古代史の謎解きと思いきや、最後は 松本清張『東経139度線』

★松本清張 短編小説シリーズ

 

今回は、『東経139度線』を紹介します。

松本清張と言えば、古代史の研究で有名。

その古代史に係わる作品ですが、最後は古代史とはあまり関係なく、意外な方向に。

 

・題名    『東経139度線』

・新潮社   新潮文庫  『巨人の磯』内

・発行    昭和52年 5月30日

・発表    昭和48年 2月 「小説新潮」

 

登場人物

◆吉良栄助

群馬県選出、当選3回の国会議員。年齢39才、東京P大学文学部国史卒。

当選3回にて、文部省政務次官に就任。

 

就任後、赤坂のホテルにて祝賀パーティーが催される。パーティー会場で嘗ての恩師、旧友にあう。

その場で、各々から祝いの言葉を受ける。当に人生の絶頂を迎える。

 

◆岩井精太郎

吉良栄助の大学時代の恩師、56才。吉良が学生時代、暫し他の学生と供に、岩井教授の宅を訪れ、教授と会話する。

会場では吉良に祝辞を述べ、教授はその事に言及する。

 

◆小川長次

吉良の旧友。現在、文部省に勤務。役職は課長補佐。仕事は主に、遺跡発掘の現地調査役。

現場主義で、職人気質の人物。

因って、政務次官として赴任した吉良は、小川の上司となる。

 

◆谷田修

吉良の旧友。大学時代は岩井教授の許で、主席卒業。

現在は京都のD大学で助教授。吉良の就任パーティーに出席する。

 

◆前川和夫

吉良の旧友。大学時代は岩井教授の許で、次席卒業。

現在は福岡Q女子大の助教授。吉良の就任パーティーに出席する。

 

◆山口光太郎

吉良と同じ、岩井教授の門下生。吉良とは、3期下。

卒業後、警視庁に勤務。後輩として、吉良の祝賀パーティーに出席する。

 

◆倉梯敦彦

元皇族の宮家出身。GHQの臣籍降下にて、現在は民間人。考古学の繋がりで、小川長次と知り合う。

小川は尊敬の念を込め、元皇族の倉梯敦彦を「殿下」と呼んでいた。

表には出てこないが、今回の陰の主役と云える人物。

 

あらすじ

吉良栄助は当選3回、群馬県選出の国会議員。今回の内閣改造で、文部省政務次官に任命された。

吉良は元々東京P大学の文学部、国史科の卒業。他の政治家とは、少し変わった経歴の持ち主だった。

 

その就任祝いパーティーが、東京赤坂の某ホテルにて催された。

パーティーに出席したメンバーは、主に吉良の大学時代の恩師、学友、後輩等。

吉良は大学時代の恩師である岩井教授を始めとして、様々な出席者から祝辞を受けた。

 

祝辞を受けた中に、今回吉良が就任する文部省で課長補佐として勤務する学友、小川長次の姿があった。

因って吉良は、政務次官として文部省に赴任する為、小川の上司となった。

 

吉良はパーティーの席で、小川から祝辞を受けた。

祝辞を受け乍ら吉良は、小川に対する優越感、更に下級役人に甘んじている小川に憐憫の情を感じた。

勿論、その事はおくびに出さす、吉良は如才なく小川に接した。

 

今回の話は、このパーティーに出席した各メンバーに加え、陰の主役とも言える旧宮家出身の人物が関与。

其の後、陰の人物を交え物語が展開される。

旧宮家出身の人物とは、臣籍降下し、現在民間人の立場となった倉梯敦彦の事。

 

要点

清張好きな方には既知と思われるが、清張は歴史好きで有名。特に清張が拘ったのが、古代史。

今回の作品は、古代史がメイン。

古代史で暫し話題される、「邪馬台国は何処に存在したのか?」をモチーフにした作品。

 

政務次官の就任した吉良栄助の祝賀パーティーに出席した小川長次が、太占神事を行う神社を調べ、奇妙な事実を発見した。

 

奇妙な事実とは、古代から行われている太占神事の神社が、偶然にも東経139度線に沿った地点にあると云う事。

 

具体的には、

新潟県の弥彦神社、群馬県の貫前神社、東京都の御嶽神社、五日市の阿伎留神社、伊豆南端の下田市近くの白浜神社など。

何れも、ほぼ東経139度線に位置していた。

 

此れに、更に面白い仮説が加わる。

「139」を古代の読み方で語呂合わせをすれば、「ひい、みい、ここのつ」。

つまり「ひみこ」。卑弥呼と、こじ付けする事ができる。

 

参考までに、卑弥呼が存在した邪馬台国が歴史に登場したのは、中国の「魏志倭人伝」東夷伝。

この時の中国は三国時代。「魏志」の為、おそらく曹丕(曹操の息子)の時代だったと思われる。

 

