稀代の英雄『織田信長』を葬った明智光秀。背後の黒幕は? 続編

信長を葬った実行犯は光秀。背後にいた黒幕は? 続編

それでは前回述べたように、一つ一つ検証していきたいと思う。

 

各動機の検証

①光秀怨恨説

これは昔からよく言われていた動機。事実信長の人遣いは厳しいものだった。気性も激しく、人を人と思わない処があった。

しかし此れは何も光秀に限ってた事ではなく、他の家臣も戦々恐々だった。

 

いつ馘首、降格、切腹を命じられるか分からず、みなビクビクしていたのは間違いない。

秀吉の事を「サル」と面前で呼び、光秀も頭が禿げていたので「キンカ頭」等と呼ばれていた。

名門でプライドが高い光秀にとり、耐えがたい苦痛だったのかもしれない。

皆の前で打擲にされたかもしれないが、それは他の家臣も同じ事。

 

八上城の人質の件も実は母ではなく、叔母だったとの説もある。

家康の接待の件も、後に天下を執った秀吉贔屓の「太閤記」にかかれてあるもので、信憑性に欠ける。

 

何故なら、いつの時代も歴史は強者によって創られる為。時の権力者に逆らって書ける歴史書等、殆ど存在しない。

太閤記
小瀬甫庵著:医学者であり、各大名に仕える。浪人後、子は加賀藩「前田利常」に仕える。

 

どちらかと云えばやや公平と云われている「信長公記」ですら、信長贔屓で書かれている。

秀吉が「主君信長様を殺した大悪人光秀を成敗したは自分であり、後継者として当然」と書かせても何ら不思議でない。

 

光秀をとことん貶しても良いと考えるのは、人として当たり前。

どちらかと云えば慎重な光秀が、己の地位・命を懸けてまで謀反を起こすには、動機としてまだ足りない気がする。

信長公記
太田牛一著:元々信長の右筆であったが、本能寺の変後、丹羽長秀に仕え、その後秀吉に仕えている。

 

②四国攻め阻止説

前回話した様に光秀は長年、長曾我部氏との外交を担当してきた。その為、長曾我部氏の信頼も厚く、重臣の妹を嫁がせていた。

 

それだけ苦労して双方の仲をとり持って来たが、例の如く役に立つ時は大いに利用する。

しかし用無しなれば、あっさり切り捨てる信長のやり方に愛想を尽かし、又妹を嫁がせていた斎藤利三の唆しもあり、信長を討つ事を決意した。

 

成り立たなくもないが、怨恨説に比べれば、かなり動機が薄い。

信長の命で延暦寺焼き討ちなどを実行してきた光秀としては、主君の命令で何れ天下統一の為に妨げとなる四国を今叩くとしても、不思議ではない。

早いか遅いかだけの違いで、然程気にならない。

 

会社であれば意に沿ぐわない命令でも、何れ実行しなければならない任務であれば、しぶしぶ任務を遂行する筈。

まして自分の部下の為(斎藤利三)に、謀反を起こそうとする上司など滅多にいない。

 

位がもっと下であれば、なくはないが、当時光秀は信長軍の近畿地方の師団長クラスまで昇り詰めた身分。

部下の為にその地位を捨ててまで、犯行に及ぶとは考えにくい。

 

③光秀の将来不安説

これは光秀の性格から考えられなくはない。もし事実であれば、出陣前に領地を召し上げられ、

「相手領地を切り取り次第、己の領土とせよ」

と命令されればどんな人間も頭にくる。空手形に等しい。

 

自分の家族を始めとして、家臣の家族も路頭に迷わせる事になる。

まして新たな領土は、まだ毛利領。案ずるなという方が可笑しい。

もし自軍が全滅すれば、それまで。

家族は一家離散。慎重な光秀であれば、不満に思うのは当然。

 

しかしあくまで、事実であればの話。

もし事実であれば直接的原因でなく、間接的・心理的影響を及ぼしたと言えるかもしれない。

 

④秀吉陰謀説

これも暫し指摘されているが、これは結果論で歴史の答えを知っているからこそ言える説。

 

