戦国時代、数奇な運命を辿った悲劇の女性 『お市の方』

戦国時代きっての美人の云われた『お市の方』。しかしその生涯は決して、幸せとは言えなかった。

今回は、『お市の方』を取り挙げて見たいと思う。

 

・名前    お市の方、小谷の方

・生涯    1547年(生)~1583年(没)

・配偶者   浅井長政、柴田勝家

・家柄    織田信秀(父)、土田(どた)御前(母)

・縁者    織田信長(兄)、織田信行(兄)

尚、戦国の魔王と呼ばれた「織田信長」とは、13歳ほど離れていると云われている。

 

経歴

戦国時代、特に女性の記録は殆ど存在しない。余程、歴史に有名な人物の近くにいる女性でない限り。

お市の方も多分に漏れず、織田信長が歴史の表舞台に現れるまでは、記録らしい記憶は殆ど残されていない。

 

最も本能寺で信長を討った明智光秀でさえ、信長に仕えるまでの経歴は定かでない。松永久秀ですら、前半生不詳。

もし信長が歴史の表舞台に登場しなければ、戦国の世において少し奇麗な娘として、一生を終えたのかもしれない。

戦国時代は如何に有名な女性でも、はっきりした名前は残されていない。お市の方と勝るとも劣らない有名な秀吉の正妻「ねね」ですら、「北の政所」と呼ばれていた程度であった。

それだけ戦国時代、女性の地位は低かったと言える。

 

因みに信長が14歳の時、正室に迎え婚姻した、蝮こと「斎藤道三」の娘濃姫(お濃)でさえ、祝言を挙げたとだけ記されており、其の後どうなったのかは定かではない。

其の後、一切記録に出てこない。

TVの歴史番組等では、本能寺の変まで二人は添い遂げたとするものもあるが定かではない。

おそらくフィクションの類と思われる。

 

最も史実に近いと云われる「信長公記」ですら、全く登場しない。

しかし他の戦国大名に比べ、織田家はまだ女性をかなり優遇していた事だけは確かのようだ。

 

織田信長の台頭

お市の方が明確に歴史に登場するのは、信長が天下取りの中心人物として現れた瞬間からである。

信長は1560年、「桶狭間の戦い」にて当時「東海一の弓取り」と云われた「今川義元」を奇襲で破り、信長は歴史の表舞台に踊り出た。

 

義元を討ち取った後、信長は今川家の配下であった三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟する。

同盟後、斎藤氏が治める美濃を攻めた。1567(永禄10)年、とうとう信長は念願の美濃を制圧する。

信長34歳、お市の方21歳の時。

 

美濃制圧後、信長は越前朝倉氏の食客となっていた足利義昭を迎え、上洛を決行。

信長が美濃から上洛するまでの間に、近江の国(北近江、南近江)があった。

南近江(六角氏)は反信長を明らかにした。

 

其処で信長は北近江を治める当時23歳の浅井長政に対し、懐柔と同盟を目的として、妹お市を輿入れする案を採用する。

下手に争うよりも、浅井家に対し同盟を求めた。所謂「政略結婚」だった。

 

お市の方と長政の縁組は、意外にうまく進んだ。

長政は以前、六角氏の家臣井定武の娘を正室としていた。

 

しかしあまりにも六角氏の横暴に耐え兼ね、六角氏から離反する意で正妻を嫁ぎ先に帰し、離縁していた。

その為、長政の正室の座は空席だった。

信長は其処に付け込み、信長が美濃を制圧するほぼ同時の1567(永禄10)年9月頃、織田・浅井の政略結婚を成立させた。

 

翌1568(永禄11)年9月頃、信長は足利義昭を奉じ、南近江の六角氏を滅ぼし、意気揚々と上洛を果たした。

 

浅井長政に輿入れ

浅井家に嫁いだ市と長政の関係は、とりわけ仲睦まじい夫婦だった。

結果から先に述べるが、お市の方は1573年、義兄信長に攻められ浅井家が滅びるまでの6年間に、二男三女をもうけている。

 

