戦国時代、義を貫いた武将『大谷吉継』
戦国時代、それは離合集散を繰り返した人間の欲が明確に浮き出され、裏切りが当たり前の時代だった。
そんな時代の中、稀に見る義を貫き、命を果てた者も存在した。
今回はそんな一人である、大谷刑部吉継にスポットを当ててみたい。
・名前 大谷吉継 大谷紀之介
・生涯 1565年(生)~1600年(没)
・官位 従五位下 刑部少輔
・主君 豊臣秀吉、秀頼
・領地 越前国敦賀2万石
・縁者 真田信繁(幸村)の舅、つまり幸村(信繁)は婿殿。秀吉の正室「北の政所」と は縁者とも言われている。
目次
経歴
大谷吉継、幼名紀之介。父は豊後国、大友氏の仕えていたと言われているが、定かではない。
秀吉の正妻「おね」の縁者とも言われている。幼少の頃、秀吉の小姓として取り立てられた。
同じ小姓に加藤清正、福島正則、一柳直末などがいた。
後に刎頸の交わりなる「石田三成」もいたと言われている。
三成とはこの頃からの顔見知りで、どうやらウマがあった。
同じ近江出身という事もあろうか。
旧浅井領(長浜)の二人は、秀吉が信長家臣団の中で頭角を現すに連れ、吉継と三成も徐々に重要な役目(奉行)を任せられる。
羽柴秀吉の台頭
主君秀吉が信長の命を受け、中国の雄「毛利氏」を攻める総司令官となった。
秀吉が毛利攻めの際、前線基地を姫路城に移す事になり、吉継も姫路城に転戦する事になる。
此の時吉継は、秀吉の馬回りとして従軍している。
主君秀吉が毛利氏の高松城を攻めている最中、戦国の世を一夜にして翻す、大事件が起こった。
本能寺の変である。
本能寺の変以後
本能寺の変は過去のブログにて何度も取り挙げている為、詳細は省く。
吉継の主君秀吉は信長の横死を知るや否や、すぐさま中国路を引き返し(中国大返し)、秀吉の主君である信長の仇(明智光秀)を、山崎の戦いで破った。
秀吉がいち早く主君信長の仇をとった為、信長亡き跡の織田家の行く末を話し合う「清洲会議」で、宿老柴田勝家との対立が決定的となる。
翌年の「賤ヶ岳の戦い」で秀吉は家臣「七本槍」の活躍もあり、秀吉は名実ともに信長の後継者に躍り出た。
秀吉の天下統一
秀吉は賤ヶ岳の戦いで勝家を滅ぼした後、主君織田家の子孫を謀略で巧みに葬り、同じライバルであった滝川一益、佐々成政等を屈服させた。
秀吉が力を持つに従い、賤ヶ岳では柴田軍の味方であった前田利家も味方につけ、織徳同盟の相手であった徳川家康も1584年「小牧・長久手の戦い」後、臣従させた。
1585年、秀吉は四国の長曾我部元親を制覇。
その後、嘗て干戈を交えた毛利氏と和睦。
返す刀で1587年、九州征伐に乗り出し、島津氏を服従させた。
1590年、関東の覇者「後北条家」の居城「小田原城」を大軍で包囲。兵糧攻めで落とす。
小田原包囲の際、東北を制覇した「伊達政宗」も秀吉に臣下の礼をとり、服属。
秀吉は見事、全国統一を成し遂げた。
秀吉が出世するにつれ、吉継の地位も上がっていく。
しかし惜しい事に吉継は当時、意味不明の病(現代のハンセン病)を患い、僅か越前敦賀2万石の城主に甘んじていた。
一方、昔から顔見知りであった「石田三成」は、太閤の側近中の側近として秀吉に仕え、内政面に手腕を発揮。
三成は、筆頭奉行的な地位に就いていた。
秀吉の天下統一後、三成の権勢はますます強まるばかりだった。
その三成と吉継を繋ぐ有名なエピソードがある。
既にご存知と思われるが、改めて紹介したい。
吉継と三成の逸話
秀吉が信長の跡を継ぎ、日増しに権勢が増す1587(天正15)年、大坂城で茶会が開催された。
招かれた大名は一口ずつ口を付け、次の大名に回していた。
吉継の番がやってきた。吉継はその時、誤って顔の膿を茶碗に落としてしまった。
それを見た大名は、口をつける振りをして茶を飲まず、次に回していた。
