戦国時代、関東で北条家の最盛期を演出した武将『北条氏康』

今回は戦国時代に関東で覇を競った北条氏康を取り挙げたい。

北条氏康と云えば、後北条家の祖「早雲」から始まり、北条家3代目の当主にあたる。

後北条家は氏康を含め5代目まで続くが、5代続く為の最盛期を演出したのが氏康と云っても過言でない。

では氏康の生きざまを眺めてみよう。

 

経歴

・名前    北条氏康、伊豆千代丸(幼名)、新九郎(通称)

・生誕    1515(永正12)年(生)~1571(元亀2)年(没)

・家柄    伊勢氏→北条氏

・親族    北条氏綱(父)、養珠院宗栄(母)、氏政(嫡男)、上杉景虎(上杉家に養子)

・官位    従五位上、相模守

 

生涯

北条氏康は1515(永正12)年、小田原城主、2代目北条氏綱の嫡男として生まれる。氏康が生まれたおは、初代早雲がほぼ相模平定を終える晩年の頃と云われている。

氏康誕生の4年後の1519(永正16)、祖父早雲が亡くなる。家督を継いだ氏綱は、積極的に関東への進出に乗り出す。

早雲亡き後のほぼ3年後、氏綱は関東の名門の北条氏を名乗り始める。鎌倉幕府の執権と務めた北条氏を名乗る事で、関東侵略の大義名分を得ようとしたと思われる。

氏綱は関東の要衝である江戸城を攻めた。江戸城では、扇谷上杉家が本拠地としていた。1524(大永4)、大軍を率いた氏綱は扇谷上杉軍と激突。

戦いをほぼ有利に収め、後退し江戸城に撤退しようとした扇谷上杉(朝興)軍を追軍。城に入ろうとした扇谷上杉軍であったが、既に氏綱に内通していた家臣太田資高が江戸城に乗っ取られた。

江戸城を失った上杉朝興は河越城に撤退。氏綱はまんまと江戸城を手に入れた。

 

其の後北条家と扇谷上杉家は、一進一退の攻防を繰り返した。氏綱は以前今川義元を紹介した時にも触れたが、武田家から嫁を娶った駿河の今川家、甲斐の武田家とも争いながら、膠着状態となった。

氏康は父氏綱の戦い振りを横目で見ながら、1529(享禄2)年の頃、15才で元服する。

元服した氏康は父氏綱と供に、上杉家との戦いに終始した。

 

家督を相続

氏綱に江戸城を奪われ、河越城に退去した上杉朝興は、1537(天文6)に死去する。子の朝定が僅か13歳にて家督を相続する。

時機到来とみた氏綱は軍を率い河越城を攻め、氏綱は上杉朝定を河越城から追いやり、河越城を奪取した。

河越城を奪った氏綱は、関東八州を統べるべく足掛かりを得た。氏康は父と供に戦い、将たる資質を磨いていった。

 

1538(天文7)、氏康は父氏綱と供に下総の国府台にて、対峙する足利義明、里見義堯の連合軍と戦い勝利。下総一帯を平定した。(第一次国府台合戦)

1541(天文10)年、病気がちとなった父氏綱から5箇条に渡る箇条書きを伝授された。

 

その内容とは

①大将から侍まで、義を重んじる事。

②人材を適材適所に配置する事。

③人間、それぞれ分相応を守る事。

④倹約に徹する事。

⑤勝って兜の緒を締めよ

の五箇条と云われている。眺めてみれば、現代の会社経営でも十分通じると思われる。

 

1541(天文10)年7月、父氏綱が55才にて死去する。当時27才の氏康は家督を相続する。

氏康が家督を相続した頃、周囲の敵はほぼ亡き氏綱と氏康の時代に討伐されていた。

氏康が当主となった頃は、北条家が安定に向かい始めた時期と云ってもよいであろう。

氏綱・氏康親子に領土の大半を奪われた扇谷上杉家は没落の一途を辿り、同じ系統の山内上杉家の援助にて、ようやく一家を支えている状態だった。

 

