この頃藤孝は、越前時代一緒だった明智光秀と供に義昭の許を離れ、信長の家臣となる。

 

やがて1573(天正元)年の義昭追放後、信長に仕え、明智光秀と供に丹波・丹後を攻略。

戦功により丹後一国を与えられ、宮津城の城主となる。

信長の家臣時代は、「長岡藤孝」と名乗っている。

 

将軍義輝の暗殺

経歴でも述べたが1565(永禄8)年、幕府管領細川家の家臣三好家の三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友道)・松永久秀は、突如第13代足利義輝の邸宅を襲撃した。

将軍義輝は天下の宝刀を地中にさし、応戦したが(義輝は将軍としては珍しく、剣の達人だった)、何せ多勢に無勢。

とうとう討ち取られてしまった。藤孝は第12代将軍義晴の側近として仕えていたが義晴没後、義輝に仕えていた。

 

久秀・三好三人衆は義輝暗殺後、義輝の弟たちの殺害を企んだ。三男「周暠」は僧籍であったが、殺害された。

次男「覚慶」は出家して、大和の興福寺の門跡となっていた。興福寺は天皇家・藤原家との縁が強く、流石の非久秀も手が出せなかった。

手が出せなかったが久秀は、覚慶を興福寺から出さないように監視した。

 

覚慶(後の義昭)を連れ、一条院を脱出

久秀に監視された覚慶は、実質軟禁状態だった。軟禁状態だった覚慶を興福寺から連れ出したのは、藤孝である。

藤孝は覚慶を引き連れ、近江甲賀の和田惟政宅に隠れる。和田惟政はおそらく忍びと思われる。覚慶はその後、還俗。

正式に室町幕府将軍を目指す。還俗後、「足利義昭」と名乗る。義昭は自分を庇護、京にいる兄を暗殺した賊を撃つ大名を探した。

色々な大名に庇護を求めたが、なかなか義昭に求めに応じる大名はなく、最終的に越前の「朝倉義景」を頼った。

 

義昭が朝倉義景の許に赴いたのは、どうやら明智光秀の働きによるものと思われる。明智光秀は、斎藤道三が嫡男義龍に討たれた後、各国を放浪。

いつの間にか朝倉義景の家臣となっていた。放浪時代、京にて義輝の側近細川藤孝と何らかの繋がりが出来たのであろうか。

兎に角、義昭は朝倉義景を頼り、越前に赴いた。

 

越前で朝倉義景の庇護を受けていた義昭であったが、義景は一向に義昭の上洛の為の兵を上げようとしない。

痺れをきらした義昭は、藤孝・光秀の勧めにより、近年メキメキ力をつけ、美濃を攻略した尾張の織田信長を頼る事にした。

信長との橋渡しをしたのも、「明智光秀」と言われている。

光秀は当時美濃を制圧。本拠地を清洲から岐阜(稲葉山)に移した、信長に面会した。

信長は光秀の申し出を、心良く引き受けた。信長は日の出の勢いであったが、まだ新興勢力と見られ、織田家にはまだ権威がなかった。

織田家にない権威を、将軍家の末裔である義昭に求めた。この時期の信長・義昭は、互いに自分に不足したものを補う関係で協力した。

 

信長の力により、義昭は上洛を果たす

信長は越前から足利義昭を迎え、軍備を整え上洛する。

上洛まで北近江と南近江の道があったが、北近江の浅井長政は信長の妹「お市の方」を嫁がせ、同盟関係にあった。

京(山城)までの信長の上洛を邪魔する勢力は、南近江の六角氏のみだった。

一応六角氏は義昭(当時は覚慶)が興福寺から脱出する際、協力しているが、此れも戦国の習いであろうか。今は敵対関係となった。

義昭が信長と手を結んだ時、六角氏は信長に反旗を翻した。信長は六角氏の観音寺城を撃破する。

1568(永禄11)年7月、信長は足利義昭を奉じ、上洛を果たした。

義昭の上洛に伴い、藤孝も上洛した。

 

