海道一の弓取りと呼ばれた『今川義元』 果たして義元は凡将だったのか
今回は意外な切り口で、ある人物を紹介したい。その名は『今川義元』。
今川義元と云えば、織田信長を語る上で必ず登場する人物。それ程、有名人。
何故有名人になったのかと云えば、織田信長が歴史の表舞台に登場する際、引き立て役となった人物の為。
今で言う「やられキャラ」。
引き立て役である為、或る程度、抜けた人物として描かれる事が多い。
しかし当時、海道一の弓取りと云われたほどの男であった義元は、果たして云われるような凡将であったのか、検証してみたい。
目次
経歴
・名前 芳菊丸(幼名)→栴岳承芳(法号)→ 今川義元
・生誕 1519年(生)~1560年(没)
・主君 足利義晴→足利義輝
・家柄 室町幕府 駿河守護
・官位 従四位下 治部大輔
・縁者 今川氏親(父)、寿桂尼(母)、今川氏真(子)、嶺松院(娘・元武田義信室)
生涯
今川義元は、1519(永正16)年、駿河太守今川氏親の5男として生まれた。
上記に記した名前の変遷をみても分かるが、幼名は芳菊丸と云った。
5男で御家騒動を避ける意味もあり、4歳の時、仏門に入れられた。
出家後、法号にて栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗る。
もし今川家に何もなければ、義元は僧としてい生涯を終えたかもしれない。
義元の経歴は何か、室町幕府15代将軍足利義昭に似ている。
今川家の家督を継いだ兄氏輝が、24歳(1536年)で急死した。
氏輝が急死した為、家督相続が義元に回ってきた。
何故義元に回ってきたかと云えば、他の兄の3人は正室の子でなく、側室の子(庶子)だった為。
それ故、お鉢が義元に回ってきた。義元、当時17歳だった。
参考までに義元の父氏親の正室は、北条早雲の妹。
従って早雲は義元にとり、伯父に当たる。
早雲の後を継いだ氏綱とは、従兄妹になる。
義元の母寿桂尼は、中御門宣胤(公家)の娘だった。今川家は幕府より駿河守護を受けた家柄。
義元の母が京都の公家から下ってきたという経緯をみても、如何に今川家が名門だったのかが分かる。
今川家は後に同盟を結ぶ甲斐武田家と同様、戦国屈指の名門だった。
花蔵の乱
兄氏輝の死後、義元が家督を継いだ為、庶子であったが同じ僧籍に入れられていた兄玄広恵探(げんこうえたん)が不満を露わにした。
恵探(良真)は、母方の実家の家臣、福島氏と供に挙兵。
支城の方ノ上城、花倉城を攻めた。
義元側は後に義元を補佐する太原雪斎等の活躍。
更に従兄の北条氏綱の援軍もあり、見事に恵探の反乱を治めた。
恵探は義元軍に攻められ、花倉城にて自害する。
この反乱は「花蔵の乱」と呼ばれた。(1536年)
義元の領国経営
家督を相続した義元は翌年の1537(天文6)年、甲斐武田信虎の娘(定恵院、晴信の姉)を正室に迎えた。
長年対立していた武田家との縁組で同盟を図ろうとした。
この事例は後の尾張と美濃の婚姻、つまり織田信長と濃姫の婚姻に似ている。
似ているというよりも、全く同じ。
この婚姻でへそを曲げたのが、義元が家督争いの際、手助けをした相模北条氏綱。
氏綱は義元の行為を裏切りと捉え、義元の領土である河東(駿河、富士川以東の辺り)を攻めた。
氏綱は義元を挟撃する形で、遠江・三河の国人衆を誘い義元の領土を侵した。
義元には家督相続早々、ホロ苦い経験となった。
まだ家督相続後の日が浅く、家臣一同が揺れ動いていたと思われる。
義元が領国経営で力を注いだのは、検地だった。
検地を実施し、正確な領国の生産性を把握した。
此れも後に、豊臣秀吉が太閤検地を実施した事実を鑑みれば、重要な政策。
次に経済の発展を図る為、関の撤廃、駅制の整備。
駿府城下での、豪商たちに諸役を免除する特権を与えた。これは流通経済を発展を促した。
更に富士金山の開発等にも力を注ぎ、軍事費の捻出をはかった。
義元の領国経営・軍事面に関し、大きな力となったのは、かの有名な大原宗孚(そうふ)。
名前に関しては、雪斎(せっさい)の方が知られている為、大原雪斎と明記させていただく。
雪斎の存在は家督を相続した義元にとり、誠に心強い存在だった。