人生最大の危機

1545(天文14)年、家督を継いだ氏康に最大の危機が訪れた。

打倒北条家を目指す扇谷上杉朝定は、同族の山内上杉憲政、古河公方足利晴氏、更に甲斐武田信玄、駿河今川義元を集い大軍を率い、奪われた河越城の奪取を目論んだ。その数約10万と云われている。

一方、河越城を守る北条綱成は約3千ほどの兵力だった。大軍に包囲され河越城は、既に風前の灯と思われた。

孤立無援となった河越城を救うべく氏康は包囲網を打ち破る為、甲斐の武田信玄に使者を送り包囲網の瓦解を企んだ。

氏康からの和睦の使者を受け信玄は、今後相模の北条家と事を荒立てるのは得策でないと判断。駿河の今川義元に使いを送り、相模との和睦を勧めた。

甲斐から和睦の使者を受けた義元は交渉の末、駿河の拠点長久城を貰い受け、伊豆国境まで撤退した。

甲斐・駿河との和睦を成立させ氏康は、安心して河越城の救援に向かった。

 

夜襲にて大軍を打ち破る

1546(天文15)年4月、大軍に囲まれて約半年経つ河越城を救援すべく氏康は、約8千の兵を率い小田原城を出立した。

河越城を囲む大軍を見渡す砂久保(現川越市)は、古河公方足利晴氏に使者を送り、今迄で奪った領土を全て返還するとの条件で和睦を迫った。

使者の言を聞いた晴氏は氏康が弱気なのを知り、そっけなく使者を追い返した。

 

続いて氏康は常陸の小田政治、菅谷隠岐守に使いを送り城兵の助命嘆願と引き換えに河越城を献上。その上で上杉憲政との和睦をする旨を伝えた。

菅谷は氏康の和睦の条件を憲政に伝えた際、憲政は和睦を聞き入れる様子もなく油断した。

 

その夜、既に憲政は既に勝利したものと油断していると密偵から報告を受けた氏康は、憲政軍に夜襲を掛けた。

菅谷の言を信じていた憲政軍は油断し、氏康の夜襲を全く予期せず混乱。氏康軍に散々に討ち取られた。

後に今川義元が大軍を擁し上洛を試み、桶狭間で織田信長に討ち取られた様子と何気に似ている。

河越城の戦いは様々な異説があると言われているが、河越城の戦いも桶狭間の戦いも勝った勝者が自分の手柄を誇張する為、或る程度数字を改竄したのではないかと想像する。

何はともわれ、氏康は相手を油断させ、その隙に乗じ勝利を収めた事は間違いない。

何時も述べるが、歴史は所詮勝者の者。勝った者がいくらでも自分に都合よく、歴史を改竄する事ができると言え様。

 

夜襲を掛けられ成す術もなく討ち取られた晴氏、扇谷上杉朝定・山内上杉憲政の軍勢は総崩れとなり敗走した。

勝利に酔いしれ、尚も敵を追い回す味方に対し氏康は、退却の命と告げた。余り深追いをするなとの意味と思われる。

相手を完膚なきまで打ちのめせば、後々まで恨みをかう恐れもあり、窮鼠猫を噛むの諺もある。氏康は、慎重を帰したと言える。

此れが父氏綱からの戒め、「勝って兜の緒を締めよ」に当たると思われる。

この戦いにて上杉朝定は戦死。扇谷上杉家は滅亡した。同門の山内上杉家は大きく後退。戦いの勝利者である氏康は、宿願だった関東の覇権を確保した。

山内上杉憲政は其の後、1551(天文20)年に居所の平井城を氏康に攻められ、翌年に越後の長尾景虎を頼り落ち延びていった。

この時を境に北条家の関東覇権が確立したとも云える。北条家の最大領土は其の後4代の氏政、5代の氏直の手によるものだが、実質北条家の関東制覇を成し遂げたのは、3代目の氏康と云っても過言でない。

