関ヶ原の戦、勝敗を分けた要因1(秀吉の死後、派閥争いと家康の台頭)

 

関ヶ原の戦い

 

1600(慶長5)年9月15日、天下分け目の「関ヶ原の戦い」がおこなわれた。

一つは五大老「徳川家康」を中心とした東軍と呼ばれる軍勢。

もうひとつは五奉行「石田三成」を中心とした西軍と呼ばれる軍勢。

 

両軍が美濃国関ヶ原に相まみえ、雌雄を決し、後の歴史を決定づけた戦い。

今回、関ヶ原の戦を取り上げてみたい。

 

史上稀にみる大軍同士の戦いでありながら、意外にも僅か半日で決着がついた。

戦前後には、様々な駆け引きが存在した。

 

今更何故、関ヶ原かと云えば、関ヶ原の戦いを境に現代社会の礎が築かれたといっても過言でない。

既に400年以上経過しているが、現代社会の基をなしたと言える。

 

日本は関ヶ原以後、徳川治世を経、明治維新を迎え今日に至った。

上記の如く関ヶ原の負け組が約270年の時を経て、見事に逆転劇を果たした。

まさに歴史の因果とも言えよう。

 

関ヶ原の発端

 

1598(慶長3)年8月18日、一人の英雄がこの世を去った。

「露と落ち、露と消えぬる わが身かな。浪速のことは 夢のまた夢」

と辞世を残し、大坂城で息を引き取った。名を「豊臣秀吉」と言った。

 

英雄の死の2年後、日本をほぼ東西に二分する戦いになると予測できた者はこの時、誰もいなかった。

しかし争いの前兆は、以前から随所に現れていた。

「武断派」と「文治派」の争いである。

 

武断派は「福島正則」「加藤清正」「細川忠興」「黒田長政」など。

文治派は「石田三成」を筆頭に「増田長盛」「長束正家」「前田玄以」あたりであろうか。

「浅野長政」はどちらかと云えば武断派に近い。

 

秀吉政権の屋台骨を支えるべき子飼いの武将達が、二つの派閥にわかれ争っていた。

どれだけ盤石と云われている組織も、一旦内部を見れば、大なり小なりの争いが存在する。

組織を弱体化される原因も、内部分裂と云われている。

組織は頭から腐ると言うが、まさにその言葉が当て嵌ると言えよう。

 

秀吉政権も元を質せば本能寺の変後、織田家臣団間の争いから始まる。

「羽柴秀吉」と「柴田勝家」の争いが最も有名だが、秀吉は勝家意外にも、当時のライバル家臣たち「滝川一益」「丹羽長秀」「前田利家」「佐々成政」などを次々に屈服・臣従させている。

 

秀吉は、嘗ての主君「織田家」の一族だった「信孝」「信雄」すら屈服させた。

「清洲会議」で担ぎ出した「信忠」の遺児「三法師」を利用する。

しかし三法師が成人後、天下を返すとの約束を完全に反故にした。

三法師に信長ゆかりの城「岐阜城」を与えたのみで、うやむやにしている。

信孝に至っては、信孝の実母まで処刑した。

 

徳川家康は豊臣家を阿漕な手で乗っ取り、天下を掠めたと言われ評判が良くない。

しかし歴史を詳しくみれば、秀吉もたいして変わらない。

秀吉の場合、秀吉の人柄と性格で、あまり悪く言われていないだけ。

 

派閥争いを深く掘り下げればきりがないが、大まかに言えば「朝鮮出兵派」「内政派」、「北の政所派」、「淀殿派」に別れるのではないかと思われる。

詳細は割愛する。家康は秀吉政権の派閥争いを、上手く利用した。

 

現代社会も同様。

現場で身を粉にして働いている人間と、どちらかと云えば社内政治に長け、社長などに気に入らるような側近とは決してそりが合わないのは現代でも変わらない。

秀吉の死後、争いは激化した。

武断派の連中は以前から、三成を排斥しようと虎視眈々と狙っていた。

 

当時、家康に対抗できる大名が只一人いた。

尾張時代から「信長」に付き添い、秀吉と苦楽を共にした大名「前田利家」である。

利家がいた為、利家の庇護で三成の安全は確保されていた。

 

秀吉の死後、その後を追うように利家も亡くなった。

利家亡き後、三成の後ろ盾は完全になくなった。

利家の死を待っていたかの如く、武断派の連中は三成を亡き者にしようと、追い回した。

 