此れだけならば、只の下級官僚の単なる空想と片付けられるかもしれない。

しかし此の説に、たいそう興味を持った人物がいた。

 

その人物は戦前は宮家で、戦後は臣籍降下で民間人となっている倉梯敦彦なる人物。

倉梯敦彦は元宮家出身の為、小川は尊敬の念を込め、「殿下」と呼んでいた。

 

小川は仕事を通じ、殿下と知り合い、知遇を得ていた。

その殿下が今回、小川の説に大変興味を持ち、太占の神事が行われている貫前神社を訪問したいと言い出した。

 

貫前神社は偶然にも、吉良政務次官の選挙区に存在した。

勿論、正式な調査と殿下を貫前神社に訪問させるには、省としての正式な手続きと予算が必要。

その為、小川課長補佐は旧友で上司でもある、吉良政務次官に直訴した。

 

一方、吉良は初めは小川の話に乗り気でなかった。

しかし倉梯殿下が小川の説に興味を持ち、貫前神社を訪れたいとの意向を聞くや否や、政治家としての本能が働き、選挙戦に有利になると見込み、小川の話を快諾した。

 

小川は倉梯殿下の他に、恩師の岩井教授、同窓の谷田、前川も同伴する事を提案した。

吉良は話題が全国的になる事、更に学生時代、後塵を拝していた友人達に立場の優位を見せつける意味もあり、小川の提案を了承した。

 

そして現地の下検分は、11月15日と決定した。それは吉良にとり、運命の日となる。

11月15日、小川長次課長補佐、岩井精太郎教授、旧友の谷田修助教授、前川和夫助教授は、高崎駅で吉良栄助と合流した。

 

5人は終始和やかに雰囲気で、吉良が用意したベンツとハイヤーに分乗。

貫前神社を目指した。

途中に多胡碑文で有名な、吉井町があった。谷田・前川は碑文の解釈について、花を咲かせた。

 

そうこうするうちに一同は、富岡市にある貫前神社についた。

貫前神社は、かなり険しい丘陵地に存在した。

 

作中では、かなり詳しく述べられているが、なかなか理解しにくい。

一度現地を見ない限り、想像するのも困難。

 

従って端的に記せば、

「険しい山間に神社があり、その神社に沿うように狭い車道が連ねていて、車道を一歩でも踏み外せば、崖に真っ逆さまに落ちるような景色」

と表現すれば分かり易いかもしれない。

 

現地に着いた一同を、宮司・禰宜が迎えた。

一同は小休止の後、鹿卜の神事を見学した。

 

小川長次は殿下をお迎えする為の下調べと称し、中座した。

一同は神事後、近くの八塩温泉に投宿。疲れの為か5人は夕食後、それぞれの部屋に戻った。

 

午後8時半頃、岩井教授が昼間、吉井町に立ち寄れなかった多胡碑が見たいと言い出した。

岩井教授は別部屋にいた吉良栄助を呼び、車を貸して欲しいと願い出た。

 

処が吉良は私用で車を使う予定があった為、岩井教授と小川長次は、吉良が手配したタクシーで出かけた。

二人の外出後、吉良は私用の為、自ら車を操り、旅館を後にした。

運転手は吉良がお忍びで出かける訳を察し、何の疑いもなく車のキーを吉良に渡した。

 

午後11時近く、岩井教授と小川長次が旅館に戻った。

二人は多胡碑を見たついでに、土産として谷田・前川両名に多胡碑の拓本の複製を買ってきた。

 

4人は拓本の複製を畳みに広げ、しげしげ眺めた。

谷田・前川の二人は、拓本の複製に感心した様子だった。

 

その時、谷田がふと岩井教授が折り畳み式の木製測量尺を持っている事に気がついた。

谷田は岩井教授に、その事を尋ねた。

 

岩井教授は、「もし碑石が測量できればと思い、小川長次から借りた」と谷田に告げた。

何気ない会話のやりとりだが、此れは後の重要な伏線となる。

 

其の後4人は、寝床に着いた。

一方、吉良は外出したまま、宿に戻らなかった。

 

吉良栄助の居所は、翌日警察が教えてくれた。

何故警察が教えてくれたのかと言えば、吉良は車を運転して貫前神社付近の山道から運転を誤り、車ごと崖下に転落。そのまま即死した為。

 

警察の検証結果、吉良は運転を誤り、崖下に転落。事件性はなく、事故死と判断された。

崖に転落した原因は、急ブレーキをかけ、ハンドル操作を誤った為。

 

何故吉良は、急ブレーキ・急ハンドルを掛けたのか。

警察の見解では、見通しの悪いカーブを曲がった処に、停まっていた車があった。

タイヤ痕の跡から、そう判断された。

吉良は予想もしなかった障害物を避ける為、急ブレーキ・急ハンドルを掛けたと推測。

 