因って北条家の全盛期は、氏康の時代とも云える。後の2代は、氏康の功績を踏襲したのみと云える。

 

甲相駿三国同盟

以前紹介した今川義元の際にも触れたが、関東覇権をほぼ確立した氏康は、関東の更なる覇権拡大と氏康が追いやった上杉憲政の失地回復の願いを聞き入れた、越後の長尾景虎と対立する形となる。

此れも何か甲斐の武田信玄が、北信濃を侵略。土豪の村上義清が越後に逃れ景虎を頼り、村上義清の願い聞き入れ、景虎が信濃に進出。川中島で数回戦った事に似ている。

川中島の戦いは過去の信玄・謙信を紹介した際、詳しく述べている為、今回は省略したい。

 

氏康は関東制覇、駿河の今川義元は上洛、甲斐の武田信玄は越後の長尾景虎と戦う為、三国(甲斐・相模・駿河)は、其々の思惑を抱き1554(天文23)年、三国同盟を完成させた。

ほぼ関東を制覇した氏康は、この頃になると民心を安定させるべく、民政に力を注いだ。なかなかの民政ふりだったと伝えらえている。

以外に北条家は初代早雲の時代から、民から評判がよいとされている。それは早雲が素浪人から苦労して一国の主になった事も関係していると思われる。

此れも以前早雲を紹介した際も、言及している。下剋上の代表斎藤道三と並び有名な早雲だった為、民が何を求めているのかしっかり見定めていたと言える。

民・百姓が求めるものと云えば何であろうか。それは何時の時代も、「減税」である。早雲はその事を理解していた。

初代早雲が分かっていた為、其の後にく北条家当主は、度々減税措置を講じている。氏康もそうだった。天災・飢饉の際、暫し減税を行っている。

北条家は5代続くが、家臣を含め領民の殆どが、あまり北条家の事を悪く言わないのが特徴かもしれない。

それだけ民政が善く、家臣も優遇されていたと言える。

 

隠居、家督を氏政に譲る

1559(永禄2)年、氏康は家督を嫡男氏政に譲り、隠居する。表向きは隠居であるが、実際は北条家ないでは、まだまだ氏康の意向が幅を利かせていた。

徳川時代の大御所(家康)と秀忠の関係と同じと思えば、理解し易かもしれない。氏康、44才の時であった。

翌年の1560(永禄3)年、駿河今川義元が大軍を率い、上洛の途に就く。処が桶狭間にて、尾張の織田信長の奇襲に遭い、義元は落命する。

義元が落命した事により、三国同盟は微妙な関係となる。三国の一角が崩れた結果となった。義元の跡を継いだ今川氏真は、凡庸だった。

海道一の弓取りと云われた義元だった為、駿河・遠江・三河の約百万石以上の大国が治められていたが、氏真では三河はおろか、本国の駿河ですら治めきれない状態だった。

其処は弱肉強食の戦国時代。其の後駿河は、嘗て三国同盟の相手であった甲斐の武田信玄の侵略を許す形となる。

 

北条家、関東制覇

1564(永禄7)年、北条家は安房の大名里見義堯・義弘親子と下総を廻り戦う。(第二次国府台の戦い)

戦いで数に勝る北条家だったが、精強でしられた里見軍に苦戦する。

苦戦の末、ようやく打ち勝ち里見軍を撤退させる。

同年、武蔵国を平定。

この頃になれば関東周辺の土豪の殆どは、北条家に臣従した。

1566(永禄9)、箕輪城で上杉家の直臣だった北条(きたじょう)高広が、北条家に寝返り、謙信は関東の足場を失う形となった。

 