武断派にすれば朝鮮出兵の際、自分たちが軍役を担い、出費、生死を懸け現地に赴き戦った。

内地にいた三成を快く思っていなかった。

三成たち文官と云えば、軍監的役割をしたのみ。

秀吉に自分の胸先三寸で報告できる立場であった。武断派の論功行賞は、三成達の報告で決定されていた。

 

しかも朝鮮出兵は大失敗、他国遠征で奪った領土など全くない。

反対に出兵した各大名は、ただ国力・兵力を減らしたのみ。

挙句に三成の報告で減封、転封を食らった者もいる。

 

関ヶ原で戦いの趨勢を決めた「小早川秀秋」もその一人。

秀秋は三成の報告で、減封を食らっている。

当然、恨みを抱いていたであろう。

 

前田利家の死後

 

事件は利家の死後、直に起きた。

武断派の武将たちは三成を追い回した。

三成は難を逃れる為、奇策で武断派を陰で操っていたと思われる「家康の屋敷」に逃げ込んだ。

 

武断派の連中も家康の屋敷であれば、おいそれと乱暴狼藉はできないと睨んでの三成の行動。

家康は簡単に武断派の連中に、自分を差し出す事はないとの狙いも計算の上。

大胆にも、相手の懐に飛び込んだと言えるだろうか。

 

もし家康が三成を差し出せば、家康の評判が下がると読んでの事。

流石、三成もさる者。秀吉の側で辣腕を振るっていただけある。

 

家康のとりなしもあり、その場は収まった。

命を助けてもらった三成は、代わりに騒動の責任として豊臣政権中枢から引退。

隠居となり、佐和山城に蟄居の身となった。

 

三成を佐和山城に送り届ける際、家康が武断派の連中が手を出さない為、護衛も付けたようだ。(次男、結城秀康と云われる)

家康としては、今はまだ殺すにはまだ惜しいと考えたのだろう。

後に三成を助けた代償が大きな果実となり、帰ってくる。流石は、海千山千の強者。

 

以後、三成は佐和山城にて蟄居となった。これが関ヶ原に繋がる長い道のりの始まりとなった。

 

石田三成が佐和山城に退いた後

 

三成が大坂城を退いた後、京都「伏見」にいた家康が大坂城に入城した。

秀吉亡き後、正妻だった「北の政所」が大坂城の西の丸にいたが、ねねが京都に退去。

入れ替わる形で家康が入城した。

 

更に家康は、自分専用の天守閣まで作った。

つまり大坂城の中に天守閣が二つあり、城の主が二人いるという意味。

 

当時の資料を見れば、大坂城の大手門から入り、本丸に行くには必ず西の丸を通る道筋。

つまり本丸の「秀頼」「淀君」を訪ねるには、必ず西の丸を通る。

各大名は秀吉・利家の亡き後、最高実力者である家康を素通りする訳に行かず、嫌が上でも面会する仕組み。

 

家康側には誰がどの様な用件で本丸を訪ねるのか、筒抜けの状態。

帰りも同じ。帰り際も西の丸を通る為、隠し事は出来ない状況。

事実上、家康が天下人といっても過言でない。

誰も咎める者がいない為、家康の専横は益々エスカレートする。

 

例えば秀吉が禁止していた大名同士の婚姻関係を、勝手に結ぶ等。

家康は次々に婚姻を結び、目ぼしい大名に身内と婚姻させ、自分の傘下に取り込んだ。

福島家もその中の一つ。福島家は後に大切な役割を果たす。

 

次に家康の矛先は、利家亡き後の「前田家」に向かった。

利家の後を継いでいた「前田利長」に難癖をつけ、加賀を攻めると脅しをかけた。

 

利家の死後、流石の前田家も家康に逆らう事ができず、恭順の意を示す為、利家の未亡人「芳春院:まつ」を人質に差し出した。

 

結果からみれば、この措置が外様大名でありながら徳川時代の治世を乗り切り、明治維新を迎えた前田家の悠久の知恵となった。

とにかくお家存続の為、前田家は家康に屈した。

 

五大老の一人であった「前田家」が屈服した為、他の大名も次々と家康に、恭順の意を示した。

 

上杉景勝の反旗

 