将軍義輝が久秀・三好三人衆に殺害され、京を抜け出してから3年の月日が流れていた。

信長が上洛するとの報を聞いた久秀と三好三人衆は、いち早く京から逃げ出した。

義昭は朝廷から正式な宣下を受け、第15代室町幕府将軍に就任した。

 

義昭が将軍に就任した為、ようやく藤孝の苦労が報われるかと思われた。しかし歴史はおいそれと、藤孝を安住させなかった。

原因は、将軍義昭と信長との関係の悪化であった。

二人は上洛後、初めはうまくいっていた。しかしその後、義昭のやり方と信長との間に齟齬が生じた。

 

結果、信長と義昭は対立状態となった。義昭は信長を追い落とす為、各大名に御教書(みきょうしょ)を送り、信長を撃てと命令する。

所謂「信長包囲網」である。凡そ1570年頃の話。

この話は以前、足利義昭を紹介した際、詳しく述べている為、今回は省略する。

※参考:陰謀将軍暗躍 『足利義昭』

 

藤孝はそれまで二者の間をうまく取り持っていたが、次第に義昭から離れ、信長の家臣になる事を決意する。今後義昭の許にいても、出世が望めないと感じたのであろう。

越前から藤孝と行動を共にした明智光秀も、どうやら義昭を見限り、信長に就くことを選択したように思われる。

義昭に仕えても、先が見えたと言う事だろうか。それとも義昭以上に仕えるべき人物(信長)を見つけたという心境かもしれない。

正式にはまだ義昭の家臣であったが、意識の中では既に信長の家臣となっていた。

 

義昭追放、藤孝は信長の家臣となる

信長と義昭の関係の悪化は頂点に達し、義昭は信長に反旗を翻した。

義昭が反旗を翻したのは、信長包囲網の中心的存在であった甲斐の武田信玄が1572(元亀3)年の暮、上洛の途に就いた為。

処が信玄は、年が明けた1573(元亀4)年、上洛の途中に病気でなくなる。武田軍の西進は中止された。

義昭は信玄が死んだのを知らず、挙兵した。

信玄死すの報を聞き、信長はすぐさま軍を率いて、義昭の反乱を鎮圧した。

一度は鎮圧された義昭であったが、7月に宇治槙島にて再び挙兵。しかし今回も信長に鎮圧される。

 

流石に二度も反乱を起こした義昭は、京から追放された。

1573(元亀4・天正元)年、此れをもって初代足利尊氏から15代続いた室町幕府は、事実上崩壊した。

藤孝・光秀は追放された義昭に従わず、そのまま信長の家臣として京に止まった。

 

義昭追放後

義昭追放後、藤孝は明智光秀の与力として活躍した。主に勝龍寺城を本拠地として各地を転戦した。

因みに義昭から信長の家臣となった証として藤孝は、細川の名を変え、「長岡藤孝」と名乗っている。

こう言う処も、なかなか強かと云える。信長の家臣となった事で恭順の意を示す事もあったかもしれない。

しかしなかなかゴマすりと云おうか、何気に藤孝の生き方が現れている。

 

藤孝はその後、いろいろ使える君主を変えているが、変わる度に見事な処世術で難所を切り抜けている。

気を見るのに敏とでもいえば良いのか。

 

光秀との関係

1573(天正元)年7月、嘗て主君であった義昭が京より追放される。その一ヵ月後の8月、信長は同じ嘗て足利義昭と供に藤孝が一時期世話になった、越前朝倉義景を攻めた。

信長の攻めで、一乗谷は落城。朝倉家は滅亡した。

同年藤孝は元主君足利義昭の許を離れ、一時期世話になった朝倉義景の滅亡を目撃した事になる。

何とも皮肉であろうか。

 

