世渡り上手な武将 『前田利家』

目まぐるしく権力者が入れ替わる戦国時代。戦国時代に上手く立ち回り、現代でも使用される言葉の祖となった武将がいる。

『加賀百万石』と云う言葉。

実際百万石となったのは、利家の子利長の時代(関ヶ原以後)だが、その基礎を築いたのは紛れもなく前田利家。

今回、前田利家に焦点を当て、述べてみたい。

 

・名前    幼名(犬千代)、孫四郎、又左衛門、前田利家

・生涯    1537年(生)~1599年(没)

・主君    織田信長→羽柴秀吉→ 豊臣秀頼  

・家柄    前田氏(菅原を祖)

・官位    権大納言、従二位

・縁者    前田利長(子)、豪(宇喜多秀家の正妻)、佐脇良之(兄弟)

 

経歴

尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主の土豪、前田利春の四男として生まれる。幼名、犬千代。14歳の頃、織田信長の小姓として仕える。

前田家は当時、織田家筆頭家老の立場だった、林秀貞(通勝)の与力として仕えた。

若い頃の犬千代は、晩年の利家とは想像もつかない程、短気で血気盛んだった。

奇抜な恰好をして、「傾奇者」と言われていた。

 

当時尾張国では、信長と伯父信友と争いをしていた。犬千代は信長軍に与し、初陣を果たす。

初陣後、元服して「前田又左衛門利家」と名乗る。

利家は、大きな槍を自在に操り、「槍の又左」と呼ばれた。利家はその後、戦国時代の中心人物となる織田信長に仕え、出世を遂げる。

 

利家の結婚と出奔

戦において華々しい活躍をする利家であったが、血気盛んが行き過ぎ、数年信長から勘当されていた時期がある。

それは信長が贔屓にしていた僧(拾阿弥)を利家が怒りのあまり、切り捨てた為。

この事件は「笄斬り」と言われている。

笄とは、女性が髪に付ける装身具の事。

利家は前年の1558(永禄元)年、従兄妹にあたる「まつ」、後の「芳春院」と祝言を挙げていた。

 

拾阿弥は信長の寵愛を笠に着て、信長家臣に対し頗る横柄な態度をとり、又品性下劣な行為を繰り返していた。

今回利家が拾阿弥を斬ったのは、利家の妻まつの笄を拾阿弥が盗んだ為と言われている。

利家は拾阿弥を斬ったはいいが、主君信長の勘気に触れ、出仕停止となった。

利家は出仕停止の為、数年浪人のような生活を送る羽目となる。

 

出奔中の利家

信長のお気に入りの拾阿弥を切り捨てた後、信長から勘当を受けた利家は、浪人生活を送る。

翌年の1560(永禄3)年、当時「東海一の弓取り」と言われた「今川義元」が約3万5千の兵を率い、上洛の途に就く。

もはや織田家(信長)は、風前の灯火かと思われた。

処が、信長が桶狭間にて奇襲を決行。義元を討ち取り、大勝利を収める。

 

此の時利家は、手弁当で参加。首級を3つ程挙げるが信長に認められず、帰参を許されなかった。

其の後、翌年の美濃斎藤家との戦いで、敵方の有名な大将(足立六兵衛)を討ち取り、漸く帰参を許された。

 

前田家では利家の浪人中、実父利春が亡くなり、前田家は兄利久が家督を継いでいた。

後に信長の命で利久は廃嫡となり、前田家は利家が継ぐ事になるが、当時は利久が家長だった。

 

利久について、一言触れておきたい。利久と言うよりも、利久にいた「養子の利益」の話になるが。

前田利益というよりも、「前田慶次」といった方が有名かもしれない。

大昔「週刊少年ジャンプ」で連載されていた、原哲夫原作の漫画『花の慶次郎』のモデルとなった人物。

慶次は「慶次郎」とも呼ばれるが、利久の養子と記した通り、実子ではない。実父は同じ信長の家臣、「滝川一益」と言われている。

 

何故一益が父かと言えば、利久の正室は、一益の元側室だった為。

一益の側室であったが、利久が側室の女性に惚れ、利久が一益に強引に頼み、正妻に迎えた経緯があった。

女性は利久の正妻になった時、既に一益の子を身籠っていた。

しかし利久は生まれてきた子に前田家の家督を継がせるとの条件で、一益から女性を貰い受けたと言われている。

しかし養父利久は元来病弱で、信長も利久の仕事ぶりを鑑み、利久の廃嫡を決断。利家に前田家を継がせた。

 