大名の中で、家康の横暴を苦々しく思っていた大名がいた。

五大老の一人「上杉景勝」である。

景勝は「越後の虎」といわれ、軍神として誉高い「上杉謙信」の養子の跡取りだった。

 

上杉家と言えば「越後」が思い出されるが、秀吉の天下統一後、会津若松に転封となっていた。景勝は家康の壟断を潔しとせず、大坂城を離れ会津に戻っていた。

10年程前、NHK大河ドラマにて「直江兼続」を主人公とした作品があったが、当時上杉家の宿老をしていたのが、直江兼続。

当然秀吉の亡き後、家康の所業が気に入らず、兼続の助言もあり家康に反旗を翻す動きを明確にした。

 

景勝は会津に戻り、城を修理・道路を整備・武器と浪人などを集め出す。

戦闘準備をしているといってもよい。

「景勝不穏な動き」の報が、ぞくぞく家康の耳元に入る。自らの間者から、自分の配下の大名からも。

家康は体裁を繕い、景勝に弁明する機会を与えた。

弁明の機会も与えずいきなり攻めれば、自らの評判が落ちると考えたのであろう。

後世の歴史家の評判を気にしたのかもしれない。

兎に角、景勝からの返書を待つ事にした。

 

景勝が家康に寄越した返書が、有名な「直江状」

返書を読んだ家康は、激怒した。

「今までこの様な無礼な手紙を貰った事はない」と家臣に呟いた。

 

家康は景勝から返書を受け取り、景勝謀反の意ありと決定。

豊臣家に盾突く者とし、逆賊を討つという大義名分で、直ちに上杉討伐軍を編成する。

 

建前は豊臣家の家臣として上杉家を討伐する名目で、各大名に招集をかける。

各大名も主君豊臣家の招集とあらば、従わざるを得ない。

もし招集に応じなければ上杉家と同じ立場と見做されてしまう。

 

本意不本意にかかわらず、家康の下に上杉討伐軍が招集された。

討伐招集の書状は佐和山城にも届いた。三成の盟友、敦賀城主「大谷吉継」の許にも。

 

大谷吉継と石田三成との関係

 

大谷吉継。幼少の頃、秀吉の小姓となりその後、手柄を認められ大名に出世。

出自に関しいろいろ資料にあるが、どうやら秀吉の正妻「北の政所」の縁者筋と云われる。

 

縁者と言う事で、小姓に取り立てられた模様。

秀吉は吉継の才能を認め、総大将的役割を期待していたが、惜しいかな吉継は現代に云われる「ハンセン病」に冒されていた。

その為、僅か5万石の領主に甘んじていた。

 

三成と吉継の厚い友情
秀吉が存命時、大坂城で茶会が開かれた。各大名が招かれ、大名たちが茶碗を飲み回していた。吉継は病状を隠す為、頭巾を被っていたが、誤って膿を茶碗に落としてしまった。それを見た他の大名は、吉継の飲んだ茶碗に口を付けず、飲んだふりをして次の者に回していた。茶碗が石田三成に回った時、三成は状況を理解していたが、膿の入ったお茶を躊躇いもなく、飲み干した。

 

もともと幼少期から秀吉に仕え、顔見知りで仲もよかったと思われるが、この出来事で、吉継は三成に感謝、生涯の友と誓ったという有名なエピソード。

 

吉継が家康の上杉討伐に従軍する為、佐和山城までやってきた。

他の資料では美濃垂井まで来て、三成の迎が来て一度、佐和山城に戻った事になっているのもあるが、いずれかは定かでない。

地図を見る限り、垂井は後の決戦場となる関ヶ原を東に過ぎた場所にある。

 

三成の迎えに応じ引き返したのであれば、吉継は並々ならぬ三成の迎えの意味を、感じとったと思われる。

佐和山城に行くのであれば、一度来た道を引き返す事になり、当時としては相当な時間的ロスになる。

やはり茶会の出来事を通じ、お互い心を分かち合っていたと言える。

 

もし引き返したのであれば大谷軍は敦賀をたち、佐和山城があった彦根を通らず現在の国道365号線を利用、東進していた事になる。

 

兎に角にも、先を急いでいた大谷軍を三成は呼び止められた。

引き留めてまで佐和山城で、三成が吉継に打ち明けた計画とは。

 

石田三成が大谷吉継に語った計画

 

