稀代の英雄『織田信長』を葬った明智光秀。背後の黒幕は? 最終編

信長を葬った実行犯は光秀。背後にいた黒幕は? 最終編
目次
本能寺の変、直前
信長が京都で茶会を催していた時、光秀は出陣の準備をしていた。
戦勝祈願の名目で愛宕神社に参籠する。その時、連歌会を催した。
その時の有名な初句が
「時は今雨が下しる五月哉」
ここ迄読まれた方であれば既知と思いますが、敢えて説明すれば
時は光秀の先祖、土岐氏の意味(土岐氏は源氏の系統)であり、雨は天の事。五月は旧暦、現代では6月の事。(本能寺は旧暦6月2日、現代では7月)
この初句が事実であれば、おそらくこの時点で光秀に決心がついていた。
何故なら光秀は間食で出された粽(ちまき)を皮も剥かず、そのまま食べた。
それ程、精神が尋常でなかったと推測される。
人間、大きな出来事を将来に控えていれば、その当日迄の数日は、精神的に異常と思われる行動をとっても可笑しくない。
人間一度や二度、必ず経験があると思う。光秀も同じ心境だったに違いない。
まして魔王と呼ばれた信長を討つのであれば。精神的に可笑しくなってもなんら不思議ではない。
時は到来した。敵は丸裸同然の状態で京都にいる。
後述するが、連歌会の参加者は光秀の心境に気づいていたと思われる。
一人や二人は、光秀の心境を信長に知らせる事も可能で、又時間もあった。
しかしそれを実行する者は、誰一人いなかった。
光秀が信長の目と鼻の先にいた為、できない筈はない。しかし誰もしなかった。
参加者も光秀の此れからの行動を、黙認したと見做すべきだろう。
参加者も前々から信長を快く思わず、信長亡き後、光秀の方がまだましと思ったのではなかろうか。
光秀、亀山城を出立
連歌会の2日後、1582年旧暦6月1日の夜、光秀は亀山城を出発した。
表向きは毛利攻めの援軍と称し。やがて中国道と京都の分岐点、老ノ坂までやって来た。
この時、明智軍は暫く休憩をとった。この休憩が、光秀と重臣達との最後の意思確認の場だった。
記録にはないが、私は此処にある情報を知らせる何者かが、いたのではないかと思う。
或る情報とは。
この時の人物は「何者か」という特定は、左程重要ではない。
重要なのは情報の中身。情報の中身はおそらく
に近い内容だったと想像する。
もし信長が本能寺から他所に移動していたならば、本能寺の変は起きず、光秀は毛利攻めの援軍として中国路を目指したのではないか。
光秀に使者を送った人物とは。
前述したが、信長は今回の上洛後、様々な人間と面会。茶会を催している。
もはや信長の動きは筒抜けだった。
その様な状況下、前述した光秀の連歌会に参加した文化人達は、誰一人として信長に危機が迫っている事実を知らせようとしなかった。
果たして、その結末は。
運命の6月2日、本能寺の変
光秀軍は老ノ坂で中国路に進路をとらず、京都を目指した。おそらく重臣以外の部下達には動揺させない為、又不安がらせない為、
「これから京都に向かい、殿(信長様)に軍を検閲して頂く」
とでも述べたのかもしれない。
そして京都手前の桂川を渡った際、初めて本当の意味を全軍に告げたのではないか。
あの有名な台詞を
「敵は本能寺にあり」
その後の経緯は色々な歴史書の記録の如く。信長自身も全く警戒していなかった。
光秀軍に囲まれた際、自分の部下連中が喧嘩しているとでも思ったらしい。
そして実際光秀の謀反をしった際、寝耳に水だったようで思わず
「あれは謀反か、何者ぞ」
と叫び、側近「森蘭丸」の返事は
「明智の軍勢かと見えますり候」。
しばらく間があり、再び信長が
「うむ、明智か。是非に及ばず」と唸る。
余りにも有名な言葉と場面。
信長は暫く応戦するが、多勢に無勢で信長は負けを悟る。
もはやこれまでと、観念。奥の部屋で紅蓮の炎に包まれ自刃し、49歳の生涯を閉じた。
人間僅か五十年。化天のうちに比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか
まさに謡曲幸若舞の『敦盛』の様な生き方。
後の光秀の運命は承知の如く。
後に「三日天下」と云われる程、あっけないものだった。
結局光秀も消え、他の記録・証言等が破棄・改竄されてしまい真相は闇の中。
信長亡き後、結果的に得した人物・勢力と云えば。
やはり皇室を始めとした公家、側近、関係者、町方衆、文化人、既得勢力の連中だったと思う。
列記した勢力は信長の勢力が拡大するにつれ、没落する運命だった。
本能寺の変後の6月5日、光秀は安土城を接収。
6月7日、朝廷からの勅使「吉田兼和」を戦勝祝賀に派遣。
光秀が以前から親交があった前関白「近衛前久」、「勸修寺晴豊」等が本能寺の変の前後、実に怪しい動きをしている。
今回色々資料を読み、考えた末、この様な結論に至った。
しかし此れはあくまで私見で、もし今後新事実が発見された場合、この説がそのままひっくり返る可能性もある。
例えば江戸時代が終わりを告げた後、漸く日の目をみた『三河物語』。
「三河物語」は徳川時代は「大久保家」の門外不出の書だった。
何故なら徳川時代では、徳川家に対する不平・不満は、一切許されなかった為。
繰り返すが、 歴史はいつも強者によって創られる 。
時の権力者の治世では、現代とは異なり、権力者の意に反する記録等は一切書けない。
尚、朝廷・公家暗殺説は私に限らず、他にも多くの人が唱えている。
参考文献で暫し利用させて頂く、著者の井沢元彦氏は以前、朝廷暗殺説を唱えておられた。
最近では「光秀の突発的な行動であって、単独犯で黒幕はいない」と云う説に変わられているようだが。その理由として、
「日本人は独裁、独断専行をする人間が嫌いで、それを除こうとする光秀の咄嗟に行動である」
と主張されている。
井沢氏が自説を改められたのは、井沢氏の根拠があっての事。それは致し方がないと思われる。
しかし私としてはやはり、一番納得いくのが
他にも自分の意見は違う、私はこうだと仰る方がいて当然の事。
あらゆる意見・可能性を述べ、新たな事実が発見された時、歴史が新たに見直され、修正される。
私は、この事が重要だと述べたい。
新事実が発見された場合、今迄事実とされていた歴史があっさり覆る可能性がある。
だからこそ、歴史は面白い。決して答えはひとつでなく、あらゆる可能性を秘めている。
今回このシリーズを述べ、改めて実感した。
本能寺の変は、書ききれてない詳細な部分がまだまだ沢山ある。
また歴史は謎が多いからこそ、面白いと言える。この話題は機会があれば折に触れ、述べたい。
安土城跡信長の墓(写真:個人撮影)
・第一回
稀代の英雄「織田信長」を葬った明智光秀。背後の黒幕は?
・第二回
稀代の英雄「織田信長」を葬った明智光秀。背後の黒幕は? 続編
・参考文献一覧
【逆説の日本史10 戦国覇王編】井沢元彦
(小学館・小学館文庫 2006年7月発行)
【週刊新説戦乱の日本史 15本能寺の変】
(小学館・小学館ウイークリーブック 2008年5月発行)
【真相謀反・反逆の日本史ー歴史を動かした事件の真実】
(晋遊社・晋遊社歴史探検シリーズ 2012年4月発行)
【私説・日本合戦譚】松本清張
(文藝春秋・文春文庫 1977年11月発行)
(文中敬称略)