前述した信虎の娘との婚姻による、北条氏との関係悪化。
河東地域を奪われ、苦しい状態だった義元を支えたのは、雪斎の力量による処が大きい。
家督相続の際、17歳だった義元を「海道一の弓取り」と云われるまでに育てたのは、雪斎のおかげと云っても過言でない。
それ程義元、いや駿河にとり大切な人物だった。
雪斎の働きもあり、駿河は徐々に国力を充実させていった。
義元が領国支配を固めている間、周囲各国の状況を説明したい。
先ずは甲斐の武田家。
甲斐は武田信虎が治めていたが、1541(天文10)年、武田家家臣一同が嫡男晴信を担ぎ、クーデターが勃発。
信虎は娘の嫁ぎ先、駿河に追放の身となった。
義元は信虎が舅と云う事で、信虎を駿河に引き取った。
一方、義元が甲斐と婚姻を結び、腹を立てた相模の北条氏綱は、同じく1541(天文10)年に死去。
家督は嫡男氏康が継いでいた。
甲斐・相模・駿河は、それそれ新しい君主に代替わりしていた。
時代は当に、新時代を迎えようとしていた。
義元、三河国に介入
三河の岡崎城は、松平家が治める城だった。しかし松平家の当主松平清康が若くして死去。
その嫡男広忠は当時まだ10歳であった為、家臣の統べる事などままならず、城を家臣に横領されていた。
嫡男広忠は、更に家臣の暗殺をおそれ、岡崎城を脱出。市井に潜伏した。
長い潜伏の後、広忠は岡崎城復帰の為、力添えを得る為、義元の援助を仰いだ。
1542(天文11)年、義元は松平広忠の願いを聞き入れ、広忠の岡崎復帰に尽力。
無事岡崎城主に復帰させた。
此れが後々まで、三河国が義元の頸木から逃れられない土壌を作ってしまう。
他国の介入を許し、属国のような形になった。
結論から述べるが、属国関係は義元が桶狭間にて織田信長の奇襲に逢い討ち死に。
松平元康(後の家康)が独立を果たすまで続いた。
因みに広忠が岡崎城に復帰した此の年(1542)、後の徳川家康となる竹千代が誕生している。
此の時代になれば、義元の領国経営が上手く回り、家臣一同も纏まり始めたと云える。
その証拠として家督相続後、北条氏綱に攻られ失った河東地域を、氏康と敵対する山内上杉憲政と同盟を結び挟撃する。
1545(天文14)年、義元は失った土地をほぼ回復した。
義元の領国経営が実った結果とも云える。
尾張、織田信秀と争う
義元の力で岡崎城主に復帰した松平広忠は正式に義元に恭順の意を示し、人質を差し出した。
人質は後の家康(竹千代)だった。
しかし竹千代は駿河に護送する途中、東三河の田原城(愛知県田原市)の国人・戸田康光が裏切り、竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまう(1547年)。
怒った義元は兵を差し向け、田原城を攻め、戸田康光を滅ぼした。
義元の三河進出に脅威を感じた織田信秀は、1548(天文17)年、兵を率い三河に侵攻する。
三河額田郡小豆坂で今川軍と戦うが、織田軍は敗北する。
勢いを増した今川軍は翌年の1549(天文18)年、三河安祥城(あんしょう)を攻め、信秀の庶子長男(側室の長男)信広を捕らえる。
信広と前年の竹千代との捕虜交換の末、駿河にて竹千代を広忠に人質として庇護する。
以後の1550年代は義元にとり、領国の安定。今川家の最盛期を迎える事になる。
甲相駿、三国同盟成立
1552(天文21)年、義元は甲斐武田晴信との縁を深める為、長女(嶺松院)を晴信が嫡男、太郎義信に嫁がせる。
翌年の1553(天文22)年、父氏親が定めた「今川仮名目録」に21箇条の補訂追加する。
注目すべき点は、室町幕府が定めた建武式目に別れを告げ、明確に自国の分国法を優先すると宣言した事。
その代表として室町幕府が定めた「守護使不入地」の廃止を宣言した。
更に、家臣を統制する項目を増やした事。
具体的に述べれば、寄子が訴訟の起こす際、必ず寄親を通さなけらばならない事。
家臣の御家相続は嫡子相続とする事など。
義元は領土安定・拡大に伴い、自国の引き締め。家臣の統制に力を注いだ。
翌年の1554(天文23)年、互いの懸案事項であった相模との和解に成功。
