人生を達観した生き方? 『徒然草』上巻 93段
★今回は、「徒然草」の人生の悟りともいうべき段を紹介します。
・出典元 『徒然草』
・上巻 第九十三 引用
・出だし 「牛を売る人あり。買う人、明日その価をやりて、」
目次
◆原文
「牛を売る者あり。買ふ人、明日その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に牛死にぬ。賈はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり。」と語る人あり。
これを聞きて、傍なる者曰く、
「牛の主、真に損ありといへども、また大いなる利あり。
そのゆゑは、生あるもの、死の近きことを知らざること、牛すでにしかなり。
人また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存せり。一日の命、万金よりも重し。
牛の値、鵞毛よりも軽し、万金を得て、一銭を失はん人、損ありといふべからず。」といふ。
また曰く、「されば、人 死をにくまば、生を愛すべし、存命の悦び、日々に楽しまざらんや。
愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく、外の楽しみを求め、この宝を忘れて、危うく、他の宝をむさぼるには、志満つことなし。
生ける間、生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。
人みな生を楽しまざるは、死を恐れざるゆゑなり。死をも恐れざるにはあらず、死の近きことを忘れるなり。
また生死の相にあづからずは、まことの理を得たりと言ふべし。」と言ふに、人いよいよ嘲る。
<参考>
・鶩毛 アヒルの毛の事。非常に軽いモノの譬え。
・いたづがわし(労がわし) 煩わしい。面倒だ。
◆現代文
牛を売る者がいた。買う人が、明日を代金を払うと約束した。
処が牛は、夜の中に死んでしまった。
買おうとした人は得をして、売ろうとした人は損をした。
と或る人が語った。
此れを聞いて傍にいた人が、
牛の持ち主は確かに損をしたが、大きな利益を得た。
それは、生ある者が、死を知らないでいる事。牛がそれに値する。
人も又同じ。思いがけなく牛は死に、人(牛の持ち主)は、生き残った。
一日の命は、万金よりも大切だ。牛の代金など、鵞鳥の毛よりも軽い。
万金を得て、一銭を失ったような人が、損をしたと言えない。という。
その場の人々は嘲り、「その道理は何も牛の持ち主に限った事ではない。」という。
更に続けて、「だから人が死を憎むのであれば、生を愛すべきだ。生きる悦びを毎日楽しめないでいられようか。
愚かな人はこの楽しみを忘れ、態々骨を折り、他に楽しみを求め、大切な生存の悦びという宝を忘れ、危うい事に他の宝を貪るのであれば、望みが満ち足りるという事はない。
存命中、生を楽しまず、死に臨み急に死を恐れるのは、この道理がないからだ。
人々は皆、生きを楽しまないのは、死を恐れないからだ。
否、死を恐れないからではなく、人は死が迫っている事を忘れているのだ。
又、「そういう事は生死の姿には関わりないものであれば、それは道理を悟ったと云えるであろう。」
と言えば、周囲の人々は益々、嘲笑した。
◆要点
さて古文、現代文を読み比べ、皆様はどう感じられたでしょうか。
聊か、禅問答のような気もしないではない。
つまり人は「死を迫っている事に気づかず、毎日の生きる悦びを忘れているのではなかろうか」と、或る人は述べたいのであろうが、
周囲の人々はその問いかけに対し、一蹴したというのが本文の趣旨。
確かに或る人が述べる事には、人の生きる為の矜持というモノが隠されている。
しかし人間、それだけの考えで毎日を過ごしている人は、甚だ少ない。
何故なら人間、生きる為に働かなければならない為。
働く目的は、生きる糧が必要な為。糧が無ければ、生活がままならない。
その為、どうしても人間は利己的に成らざるを得ない。それが商売といういうもの。
生きる道理を得たからと云っても、それが一文の金になるとは限らない。
現実的に言えば、牛の所有者は牛を売る直前、牛という商品を失った。
貴重な体験を得たが、周囲の人々が主張するように、それは決して牛の持ち主ばかりが体得したものではない。
牛の売買をする当事者たち、その出来事を目撃した人々。
全ての人々が今回の出来事で、貴重な体験をした。
幾人かは、或る人を同じ心持ちになったに相違ない。
それならば牛の所有者に限らず、その人も同じ機知を得た。
決して或る人を罵った人々も、あながち間違いだとは言えないのではないだろうか。
しかし斯う思う時点で、筆者(兼好法師)に取り、私は未だ人間的に未熟なのかもしれない。
俗世間に塗れ、欲が捨てきれないのであろう。
私が今回の段を理解するのは恐らく、私が無くなる寸前ではなかろうか。
生きる為には人間、働かなければならない。働く為には、利己的に成らざるを得ない。
利己的(つまり、リアリズム)に徹すれば、今回のような人生の悟りというもは、理解できない。
何故理解できないのか。それは「人生の悟りと欲は」、永遠に平行線で、決して交わる事のない。
もし交わる時が来るとすれば、前述したが、それは「人間が死を迎える寸前」ではなかろうか。
(文中敬称略)