前田利家の死後、武断派の武将たちに追い回され、家康のとりなしで隠居した三成だったが、決して家康の横行を見過ごしていた訳ではない。

家康排斥を諦めた訳でなく、寧ろにがにがしく思い、機会を伺っていた。

 

三成は何の機会を伺っていたのであろうか。

当然、家康排斥の機会である。絶好の機会がやってきた。

家康が上杉討伐軍を編成、自ら鎮圧に赴くとの報が三成の許に齎された。

三成は好機と睨んだ。

 

三成は盟友吉継に計画を打ち明けた。

家康が大坂城を留守の際、反家康の大名連合軍を編成、家康を討つという計画を。

 

話を聞いた吉継は三成に「やめろ」と告げた。

「所詮、貴公(三成)と家康では器量が違いすぎる」

 

と歯に布を着せず、はっきり告げた。

 

三成の欠点をいろいろ論い、失敗する理由を述べた。

一つ一つ書き記しはしないが、いろいろ資料を見比べ、共通する事項を述べたい。

 

吉継が三成に述べた言葉は、

「貴殿は日頃から横柄であり、信頼がない」

 

内府殿(家康)に比べ、三成は生意気で、他の人間は快く思っていないという事であろうか。

 

サラリーマンの経験があれば、お分かりかと思うが、会社勤めで不思議な事。

普段は部署の部下に対し、横柄な態度をとっている部長・課長が、会長・社長・重役の側近、秘書に対し何故かペコペコ頭を下げている姿に。

 

滑稽だがそれがサラリーマンの実情。

三成は同じ立場にいたと思われる。

つまり「虎の威を借りる狐」とでもいうのだろうか。

本人に実力がないが、他人はその後ろにあるバックを恐れていたにすぎないと。

 

更に「貴殿は優柔不断で決断力に欠ける」と述べた。

後述するが、結果から言えば、吉継の言葉は概ね当たっていた。

 

いろいろ書き記せば三成という男、傍からみれば結構、嫌な奴と云う事がわかる。

自分では気付かないが、実力はないが、ただトップ(秀吉)の威光で、皆が従っていただけの話。

 

後ろ盾がなくなれば当然、見向きもされない存在。

自分の立場が理解できない人間だったのかもしれない。

 

三成としては、正義は我にありと感じたのであろう。

しかし世の中、正義だけでは通用しない。それが政治・世の中・人間の心の難しさとも言える。

 

吉継は三成に「失敗するからやめておけ」と忠告した。冷静に判断を下せば、妥当と言える。

 

吉継は三成の要請を一旦断り、垂井の陣に戻った。

しかし長年の三成との厚い友情を考え、佐和山城に引き返し、三成の要請を受理した。

吉継は負け戦とわかっていたが、敢えて三成の加勢を決断した。

関ヶ原後、敵味方に関係なく、吉継の侠気を称賛した。

 

此れは後の豊臣家滅亡となる「大坂の陣」の真田幸村(信繁)とも通じるものがあろう。

どちらも負け戦だが、両名とも後世に名を遺したのは間違いない。

実際、吉継と幸村(信繁)に繋がる関係も存在する。詳しくは後述したい。

吉継は上杉討伐軍に加わらず敦賀に引き返し、対家康戦の準備をした。

 

三成の動き

 

三成は吉継が自陣に加わったのを喜んだ。吉継は三成に更に述べた。

 

「貴公は家康殿に比べ、格が違いすぎ、決して貴公の呼びかけで各大名は、反家康軍の旗の下に馳せ参じないであろう。毛利輝元殿の格であれば、各大名も反家康軍の旗に参集する。ここはひとつ輝元殿を担ぎだし、貴公は裏役に回るが良い」と。

 

三成も成程と納得。安国寺恵瓊を仲立ちとして、毛利輝元を担ぎ出した。

輝元は総大将の旨を了承、大坂城に入城した。

更に今までの家康の壟断の弾劾を記し、家康排斥の為、大坂方に味方せよとの檄文を各大名に発した。

 

檄文に応じた大名は

宇喜多秀家、小早川秀秋、吉川広家、長曾我部盛親、小西行長、脇坂安治、立花宗茂、蜂須賀家政、鍋島直茂など。

島津義弘は成り行き上、西軍に参加した様に思われる。

 

同じ五奉行の長束正家、増田長盛も当然、三成に加勢した。

しかしこの二人、実に小賢しいというのか、小狡いまねをする。それは後述する。

 

