『尼将軍』と呼ばれた『北条政子』と、承久の乱

★歴史人物紹介シリーズ

今回は前回紹介したブログ「鎌倉幕府の成立と源頼朝」に続く鎌倉幕府の第二弾として、頼朝の死後、幕府の実権を握り、「尼将軍」と呼ばれた『北条政子』を取り上げたいと思います。

 

経歴

・名前    北条政子(俗名)、御台所、尼御台、尼将軍など

・生誕    1157(保元2)年(生)~1225(嘉禄1)年(没)

・家柄    北条氏(伊豆の豪族)

・主君    源頼朝

・親族    北条時政(父)、母不明、源頼朝(夫)、頼家(子)、実朝(子)

・官位    従三位 

 

生涯

伊豆の豪族、北条時政の長女として生れる(1157・保元2年)。母は詳細不明。

前回のブログにて頼朝を紹介する際、二人の馴れ初めは説明したが、簡単に説明したい。

 

政子は伊豆に流されていた元源氏の棟梁の子、源頼朝と知り合い、互に気心を交わす。

処が、大番役で伊豆を離れていた北条時政が帰郷。

頼朝と政子の間を知った後、政子を無理やり別の男に嫁がせようとした。

 

しかし政子が父が決めた婚姻を拒否。政子は嫁ぎ先を脱出。

脱出後、伊豆権現に逃げ込む。

 

其の後、暫くして時政が頼朝とも婚姻を認め、二人は目出度く夫婦となる。

頼朝は当時30才、政子は21才と云われている。

 

此れが頼朝亡き後、「尼将軍」と呼ばれる北条政子の誕生。

婚姻時は正確な資料は存在しないが、1177(治承元)年位ではないかと推測される。

因みに、翌年に長女の大姫が誕生する。

 

ここ迄ブログを読み北条政子の歴史ではなく、又源頼朝(鎌倉幕府)の歴史ではないかと思われる方もいるかもしれない。

実はこの時代に限らず、女性の地位は極めて低かった。

余程の家柄でない限り、女性自身の歴史を正確に書かれたものは、ほんの僅かに過ぎない。

その為、今回の主役北条政子の歴史をみるに、夫頼朝の歴史を紐解く事が必要と思い、記した。

 

タイトルにて表記したが、北条政子が歴史上に最も輝くのは、夫頼朝の死後に勃発した「朝廷側の反乱(承久の乱)の時」と言える。

それまで暫しの我慢と、お許しを頂きたい。

 

平家滅亡、鎌倉幕府の成立

平家滅亡、其の後の弟源義経との対立。義経滅亡後、鎌倉幕府の成立は、前回のブログにて紹介しました。その為、詳細は省きます。リンクを貼って於きますので、ご参照して下さい。

武家中心の社会を築いた『源頼朝』、「鎌倉幕府」の成立

 

鎌倉幕府成立後、頼朝の死

鎌倉幕府成立、其の後の頼朝の死も同じく、前回のブログにて紹介した為、此処では説明しないが、頼朝の死に因り、頼朝と政子の間に生れた長男頼家が二代将軍に就任する事となった。

 

二代将軍頼家は簡単に述べれば、「バカ殿」に近い存在だった。

大概苦労した一代目に比べ、会社・組織等の二代目は、暗愚な場合が多い。

やはり一代目と違い、甘やかされて育ったからかもしれない。

兎にも角にも頼家は、坊ちゃん育ちで、荒くれた御家人(武士団)を統率する力が皆無だった。

 

その頃政子は頼朝の死後、出家。

頼朝亡き後、「尼御台」と呼ばれていた。

 

頼家就任後、有力御家人との関係

前述したが、二代将軍頼家は暗愚だった。その為、幕府を支える有力御家人が幕府の運営を担った。

有名御家人とは、侍所長官「和田義盛」、公文処長官「大江広元」、門注所「三善康信」、三浦義澄、そして北条時政であった。

大体、昔学校の社会科で学んだ、有名な人物が登場していると気づかれたと思う。

 

「御家人」とはつまり、将軍に忠誠を誓い、奉公。その見返りとして自領を保証してもらう人間(武士団)の事。

此れが封建制度の始まり。

 

一方、将軍頼家は乳母である比企氏一族、父の代から仕えていた梶原景時を重用。

自ずと幕府は将軍側と有力御家人との対立へと発展した。

 