一同が貫前神社を訪れた際、小川長次が神社周辺の検分の為、中座した。

その時、近所のアベックが多い事に気づいた。

今回もおそらく、何処かのアベックの車が駐車していたのではないかと予測された。

 

一応警察は停まっていた車を探したが、見つからず、又名乗り出る者も居なかった。

事件はそのまま、事故死として処理された。

 

事件から、約3ヵ月が過ぎた。

小川は3期下の後輩、山口光太郎の訪問を受けた。

山口は吉良の祝賀パーティーにも出席していた。山口は卒業後、全く畑違いの警察庁の刑事部に勤務していた。

 

二人は昼食を供にした。

昼食の席で山口光太郎は、3ヵ月前の吉良の事故死の話を切り出した。

山口は小川の話に感心しながら、ある自説を小川に話した。

 

事故死した吉良は事故死でなく、綿密に計画された罠に掛り、殺害されたのではないかと。

つまり、吉良は実は高崎の女の処に行ったのではなく、或る人物に呼び出され、事故死に見せかけ、殺害された可能性が高いとの事。

 

山口の推理を纏めると、吉良は学生の頃から其の後、約7年程、恩師岩井精太郎教授の許を訪れていた。

吉良の目的は恩師岩井との会話でなく、実は岩井教授の妻、登美子にあった。

吉良と登美子は、人に言えない秘密の関係だった。

 

そんな関係だったが、10年前、登美子が無くなった。

死因は心臓麻痺だが、実は多量の睡眠薬を服用した事による、中毒死。

その時検診した医師は一応は疑ったが、岩井教授が極力否定した為、そのまま心臓麻痺として処理した。

登美子が自殺とすれば、動機は吉良と関係を続けた事による、呵責の念に耐えかねた故の自殺と推測された。

 

更に登美子は死ぬ間際、夫精太郎にでなく、信頼できる人間に10年後に開封するよう、遺書を認めたのではないかとも述べた。

そして遺書を認めた相手が、小川長次だったのではないかと。

 

遺書を預かった小川は、10年後に遺書を開封。

その遺書の存在を吉良に告げ、夜中の貫前神社に呼び出したのではないかと。

だから吉良は一人で車を運転して、夜中の貫前神社を目指したのではなかろうか。

 

問題の殺害方法だが、見通しの悪いカーブの先に、何か障害物らしきものを置き、吉良が急ブレーキ・急ハンドルを掛けるように仕向ければ、吉良は運転を誤り、崖に転落するに違いないと小川は予測した。

小川は世間と警察を目を誤魔化す為、事故現場の道に細工をした。

昼間訪れた貫前神社の神事中、中座。近くに停めてあったアベックの車を無断で拝借。

車は如何にも、その時間に停まっていたかのように駐車。タイヤ痕を残した。

 

実際に吉良の車がカーブに差し掛か時、障害物があるように見せかける為、普段小川が常備していた木製の測量尺に何か布をつけ、運転する車の前に、不意に差し出した。

運転していた吉良は咄嗟に障害物を避ける為、急ブレーキ・急ハンドルとなり、コントロール不能となり、崖下に転落した。

此れが凡その、山口光太郎の推理だった。

山口の推理を聞いた小川は、観念したかのように、吉良殺害の動機を山口に話した。

 

小川の動機は、長い間下級官僚として我慢していたが、小川が勤務する省に嘗ての旧友、吉良栄助が上司として赴任してきた事で、怒りが爆発した。

岩井精太郎教授も10年前、妻を不幸な形でなくし、忍従に日々だった。

 

そんな二人の鬱積した思いが結託。今回の計画を、実行するに至ったとの事。

最も主犯は岩井教授でなく、実は私(小川長次)が主犯だった事を暴露した。

 

物語りは、下級官僚の突拍子もない推理、謎解きと思われたが、最後は岩井精太郎教授と小川長次課長補佐官の、紫焔にて吉良栄助を殺害したと判明した。

古代歴史の謎解きと思いきや、単なる私怨の恨みと分かった事で、益々人間の業の深さを感じざるを得ない作品と思われた。

 

追記

文中に登場する多胡碑とは、現富岡市吉井町に存在する石碑の事。

石碑は和同4(711)年、上野国の14番目の郡として建国されたのを祝う石碑の事。

 

吉良の転落は事故死ではなく、実は巧妙に手配された殺人だった事に気づく。

吉良は文部省の政務次官となり、大学時代は同窓で成績も上位だった小川長次の上司となった。

大学時代は小川が成績が上だったが、卒業後は立場が逆転した。

 

今回小川の吉良殺害計画は、其処に動機があったと思われる。

更に皮肉な事は、今回の事件の全貌を暴いた山口光太郎は、大学時代の成績は下の方だった。

歴史の造詣は、岩井精太郎教授、小川課長補佐より低かったが、見事に吉良の事件の解明をした。

その件に関して、何か権威を何か皮肉る、松本清張の独特の手法と言えるかもしれない。

 

(文中敬称略)