一方、徳川家康は

 

三成が家康打倒の計画を実行している頃、家康はゆうゆう東海道を下り、江戸に行軍していた。

家康は薄々、三成が家康打倒の兵を挙げるだろうと予測していた。

そうでなければ、ノロノロ行軍する説明がつかない。

逆に三成が早く事を起こしてくれぬかと、待っていた節すら伺える。

それだけ物見遊山の行軍だった。餌を投げ、三成が食いつくのを待っていたと言える。

 

漸く待ちに待った「三成挙兵」の報が届く。

家康が留守所として伏見においた譜代の家臣「鳥居元忠」と大坂方の「増田長盛」の両方から。

 

増田長盛と聞き、おやっと思う人もいるかもしれない。

増田長盛と云えば、石田三成と同じく五奉行であり、家康打倒の檄文に名を連ねた人間。

 

自分の周りにも似た様な人物がいると思う。

敵対する派閥に属しているが、いざという時(自分達の派閥が負けた時)に備え、相手陣営にも良い恰好をしようとする人間が。

相手側にも誼を通じ様とする人間。

 

増田長盛は正にこのタイプの人間。保身第一主義とでも言おうか。

この煮え切らない態度により関ヶ原の後、家康から領地没収、高野山追放となる。

 

結局、中途半端な人間はどちらの陣営からも利用はされるが信用されず、用済みになれば、放逐されると言う事だろうか。

 

家康は7月24日、栃木県小山市に着陣した日に、三成挙兵の報を受け取った。

翌日の25日、各大名を集め軍議が開かれた。勿論、今後大名の動きを旗幟鮮明にさせる為。

 

もともと上杉征伐に従軍の際、勘の鋭い武将であれば、家康が大坂を発った後、今後起こりうる出来事が予測されたと思われる。

ここまで従軍したのも凡そ家康に味方をする為であったと思う。前述した島津軍を除けば。

 

島津軍はもともと家康に加勢する心算だった。地理的関係、状況判断の不味さで西軍に入っただけ。

此れは関ヶ原前哨戦、戦闘中にも重大な影響を及ぼす。

 

小山の評議にて

 

小山の陣で今後の評議が行われた。家康が発した言葉を要約すれば

「ここまで従軍されてきた武将たちには妻子が大坂にいて、気懸りな方もいるだろう。仮令小山の陣を引き払い、西軍に加担しても自分は何も恨みはしない。もし退去したい方がいればどうぞ、ご自由にされて結構」

 

この様な感じであろうか。

言葉は至極丁寧だが、もし西軍に味方したいのであれば、ここから出ていけという意味にもとれる。

評議に参加した武将たちは、互いに他の者の顔色を窺い、誰も意見を発しない。

互いに出方、腹を探っているとでも言おうか。

 

その時、憤然と立ち上げり、叫んだ男がいた。「福島正則」である。

ご存じの通り、福島正則は「太閤秀吉」の子飼いの武将であり、秀吉の縁者とも言われている。

その福島正則が叫んだ。

 

「この様な時に、妻子に惹かれ武士の道を誤ってはならない。我々は家康殿に御見方いたす」
と述べた。

 

福島正則の様な恩顧の大名ですら、家康に味方するというのであるから、態度を決めかねていた人間は、こぞって家康に味方すると忠誠心を誓いあった。

 

家康はこの時ほど正則を、有難く思った事はないだろう。

正則の一言で一同の意見がまとまった為。

正則は自らの意思で、この様な行動に出たのであろうか。

 

前述したが、秀吉の死後、家康は甥の娘を自分の養女にし、福島正則の子の正妻に嫁がせている。

此れも何気に効いていると思われる。

 

正則という男、後述するが、あまり思慮深い男とは言えず、どちらかと言えば単細胞・直情径行といった言葉が的確かもしれない。

正則に今回の行動を唆した人間がいたのではないか。

 

正則を唆した人間は「黒田長政」と云われている。

長政は家康の意向をくみ取り、軍議の前に正則を説得していた。

貴殿(正則)が率先して家康殿に忠誠を誓えば、他の大名は挙って家康殿に味方するであろうと。

 

これは間違いないと思われる。関ヶ原後、家康は長政の手を握り

「貴殿の手柄は、徳川家は一生わすれませぬ」と感謝したという。

更に長政は18万石→52万石の大幅加増を受けた。

 

もう一人の勝利者

 

