戦国時代、もう一人の悲劇の女性 『細川ガラシャ』

以前戦国時代、悲劇な運命を辿った女性として、信長の妹『お市の方』を紹介した。

今回はもう一人の戦国時代の悲劇の女性、『細川ガラシャ』を取り上げたい。

 

・名前     明智玉、細川玉、細川ガラシャ

・生涯     1563年(生)~1600年(没)

・配偶者    細川忠興

・家柄     明智家、明智光秀の三女

・縁者     細川藤孝(幽斎)は舅

 

経歴

明智光秀と煕子の三女として1563(永禄6)年、当時仕えていた朝倉家の越前にて誕生する。

名前を「玉」と名付けられた。

 

玉は何不自由なく育てられ成長。

成人となり、光秀と供に足利義昭(第15代室町幕府将軍)に仕え、苦楽を共にした「細川藤孝」の息子・細川忠興と結婚する。

当時16歳だった(1578年・天正6)。

 

しかし玉の運命が一変する出来事が起こった。

1582(天正10)年、「本能寺の変」である。玉は当時20歳だった。

 

20歳の女性に父光秀の主君殺しの汚名は、辛いものであったと想像に難くない。

本能寺の変以後、玉は「明智光秀の娘」、つまり主君殺しの娘(謀反人の娘)として世間から冷たい目で見られるようになる。

 

幽閉後、キリスト教に傾倒

忠興と玉の夫婦仲は、悪くなかった。

しかし世間の目・他大名の目は厳しく、仕方なく忠興は世間を憚り、玉を領地の丹後国味土野(みとの)に幽閉する。

 

世間のほとぼりが冷めた頃(約2年後の1584年)、玉は幽閉から解放されるが、其の後の人生は常に監視下におかれた生活を余儀なくされる。

 

そのような生活に辟易したのか、それとも世間の人の目に絶望したのか分からないが、玉は当時流行しつつあった、キリスト教に救いを求め傾倒する。

キリスト教に傾倒した玉は洗礼を受け、洗礼名を『ガラシャ:伽羅奢』とした(1587年、当時25歳)。

玉がキリスト教に傾倒したのは、高槻城主で有名なキリシタン大名、「高山右近」の影響も大きかったであろう。

 

ガラシャがキリスト教に傾倒した訳

ガラシャがキリスト教に傾倒した訳は、前述したが父光秀が主君信長を弑殺。

謀反人の娘となった事。自分は生きているが、世間の冷たい視線を浴び続ける事。

夫忠興の心変わりもあろう。

 

忠興は玉を幽閉中、違う女性を側室として設けていた。

本能寺の変では夫忠興は光秀に就かず、秀吉に就いた。

 

秀吉が九州征伐の際、伴天連追放令を発布。

キリシタン大名で有名だった高山右近も多分に漏れず、弾圧の対象となり改易される。

 

忠興も妻の玉がキリスト教に傾倒していた為、冷や冷やものであったであろう。

忠興は玉に信仰を断念するように命じたと思われるが、玉は益々キリスト教にのめり込んだ。

 

玉としては、無理もないかもしれない。山崎の戦い以後、親族は皆滅び、世間からは冷たい目で見られる。

生きていても死んだようなもの。針の筵の心境だったであろう。

 

キリスト教と同じく戦国時代隆盛をみせた「一向宗」も、同じと言える。

戦国時代、大名による圧政。苦労の連続。

何も信じる事ができなくなった民百姓は、心の寄り処を宗教に救いを求めた。

 

玉は一向宗ではなく、たまたまキリスト教にのめり込むんだだけ。構造は全く同じ。

玉がキリスト教に信仰したのは、誰にも拘束されない「精神的自立」を求めたのからではなかろうか。

 

関ヶ原でのガラシャ

13年の月日を経て、再びガラシャは歴史の表舞台に登場する。

それは悲劇のヒロインとして。

 

ガラシャは当時秀吉の居城、大坂城下の細川邸に居住していた。

つまり江戸時代の各大名の江戸屋敷のようなもので、妻子は人質として大坂に住まわされていた。

 

1600(慶長5)年、五大老の一人、上杉景勝が家康の専横に反旗を翻した。

家康は上杉討伐の名目で、大坂を離れた。

 

家康が大坂を離れた時、当時隠居の身であった元五奉行の石田三成が家康を排除する為、西国大名を募り挙兵した。

 

ガラシャの夫忠興は、家康の上杉討伐軍として参加していた。

当然忠興は東軍(家康軍)として参加する。

 

忠興は今度の上杉討伐において、薄々三成が家康打倒の兵を挙げる事を予期していた。

勘の鋭い大名であれば、今回の上杉討伐で起こりえる事態を想定していたであろう。

 

三成は、家康打倒の名目で挙兵。

上杉討伐軍として参加している各武将の妻子を人質にする計画を立てた。

当然ガラシャの許にも、大坂方からの人質としての遣いが来た。

 

前述したが上杉討伐軍として参加している忠興は、三成の挙兵を予期していた。

その為ガラシャに対し、

 

「もし人質として大坂方から要請があった場合、自害せよ」

 

と申し付けていた。

 

しかしガラシャはキリスト教徒の為(キリスト教は自殺を禁じていた)、自害する事を潔しとせず、家臣の小笠原小斎に槍で胸を突かせ、絶命する(当時38歳)。

其の後、家臣はガラシャの死体を敵方に渡すまいと、屋敷に火をかけた。

小斎もその後、自害する。

 

ガラシャの死で三成は、他大名の妻子を人質に取ることを断念する。

以前関ヶ原の章に話したが、此処が明友、大谷吉継が指摘した石田三成の優柔不断さ。

 

三成は他大名の妻子を拘束せず、見張りをつけ監視下においた。

尚、加藤清正・黒田長政の妻子は、上手く大坂を脱出。無事、領土に帰国している。

 

関ヶ原後、夫忠興はガラシャの死を聞き嘆き悲しんだ。

ガラシャを守り切れなかった嫡男忠隆を廃嫡。正妻であった千姫(前田利家の娘)と離縁。

次男興秋を差し置き、三男忠利が細川家の家督を継いだ。

 

尚、同じキリスト教を信仰していた「小西行長」は、関ヶ原敗戦後、斬首。

家督を継いだ三男忠利は、1637(寛永14)年の「島原の乱」で幕府軍として参加している。

何とも歴史な皮肉と言える。

 

ガラシャの生涯

ガラシャは、僅か38歳で生涯を閉じた。

寿命が短い昔としても、38歳は早すぎる死と言える。

 

ガラシャの人生は20歳迄は幸せであったが、其の後激変した。

本能寺の変以後、「生きる屍」状態だったのではなかろうか。

 

そのような状態でガラシャが唯一心の安らぎを覚えたのは、キリスト教を信仰している時だったのかもしれない。

キリスト教の洗礼を受けてから(当時25歳)、関ヶ原の死までの約13年間(38歳まで)、長い道のりだった。

決して心安らぐ時はなく、ただ陰鬱とした日々だったかもしれない。

 

そのような時、関ヶ原が勃発。

三成がガラシャを人質に捕ろうとした事で、初めてガラシャは心の安らぎを覚え、死に希望を求めたのかもしれない。

 

いずれにしても「お市の方」と並ぶ戦国の美女と言われた「玉:ガラシャ」も、お市の方と同様、決して幸せな人生とは言えず、儚い生涯を終えた。

「佳人薄明」とは、この事であろうか。

お市の方、享年36歳。玉(ガラシャ)、享年38歳だった。

 

(文中敬称略)