翌年の1574(天正2)年、藤孝は越前時代から関係があった光秀との関係を更に深める為、互いの子同士の婚姻を進めた。

4年後に結婚する二人の名は、藤孝の嫡男は「忠興」、光秀の三女は「玉」といった。

二人はあまりにも有名なので、後述する。

 

明智光秀、信長から丹波・丹後攻略を命ぜられる

1575(天正3)年、明智光秀は主君信長から波多野氏が治める、丹波・丹後を攻略するよう命ぜられる。波多野氏は一旦は信長に下ったが、後に離反。

光秀は丹波・丹後を攻略するのに、約4年の月日を費やした。藤孝はその間、与力として光秀を扶けた。

 

1578年(天正6)年、かねてから約束であった、藤孝の息子と光秀の娘の婚儀を執り行った。細川忠興・明智玉ともに、当時16歳だった。

同年、摂津有岡城の荒木村重が信長から離反する。

藤孝も信長に従い、村重攻めを行う。村重の謀判の理由は、いまだに謎。

 

信長は村重が籠る有岡城を鎮圧するのに、約一年の歳月を要した。

鎮圧はされたが、荒木村重本人の所在は不明。落城寸前、隠遁したと言われている。

参考までに村重の嫡男「村安」は、明智光秀の娘「倫子」を正妻としていた。しかし父村重が謀反の為、離縁している。

本能寺の変後、安土城を守っていた「明智秀満」は倫子の夫。秀満は、この時離縁された倫子の再婚相手。秀満は光秀の婿養子となる。

何やら光秀には、謀反の色合いが強いのかもしれない。

 

1582(天正10)年、本能寺の変

丹後・丹波を平定した功で藤孝は、丹後一国を与えられた。

本拠地を宮津に移した。藤孝が宮津に本拠地を移した後、主君信長は宿敵武田家を滅ぼす。

 

信長の天下統一は、目前かと思われた。春先に武田家が滅んだ同年夏(1582年)、戦国の世を揺るがす大事件が発生した。

藤孝が義輝の側近時代から知己の明智光秀が、主君織田信長を京の本能寺に滞在中、突如襲撃したのである。

俗に言う「本能寺の変」である。

これは主君信長は勿論の事、家臣一同も寝耳に水の出来事だった。

皆がまさかあの光秀が、といった感がしたと思われる。それ程、予想だにできない出来事だった。

 

藤孝は本能寺で信長が討たれたと聞くや否や、即座に髷(まげ)を切り、蟄居。幽斎玄旨と号し、家督を嫡男忠興に譲った。

藤孝の行動は謀反人光秀とは関係を断ち、光秀の与力でありながら従わない事を意味していた。

 

前述したが藤孝の嫡男忠興の正妻は、謀反人光秀の娘玉。光秀は当然、藤孝が自分に味方するものと思っていた。

しかし藤孝は予想に反し、光秀に味方しなかった。仲間に誘う光秀の使者との面会も拒んだ。忠興は光秀の娘玉を丹後の味土野に幽閉した。

 

光秀は完全に当てが外れた。供に辛酸を舐め、苦労した藤孝は必ず味方すると思っていたが、藤孝は光秀の協力を拒否した。

その時の光秀の心情を綴った手紙が残されている。内容は、

 

「この度謀反を起こしたのは、やむにやまれぬ行動の為。畿内(近畿地方)を平定した後、引退して忠興殿に天下を譲りたい」

 

と記されている。

悲痛な光秀の心の叫びとでもいうべきか。何か信長を討った後の、光秀の虚脱感が漂う。

 

光秀は信長を討つには討ったが、その後のビジョンがまるでなかった。

信長を討った後、どうするべきかと逡巡していた時、中国地方から戻ってきた「羽柴秀吉」にあっけなく討たれてしまった感じがしないでもない。

藤孝は「中国大返し」を成功させ、山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉に臣従。その後秀吉の家臣となった。

