武家台頭のきっかけとなった、皇位継承争い『保元の乱』

歴史を眺めれば、分岐点のようなものが存在する。

分岐点とは、その時は分からなかったが、後になってみれば、あの時が転換点だったと犇々と感じる処。

今回は、武家が歴史の主役に躍り出た、切っ掛けとなる事象を取り上げたい。

 

皇位継承争い

1156(保元元)年7月、鳥羽上皇が亡くなった。此れが、保元の乱の始めりとなる。

鳥羽上皇がなくなる以前から宮中では、複雑な皇位継承問題で揺れていた。

鳥羽上皇の祖父は、院政で有名な「白河上皇」。

白河上皇は摂関政治にて、藤原氏の勢力を削ぐ目的で、院政(1086年)を始めた人物。

 

白河上皇は天皇の位を幼少の堀川(当時、8才)に譲り、自らは上皇(院)となし、藤原氏の経済的基盤となっていた荘園の整理を始めた。

白河上皇が行った政治(院政)は、確かに効果を示した。

白河により、摂関家の力はかなり衰えた。

 

白河は当時の権力者だった藤原家に対抗するだけあり、なかなか我の強い人物だった。

我の強いという事は、言い方を変えれば、限りなく我儘、ワンマンに近いという事。

 

白河上皇は、更に精力家だった。

先程、白河は子の堀河に位は譲ったと述べたが、位を譲られた堀河天皇は早逝した。

其の後、天皇の位は、僅かの五才の、鳥羽皇子が即位した。

鳥羽天皇は即位後、権大納言藤原公実の養女、璋子(しょうし)を皇后に迎え入れた(1118年)。

皇后は翌年(1119年)、皇子を生んだ。皇子は顕仁(あきひと)と名つけられた。皇子は後の「崇徳天皇」。

だが璋子は、鳥羽天皇の皇后になる前、白河上皇の愛妾だった。

その為、鳥羽天皇は誕生した皇子は我が子ではなく、祖父白河の子ではないかと疑っていた。

鳥羽は誕生した皇子(顕仁)を、「叔父子」呼ばわりしていた。

此れが後の「保元の乱」の火種となる。

 

白河上皇の横暴

白河上皇は、顕仁が孫の鳥羽天皇が即位と同じ年齢に達した時(つまり5才)、無理やり鳥羽天皇を退位させ、顕仁を天皇に即位させた。

鳥羽天皇は退位後、上皇となった。上皇となったが、祖父白河が上皇として君臨している為、何の権限がない状態だった。

鳥羽の心情を察すれば、当然腹立だしい限りだったと思われる。

しかし現状、鳥羽上皇は白河上皇がいる限り、何もできなかった。

 

鳥羽は当然、祖父白河を恨んだ。徐々に鳥羽の恨みが、募っているのが理解できる。

鳥羽の恨みは6年後、遺憾なく発揮された。

 

白河上皇の死

鳥羽天皇が退位させられた6年後の1129年、白河上皇がなくなった。

白河は堀河・鳥羽・崇徳天皇の3代、43年に渡り、「治天の君」として君臨した。

白河がなくなった後、半ば無理やり退位させられた鳥羽上皇が「治天の君」となった。

 

鳥羽は治天の君となった途端、今度は今迄自分がされた仕返しを始めた。

当然仕返しの矛先は、当然の如く崇徳天皇に向かった。

鳥羽上皇は自分が白河にされたように、自分の側室の子、躰仁(なりひと)親王が誕生すると、直ちに崇徳天皇の皇太子(当時、2才)とさせた。

 

この時、何故崇徳は、すんなり鳥羽上皇の要求を受け入れたのか。

それは崇徳は鳥羽の子である為、躰仁親王は自分の弟と思い、すんなり受け入れたからだ。

当時崇徳天皇も、まだ11才。複雑な慣習を理解しているとは思えなかった。

 

更に崇徳が何故、鳥羽の提案をすんなり受け入れたかは、甚だ疑問があるのも事実。

一般の歴史書・読み物などにはあまりこの部分には触れてないが、皇太子となる躰仁(なりひと)親王の譲位宣命には、「皇太子ではなく、皇太弟」と書かれてあった。

おそらく大概の人は、何の事を云っているのか分からないと思う。

 

詳しい説明を省き簡単に述べれば、天皇の退位後、後の天皇の父であれば、治天の君として振舞う事ができるが、兄であれば、治天の君として振舞う事はできないという事。

つまり「父」を差し置いて、「兄」では「治天の君」にはなれないしきたり。

 

此の鳥羽上皇の作為も、後の保元の乱の原因ともなったと云われる。

当然、崇徳は譲位後、治天の君として祖父白河のように権勢を振るう心算だったが、その道が途絶えた。

 

一方、皇太子として即位した躰仁親王は、崇徳退位後、第76代近衛天皇となった。

しかし近衛天皇は子を作らず、17才で早逝した(1155年)。

 