本当か逸話かは分からないが、駿河の善徳寺にて「甲斐の武田晴信」、「相模の北条氏康」、「駿河の今川義元」の三者が会談。
甲・相・駿の三国同盟が成立したとされている。
三国同盟成立の暁として、義元が嫡男氏真は北条氏康の娘(早川殿)を娶る。
前年には甲斐と相模との間に、武田信玄の娘(黄梅院)と 北条氏康の嫡男、北条氏政との婚姻が成立していた。
三国同盟の狙いは、
①甲斐武田は信濃攻略・越後上杉謙信と対峙する為。
②相模北条氏康は関東攻略・同じく越後上杉謙信と対峙する為。
③駿河今川義元は西三河攻略・尾張織田信長との対峙する為。
三者三様、それそれ思惑入り乱れての同盟だった。
三国同盟成立をきっかけに義元の野望は、西三河以降に向けられる事になる。
相模北条との同盟が成立。後顧の憂いを絶った影響が大きい。
三国同盟成立とほぼ同時期、義元の領国統治は最盛期を迎える。
三河を属国とし、最盛期を迎える
三国同盟成立の同年、駿河にて岡崎城松平家の人質として義元の庇護にあった「竹千代」が元服する。
名前は「松平元康」と名乗った。
既に人質交換から、6年の歳月が流れていた。元康、数えで13歳だった。
元康の父広忠は1549(天文18)年、死去していた。
元康当時、7歳の時。
一説によれば、家臣に暗殺されたとも云われているが、詳細は分からない。
当然幼少の竹千代には岡崎城を治める力などなく、岡崎城は義元の家臣が城代として統治していた。
この時点で実質三河国は、義元の属国といっても差し支えなかった。
前述したが、元康の父広忠が岡崎城の城主に返り咲く際、義元の力を借りた事に起因する。
何時の時代でも同じだが、国や御家の揉め事に、他人の介在を許してはならないという教訓。
一度介在を許せば、その影響を拭いさるのはなかなか難しい。
三河の例は悪しき見本。こうして義元は駿河・遠江・三河は治める大大名となった。
参考までに義元の政治・軍事面で支えた大原雪斎は、1555(天文24)年頃、亡くなったと伝えられている。
雪斎は義元の統治の最盛期を見届け、なくなった。
此れも歴史の皮肉。雪斎がなくなると同時に、元康が元服を迎えたのも何かの運命であろうか。
義元、約2万5千の兵を率い、西上の途に就く
機は熟したとみた義元は、天下に号令を発すべく、京をめざす。
兵力約2万5千人を率い、西上の途に就いた。
後世では上洛説ではなく、西三河の支配権の確立。
あわよくば尾張織田信長の領土を掠め取る為の出兵と云われているが、今回は上洛説とさせていただく。
義元は三河の若大将、松平元康を先遣隊に据え、順調に信長領土を侵攻した。
義元兵力約2万5千。対する織田信長は兵力僅か3千ともいわれていた。
もはや尾張織田信長の命運は、風前の灯かと思われた。
事実今川軍は、尾張領に侵攻後、順調に織田軍の城・砦を陥落させていた。
その時の義元の心には一抹の不安もなかったであろう。
その驕りが後に重大な結果を招くとは、当時の義元を始め、周りの者が誰も気づかなかった。
もし気づいていれば、むざむざと信長の奇襲に逢う事はなかった。
義元、桶狭間にて散る
義元は前線からの戦勝報告を聞き、上機嫌だった。
意気揚々と輿に乗り、尾張を目指し行軍した。
この時点で尾張の信長など、眼中になかったに違いない。
既に義元も戦勝気分で気も緩み、家臣たちも義元と同じ気持ちだったと思われる。
結果を述べれば、それが義元の命取りとなった。
義元は5月19日、午前8時頃沓掛城を出立。西に本陣を進める。
正午になり、「おけはざま山」に到着。そこで昼餉を催した。
場所は以前ブログでも紹介したが、おそらく平地を見渡せる高台(丘)であったと伝えられている。
戦勝祝いを兼ねた宴会の様なものだったのかもしれない。
義元本陣は戦勝気分に浮かれ、連日の日照りも重なり、酒盛りを開いていた。
その時、急な豪雨が義元本陣を襲った。本陣は忽ち、大混乱に陥った。
突然の雨と暑さの為、具足を脱いだ者が多かった。
丁度その時、信長軍が義元本陣をめがけ、襲ってきた。
桶狭間の戦いも、過去のブログで詳しく述べてる為、詳細は省きます。
もし宜しければリンクを貼って於きますので、ご覧下さい。
※参考:奇襲の大勝利『桶狭間の戦い』織田軍が何故、大軍の今川軍に勝てたのか