頼家の幽閉、比企家の没落

頼家は自らの乳母だった比企家を重用。更に頼家は比企能員の娘を正妻に迎えた。

比企の娘との間には、一幡という男子が生まれた。

 

しかし一幡が誕生後、頼家は重病を患う。

この重病説も、甚だ疑問。何やら父頼朝の死因にも似てなくはない。

頼家が床に伏せている際、比企能員は頼家に相談。

クーデータを興し、有力御家人を排除。将軍の権力強化を画策する。

 

その話を立ち聞きしていた母政子が、父時政に密告。

時政と有力御家人達が結束。比企能員を罠にかけ、逆に比企能員を滅ぼした(1203年)。

因みに父の代から重用されていた梶原景時は、頼朝の死後の翌年、謀反を計画したとされ、失脚している。

 

比企一族が討伐された同年、将軍頼家は修禅寺に幽閉。

翌年、何者かに謀殺された。犯人は不明。

この頃には既に、幕府の実権は政子の実家北条家(主に時政・義時)が握っていた。

何やら北条家の陰謀があったのではないかと、疑わざるを得ない。

 

実朝就任、北条家の台頭

頼家幽閉後、1203(建仁3)年、三代将軍に頼家の弟、実朝が三代将軍に就任した。

実朝は父頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が成立した、1192年に誕生している。

計算すれば、政子が36才の時、出来た子。当時12才(当時は、数えで表記)。

当然、11才の子に幕府を纏めるする力はない。

 

必然的に幕府の実権は北条家の力が、益々強くなった。

実際、北条義時は2年後の1205(元久2)年、政所別当(長官)となる。

 

実朝は将軍就任の翌年(元久元)、京から正室を貰う。

正室は公家出身の娘だった。

実朝は正室の影響もあり、武家出身でありながら、京文化にのめり込んだ。

 

此れは父頼朝が京の育ちで、まだ13才と幼い実朝が、正室の影響で京に関心を持つのも、無理はないのかもしれない。

現代風に言えば、都会(東京)に憧れる青年が、都会育ちの娘を嫁に貰い、自分も都会の文化に嵌っていくと思えば、理解し易い。

 

しかし実朝の存在は、当然武士団にとり、歓迎される生き方ではなかった。

実朝自身もそれを自覚していたようで、実朝は武芸よりも和歌を好む将軍だった。

有名な実朝が編纂して和歌集に「金槐和歌集」がある。実朝は詩人としては、なかなかの才能だった。

 

実朝が和歌作りに現を抜かす間、北条家は幕府の実権を着実なものとしていた。

1213(建保元)年、北条義時は侍所別当の和田義盛を挑発。謀反を起こさせ、此れを成敗。

和田義盛亡き後、しっかり北条義時は、侍所別当に就任。政所別当と兼務している。

 

され先程から北条義時ばかり取り上げられ、父時政は何をしいたのか疑問が湧くかもしれない。

この頃時政は、政治的に失脚していた。何故時政が失脚したかと言えば。

 

時政は事もあろうか、若い後妻に唆され、三代将軍実朝を追放。

政治から子義時、政子の排除を試みた。

時政の計画は息子義時、娘政子の知る処となり、時政は修禅寺に幽閉される。

 

時政が一味が孫の頼家を修禅時に幽閉したと同様、自らも修禅時に幽閉の身となった。

何やら、因果応報と言えなくもない。

 

時政は1215(建保3)年、78才まで生きた。当時としては、長寿と言え様。

頼朝を見出し、娘との結婚を承諾。平家打倒の際、頼朝に将来を掛け、見事博打に成功した人間としては、晩節を汚したと云える。

 

将軍実朝の暗殺

幼い実朝が将軍の為、北条氏は着々と幕府内で権力を強化した。幕府組織では北条家は、「執権」と呼ばれる存在となった。

更に北条家の地位を向上させる事件が発生した。

それは三代将軍実朝の暗殺である。

 

1219(承久元)年、右大臣拝命の為、鶴岡八幡宮の儀式に参加していた将軍実朝が、前将軍頼家の遺児、公暁に暗殺された。

公暁は頼家の死後、出家していた。公暁は「父の敵」と叫び、実朝を斬ったとされている。

しかし、不思議な事に現場を見た者は、誰一人いなかった。

当時現場には、護衛がなく、実朝に付き添っていた人間は一緒に殺害されてしまった。

つまり、目撃者なき犯行である。

 

