騙そうとした嘘が、本当になった話 芥川龍之介『竜』
★芥川龍之介 短編小説シリーズ
・題名 『竜』
・新潮社 新潮文庫 『地獄変・偸盗』内
・発行 昭和43年11月
・発表 大正8年5月 『中央公論』
目次
登場人物
◆宇治の大納言隆国
源隆国。平安時代中期の官僚。文学者でもある。官位が大納言の為、大納言隆国と呼ばれた。
宇治拾遺物語の編集者と云われている。
◆陶器造の翁
大納言隆国の命で、大和興福寺に住む蔵人得業恵印の体験した不思議な出来事を話す。
◆蔵人得業恵印
大和(奈良)の興福寺に住む法師。鼻の大きいのが特徴。それ故、渾名は「鼻蔵」。
鼻の大きい事を世間に囃し立てられ、仕返しとして悪さを企む。
◆恵門法師
得業恵印と同じく、興福寺に住む法師。何かと恵印を意識、ライバル視する。
心の中では、世間と同じく鼻の大きい恵印を馬鹿にしている。
◆恵印の叔母
摂津国桜井に住む、恵印の叔母。
恵印が仕掛けた悪さを本当の事と信じ、遥々摂津から大和興福寺の恵印の許にやってくる。
あらすじ
大納言の源隆国は、何か物を書こうとしたが、此れと云ったネタも浮かばない。
ネタ探しを兼ね、往来に行き来るす老若男女に話しを請うた。
すると年配の陶器造の翁が、若い頃の聞いた奇妙な話を隆国にした。
その話は昔奈良(大和)の興福寺に住む蔵人得業恵印に纏わる話だった。
蔵人得業恵印は、とても大きな鼻をしていた。その為奈良の町の者から、「鼻蔵」と渾名され、囃し立てられていた。
或る時、恵印(鼻蔵)は普段、世間様から誹りを受けている為、一泡ふかしてやろうと思ったのだろうか。
興福寺の猿沢池のほとりにて、「3月3日、竜が昇天する」という高札を立てた。
恵印はほんの軽い気持ちで高札を立てたが、竜の昇天の噂は奈良の町はおろか、忽ち畿内一帯に広まった。
噂が広まるに連れ恵印は、得意満面になった。
同じ坊に住み、何気に普段から互にライバル視している恵門も噂を聞きつけ、関心を持った様子だった。
しかし恵印が満足すると同時に、一抹の不安も過った。
あまり噂が広まり過ぎた為、引っ込みが付かなくなった状態となる。
噂を聞きつけ摂津国桜井に住む恵印の叔母までもが噂を信じ、当日見物に参る有様。
作中での恵印の心情を引用するに
とんと検非違使の眼を偸んで、身を隠している罪人のような後ろめたい思い
と書き記してある。まさにそんな心境だったであろうと想像する。
兎にも角にも、得印が高札に記した当日(3月3日)がやって来た。
当日は竜の昇天を一目見ようと、大勢の人が押し合いへし合いで賑わった。
見学客には得印の叔母は勿論の事、あの普段は敵対視する恵門法師もが気になると見え、姿を見せた。
更には上級貴族、宮中の関係者とも思われる人まで、見学に訪れた。
此れ程大勢の人間が訪れた為、嘘と分かっていた得印まで何やら本当に竜が昇天するような気分になった。
人は嘘をついたが、多くの人が嘘を本当の話と信じた為、さもその嘘が本当のように思えて来る時がある。
あれと同じ心境であろうか。得印は何か不思議な気持ちに捕らわれた。
やがて人々が今か今かと待ち侘びていた時、春の長閑な空が俄に怪しくなり、やがて雷鳴が轟き、激しい豪雨に見舞われた。
その時、一瞬の出来事であったが、水煙と雲の間に金色の爪を閃かせ、昇天する黒龍の姿が見られた。
まさに一瞬だったが、確実に竜の昇天が確認された。
右往左往しながらも、大勢の人々は竜の昇天を見る事ができた。
竜の昇天を一番信じれなかったのは、高札を立てた得印だった。
得印は叔母に竜の昇天を確認するとともに、何やら妙な意識にかられた。
人を担ぐ心算だったが、本当に事が起きた。
本人としては「半分は成功。半分は失敗」した気持ちになったのではなかろうか。
嘘が本当になった為、自慢を兼ね、実はあの高札は自分(得印)が立てたものがと僧が白状しても、もやは誰も信じなかった。
要点
この作品を読んだ後、幼い頃聞いたネス湖のネッシーを、ふと思い出した。
ネッシーの話と、何か同じ感覚。
過去、ネッシーらしきと思われる物体が写った写真を何回か見た記憶がある。
今にして思えばその写真はハッキリしたものではなく、ネッシーのようなモノが写るが、ただの黒い物体で真偽は定かでない。
ネッシーの話を聞きつけた人間の偽造かもしれない。それと同じ類であろうか。
居ると信じれば、いるのかもしれないし、居ないと思えば、居ない。
但し今回の作品は、「嘘からでた実(誠)」。
恵印(鼻蔵)は以前から鼻の大きい事を世間からバカにされ、世間様に一泡ふかしてやろうと思い立ったが、本当に竜が出現したというオチ。
恵印の企みは「半分成功して、半分失敗した」と云える。
3月3日、日頃の憂さ晴らしの悪戯で「竜が昇天する」と高札を立てたが、実際本当に起こった。
3月3日迄は恵印は、冷や冷やし乍らも、嘘に惑わされる世間の多くの人間を騙す事に満足していた。
ほんの軽い悪戯の心算が、話に尾鰭がつき、大和一国どころか、畿内一帯に噂が広まり、3月3日まで世間の皆が竜の話で持ち切りとなった。
自分が蒔いた種(嘘の噂)が広まる、優越感とでも云うのだろうか。
当日は押し合いへし合いの大騒ぎ。
摂津に住む恵印の叔母はおろか、宮中のお偉い方々まで見物に訪れる有様。
更に普段は敵対視している、同門の恵門法師まで見学にやって来た。
嘘と分かっていたが、恵印が何か半分は得意気になっていたのは想像に難くない。
しかし竜が本当に出現。昇天した為、今度は自分が高札を立てたと恵印が他の人に話しても、誰も信じなかった。
嘘が実(誠)となった為、高札を立てたのは自分(恵印)だと公言しても、だたの嘘つきとして罵られるだけだった。
追記
作中で登場する鼻の長い法師(恵印)と云えば、同じ芥川の作品『鼻』を思い出す。
しかし、『鼻』に登場する鼻の大きい法師(禅智内供)は、京都の宇治池尾の寺に住む法師。
若干違いはあるが、芥川はおそらく同じ法師を連想して描いたのではないかと思われる。
仏門に仕える身でありながら、何か世間様の人間と同様、愚行を犯す処が似ている。
或る意味、人間臭いとも云える。
芥川は、
「俗世間に塗れた人間と仏門に仕える身である法師も、然程変わりはない」
と皮肉を込め、述べたかったのかもしれない。
(文中敬称略)