この会議でもう一人脚光を浴びた人間がいた。

今まで歴史の中に埋もれていたといっても良い人物。

 

既に50歳を過ぎ、殆ど手柄らしい手柄も上げず、歴史の彼方に消え去ろうしていた人間、「山内一豊」である。

この男、本人よりも妻の方が有名かもしれない。あのヘソクリで有名な。

信長時代、京都で御馬揃えをおこなった時、一豊が駿馬に跨り参加、信長が一豊の駿馬を見つけ、一豊を褒めたと言う逸話が残っている。

 

うだつが上がらない一豊に、立派な駿馬を買える筈がない。

駿馬を買えるお金を用意した人間がいた。一豊の妻千代である。

 

一豊の妻千代は、駿馬が高くて買えず、一豊がぼやいていた時、千代がぽんとお金を差し出し、一豊はそのお金で駿馬が買えたという話。

 

一豊は福島正則の発言に続き、発言した。

「自分の城(掛川城)は人数が手薄の為、城を提供しますので、ご自由にお使い下さい」と。

 

流石に家康も、一豊の言葉に驚いた。

一豊の発言に触発され、他の大名もバスに乗り遅れてはならじと、次々に城の提供を申し出た。

 

これで一同の意思が決まった。

上杉討伐軍であったが、完全に三成討伐軍の為、家康の私軍となった瞬間。

 

一豊に関し忘れてはないない話がある。

「城を提供すると申し出た」このアイディア、果たして一豊独自のアイディアであろうか。

 

結果から述べるが、完全に人のアイディアを盗み、軍議で一豊が先に述べたのが正解。

つまり人のアイディアを横取りし、自分の意見としたのである。

 

盗まれた人間は「堀尾忠氏」

堀尾忠氏は軍議の前、一豊に相談され、つい自分のアイディアを漏らした。

 

長政同様、一豊は手柄として関ヶ原後、旧長曾我部盛親の領土だった、土佐の領土をもらい受けた。

6万石→24万石の加増である。

 

しかし山内一豊という男、頗る評判が悪い。器が小さいとでも言うのか。

土佐入国後、自分達が引き連れてきた家臣と旧長曾我部家の家臣と区別し、徹底的に差別した。反抗的な旧長曾我部家臣などを厳しく弾圧した。

 

例えば領内で相撲大会を実施すると家臣を集め、その際以前から反抗的であった人間を捕らえ、処罰した。

姑息とでも言おうか。

 

皮肉にも幕末の志士、「坂本龍馬」は差別された家臣(郷士)と云われた身分の出身。

差別されていたが故、明治維新に邁進したとも言えようか。

 

しかし藩主の山内家(山内容堂)は幕末「大政奉還」の際、最後の将軍「徳川慶喜」に助言。

確り歴史に名を残している。

 

血筋は争えないという事だろうか。

機を見るのに敏である処は、先祖(一豊)譲りなのかもしれない。

 

何はともあれ、二人の武将の率先した発言により、以後の趨勢が決まった。

後はいつ軍を引き返し、西軍と戦うかに絞られた。

 

大坂方の三成

 

大坂方の三成は家康討伐の挙兵後、大坂いた家康に味方をする東軍の武将の妻子を捕らえ、人質にする計画をした。

人質にしようと各大名の屋敷に人を向けた処、細川忠興の妻「玉:ガラシャ、明智光秀の娘」は潔しとせず、家臣に槍で喉を突かせ、自害した。

ガラシャとは洗礼名。キリスト教では自殺は認められていない為、この様な方法を取った。

 

これで三成は完全に怯んでしまった。

怯んだ隙に黒田長政の妻、加藤清正の妻、京極高次の妻が逃げてしまい、計画が頓挫した。

 

大谷吉継が三成が優柔不断な処があると指摘した点も、ここらあたりであろうか。

計画は失敗した。

 

京極高次の妻
お初:お市の方の二女、長女は淀殿で姉にあたる、三女は徳川秀忠の正妻、お江は妹にあたる

三成と言う男、頭は切れるのではあるが、何か実行力・計画が伴わない。これも吉継が指摘した人望のなさの要因とも言えようか。

 

秀吉の死後、武断派・文治派の争いを経て、関ヶ原に至るまでの経緯を述べてきました。

以後は、関ヶ原に向けての具体的な動きになりますので、此処で一区切りとさせて頂きます。