此処からが、ややこしい。

普通であれば崇徳上皇の重祚(再び天皇の位に就くこと)か、崇徳の重仁皇子が位につくかと思われたが、治天の君の鳥羽上皇は、崇徳の弟である雅仁皇子(後白河)を天皇の位に就けた。

 

因みに即位して雅仁皇子は前近衛天皇の12才年上つまり、兄だった。

兄であるが何故、近衛より先に天皇の位に就けなかったのか。

それは雅仁天皇は、崇徳天皇と同腹(祖父白河の愛妾璋子)だった為。

崇徳は叔父子を呼び、自分の子として疑っていたが、雅仁親王は紛れもなく、鳥羽と璋子との子だった為。

 

鳥羽にしてみれば、「叔父子よりまし」といった処であろうか。

鳥羽はあくまで天皇家の系統を、崇徳に渡したくなかった。

 

此れが最初に述べた、鳥羽上皇が亡くなった後(1156年7月)、皇位継承争いの「保元の乱」となった。

互いの怨念が募り(崇徳側、後白河側)、爆発した。

乱の原因は、鳥羽が白河に寄せた恨みと、崇徳が鳥羽に寄せた恨みの末の出来事。。

恨みの連鎖とも云うものであろうか。

双方の恨みは、「保元の乱」の導火線となった。

 

保元の乱の切っ掛けは述べた。しかし何故タイトルにある、乱が武士台頭の要因となったのか。

鳥羽の死後、崇徳は皇位奪還を試みた。しかし現天皇の位には、鳥羽が決めた後白河(雅仁)天皇がいる。

立場を逆転させるには、今で言うクーデターしかない。クーデターには当然、武力が必要。

当時武力を持っている勢力と言えば、当然武士。

 

以前「何故、武士という存在が誕生したのか」という話をした。

それは「源平の戦い後、何故頼朝は弟義経を討伐したのか」とブログの時、軽く武士誕生の経緯を述べた。

その時のブログを参考にしていて頂ければ分かるが、武士とは元々、有力な荘園(私有地)を守る自警団のような存在だった。

※参考:源頼朝は平家滅亡後、何故源義経を討伐したのか

 

それが徐々に組織化され、一大勢力となり、やがて朝廷も武士の力を無視できない存在と化した。

時の権力者も勢力争いに度々、武士を利用した。

やがて武士は権力者の手足となり、時の政治争いに大きく寄与した。

 

其処に最も大きな権力争いの「皇位継承問題」が勃発。

争う互いの勢力は、当然の如く武士の力を利用した。

 

摂関家・武家の内紛

此処で天皇家のみではなく、保元の乱を理解する上で、当時の摂関家と武家の状況も説明したい。

当時の摂関家は藤原忠通が関白職に就いていた。忠道の弟頼長は父忠実に愛されていたが、母の身分が低い為、左大臣に甘んじていた。

当然頼長としては、面白くない。弟と云う事もあるが、関白の兄忠通を疎ましく思っていた。

崇徳は摂関家で冷や飯を喰っていた、頼長に声を掛け、味方に引き入れた。

一方、武家では平家は平忠正、忠正の甥清盛がほぼ勢力を二分。源氏では源為義、為義の子義朝が台頭。

 

平忠正と源為義は崇徳側、清盛と義朝は後白河側に味方した。

此れが天皇家・摂関家・武家を巻き込んだのが、保元の乱の構図。

 

因みに清盛は鳥羽の祖父、つまり白河上皇が祇園女御に産ませた子だったと伝えらえている。

『平家物語』では、そう記されている。真偽の程は定かでないが。

 

もし本当であれば、鳥羽の父堀河と清盛は「従兄同士」となる。

それこそ鳥羽にすれば、清盛は「本当の叔父子」と言える。

 

実際戦うのは、武力を持った武家。天皇家、摂関家の本人同士が戦う筈はない。

何故なら朝廷・貴族には、穢れの意識がある為。

穢れたモノは、身分の低い者がすればよいという意識がある。今でもそれは同じかもしれない。

今ほどではないが、当時の上流階級であれば、猶更。

 

此れが結局、武士台頭の切っ掛けとなった。

平安時代末期、朝廷・貴族は既に物事の紛争を自らの手で解決する術はなく、武士の力に頼らざるを得なくなった事を、ハッキリ示していた。

 

保元の乱

摂関家・武家を巻き込んだ皇位継承問題の乱(保元の乱)は、意外にもあっさり片が付いた。正確に言えば、一夜で片が付ついたと云ってよい。

崇徳側の源為義は夜襲を持ち掛けたが、藤原頼長が「さらに兵を集めてから攻撃を開始すればよい」と主張。

為義に提案を拒否した。

 