当時の秀吉は信長が本能寺で討たれたと聞いた時、一瞬我を失った。

自分が死地にいるのを悟った。有名な話でこの後、軍師の黒田官兵衛が冷静に秀吉に

「機会が訪れましたな秀吉様」

と呟いたとある。

 

後に天下人となった秀吉は、この事を忘れず官兵衛を警戒し、それが原因で官兵衛は早々に隠居したと伝えられている。

 

しかしこの説も無理がある。毛利方は高松城を助ける事が出来ず、足止めを喰らっていた。

高松城は落城寸前だったが、毛利方は「信長横死」の報を聞けば必ず息を吹き返し、必死に秀吉軍に襲い掛かったと思われる。

 

事実、講和があと数時間遅ければ、秀吉軍の壊滅もありえた。

講和の約2時間後、毛利方におそらく海路で雑賀・毛利配下の海賊衆から、信長死の報が伝わったと推測される。

 

陸路は高松城を包囲していた為、不可能に近い。

現に毛利方への密使が、誤って秀吉軍に捕まった。その為、秀吉は、毛利との講和を急いだ。

 

秀吉も間一髪だった。

更に秀吉の幸運は、信長死の報が伝わっても、毛利方は秀吉軍を追跡しなかった事。

 

毛利方の「小早川隆景」が止めたと言われている。この事からも秀吉も死地にいて、危機一髪だった為、決して関与しているとは思われない。

 

毛利家の様子
当時毛利の当主は「輝元」。小早川隆景、吉川元春は輝元の叔父にあたる。輝元は元就の孫にあたる

 

⑤家康陰謀説

これも秀吉と同様、本能寺の変の後、畿内の治安が悪化した。

家康一行は、いつ土民たちに襲われるか分からない状態だった。

戦勝祝いとして家康に同行した穴山梅雪は家康と別行動をとり、土民の落ち武者狩りにあい、落命している。

 

家康も伊賀の山中を越え、命からがら畿内を脱出している。

おそらく道中に詳しい家臣がいたのではないかと思う。

伊賀と云えば忍び「忍者の里」

家臣に伊賀者の服部半蔵がいて、道案内をしたのではないかと思う。

 

因みに信長死の報を家康に伝えたのは、京都の豪商「茶屋四郎次郎」だと云われている。

家康のパトロンだった。

 

信長の死後、天下を獲る人間は家康と睨み、自分の命運を掛けたのではないか。三河帰国迄の路銀等も手渡したとされている。

 

茶屋四郎次郎
京都の豪商。この時は一代目「清延」。二代目は「清忠」。江戸時代になり、活躍した茶屋四郎次郎は、三代目「清次」の事。幕府開始当初、全盛を極める。しかし茶屋家は次第に、翳りが見え始める。家康が死去したのが、1616年(元和2)。家康が鯛の天ぷらを食べた後、腹痛を起こし死んだ事になっている。天ぷらを勧めたのが、茶屋四郎らしい。直接の原因ではなかろうが、その後バツの悪い思いがしたであろう。四郎自身も6年後に亡くなるが、茶屋家も同じ様に没落する。千利休と同様、何と栄枯盛衰の激しい事であろうか。

 

参考までに同じ様な行動をとった豪商に、「千利休」がいる。

利休は秀吉の将来を見越し、秀吉側に就いた。この様な状況を考えれば、家康も甚だ可能性が低いと言わざるを得ない。

 

千利休
堺の豪商(魚屋)の出身。秀吉の天下獲りに尽力するが、のち関係が悪化。切腹を命ぜられる。

 

⑥足利義昭陰謀説

この人の性格・生き方を見れば考えられなくもないが、如何せん此の御方、人望が全く無い。

自分の直属の兵をもっていない。

 

仮令関与していても自分が直接加わらなければ、上手くいったとしても信長時代と同様、ただ神輿として担がれるだけ。

それは結局、室町幕府後半の将軍と同じ存在となる。

 

三好長慶、松永久秀等の梟雄が誕生するのみ。

将軍目線から言えば、信長も所詮家臣であり、卑しい身分の者との認識。

 

