関ヶ原では西軍に与しながら、見事に復活を遂げた男 『立花宗茂』

今回は関ヶ原の戦いで西軍に与しながら、其の後見事に復活した男『立花宗茂』を紹介したい。

 

経歴

・名前    吉弘千熊丸、高橋彌七郎(幼名)、戸次統虎、立花統虎、立花宗虎、立花宗茂等

・生誕    1567(永禄10)年(生)~1643(寛永19)年(没)

・家柄    高橋氏→戸次氏→立花氏

・主君    大友宗鎮、大友義統、豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光

・親族    高橋重鎮(父)、忠茂(子)

・官位    従四位下、左近将監、飛騨守

 

幼少期

1567(永禄7)年、宗茂は大友宗麟の家臣、吉弘鎮理(高橋紹運)の嫡男として、豊後国東郡筧(豊後高田市)にて生まれる。

2年後、吉弘鎮理は滅ぼしされた高橋鑑種の高橋の名跡を継ぎ、宗茂は高橋の家名となり、元服後は高橋統虎となる。

1581(天正9)年、父高橋紹運と供に出陣。対立する秋月氏、筑紫氏の軍を大宰府観音寺で迎え、初陣を飾る。

この初陣であったが宗茂は、敵将の首を獲る戦功を立てた。

同年、大友氏の同じ重臣の戸次鑑連(後の立花道雪)から依頼があり、戸次家の婿養子となり戸次家の家督を継いだ。その為名前が、戸次統虎となる。

 

其の後宗茂は、大友家の家臣として獅子奮迅の活躍。1582(天正10)年、立花城にて名を戸次から、立花と改めた。

 

秀吉に臣従

大友家は織田信長が存命中、姫路の羽柴秀吉が毛利攻めをおこなっていた為、毛利を挟撃する戦略上、織田家と仲が良かった。

1582(天正10)年、本能寺の変後、信長の後継者となった秀吉は、毛利家と和睦。必然的に毛利家と大友家の争いの意味はなくなった。

その頃九州では次第に薩摩・大隅の守護島津家が、勢力を拡大しつつあった。島津家は肥前の龍造寺を滅ぼし、豊後・筑後の大友の領土を侵し始めた。

 

1585(天正13)年、宗茂の養父立花道雪が死去。此れを好機と見た島津は、大友領の侵攻を開始する。

高橋紹運、宗茂の親子は、必死で島津勢を食い止めた(岩屋城の戦い)。

しかし大友家は島津の侵攻に既に単独で抗す事ができず、秀吉に援軍を求めた。

 

1586(天正14)年、大友宗麟は上坂して、秀吉に謁見。九州での島津攻めの援軍を請うた。

元々既に信長が生前の頃の領土を回復しつつあった秀吉は、宗麟の申し出を渡りに船と思い快諾。九州攻めを決意した。

この時宗麟は秀吉の臣下に降ると供に、旗下の名将高橋紹運・宗茂親子を、秀吉の直参にするよう推挙した。

秀吉も宗麟の申し出を受諾。紹運・宗茂の親子は、秀吉の直参となった。

 

島津は大友が秀吉に接近している事を察知。秀吉が九州攻めを行うと睨み、筑前の岩屋城、立花城、宝満城を落とすべく攻撃を開始した。

秀吉に援軍を求めた大友氏だったが、大友氏は居城の府中を攻められ、既に風前の灯だった。

 

宗茂、頑強に抵抗

秀吉来るを察知した島津は、戦いを有利に展開すべく筑前の大友領を侵攻した。筑前の岩屋城には、宗茂の父高橋紹運。立花城には、立花宗茂が籠った。

宗茂は紹運に対し宝満城に引くよう勧めたが、紹運は城を枕に討ち死にした。宝満城にいた次男の統増も、父紹運の討ち死にの報を聞き、止む無く宝満城を開城した。

 

残るは宗茂の籠る立花城のみであったが、宗茂が頑強に島津勢に対し抵抗した。あまり時間をかけ過ぎた故、島津勢は秀吉が来るのを悟り、やがて撤退した。

立花城を落とせなかった島津勢は其の後、四国の長曾我部、毛利勢を中心とした秀吉軍の先方隊に攻められた。

島津勢は秀吉軍を迎え撃つべく、豊後口の大友氏本拠地、府中を攻めた。

島津軍は戸次川にて、長曾我部軍を打ち破り(戸次川の戦い)、一時的に大友領を占拠した。

 