犯人の決め手となったのも、犯行後に犯人が暗闇から、「自分は頼家の子、公暁なり」と叫んだ為と云われている。

犯行を犯した犯人が果たして、自ら犯行を名乗りでるものであろうか。

確かに事件を誇示するテロリストであれば、進んで犯行声明を出すかもしれないが。

 

実はこの実朝暗殺事件も、北条家が一枚絡んでいるのではないかと、疑わざるを得ないと云う事を申し上げたい。

究極な事を言えば、幕府設立には源氏の子孫である、源頼朝とその子(頼家、実朝)が利用されたが、3人の人物亡き後、誰が実権を握ったのか。

それは紛れもなく、政子の実家である北条家である。

 

頼朝が平家滅亡後、何故義経を討伐したのかのブログにも書いたが、頼朝は所詮武士団(主に関東武士)にとり、担ぎやすい神輿に過ぎなかったのではないかと云われる所以である。

関東武士に取り、自分達の社会的に承認、政治に参加。そして権力強化の為には、頼朝は絶好の駒だった。

その駒が役割を終えた時、その駒は既に役に立たない。役に立たないものは、必然的に抹殺される。

 

頼朝亡き後、頼家、実朝が将軍となったが、既に歴史的役目を終えていた。

その証拠として実朝の死後、幕府は滅ぶことなく、執権の北条家の手に因り、確実に運営されていった。

 

幕府では空白となった将軍職を朝廷との融和との名目にて、京から親王(天皇家の男子)が鎌倉に下向。

傀儡将軍として祭り上げられる事が計画された。

幕府は朝廷に圧力をかけるべく、義時の代理として軍を伴い、北条時房を京に派遣した。

 

最も此の計画は、実朝が暗殺される前年の1218(建保6)年、政子が上洛。

当時朝廷で権勢を振るっていた後鳥羽上皇の乳母「藤原兼子」との対面の際、話合われている。

 

政子は従三位に任命され、朝廷側の人間と対面。

当時は無位無官では朝廷側の人間とは対面できない習わしがあった。

 

おそらくこの時に史書では都合が悪いとして、政子ではなく、「北条政子」と云う名で呼ばれたのではないかと推測される。

前述の官位と同様、氏姓がなければ史書に記録できなかった為であろう。

 

参考までに天皇家には、氏姓がない。政子の様に氏姓がなければ、天皇家と同等の立場となる。

史書を書く上で、おそらく都合が悪かった為、敢えて北条政子を云う名を記載したのではないかと思われる。

 

因みに江戸時代、3代将軍家光の乳母で有名な「春日局」は天皇と面会する際、朝廷としては無位無官では困る為、幕府のごり押しの形で朝廷がしぶしぶ妥協。

斉藤お福に、「春日」という官職を与えた経緯がある。

 

朝廷側は幕府の親王下向を拒否。代替案として源氏縁の公家を下向する事を提案。

更に幕府側に対し、攝津の長江・倉橋の地頭の廃止を求めた。

 

幕府は地頭の廃止は幕府の根幹を揺るがすものとして、朝廷の地頭廃止を拒否。

その為、幕府と朝廷との対立は決定的なものとなった。

 

北条政子と、承久の乱

幕府の権力拡大と横暴に耐え兼ねた後鳥羽上皇は、1221(承久3)年、遂に北条義時追討の院宣を下した。

朝敵された幕府の御家人たちは揺れた。

今迄は源氏の棟梁である頼朝の許、武士の地位向上を目的とし、確実に実行してきた自分達が、初めて朝廷の敵とされた為。

 

朝廷と戦えば、嘗ての平家の如く、自らの地位と名誉を失う恐れがあった。

しかしこの時、実朝亡き後、実質幕府を支配していた尼将軍と呼ばれた北条政子が、動揺する御家人の前で、一席ぶった。

 

政子の御家人に対する演説の内容は、

 

「今のように武士の地位向上を果たしたのは、頼朝公があっての事。今は不幸にも幕府側は朝敵とされていますが、今こそ幕府の根幹を支えるべきではないでしょうか」

 

大分簡略しているが、大体この様な意味と思われる。

 