不意に襲われた義元本陣は、益々混乱した。
義元本人も外が騒がしいのは、酒に酔った家臣同士が喧嘩をしているのかと思った程だった。
そんな状態で、いきなり信長軍に襲われた為、義元を守る旗本もひとたまりもなかった。
義元は側近約300人を引き連れ、必死に逃げた。
次第に追い付かれ、周りの者が次々と討ち取られ、とうとう50人程になった。
少なくなった義元の群れに信長軍が、襲い掛かった。義元の目の前に信長軍が襲って来た。
義元に初めに挑みかかったのは、「服部小平太」。
小平太は義元に槍を突き付けたが、義元の応戦にあい、膝を切り付けられ転倒。
その隙に「毛利新助(良勝)」が義元を切り伏せ、義元の首を搔いた。
義元最後の意地であろうか、毛利新助の指を喰いちぎったと云われている。
義元、享年42歳。
「海道一の弓取り」と呼ばれた大名にしては、誠にあっけない最後だった。
歴史に「もし」はないが、この時、大原雪斎が生きていれば、決して今回のような失態はなかったと思われる。
義元の不幸は、雪斎の死後、自分を諫めてくれる家臣がいなかった事であろうか。
この様に兄の急死後、家督を相続。
今川家の最盛期を演出した今川義元は、あっけなく死んだ。
義元が死んだ事で事実上、今川家は滅びたと云ってよい。
義元の後は継いだ「今川氏真」は、暗愚だった。
義元死後の僅か9年後の1569(永禄12)年、同盟国だった甲斐の武田晴信、義元の死後に独立を果たした三河の徳川家康の挟撃にあい、今川家は滅んでいる。
あれだけの大国を誇った今川家も、義元がいなくなり、いとも簡単に滅んだ。
戦国の習いと云えば、それまでだが。
話は前後するが義元の死後、三河岡崎城の若殿であった松平元康は、義元の死を絶好の機会と捉え、見事独立を果たす。
其の後、長年の宿敵で義元の仇であった織田信長と同盟を結ぶ(1562年)。
完全に今川家を見捨て、将来を見据え信長の株を買った。
裏切りが当たり前の戦国時代だが、同盟(織徳同盟)は信長が本能寺の変で倒れるまで続いた。
最後に
桶狭間にて大勝利を収めた信長だったが、長い目でみれば義元を討ち取った信長も、最後は義元と同じ運命を辿っている。
二者に共通している事は、自分の権力の絶頂期における驕り故の滅亡。桶狭間、本能寺も然り。
一見、何を述べているのか分からない方もいるかもしれない。
平たく言えば、自分の勢いが最大の時、驕り高ぶり、自分の身を滅ぼしてしまった。
確かに義元・信長の二人は死去する直前まで、自分の権力の絶頂期を満喫していた。
それが故、隙が生じたと云える。
人間は最高の時、よもや自分が最悪の事態に陥るなど、考えもしない。
その驕りが、身の破滅を招いた。
権力とは確かに、目に見えない絶大なもの。
しかし権力者も所詮、生身の人間。風邪もひけば、咳もする。機械ではない。
心臓に刃物を突き付けられれば、死を招く。
義元も信長もその意識に欠けていた。己の驕りが、身を滅ぼしたと云える。
今思い出したが、戦国の世の引き金となった第8代室町幕府将軍「足利義教」暗殺事件は、義教の独裁・恐怖政治が招いた悲劇。
足利義教暗殺とは、播磨の名門赤松氏の手による現役の将軍が暗殺された事件。
歴史とは何と因果応報かと、改めて認識した。
追記
最後に興味深い話をしたい。
桶狭間にて勝利した信長は、義元が所持していた刀「義元左文字」を手に入れた。
信長は戦勝祝いとして、刀の茎(なかご)に
「永禄3年5月19日 義元討捕彼所持刀」と金象嵌で銘討った。
※茎(なかご)とは、刀の柄を指す部分。しばし製作者の名前が刻まれ、銘(めい)と呼ばれる。
この刀は三好政長から武田信虎に渡り、信虎の娘が義元に輿入れした際、引き出物として義元に渡ったもの。
刀は信長の死後、豊臣秀吉に渡り、其の後秀頼、徳川家康に渡り、明治維新後、徳川家から京都の建勲神社に奉納された。
まさに時の権力者の間を、渡り歩いた名刀。
義元の名は、決して桶狭間にて無残にも討ち死にしたばかりでなく、時の権力者を経て、名刀の中で現代まで生き残った。
(文中敬称略)
・参考文献
【週刊新説戦乱の日本史 10桶狭間の戦い】
(小学館・小学館ウイークリーブック 2008年4月発行)