年が明けた1587(天正15)年、秀吉は略全国の大名に指示を飛ばし、九州攻めを命じた。

秀吉が大軍で押し寄せてくる事を知った島津勢は、撤退を決意。折角占領した大友領を放棄した。

 

一方秀吉は大軍を率い、悠々と行軍。徐々に島津のいる九州に迫った。秀吉の前述した先方隊は、既に島津の領土に進みつつあった。

秀吉は攻め落とした筑後(現福岡)の秋月城に来た際、浅野長政の仲介で秀吉に謁見した。

 

「忠義も武勇も鎮西(九州)随一の武将である」

 

と評価した。

 

やがて秀吉軍は大軍でもって、島津軍を圧倒。ついに島津は降伏せざるを得なかった。

此れが秀吉の「九州征伐」と云われている。

意外な事だが、実はこの時秀吉軍は長途の遠征、兵站が伸びきっていて内情はかなりひっ迫していた。

あともう少し島津軍が抵抗していたならば、秀吉軍も危うかった。此処が天下人となる人間の幸運とでも云うのだろうか。

本能寺の変で信長が討たれた時、一世一代の大博打の「中国大返し」を成功させ逆臣の明智光秀を討った事。

そして今回等。やはり天下を獲る人間は、それなりの幸運に恵まれるものだと改めて認識した。

 

尚、宗茂はこの度の戦功により、大友氏から完全に独立。秀吉の正式な直参と扱いとなり、筑後柳川にて約13万石の大名に取り立てられた。

まさに宗茂は、破格を遂げた。宗茂の決して裏切らない忠誠心が、秀吉の心を駆り立てたのであろう。

 

九州征伐・小田原征伐を敢行した秀吉は、応仁の乱以後、分裂していた各国を統一した。1590(天正18)年の事だった。

小田原攻めの際、秀吉は宗茂の働きに対し

 

「東国に本多平八郎あり、鎮西に立花左近監(宗茂)あり、天下二つの勇士なり」

 

と褒め称えた。

 

外征(朝鮮出兵)

日本を統一した秀吉は、野望を外国に定めた。俗に言う外征(朝鮮出兵)である。

外征の結果は周知の如くであるが、宗茂は朝鮮に近い西国大名である為、外征の中心となり渡海。朝鮮国内を転戦した。

文禄・慶長の役に従軍した宗茂であったが、宗茂の働きはともかく、日本軍全体の戦果は芳しくなく、日本軍は秀吉の死と供に撤退した。

外征(朝鮮出兵)にて加藤清正と供に勇名を馳せた宗茂だったが、日本軍はおろか宗茂自体何も得るものがなく、虚しく撤退。朝鮮出兵は各大名(特に西国大名)を疲弊させ、秀吉の死後、政権中に争いを齎し、後2年後の関ヶ原の戦いへと繋がる。

 

関ヶ原の戦い

秀吉の死後、政権で争いが勃発。武断派と文治派の争いが激化する。此れも過去、何度も述べている為、省略する。

2年後、政治を壟断する家康に対し、五大老の一人である上杉景勝が反家康の狼煙を挙げた。

以前直江兼続を紹介した際、詳細を述べたが、直江状を送られた家康は激怒。上杉討伐を決意した。

 

上杉討伐を行う最中、石田三成が大坂城に入城。主に西国大名を中心とした、反家康軍を結成した。

宗茂は太閤秀吉の恩義が忘れられず、西軍に与する。家康は宗茂の実力を認め、多大な恩賞で味方するよう誘った。

しかし宗茂は当然、拒否。秀吉の忘れ形見である秀頼君に味方した。宗茂の人物像を一言で表せば「忠義者」と云えるであろうか。

九州征伐の際、旧主君の大友氏を決して裏切らず、今回も決して現権力者の家康にも靡かなかった。

 

関ヶ原の戦いで私が疑問に思う一つに、何故勇猛と称された立花宗茂、毛利秀包が最前線の戦場におらず、後方の大津城攻めにいたのかという事である。

大津城は当時、京極高次の居城だった。高次は初めは西軍に属していた。東軍に味方していた加賀前田を攻める為越前にいたが、無断で戦場離脱。9月3日に大津に戻り、西軍に反旗を翻した。