一説では膿は落ちておらず、ただ吉継が口を付けた茶碗に、口をつけるのが嫌だったとの説もある。
病気の伝染を恐れたのかもしれない。
兎に角、吉継が口をつけた茶碗を誰も口を付けようとしなかった。
石田三成の番がやってきた。
三成は何食わぬ顔をして、茶を飲み干し、おかわりまで所望したと言われている。
三成の行動を見た吉継は、三成に友情を感じた。
後の関ヶ原では負け戦になると知りながら、三成に味方したと言われている。
此のエピソードは後に徳川の治世に成れども、抹殺・改竄されなかった。
その為、本当の話と思われる。
何故なら、徳川の治世で「石田三成」は「由井正雪」と並び、天下の極悪人と喧伝されていた。
徳川の治世下でさえ、三成の事を決して悪く喧伝していない為、事実と思われる。
秀吉の死後
秀吉は天下統一後、秀吉は五大老・五奉行を設置。
更に領土拡張の為、朝鮮出兵を行った。
肥前国名護屋城に本拠地を構え、朝鮮に出兵する。
緒戦は秀吉軍は完勝するが、後の苦戦。その後戦いは停滞。
1598年、秀吉の死と供に、日本軍は朝鮮から撤退した。
朝鮮出兵は豊臣政権の根幹を揺るがし、各大名を疲弊させた。
秀吉の死後、政権内部の武断派・文治派の争いが激しくなる。
三成は武断派から命を狙われ、武断派を陰で操っていた家康に助命を求めた。
三成の助命の交換条件として、三成は豊臣政権内部から退き、佐和山城にて隠居身分となった。
思い起こせば「武断派・文治派」に別れ対立するようになったが、元々は同じ秀吉の側近だった。
武断派の中心人物「加藤清正・福島正則」、文治派「石田三成」は、秀吉が長浜にいた頃の幼少期、供に側近だった。
いみじくも時の流れが、人間の運命を変えたと言えるであろうか。
関ヶ原前夜
三成が政権の中枢から去った後、家康の横暴は益々、目に余るようになった。
秀吉の死後、生前秀吉が定めた掟をないがしろにし、家康は横暴を極めた。
この事も前述した関ヶ原の戦いを紹介した際、詳しく述べた為、省略する。
五大老の一人「上杉景勝」は、家康の横暴に耐え兼ね大坂を去り、領地の米沢に帰国。
真っ向から家康に反旗を翻した。
景勝の態度を問題視した家康は、景勝に再三弁明を求める書状を送り、大坂に直接弁明にくるよう求めた。
しかし景勝は、その都度のらりくらりとかわし、更に有名な「直江状」を送り家康を挑発した。
直江状を見た家康は、激怒。豊臣家に盾突く者として、上杉討伐を決定。
上杉討伐軍を編成する為、各大名に出兵を命じた。
やがて上杉討伐の為の出兵命令が、敦賀の吉継の許にも届いた。
吉継は上杉討伐軍に参加する為、北國街道を下り美濃国垂井までやってきた。
垂井まできた時、佐和山城の三成から使者があり、吉継は三成の居城佐和山城に向かった。
佐和山にやってきた吉継は、三成から重要な話を持ち掛けられた。
それは反家康の旗を挙げる為、その軍に吉継軍も加わって欲しいとの事。
三成から話を打ち明けられた吉継は、すぐさま三成に「やめろ」と忠告した。
成功の見込みがないからと。
更にはっきりと
と吉継は三成に告げた。
「もし反家康軍を編成するのであれば、毛利輝元殿か宇喜多秀家殿を立てた方が良い」
とも助言している。
追加で君は優柔不断な処があり、家康と比べ実践・経験でも劣っているので成功の見込みがないと迄、述べている。
尚も追いすがる三成を振り切り、一旦吉継は垂井の陣に戻った。
陣に戻った吉継軍は上杉討伐軍に加担しようとするが、急遽軍を佐和山城に引き返した。
佐和山城に戻り吉継は、三成に味方する旨を約束した。
三成が吉継に感謝したのは言うまでもない。
吉継は上杉討伐軍に加担する事を諦め、其の後、起こりうる大いくさに備え、自領の敦賀に戻った。
吉継が三成に味方しようと決めたのは、前述した茶会での出来事が大きく影響したのは間違いない。