利家が家督を継いだ為、慶次の立場は微妙になる。

元々風変りな性格の利益は奇行を繰り返し(利家の若い頃と同じ、傾奇者と言われていた)、挙句に前田家を出奔する。

慶次に至っては、機会があれば触れてみたいが、出奔後は主に京都などで浪人生活を送り、秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、五大老の一人であった「上杉景勝」の許に身を寄せていた。

 

慶次は勇猛果敢な武将として知られていたが、前述した出自に絡む前田家との確執もあり、能力がありながらも、不遇な一生を送った「悲劇の武将」の一人と言えるかもしれない。

悲劇の武将と言えば、利家の弟良之は「佐脇家」に養子として入るが、後に信長の勘気に触れ、出奔。

徳川家康の許に身を寄せるが、1573(元亀3)年、武田信玄の上洛の途中「三方ヵ原」の戦いにて、戦死している。

 

秀吉との関係

利家と秀吉の仲が良かったのは、有名な話。信長の家臣時代、二人の家は垣根を挟み、隣同士だった。

しばし利家の妻まつと、秀吉の妻おね(ねねとも言う)とは、色々な話をする間柄だった。

この関係は、秀吉が死ぬまで続いた。

秀吉の死後、豊臣政権の為利家が奔走したのは周知の如く。

後述するが、利家と秀吉との関係は信長の家臣時代、それ以後の秀吉の台頭後も、深い関係として続く。

或る意味利家は信長の家臣時代よりも、信長の死後の方が出世したとも言える。

その言葉の意味は、後述する。

 

信長の勢力拡大

桶狭間の奇襲にて今川義元を破った信長は、其の後は破竹の勢いで勢力を拡大。

1567(永禄10)年、美濃斎藤家を滅ぼし、1570(元亀元)年、姉川にて浅井・朝倉両軍を破り、後の3年後に両家を滅ぼした。

利家は、信長の直参として奔走。家臣佐々成政と供に、信長軍団の鉄砲衆として活躍した。

佐々成政とは此の時期、同僚で仲もよかった。

しかし信長の死後、成政は秀吉の台頭を快く思わず、後に利家と戦火を交える事になる。

実際には利家というよりも、秀吉に対し矛先を向けたと言える。

 

越前平定後、柴田勝家の与力となる

1573(元亀3)、朝倉氏を滅ぼした信長であったが、翌年顕如が率いる一向宗の門徒が、越前国を占拠。再び越前は、反信長国となってしまった。

同年、伊勢国長嶋でも大規模な一向宗の反乱が起こった。

反乱を鎮圧すべく、信長は重臣柴田勝家を派遣。勝家の与力として(与力と言うよりも、軍監に近い)、利家・佐々成政を従軍させた。

反乱は翌年に鎮圧。勝家はそのまま、北陸方面担当として信長から越前約60万石近くを拝領。

与力の利家は佐々成政・不破光治と供に、約10万石を分けえられた。(3人で合計10万石)

 

以後、勝家の与力として主に、北陸方面担当(上杉攻め)に従軍する事となる。

勝家の与力となるが、長篠の戦い(1575年)、荒木村重の謀反の鎮圧(1578年~1579年)に駆り出されている為、完全に勝家の与力とはいえず、信長の命があれば、信長の直参となった。

 

利家、能登一国の大名となる

1579(永禄9)年、勝家の与力として加賀・能登国の一向宗の鎮圧等の功績が認められ、利家は能登約23万を信長から拝領。

晴れて既に利家より先に大名となっていた秀吉と並び、信長軍の有力家臣として出世した。

城持ち大名となった利家は、能登の山城であった七尾城を廃し、城下町ちかくの街中に城を移した。

越後では、越後の虎と言われた謙信は既に他界。養子の景勝が上杉家を継いでいた。

 

勝家は上杉討伐の為、越前北の庄から出陣。利家自身も勝家に従軍。

しかし上杉軍が籠る越中国魚津城を攻城中、戦国時代を揺るがす最大の出来事が起こった。

1582(天正10)年、本能寺の変である。

 