 

西軍としては後方に急に敵地が出現した為、急遽大津城を攻める事となった。

9月7日、大津城攻めが決行されるが、その攻め手に立花宗茂、毛利秀包の約1万5千の兵士が動員された。

此の用兵が、西軍の敗因の一つと云われている。

正式に大津攻めが開始されたのが9月10日。其の後3日後、大津城は降伏したが、降伏したのが9月14日。

つまり関ヶ原の戦いの、僅か1日前の出来事。当然、宗茂らの軍勢は関ヶ原の決戦に間に合わなかった。

 

戦後京極高次はこの戦功が認められ、若狭に加増転封された。

参考までに高次の正室は、戦国時代で有名な三姉妹(茶々、お初、お江)の中の二女、お初(高次の死後、出家。通称:常高院)。

宗茂は西軍が関ヶ原にて敗北の報を聞いた際、即座に撤退。本拠地の柳川に帰国。徹底抗戦の構えを見せた。

 

柳川城を黒田如水、鍋島直茂、加藤清正軍が包囲する。朝鮮の役にて苦楽を共にした清正が、必死に宗茂を説得する。

 

同じ苦楽を共にした為、清正は宗茂の人柄を惜しんだ。清正の説得に漸く宗茂が応じ、降伏した。

しかし宗茂は西軍に与した科は赦されず、改易。浪人の身となった。

 

改易後の宗茂

宗茂は改易後、浪人となった。

浪人となった宗茂だが、宗茂の力量を知る各大名が宗茂を召し抱えたいと思い、宗茂に援助を申し出た。

宗茂は各大名の仕官の話を、悉く断った。自分自身の生き方、信条、プライドに反するものがあったと思われる。

宗茂は一時清正の食客の身となったが、其の後清正の許を離れ京都にて浪人生活を送った。

 

各大名の意見に流石の幕府(徳川家)も無視できなかったと見え、小田原征伐の際、宗茂と同じく「東の平八郎」と並ぶものと称された本多忠勝の口添えで、1604(慶長9)年、家康の側近身分となる。

尚、1602(慶長7)年、宗茂の正室「闇千代」は病にて宗茂の浪人中、亡くなっている。

 

翌年の1605(慶長8)年、宗茂は二代将軍となる秀忠の側近(御伽衆)となり、陸奥棚倉約1万石に封ぜられ、目出度く大名に復帰した。

此れは異例中の異例。5年前は敵味方で戦った者同士が、5年後君臣の関係として側近となるなど、当時としては考えもつかない事だった。

関ヶ原にて敗軍の将となったものは、死罪か流刑。生き残った者は、浪人生活が大半。そのまま歴史の彼方に消えた者もいる。

数名は大坂の陣にて活躍するものもいるが、その数名も大概は豊臣方につき、徳川勢と戦った。

此れをみれば、如何に宗茂の人間的素質が優れたいたのか分かると思われる。

秀忠も外様の中途である宗茂を、事の他お気に入りだったと云われている。

律儀者、偏らない公明正大な判断、知識・経験の宗茂の素養が、秀忠の心を掴んだのではないかと思われる。

 

宗茂、旧領の柳川に復帰

徳川家の宗茂の信頼は揺るぎないものとなり、宗茂の所領は徐々に増加。

1614(慶長19)年~1615(慶長20・元和元)年の大坂の陣にて、秀忠の警護にあたる。

大坂の陣の5年後の1620(元和6)年、ついに宗茂は旧領の筑後の柳川約11万石を下贈され、目出度く関ヶ原以前の領地に復帰した。

関ヶ原にて西軍に与した大名で旧領に復帰した者は、宗茂以外にはいない。如何に宗茂が幕府から信頼されていたのかが、分かる出来事と云える。

宗茂は其の後、三代将軍となる家光の御伽衆も務めた。1637(寛永14)年勃発した島原の乱の鎮圧に参陣。「知恵知恵」と呼ばれた、松平信綱を補佐する。

 

数々の勇名を馳せた宗茂であったが病にかてず、1642(寛永19)年、江戸の柳原の藩邸にて死去する。

享年72才と云われている。

72才まで生きた宗茂だったが、不思議と実子には恵まれなかった。

 

(文中敬称略)