長男「万福丸」、長女「お茶々」、二女「お初」、三女「お江」と呼ばれた。

お市の方もさること乍、戦国時代で最も有名と云われた三姉妹が、ここで登場する。

因みに次男もいたとされているが、はっきりしない。

長男万福丸は小谷落城後、処刑される。次男は刑を許され、出家したとも云われている。

 

沢山の子供と良き夫に恵まれ、幸せと思われたお市に転機が訪れた。

戦国の世は、決してお市の方と浅井家を安穏のままにさせておかなかった。

 

1568年、上洛を遂げた兄信長は其の後勢力を伸ばし、今や戦国の中心人物となっていた。

信長が力を付けるに従い、信長と将軍義昭との関係は険悪なものとなっていた。

義昭は信長の勢力拡大を潔しとせず、各大名に御教書(将軍が発する命令書)を送り、信長包囲網を結成しつつあった。

1570年(元亀元)の頃の話。

 

勢いを増した信長は1570(元亀元)年、長い間浅井家と同盟関係を結んでいた越前朝倉家を攻めた。

此処から、お市の運命は激変する。

信長は朝倉家を攻める為、浅井家に援軍を求めた。信長が朝倉家を攻める事で、浅井家では意見は割れた。

元来浅井家は朝倉家と同盟中、朝倉家に対し、なみなみならぬ恩恵を受けていた。

 

隠居した身とはいえ、実質浅井家を牛耳っていた「浅井久政」は宿年の恩義を感じ、信長を裏切り朝倉家の味方を主張する。

長政は市との関係で、やや織田家に味方する事を主張した。

 

しかし父以下、家臣諸々が朝倉家に味方すべしとの意見が通り、長政は信長を裏切る結果となる。

この時を境として、お市の運命は転機を迎えた。

 

浅井家の離反

お市の方は長政も大事であったが、兄信長に浅井家の裏切りを何とか知らせようと思案を巡らした。

其処で考案されたのが、有名な「あずき袋」の話。

 

もはや信長の敵となった浅井家は、お市の書状にも検閲が入る状態。

お市の方は袋にあずきを入れ、その両端を縛り、「陣中にてお召し上がり下さい」とだけ手紙を添え、信長に使者の早馬を遣わした。

 

陣中にて使者からお市の方の預かり物を受け取った信長は、あずきを取り出そうにも、袋は両端が結んであり、あずきが取り出せない。

あずきが自分(信長軍)であり、両脇から挟まれる。つまり朝倉・浅井の両軍に挟み撃ちにあうのを意味した。

 

信長は悟った。「自分は今、死地にいる」と。

死地にいると悟った信長は、一目散に「逃げ」の一途を取った。

 

北近江は浅井家の勢力下にある為、信長は琵琶湖湖畔の朽木谷を僅か数名の手勢で逃げ、一目散に京を目指した。

信長が逃げ延びる際、土豪の朽木元綱がいつ裏切るとも分からない。

その為、朽木を説得にいったのは、なんと松永久秀。久秀は変わり身の早さで有名な男。

久秀は信長が上洛後、いち早く信長に臣従した。この事は以前、松永久秀を述べたブログで述べた通り。

 

※参考:戦国時代きっての極悪人、アクの強い男「松永久秀」

 

信長は危うく虎口を逃れ、京に辿り着いた。

信長は無事脱出できたが、信長軍は越前金ヶ崎に置き去りにされた。信長軍は、越前から撤退しなければならない。

侵攻する場合、勢いに任せる為、然程行軍は難しくない。

しかし撤退は至難の業。撤退する為、自軍は意気消沈している。大概は負け戦の為。

 

一方敵軍は撤退する軍を攻撃する為、血気盛ん。これは古今東西、何処も変わらない。

この時、殿軍(しんがり)を務めたのが、信長軍代表として「羽柴秀吉」、同盟軍の「徳川家康」が選ばれた。

その後この撤退は「金ヶ崎の退口:のきぐち」と云われた。

 

太閤秀吉が天下統一後、家康に対し、金ヶ崎の退口に言及して感謝したと云われている。

この時を境に、お市の方の浅井家に対する立場は微妙なものとなる。言うなれば、針の筵であろうか。

 