尚、上杉攻め前線の富山城には、佐々成政。利家の盟友秀吉は、毛利攻略の為、毛利領の高松城を水攻めの際中だった。

本能寺の変が、其々の命運を変える出来事になろうとは利家自身、知る由もなかった。

 

本能寺の変直後

1582(天正10)年、突如起こった政変。明智光秀のクーデター、「本能寺の変」。

過去に本能寺の変を何度も述べている為、詳細は省くが、家臣明智光秀が主君信長を、京の本能寺で殺害。

織田政権は、一瞬にして崩壊した。

後に「中国大返し」にて信長の仇を討つ秀吉は、中国の雄「毛利軍」と対陣中。

利家が与力を務める上司の柴田勝家は、越後「上杉軍」と対陣中だった。

 

信長の横死を聞いた際、最も近くにいた(難波)丹羽長秀・織田信孝軍は、あえなく瓦解。同年武田家を滅ぼし、関東方面担当の滝川一益は厩橋(現前橋)にいたが、北条軍に攻め立てられ、壊滅。

同盟中の徳川家康は、堺を遊覧中に信長の横死の報を聞き、伊賀越えを決行。命からがら本国三河迄、逃げ延びた。

 

逆臣光秀がいる近畿地方に最も近く、信長の仇を討つと思われていた柴田勝家は、上杉軍と対陣中で撤退が遅れ、中国方面にいた羽柴秀吉に先を越されてしまった。

此れが秀吉と勝家の運命を分ける、決定的な違いとなってしまった。

 

清洲会議にて

山崎の戦いにて秀吉が信長の敵光秀を討った為、戦いの約2週間後、織田家の今後を決めるべく「清洲会議」が開かれた。

清須会議の参加者は、以下の通り。

 

信長家の参加者は、織田信雄、織田信孝の2人。

家臣は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興(つねおき)の4人。

 

一瞬、おやっと思われるかもしれない。重臣であった「滝川一益」の名前がないのに気付くかもしれない。

前述したが滝川一益は本能寺の変後、北条家に攻められ軍が崩壊。命からがら、旧領土であった伊勢に逃げ帰った。

その為、清洲会議に間に合わず、参加していない。

 

同じく武田家滅亡後、甲斐国主となった同じ重臣「河尻秀隆」も本能寺の変後、甲斐国領民の一揆が発生。

そのごたごたに呼応する形で、旧武田家の家臣の残党に嬲り殺しにあい、落命している。

 

一方当時の利家は、あくまで勝家の与力という立場だった。

格が違うと言う意味で、参加もしていない。後の利家の行く末を見れば、参加していないのが幸いしたのかもしれない。

何故なら清洲会議では、宿老勝家と重臣秀吉の対立が決定的となってしまった為。

この対立は、翌年の賤ヶ岳の戦いに繋がる。

 

秀吉と勝家の戦いが、利家の運命を大きく変える出来事になる。

それはタイトルの如く、前田利家が大出世を遂げ、加賀百万石と言われる礎を築く基となった戦いである。

 

賤ヶ岳の前哨

1583(天正11)年、信長亡き後の後継者争いは、遂に直接対決となった。

俗にいう「賤ヶ岳の戦い」である。

 

勝家は清洲会議後、越前国北の庄に帰った。

勝家としては清洲会議は秀吉有利で終わったが、会議の内容をみれば決して秀吉に負けない条件を勝ち獲った。

勝家は先ず、秀吉が実質的後継者として担ぎ上げた「三法師」(後の織田秀信)を、後見人の立場として取り返し、信長ゆかりの名城「岐阜城」で育てる権利を獲得。

更に秀吉の領土であった長浜を譲る受ける事に成功する。

追加で、亡き信長の妹であった「お市の方」との婚姻を果たした。

 

お市の方は浅井家滅亡後、旧織田家に帰っていた。

お市が浅井長政との間に産んだ「お茶々・お初・お江」も、一緒に勝家の本拠地である北の庄に移った。

勝家は会議の条件がそれ程悪くなかった為、油断したのか本拠地北の庄に戻る。

 

勝家が北の庄に戻った後、秀吉は早速、勝家落としの謀略を始めた。

勝家が越前から出来てこないのを良い事に、京都の大徳寺にて、勝手に信長の葬儀を執り行った。

勿論、勝家には知らせず、又勝家も参加していない。

勝家が織田家後継者に推薦していた、信孝も参加していない。次男信雄も不参加。

葬儀は旧暦の10月に行われた。これから越前は雪に閉ざされる季節になる。

 