逆に後白河側は同じ作戦を実行。夜明けと供に崇徳の本拠地だった白河北殿(元白河法王の院御所)を急襲。

不意をつかれた崇徳側は、あっけなく敗北。白河北殿は炎上。崇徳は何を逃れ、逃走した。

 

其の後崇徳は、仁和寺に髪を切り、出頭。藤原頼長は、戦いの最中に流れ矢に当たり死亡。

平忠正・源為義は捕らえられ、処刑された。

忠正・為義の処刑を命じたのは勿論、後白河天皇。後白河は二人を斬刑する為、実行役に忠正の甥である平清盛、為義の子義朝を命じた。

 

清盛・義朝は直接手を下した訳ではなかろうが、刑の責任者としての役目は果たした。此れは前代未聞の事。

一方、崇徳が仁和寺に逃れたのは、崇徳の弟にあたる覚性法親王がいた為。崇徳は弟に後白河との執り成しを依頼した。

しかし弟は崇徳の要求を、拒否した。

崇徳は保元の乱の罪で、讃岐(現、香川県)に配流となった。

 

保元の乱以後

保元の乱は、あっさり片がつき、唯一生き残った崇徳は、讃岐に流された。

讃岐に流された崇徳は反省の意味を込め、讃岐にて五部大乗経(華厳・大集・大品般若・法華・涅槃)を写経した。

写経し終えた崇徳は、都の寺に奉納を頼んだが、敵側であった後白河が、呪いを込められたものではと疑われ、後白河はそのまま讃岐の崇徳に返還した。

 

返還された崇徳は怒り、自らの舌を髪切り、本当に呪詛の意味を込め、写経に呪いの言葉は書きなぐった。

書きなぐった言葉は

 

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」

 

此れは本当の話。つまり「今後、天皇家を没落させ、平民をこの国の王にしてやる」と宣言したに等しい。

崇徳は恨みを抱きながら、八年後(1164年)、讃岐の地にて亡くなった(享年、45才)。

 

以後崇徳は、呪いの神(怨霊神)として、暫し歴史に登場する。恐れられた云ってもよいであろう。

今回は呪いがテーマではない為、あまり詳しくは述べないが、実は日では怨霊を恐れ、怨霊を鎮護する為、暫し行われる行事等がある。

 

具体的に述べれば、皆様に身近なモノとして、「お祭り」がある。

お祭り(春・秋に拘わらず)は、五穀豊穣を願うと供に、無病息災・悪霊退散の意味も込められている。

日本人の無意識にある心の中に、「罰があたった」「日頃の行いが悪いから」等を、偶に口にするかと思う。

あれも同じ感覚かもしれない。

 

先程崇徳は、暫し怨霊神として日本に登場すると述べたが、崇徳はなんと明治維新を迎える直前まで、皇室に影響を齎した。

明治維新が始まったのは1868年と云われているが、前年の1867年、明治天皇が即位する直前まで、讃岐で死んだ崇徳は皇室に怨霊の影響を与えたと言い換えてもよいかもしれない。

その事は、何れ機会があれば又述べたい。

 

崇徳は、配流地の讃岐で亡くなった。保元の乱で勝者となった平清盛と源義朝は、其の後対立。

3年後、二人の対立は「平治の乱」に発展。平治の乱は、清盛が勝利。義朝は関東に逃れる途中、家来の裏切りにあり、非業の死を遂げる。

平治の乱の勝利にて清盛が権力を掌握。其の後、平家の隆盛が続くのであるが、其の後平家も没落。

源平の戦い後、源氏が勝利して、関東にて義朝の子、頼朝が武士による政権。

つまり鎌倉幕府を創立させるのであるが、今回は保元の乱が主題の為。此処までにしたい。

 

保元の乱の原因

改めて保元の乱に戻るが、やはり保元の乱の原因を突き詰めれば、長い間院政を施し、不道徳を重ねた「白河法王」に問題があったのではなかろうか。

白河が行った数々の不義理が、結果として皇位継承に争いを齎した。

皇位継承問題が勃発した末、朝廷・貴族の手では問題が解決できず、自分達の番犬のような立場だった武家に問題の解決を委ねた為、武家の力を認める形となり、結果として朝廷・貴族の没落を招いた。

逆説的に言えば、それだけ当時武家の力が及んでいたと云える。其の後の歴史をみれば(鎌倉幕府の誕生)、やはり武家の力は抑える事のできない立場まで台頭していたと見るべき。

朝廷・貴族も武家の立場を社会的に認めれば、清盛其の後の頼朝の武家の政治、更に其の後明治維新まで続く、武家による日本支配はなかったかもしれない。

 

此れを境として700年以上、武家による日本支配が続くのは、紛れもない事実。

保元の乱は、武家の台頭を招いた重要な出来事だったと言える。

此れが冒頭で歴史の分岐点(切っ掛け)となったと述べた理由である。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献

【逆説の日本史4 中世動乱編】

 井沢元彦作

(小学館・小学館文庫 1999年1月発行)