仮令関与していても以前の包囲網のように、誰かが中心となり(前回は武田信玄か)、音頭をとらなければ難しい。

それ程、義昭にしても今回の光秀謀反は、予想外の出来事だった筈。

因って義昭陰謀説は無きに等しい。

 

⑦朝廷・公家陰謀説

最後の説だが、此れが一番真相に近いのではないかと思う。それなりの理由がある。

信長は、「よもや今回が最後の京都になろうとは」、思ってもみなかっただろう。

信長の上洛は、約1年2ヶ月ぶりだった。

 

今回、直属と言える近衛兵を従えず、僅かな小姓衆を引き連れたのみでの上洛だった。

あまりにも無防備だったと言わざるを得ない。

 

何故だろうか。用心深い信長としては意外に思う。

それだけ信長を安心させる何かがあったのか。

 

上洛した信長は、茶器の披露などを兼ね茶会等を催し、終始ご機嫌の様子だったと記録されている。

その時、公家・門跡・町衆などが訪れ、信長と歓談したと記録されている。

私はこの時が、非常に重要だった思う。

 

つまり信長が京都にいる事実を、京都の支配層・文化人・天皇に近い人間達が現在の信長の状況、装備、現在地等を把握していた事になる。

当時の京の上層部の人間は、全て信長の動きを把握できる立場にいたという事が云える。

何気に、公家の情報網は侮り難い。

 

大軍ではなく、殆ど裸同然の状態でいるのが判ったとすれば。

そして仮令自分が動かす兵がなくとも、自分と同様に信長に不満を持つ人間にその事を告げれば、一体どうなるであろうか。

 

不満を持つ人間は、今の信長の、何倍もの兵を持つ人間であるとすれば。

後はなんとなく想像が付く。

 

もうお分かりかと思うが、私は信長の振舞い、今後の行動を懸念した勢力が信長を抹殺すべく、光秀を唆したのではないかと思われる。

唆した勢力とは。

 

勘のいい方は、もう誰かお分かりかと思う。

信長が初めて足利義昭を担ぎ、上洛した時から京都の支配権を奪われ、苦々しく感じていた勢力。それは、

 

皇室・公家連中

と思われる

 

少なくとも表向き信長は、皇室・公家を建前上、敬う形式はとっていたが、内心は何もできず、只昔の権威にしがみつき、何もできない連中としか思っていなかった。

馬上から関白「近衛前久」を罵倒したり、朝廷から任命された右大臣職を返還する等、当時の人間として信長は、理解できない人物に思われていた。

 

当時信長は、無官となっていた。

つまりこの時、朝廷の支配下から外れていたと云う事。

嘗て足利義昭は信長に副将軍の地位を与えようとしたが、信長は辞退している。

それと同じ心境かもしれない。

 

そんな連中が大勢いた、ドス黒い京都。

馬を飛ばせば、目と鼻の先にいる丹波亀山で出陣の準備をしている光秀に、その様な情報が届けば、光秀は一体何を考え、どう行動するのか。

 

光秀は信長とは異なり、古い伝統・形式・文化を重んじ、つね日頃「皇室・有職故実・慣例・しきたり」を敬い、実際に朝廷と信長の間を取り持つ立場にいた。

そして此の度、光秀は最近信長から疎んじられ、領地を召し上げられ、敵の領地に赴くとすれば。

思う事は只ひとつ。

 

ふと怪しい欲望・邪心が過るのも不思議ではない。

おそらく以前から内々に朝廷・公家・側近等が光秀に御墨付きを与え、信長死後、ある程度の密約が成立していたとすれば。

 

その時、光秀にある決意が固まったのかもしれない。

「朝敵、信長を討たねばならない」いや「討つべし!」と。

 

一方、信長はそんな事は露知らず、囲碁の名人の対局を眺め、眠りについたと記録されている。

(文中敬称略)

 

・次回に続きます。

 

安土城跡天守閣柱石(写真:個人撮影)

・第一回

稀代の英雄「織田信長」を葬った明智光秀。背後の黒幕は?