秀吉はその事を念頭に、12月突如、信孝が籠る岐阜城を攻めた。

岐阜城を攻め、攻略。手中の珠「三法師」を手に入れ、嘗ての主君織田家の三男信孝を母親諸共、処刑した。

後に家康が豊臣政権を乗っ取ったと言われているが、秀吉も全く同じ。

秀吉の場合、出自と人柄の為、悪く言われなかっただけ。

更に政治の中心が当時まだ後進地と言われた江戸(家康の本拠地)に移った為、上方(当時の大坂)以下、京都等の近畿地方に人々には、やっかみもあったと思われる。

 

兎に角、秀吉は天下の要衝地である岐阜城と三法師を手にした。何故秀吉が、あっさり岐阜城を手に入れる事ができたのか。

それは清洲会議で勝家が奪った長浜(旧秀吉領)を、秀吉がいとも簡単に奪い返した為。

経緯は勝家の養子として長浜を守っていた柴田勝豊は、父勝家とは不仲だった。

不仲だった為、あっけなく秀吉の謀略に嵌り、秀吉の軍門に下った。

勝家としては養子ではあるが、まさか勝豊が秀吉に靡くとは、思いもしなかった。

 

秀吉は勝家が出て来れないのを良い事(越前は冬、雪で行軍できず)に、返す刀で同じ重臣で、伊勢に逃げ延びた滝川一益を攻めた。

一益は既に秀吉に対抗する兵力もなく、あっさり降参した。

 

勝家は秀吉の横暴に耐え切れず、春を待たずに秀吉軍を叩く為、越前を出立した。

勝家来るの報を受け、秀吉軍は反転。勝家軍と対峙すべく、出陣した。

両軍は近江の賤ヶ岳で対陣した。

 

賤ヶ岳の戦い

今回は賤ヶ岳の戦いの紹介がメインではないので、簡単に述べる。

賤ヶ岳の戦いは秀吉軍の家臣「七本槍」の活躍で有名だが、実は七本槍の活躍より大事なのは、前田利家の動きである。

 

この戦いで、意外に前田利家の動きが注目されていない。

注目されていないと言うよりも、故意に利家の動きが敢えて過少化、或いはあまり触れられていないと言える。

それは何故かと言えば、皮肉な事に前田家が戦国時代を生き残り、徳川治世を経、明治維新迄、生き残った為。

最後まで生き残った為、利家の動きは過少化、或いは無視された。

 

何時も述べているが、歴史は常に最後まで残った者、つまり勝利者・強者に因って作られる、書き換えられるからである。

賤ヶ岳の戦いは、勝家の配下武将である「佐久間盛政」の軽率な行動と云われているが、本当の賤ヶ岳の勝負の分かれ目は、勝家の与力であった前田利家の勝手な戦線離脱であった。

 

利家が戦線離脱した為、柴田軍は総崩れとなり、壊滅した。

 

何故真相があまり語られないかと言えば、其の後の利家の活躍。

前述したが、前田家加賀藩の隆盛をみれば明らかと思われる。

つまり前田家が最後まで生き残った歴史の勝者の為、当時の歴史家が遠慮したと予測される。

 

繰り返すが、勝家の賤ヶ岳敗北の大きな要因は、前田利家の戦場離脱。

この事もおそらく、秀吉の事前の調略があったと思われる。

追加で前述したが、まだ秀吉と利家が信長の家臣として駆け出しの頃、垣根を隔て隣同士だった事も影響していると言える。昔の関係が、こんな処にも響いていると言え様。

 

利家は戦場離脱後、旧領の越前国府中城に入る。

賤ヶ岳から敗走してきた勝家が利家に湯漬けを所望した際、利家は心良く差し出し、勝家も又今迄の利家の労をねぎらい、利家を赦したとされるが、これも甚だ疑問。後世の作り話かもしれない。

もし本当であれば、勝家という男は誠に情に厚く、人格者と言える。

 

勝家はその後、本拠地北の庄に戻り城を秀吉軍に包囲され、もはやこれまでと観念。

前年結婚した「お市の方」と供に自害する。

自害するに及び、お市の方の子(お茶々、お初、お江)を秀吉の許に送り届け、3姉妹の将来を託している。

 