吉継程の先を見通せる男が、三成に味方したと言う事は、もうお分かりだと思う。
吉継は採算など度外視。
寧ろ「破滅の道、滅びゆく運命」を選んだ。
これは戦国史の中でも、有名な友情話と言われている。
そして三成と吉継は、関ヶ原の戦いを迎える。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いは過去のブログに詳細に述べている為、割愛する。
ただ関ヶ原の戦いの最中、西軍の中で亡き太閤殿下(豊臣家)の為に戦った武将は、
「石田三成軍、宇喜多秀家軍、大谷吉継軍」だけであろうか。
あとは日和見、裏切り。
天下分け目の戦いも、僅か半日にて決着が付いた。
大谷軍は奮闘したが、松尾山の「小早川秀秋」の裏切りで側面を突かれ、あえなく全滅した。
大谷軍が全滅した為、宇喜多軍も側面を突かれ全滅。
やがて西軍は総崩れとなり、戦いの趨勢は決した。
大谷吉継は戦いの前日、小早川秀秋の陣を訪問。
うすうす秀秋の裏切りを察し、自軍に戻り裏切りに対し微妙に陣構えを変えた。
しかし多勢に無勢。
いくら士気が旺盛でも、数に勝てず、更に裏切り備えた自軍の将(脇坂・朽木・小川・赤座)までもが寝返った為、いかんともしがたく、吉継軍は全滅した。
戦いの最中、眼が見えない吉継だったが、藤川台の陣で側近に輿を担がせ、陣頭指揮をとっていた。
しかし味方の不利、全滅を知ると側近に輿を担がせ、戦場離脱。
離脱後、側近の湯浅五助に介錯を命じ、「この醜い首を、決して敵に渡すな」と厳命して自害した。
自害後、吉継の首は持ち去られ、関ヶ原の何処かに埋められ、敵に発見される事はなかった。
発見されなかったのが、吉継の唯一の救いだったのかもしれない。
尚、他の西軍武将の運命は以前述べている為、省略する。
関ヶ原後、大谷吉継の子孫
大谷吉継は戦国時代、裏切りが当たり前の時代において、義に生き、義に因って滅びた数少ない武将の一人と言われている。
1615年、大坂夏の陣で滅びた大坂方(豊臣方)に味方した真田幸村(信繁)と双璧して、評価される武将。
以前、関ヶ原のブログの章でも述べたが、奇しくも二人は縁者関係である。
大谷吉継の娘が、真田幸村(信繁)の正妻。
真田幸村は太閤秀吉が大坂城で権勢を振るっていた頃、真田家の人質として秀吉の大坂城に身を寄せていた。
その時、太閤秀吉が真田家を自分の傘下に組み込む為、政略結婚として大谷刑部吉継の娘を娶らせた経緯があった。
政略結婚であったが、二人はとりわけ仲がよかった様子。
決して妻の父が西軍に味方した為、真田昌幸・幸村は西軍に味方した訳ではなかろうが、結果として西軍に味方した。
関ヶ原は、西軍の惨敗。
真田昌幸・幸村親子は長男信幸(信之)の助命嘆願もあり(信幸の妻の父は、本多忠勝)、何とか死罪は逃れたが、紀州の九度山に蟄居身分となった。
蟄居となった幸村であったが幸村の妻は離縁せず、九度山に一緒に付いて行った。
お嬢様育ちだったが、慣れない野良仕事などをして苦労した。
幸村は正妻(大谷吉継の息女)と
「長男大助、次男大八、四女あぐり、六女阿菖蒲、七女おかね」
と家族には恵まれたが、生活は窮乏した。
幸村はこのまま九度山で朽ち果てるかと思われた。
しかし歴史は、英雄を朽ち果てさせなかった。
幸村は戦国の終焉となる戦い「大坂冬の陣・夏の陣」に参加。勇名を馳せる。
勇名を馳せた幸村は、後に敵味方関係なく「真田日本一之兵」と称賛され、後世に名を残した。
その幸村の活躍が認められ、娘あぐりは蒲生家、阿菖蒲は伊達家重臣の片倉家に嫁いでいる。
舅と婿殿が偶然にも、義を貫き後世の現代にまで語り継がれる英雄になるとは、何か不思議な縁。
以前紹介した「松永久秀」とは、まさに対照的な生き方をしたと人物と言えるかもしれない。
(文中敬称略)