この時こそ、北条政子が歴史上、最も輝いた時。

政子の大演説がなければ、東国の御家人達の結束は乱れ、朝廷軍に敗北していた可能性が高い。

 

幕府軍が敗北していれば武士団は今迄獲得した地位・権利をはく奪され、以前のような社会的に地位が低い身分として扱われていたであろう。

政子の行動は以後、明治維新まで続く武家社会の道筋を開いたとも云える。

 

頼朝亡き後、幕府を支えていた政子の演説は効果覿面。此れで関東武士団(御家人)の意思は一致した。

幕府軍は一致団結して、京に上り、朝廷側と戦う事を決意。

 

約19万の軍勢が、京に向け攻め上った。

総大将には、義時の子「北条泰時」が任命された。

 

幕府軍と朝廷軍は、京の入り口と云われる「瀬田の唐橋」だった。

瀬田の唐橋とは、現在の滋賀県大津市の瀬田川にかかる橋の事。

 

瀬田の唐橋はこれ以前・以後も、歴史上の有名な戦いが繰り広げられた。

大昔では672年の壬申の乱、以後では1336年、建武の戦いなど。

 

関東から京に攻め入るには、必ず瀬田の唐橋を通る為、必然的に此処が戦場となる。

兎にも角にも、瀬田の唐橋にて両軍の戦いは最高潮に達した。

 

幕府軍の勝利と、後鳥羽上皇の配流

瀬田の唐橋で激戦となった両軍だが、多勢に無勢。

兵力の差は如何ともしがたく、幕府軍の圧勝で戦いは終了した。

 

戦いは、朝廷側(後鳥羽上皇)の惨敗だった。幕府側は朝廷側を厳しく処罰した。

先ずは後鳥羽天皇以来の土御門天皇、その弟の順徳天皇、順徳の子(僅か四歳の懐成親王)仲恭天皇(後の諡号)を配流。

乱の張本人である後鳥羽上皇を、隠岐の島に配流とした。

 

因みに後鳥羽上皇は、初めは倒幕の為の院宣を出したが、敗戦の色が濃くなると院宣をさっさっと取消し、罪を側近の公家に押し付けた。

この行為は先の後鳥羽上皇、後の後醍醐天皇も似たような事をしている。

どうやら天皇家の行動は、何か似ていると云えるかもしれない。

 

幕府側は後鳥羽上皇を島流しにするにあたり、新しい上皇を立てる必要があった。

幕府は後鳥羽の兄で出家していた行助法親王を還俗させ、上皇の位に据え、後高倉上皇とした。

後高倉上皇は一度も天皇の位に就かず、上皇となった。

 

何故、上皇となったのか。

それは、行助法親王の子が天皇の位に就いた為(後堀河天皇)、「治天の君」として後高倉上皇となった為。

 

後鳥羽上皇以下、それ以後の上皇の配流により、朝廷の権力は失墜。

幕府の権力は、盤石なものとなる。

幕府は朝廷の監視役として、新たに「六波羅探題」を設置した。

 

乱後、義時と政子の死去

乱後の戦後処理を済ませた幕府側であったが、乱の3年後の1224(貞応3)年、幕府の実質的支配者である北条義時が急死する。

幕府側では一時期、不穏な動きもあったが、義時の嫡男泰時が義時の後継者となった。

 

泰時は承久の乱時、幕府側の総大将となった人物。

なかなかの力量の人物だったと思われる。

後になるが、1232(貞永元)年、泰時は武家で最初の法典となる「御成敗式目」も制定するなど、有能ぶりを発揮した。

 

一方、政子は義時の後を追うかのように、翌年の1225(嘉禄元)年、病床となり、そのまま死去した。

まさに女傑と呼ぶに相応しい、「尼将軍」北条政子は、69年の生涯を閉じた。

鎌倉幕府を創立させた源頼朝に嫁ぎ、幕府の草創期から安定に至る迄の歴史を見届けた人間の生涯と云えるであろう。

 

政子の死後幕府は安定期を迎え、建武の新政で倒幕するまでの約100年、存在する。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献一覧

【逆説の日本史5 中性動乱編】源氏勝利の奇蹟の謎 

 著者:井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2000年1月発行)

 

【真相 謀反・反逆の日本史】歴史を動かした事件の真実

(晋遊社 平成24年4月発行)