お市の方は生涯に二度、夫の死と落城に関わっている。誠に数奇な運命な女性と言える。

お市の方も過去取り挙げた為、参考にされるのであれば、其方をご覧ください。

 

参考:戦国時代、数奇な運命を辿った悲劇の女性 『お市の方』

 

お市の方以上に数奇な運命を辿ったのは、子の3姉妹。母と同じ二度父を亡くし、二度の落城を経験。二度の経験をさせた人間が、「羽柴秀吉」。何やら因縁めいたものすら感じさせる。

更に奇妙な事は、長女お茶々が秀吉の側室(淀殿)となり、後の後継者となる「秀頼」を生んでいる。

誠に数奇と言える。

 

因みに勝家は、利家から取った人質(利家の娘)も落城寸前、利家の許に送り届けている。

此れは前田家の古文書にも掲載されている為、間違いない事実。流石に前田家の祐筆も、筆を曲げる事はできなかったと思われる。

 

秀吉の傘下の利家

信孝・勝家なき後、秀吉は信長の次男信雄・信長の同盟国であった徳川家康と、1584(天正12)年、小牧・長久手にて対陣する。

信雄・家康軍に呼応する形で、富山城主佐々成政が加賀国に進攻する。

成政は嘗て利家と信長の鉄砲衆を務め、勝家の与力としての仲間だったが、信長亡き後、秀吉の振る舞いを潔しとせず、事ある毎に対立していた。

 

賤ヶ岳以後、秀吉に擦り寄る利家に対し、良い感情をもっていなかった。

そこで小牧・長久手の戦いで秀吉軍が釘付けになった際、加賀国に攻め入ったのである。

小牧・長久手にて戦闘で、秀吉軍は大敗。

しかし秀吉得意の調略にて、信雄・家康同盟から、単独で信雄軍との和解を成立させる。

家康軍は戦う名目がなくなった為、鉾を収めた。

 

一方利家は秀吉が信雄・家康軍と対峙中、少数の勢力で多数の成政軍を討ち破ったと有名な「末森城」の戦いの勝利もあり、戦いを有利に進めていた。

秀吉と信雄は和睦をしたが、利家・成政軍は翌年まで戦いが続いた。

戦いが続いた理由はやはり、成政が秀吉を毛嫌いしていたからであろう。

 

秀吉は成政を成敗すべく、大軍を越中に派遣。成政を屈服させた。

勝利後、利家は成政の領土であった砺波・射水・婦負の3郡を加増された。

信長死後、僅か2年で利家は加賀・能登・越中の一部を治める大名に出世した。信長時代の約23万石から約76万石の大幅加増である。

これもやはり賤ヶ岳の利家の働きに因るものと思われる。後の関ヶ原でもこれだけ加増された大名は少ない。

 

1587(天正15)年、秀吉の九州征伐には、利家は留守隊として働く(子利長が遠征軍に参加)。

1590(天正19)年、秀吉は関東の覇者「後北条家」の本拠地小田原城を大軍で囲み、兵糧攻めを敢行。北条氏を滅亡させ、戦国時代に終止符をうった。

天下統一はまさに、信長と秀吉の二代に渡る、大事業であった。利家は二人の間を上手くすり抜け、見事大大名にのし上がった。

 

豊臣政権下の利家

天下統一を果たした秀吉は、次の狙いとして朝鮮半島経由で明国(唐入り)を目指した。統一を果たした翌年の1591(天正19)年、早くも肥後国にて本拠地となる名護屋城を築城。

1592(文禄元)年、朝鮮国を攻めるべく秀吉は名護屋城に出立した。利家は秀吉に先んじ、名護屋城に向け出立。つゆ払い的役割を果たした。

 

しかし秀吉が名護屋城に滞在中、秀吉の母なか(大政所)が死去。秀吉は帰阪する。秀吉留守中、利家と家康が渡航軍の指揮を執った。

急いで葬儀を済ませ名護屋城に戻った秀吉であったが、今度は翌年1593(文禄2)年、淀殿との間に待望の男子(後の秀頼)が誕生。再び帰阪した。

 