信長は京に戻り、すぐさま大勢を整えた。大勢を整え、裏切りの浅井家を攻めた。

1570(元亀元)年、金ヶ崎から撤退した僅か2ヶ月後の6月、浅井・朝倉軍と姉川を挟み対峙した。

緒戦は信長軍劣勢であったが、同盟家康軍の活躍もあり、信長・徳川軍は姉川の戦いで勝利した。

浅井・朝倉家は敗戦後、急激に衰え、3年後の1573(天正元)年8月、ほぼ同時期に浅井・朝倉家は滅亡する。

 

浅井家の滅亡

1573年8月、信長は畿内の安全を脅かす、宿敵浅井・朝倉家を滅ぼす為の兵を挙げた。

朝倉家を滅ぼした信長は、そのまま浅井家の小谷城を包囲した。

 

小谷城を包囲した信長は、妹市の事を案じたのであろうか、一時攻撃の手を緩めた。

おそらく長政と信長との間で、お市の方と子供の処遇が話し合われたのであろう。

 

信長が総攻撃を開始する前、夫長政の計らいにより、お市の方を始めとして、各子供たちが信長の許に送られた。

一方信長の総攻撃の最中、舅浅井久政、夫浅井長政は自害。

お市は子供と供に自害を遂げようとしたが、信長の家臣に助けられたとも言われている。

どちらか真実なのかは、定かではない。

 

お市の方を始め、姉妹3人と長男(次男もいたのと言われている)は小谷落城後、信長の手許に戻った。

3姉妹は助命された。しかし長男の万福丸は成人後、将来の禍根となるのを恐れ、処刑された。

浅井攻めで最も活躍した武将は、皮肉にも後に長女茶々を側室にする秀吉だった。

お市の方は、夫長政を死に追いやった秀吉を生涯恨んだと言われている。

 

浅井家滅亡後

信長は浅井家を滅ぼした後、論功行賞として秀吉を旧浅井領の長浜(今浜)の城主に封じた。

長浜が一夜城で有名な「墨俣城」と並び、秀吉の出世城と云われる所以である。

 

信長に引き取られたお市の方と3人の娘は、其の後信長の庇護の下に暮らしたと思われる。

思われると書いたのは、其の後暫く歴史の表舞台に登場しない為。

お市の方が再び歴史に登場するのは、あの戦国の有名な「本能寺の変」以後。

 

浅井家が滅んだのは、1573年。本能寺の変は、1582年。

凡そ9年近く、殆ど歴史に登場しなかった。普通の女性であれば、濃姫の如く歴史の闇に消えていたであろう。

しかし歴史はお市の方を、そのまま放っておかなかった。

信長亡き後、お市の方を始め、お市が生んだ3人の娘がその後の歴史に大きな影響を与える。

それでは本能寺の変以後のお市の方と、娘3人の行く末を述べたい。

 

本能寺の変以後

本能寺の変は戦国時代において、最も重大な事件。

本能寺の変は過去のブログにて述べている為、此処では省略したい。

 

本題は、本能寺の変後の「清洲会議」である。

清洲会議は信長亡き後、信長軍と信長家の行く末を決定した会議である。

詳しくは述べないが、この会議で信長の宿老だった柴田勝家、重臣の羽柴秀吉の対立が決定的となる。

 

信長亡き後、織田家は既に瓦解。重臣たちの後継者争いが始まっていた。

その対立は翌年の賤ヶ岳の戦いに発展するが、今は清洲会議にて、お市の方の処遇について述べたい。

 

清洲会議では信長亡き後、お市の方と3人娘の処遇が問題となった。

信長が居れば当然何も問題はないが、いなくなった今お市の方は、微妙な位置に立たされた。

お市の方の処遇が、政争の具となったと言える。

お市の方と3人の娘は、秀吉と対立した勝家の許に預けられる形となった。

勝家には、正妻がいなかった。その為、お市の方が正妻として迎えられたのである。

 

お市の方は正式に勝家の正妻となり、娘ともども越前北ノ庄に移った。

夫長政を自害に追いやった秀吉に対する面当てもあったのかもしれない。

お市の方、この時35歳と思われる。浅井家が滅びてから、9年の歳月が流れていた。

しかし前述の如く、平穏はそう長くは続かなかった。

 