 

幽閉された玉は、2年後信長の後継者となった羽柴秀吉の許しもあり、幽閉を解かれる。

幽閉は解かれたが、細川玉は謀反人の娘と蔑まれ、監視つきの生活を余儀なくされた。

玉は世の中を儚み、当時流行したキリスト教に傾倒する。

キリスト教の洗礼名は、「ガラシャ:伽羅奢」。

 

玉は戦国時代、お市の方と双璧する美女と言われたが、運命もまたお市の方と同じように薄幸だったと言わざるを得ない。

それは後程また言及したい。何故なら藤孝の運命に翻弄されるかのように、ガラシャの運命も大きく左右される為。

 

本能寺以後の幽斎

幽斎は表向きは本能寺以降、隠居の身である為、左程目立った動きはない。

家督を嫡男忠興に譲っていた為、豊臣政権時には主に、忠興の働きが記載されている。

 

忠興は秀吉の小牧・長久手の戦い、九州征伐、北条氏の小田原に従軍したと記録されている。

秀吉の天下統一後、秀吉の外征(朝鮮出兵)に参加。現地に赴き、各地を転戦している。

 

父幽斎は寧ろ文化面に力を注いだと思われる。今迄言及していなかったが、幽斎は当時武人であると同時に文化人でもあった。

京で生まれ、公家に近いと言うのも影響したと思われる。若くにして歌道を志し、二条家正嫡流の奥義を伝授されている。

幽斎は、当時の古典・茶道・料理・音曲・有職故実などを究めた一流文化人だった。

この様な処は、伝統・儀式を重んじた明智光秀と似ており、互いに相通ずるものがあったと思われる。

幽斎の文化人ぶりが、後に幽斎自身を救う事になる。まさに「芸は身を助ける」の諺通り。

 

関ヶ原の戦い

豊臣政権は秀吉の死後、大いに揺れていた。以前も紹介したが、豊臣政権下では、武断派と文治派で激しい対立を繰り広げていた。

幽斎の子忠興は、武断派の筆頭に近かった。その為文治派の筆頭石田三成を、事のほか嫌っていた。

先の朝鮮出兵で現地に赴いた武将は、殆ど大した戦果もなく、徒に戦費・兵力を消費したのみであった。

更に戦果を報告する軍監に、文治派(主に三成)が就いていた為、三成は特に現地の武将達から恨みを買っていた。

忠興も三成を恨んだ一人だった。忠興は三成を、とことん嫌っていた。

 

そんな状況下、家康が上杉討伐の兵を挙げた。分析の鋭い武将であれば、家康が大坂を留守にした場合、次になにが起こるか、凡その検討はついていた。

案の定、家康が大坂を留守にした際、佐和山で隠居の身であった石田三成が家康打倒の兵を挙げた。

この経緯も以前何度も紹介した為、今回は省略する。

 

幽斎は関ヶ原が始まると、丹後の田辺城に移った。武断派であった忠興は、当時上杉討伐軍に参加。

その後家康軍として(東軍)、関ヶ原に参陣する。

丹波福知山の小野木公郷(おのぎきみさと)他、数名の大名は幽斎の籠る田辺城を攻めた。

 

攻める西軍約1万5千、一方城に籠る幽斎の軍は約5百。一見すれば勝負ありと見えたが、幽斎軍は徹底抗戦の構えを見せた。

攻める西軍は主戦場から離れている事もあり、戦意が乏しかった。その為攻略するのに約2ヵ月近くを要した。

 

西軍が城を攻略したのも力攻めではなく、実際は勅命による幽斎の開城だった。

幽斎は死を覚悟。所持していた古今集の奥義が書かれた「古今伝授」を弟子の八条宮親王に渡した。

その事が当時の後陽成天皇に伝わり、天皇は幽斎の才を惜しみ、勅命を発し幽斎に開城するよう求めた。

 