その頃、朝鮮での戦果はあまり芳しくなく、明国との講和も不和に終わり、戦いは膠着状態に陥った。

利家は家康と双璧する豊臣政権下の位になり、秀吉の晩年に機能し始めた五大老体制の根幹が、この時期固まった。

五大老とは徳川家康・前田利家を筆頭に、毛利輝元、小早川隆景、上杉景勝の事。

 

秀吉の死後

1598(慶長2)年、天下統一を果たした英雄「豊臣秀吉」が息を引き取った。

秀吉の死後、其の後の関ヶ原に続く流れは、過去に何度も述べた為、繰り返さないがこれで秀吉亡き後、天下は秀吉に続く実力者、徳川家康が実権を握る形となる。

家康の横暴を苦々しく思っていた「石田三成」であったが、利家もその一人。

※三成については、過去ブログにて紹介済。

 

秀吉は1598(慶長2)年になくなったが、秀吉と時を同じくして、利家も体に衰えを見せ始めた。

実質利家は家督を利長に譲り、隠居の身であったが、豊臣政権下で家康の抑え役として表舞台に立ち、幼少の秀頼を盛り立て豊臣政権維持に努めていた。

秀吉の死後、秀吉の威光が消え政権中に微妙な立場になっていた石田三成を陰で支えていた。

利家は病床の身をおして、1599(慶長3)年、幼少秀頼を抱き年賀の礼を行い、各大名に秀頼に対し忠誠の意を誓わせた。

 

その3か月後、利家は病に勝てず、62歳の生涯を閉じた。まさに秀吉亡き後の僅か8ヵ月後の事だった。

利家の死の直後、三成は武断派の連中に命を狙われ、苦肉の策として武断派を陰で操っていた家康の屋敷に逃げ込んだ。三成は助命されたが隠居に追い込まれたのも、過去のブログに述べた通り。

利家の死後、益々家康の壟断が激しくなり、上杉景勝が反旗を翻したのも以前話した通り。

 

前田家は利家亡き後、徳川家康の脅しに屈服。

家康に臣従する形をみせる為、利家の正妻であった(二代目利長の実母)芳春院を人質として、家康の許(江戸)に送った。

尚、芳春院は関ヶ原を挟み、1614年まで江戸暮らしをしている。

やはり江戸幕府が誕生しても、加賀百万石と言われた「外様大名」の前田家を甚だ警戒していたと言える。芳春院が金沢に帰郷したのは、「大坂の陣」の直前だった。

 

このように利家の一生をみれば、初めは確かに信長に仕えていたが、利家の大出世の鍵はやはり、秀吉との関係が大きかったと言える。

本能寺の変以後、秀吉の台頭がなければ、利家の出世もあり得なかった。また秀吉も利家がいなければ、賤ヶ岳で勝家を破る事ができなかったかもしれない。

二人は当に二人三脚であったと言え様。それは大昔二人がまだ信長に仕えまもない頃、垣根を隔て隣同士だった関係が由来していると思う。妻同士(ねねとまつ)も仲が良かった。

 

利家は信長・勝家と微妙に距離をとり、秀吉と供に出世を遂げた。更に秀吉亡き後、豊臣政権を支えるべく尽力したが、力尽きた。

人生の大半が、秀吉に関係していた事を伺わせる。

利家の死後、前田家の子孫は次の覇者家康に巧に擦り寄り、江戸時代を経て、明治維新を迎えている。

これは利家譲りの世渡り上手が功をなし、前田家の将来の安泰を築いたとも云えよう。

 

追記

尚、2002年NHK大河ドラマにて、前田利家を主人公とした『利家とまつ』が放送された。前田利家を演じたのは、唐沢寿明。まつ(芳春院)を演じたのは、松嶋菜々子だった。

なかなかの視聴率だったが、地上波では二度と放送される事はないだろう。何故なら、主要な役を演じた役者に、スキャンダルが発生した為。

 

最近放送が開始されたNHK大河ドラマ『麒麟が来る』(明智光秀が主役)と同様のスキャンダルが発生した為と言えば良いであろうか。そう表現すれば、当時リアルタイムで見ていた方は、おそらくピンとくる筈。

今回の場合(麒麟が来る)、放送するまで時間があり、代役を立て無事取り直しに成功したらしいが。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献

【逆説の日本史11 戦国乱世編】井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2007年6月発行)