清洲会議後、勝家と秀吉の関係が悪化。

翌年の1583年、勝家と秀吉は干戈を交える。互いに軍勢を率い、江北の賤ヶ岳で対峙する。

 

結果は勝家の与力前田利家の戦場離脱もあり、勝家は惨敗。勝家は北ノ庄に逃げ帰る。

北ノ庄に逃げ帰った勝家は清洲会議後、正妻としたお市の方と供に自害。

お市の方は、北ノ庄の炎上と供に命を果てた。

 

お市の方は、前夫浅井長政の小谷城で落城。

後夫柴田勝家の北ノ庄城と人生で二度、落城を経験している。此れも珍しい経験と思われる。

まさに薄幸の女性と言え様。当時お市の方は、36歳。

佳人薄命とは、当にお市の方の事を指すのであろうか。

 

母以上に、数奇な運命を辿る3姉妹

勝家は北ノ庄城が焼け落ちる際、勝家はお市の方の娘3人を敵将の秀吉に託した。

この3姉妹が後の権力者の政争に巻き込まれ、母親(お市の方)以上に数奇な運命を辿る3姉妹、「お茶々」「お初」「お江」であった。

 

この時お茶々14歳、お初13歳、お江10歳と云われている。

因みに昔のNHK大河ドラマで本能寺の変後、3姉妹の一人「お江」が家康の「伊賀越え」に同行したという設定があったが、それは全くのフィクション。

 

本能寺の変の際、お市の方と娘3人は何処にいたのかは、全く不明。

安土城かもしれないし、岐阜城かもしれない。

 

TV番組等では、フィクションとして脚本が大幅に書き換えられている為、注意が必要。

私も幼少の頃、TVの内容をそのまま史実と勘違いして思い込んでいた節がある。

 

それはさておき本題に戻るが、3姉妹はその後秀吉の庇護を受け成人する。

お茶々は成人して1588年頃、自分の父(浅井長政)を滅ぼした秀吉の側室となる。

後に「淀殿」と呼ばれ、秀吉の晩年に「秀頼」を生む。

秀吉の死後、大坂城にて絶大な権力を振るい、1615年の大坂夏の陣で大坂城の落城まで生きる。

 

二女お初は、京極高次の正妻となる。関ヶ原の戦い夫(京極高次)は西軍に付いたが、後に東軍につく。

関ヶ原以後は夫の功により、敦賀に移るが夫の死後、出家。

後に姉の淀を頼り、大坂城にいく。

大坂の陣の際、豊臣家と徳川家の仲を取り持つ事に奔走する。

 

三女お江は、初めは佐治一成に嫁ぐ。後に秀吉によって離縁させられる。

2度目は秀吉の甥の豊臣秀勝であったが、秀勝もいつの間にか歴史から消えている。

そして3度目の結婚が、徳川家康の嫡男秀忠であった。

 

お江が秀忠の正室となったのが、1595年頃と云われている。

因って関ヶ原では、二人の姉の淀・お初(途中から東軍)と敵対関係だった。

大坂の陣で、再び姉の淀殿と対立。1615年夏の陣で豊臣家は滅んでいる。

 

つまり3姉妹のなかで、もっとも生き残ったと言えるのが、三女のお江であった。

淀殿と供に自害した秀頼の正妻千姫は、お江と秀忠の子。つまり秀頼と千姫はいとこ同士であった。

 

尚、豊臣家が大坂の夏の陣で滅びた際、千姫は18歳だったが、炎上する大坂城から助けられ、翌年1616年に臣下の本多忠刻と再婚している。

お江は後の三代将軍、「徳川家光」を生んでいる。

 

お江は更に徳川家が無理やり入内させた、中宮和子も産んでいる。

家光と和子の子孫が脈絡と血統を繋ぎ、今日に至っている。その由来の説明は、又の機会に譲りたい。

 

信長の妹として、歴史に登場した「お市の方」。

戦国時代でも稀にみる美貌を持ち乍、歴史の渦に翻弄され、薄幸な生涯を遂げた。

そしてその娘3人も時の権力者の政争の渦に巻き込まれ、数奇な運命を辿ったと言えるであろう。

 

(文中敬称略)