幽斎は初めは開城を拒んだ。しかし朝廷の勅使三条實条(さんじょうさねえだ)に説得され、漸く開城を受け入れた。

幽斎はその後、亀山城に移された。

関ヶ原の経緯はこれまで何度も述べてきた為、此れも省略する。

 

幽斎は亀山で軟禁された為、幽斎の嫡男忠興に関し言及する。

前述したが、忠興は上杉討伐軍に参加。三成挙兵後、そのまま東軍に参加する。

忠興は上杉討伐軍に参加する前、ある程度三成の挙兵を予測していた。

 

三成の動きを予測していた忠興は、当時大坂城下(玉造)に住んでいたガラシャ(玉)に対し、もし三成が挙兵後、東軍武将の妻子を人質にとるようであれば、ガラシャに自害するよう申し付けていた。

これも以前細川ガラシャを紹介した際、説明した通り。

※参考:戦国時代、もう一人の悲劇の女性 『細川ガラシャ』

 

忠興の正妻ガラシャは、当時キリスト教に傾倒していた。キリスト教の教えでは、自殺は赦されていない。

三成挙兵後、大坂城から人質になるよう使者が訪れた。ガラシャは家臣小笠原小斎に槍で首を突かせ、絶命した。

小笠原小斎は敵にガラシャの亡骸を渡すまいと屋敷に火をかけ、其の後本人も自害した。

 

三成はガラシャの自害の報を聞き怯んでしまい、他の大名の妻子を人質に捕るのを諦めてしまった。

ガラシャは戦国の世において、お市の方と並ぶ悲劇の女性と述べたのは、この様な理由による。

供に時代に翻弄された、儚い命だった。ガラシャ享年38歳と言われている。

 

関ヶ原以後

関ヶ原の戦は、西軍の敗北。幽斎は亀山の軟禁から解放された。

忠興は論功行賞にて、丹後18万石から豊前国中津約33万石に加増転封となった。

尚、以前から領地だった豊後杵築6万石はそのまま細川領となり、一挙に約39万石の大大名となった。

 

家康は関ヶ原後、幽斎に恩賞を与えようとしたが幽斎は固辞。京の仁和寺にて隠居した。

忠興は関ヶ原以後、信長家臣依頼「長岡」を名乗っていたが、再び「細川」姓に戻している。

此れも前述した仕える主君が変わる度、主君に対し忠誠を示したものと思われる。

 

関ヶ原でのガラシャの自殺の件について、述べておかねばならない事がある。

忠興はガラシャを守らず、逃げ出した妻(忠隆の正妻)をかばった咎として、嫡男忠隆を廃嫡にしている。

忠隆の妻(千姫:前田利家の娘)は、加賀前田家から嫁いでいた。

 

忠隆はそのまま追放の身となる。因みに忠興の次男興秋も理由は分からないが、後に出奔。大坂の陣では大坂方として参加している。

因って忠興の後、家督を継いだのは三男の忠利。忠利は豊前小倉藩を経て、加藤清正の死後、肥後熊本藩主となる。

参考までに幽斎が明智光秀の与力時代、居城とした勝龍寺城公園内に、城で祝言を挙げた忠興とガラシャ(当時玉)の仲睦まじい石像が立っている。

 

幽斎は京にて楽隠居。1610(慶長15)年、京の三条の自宅でなくなっている。享年77才と言われている。大坂冬の陣、4年前であった。

幽斎の生き方で素晴らしいのは、時代の趨勢を一度も間違えなかった事。気を見るに敏とでもいうべきか。見事な遊泳術をも云える。

幽斎の生き方は黒田官兵衛、前田利家、藤堂高虎にも通ずる処がある。

 

幽斎の生き様は、

 

「好機を逃さず、うまく立ち回れば人生に道が開ける」

 

と教えてくれたのかもしれない。是非、あやかりたいものだと思う。

 

(文中敬称略)