1568(永禄11)年、前述した甲斐の武田信玄が、弱体化した駿河国に侵入。

攻められた今川氏真は、駿府城を放棄。掛川城に退去する。掛川にて正妻の里家である北条家の支援を仰ぐ形となる。

此処に至り、1554(天文23)年に結ばれた三国同盟は破棄された。

三国同盟が破棄された事により氏康は、甲斐の武田、越後の上杉、安房の里見を敵にすることになった。

状況を打開すべく氏康は驚くべき策に出た。何と今迄関東で干戈を交えていた越後の上杉謙信と和睦。同盟を結び、甲斐の武田と当たる決意をした。

積年の恨みもあり、交渉は当初難航した。其の後互いの役職(関東管領。古河公方)、領土を認める事。互いに人質を交換する事で、同盟は相成った。

 

漸く同盟を結んだ両家だったが、同盟を結んだ結果、関東を北条家に侵されていた関東の諸大名(佐竹、太田等)の反感を招き、上杉家の求心力は低下した。

その為関東の諸大名は上杉家を離れ、甲斐の武田家と手を結ぶ結果となった。更にやはり今迄争っていた両家の同盟は互いに不信感が募り、ギクシャクしてなかなか上手く機能しなかった。

 

英雄氏康の死

1570(元亀元)年、稀代の英雄氏康も病に勝てず、晩年は中風を患い病気がちとなった。

父氏綱と供に戦場を駆け抜け、関東にて北条家の覇権確立の道を作った氏康は翌年の1571(元亀2)年10月、小田原城いて死去する。享年57才と云われている。

氏康は死の直前、嫡男氏政に対し今同盟中の上杉家との関係を絶ち、以前誼があった甲斐の武田家との再同盟を勧めた。

氏政は父の遺言に従い氏康の死後、僅か2ヵ月後の12月に再び武田家と関係を修復した。

 

氏康の死後、北条家は1590年に豊臣秀吉に滅ぼされるまで、5代続いた。初代早雲から数え約100年近く関東にて覇を唱えた。

北条家滅亡後、徳川家康が旧北条家の関東に転封となる。家康の関東転封は秀吉が大坂から家康を遠ざける為の左遷とも云われているが、定かではない。

旧北条家の領土にて、なかなか新たに統治・人心収攬は困難とも思われた。家康もきっと初めは苦労したに違いない。

何故なら前述した通り、北条家の民政は領民に慕われていた為と云われている。

しかし家康もなかなかさる者。流石に後に天下を獲った男だけあり、困難と思われた旧北条家領土を見事に治め、秀吉亡きあとの天下人となった。

関ヶ原以後、家康は旧領土の三河ではなく新領土の関東に幕府を開いた。家康が関東に幕府を開いたといのは、それだけ関東に魅力があったと思われる。

それは正しく旧北条家の思惑と一致したと言える。

幕府は其の後、明治維新を迎え、江戸は現在の東京となった。

 

追記

北条氏康の有名なエピソードと云えば、なんといつても嫡男氏政に対する「汁掛け御飯」と思われる。

汁掛け御飯とは、TVなどの歴史物でも暫し採用されるシーン。

嫡男氏政が食事の際、ご飯に汁を二回かけたのを見た氏康が「これで北条家も終わりだ」と嘆いた。

驚いた氏政が理由を尋ねた時、氏康はこう答えた。

 

飯にどれほど汁をかけるのは、子供の頃から知っている筈。大人になってから二回も掛けるという事は、普段からの出来事を軽んじている証拠。武士は繰り返される日常を、決して疎かにしてはいけない」

当に名文句と言え様。

 

此れに限らず氏康が放ったと伝えられている名言は多い。

・部下の功を盗むべからず。

・部下の功績を公平に判断しろ。

など、会社経営には欠かせない言葉とも云える。氏康名将と云われる所以であろう。

 

北条家の象徴と言えば、なんといっても箱根に聳える「小田原城」。小田原城は、難攻不落の城としても有名。

あの上杉謙信・武田信玄ですら小田原城を囲んだが、落とせなかった。

天下統一の最後の事業として小田原城を囲んだ豊臣秀吉も、力攻めは無理と判断。兵糧攻めにて、漸く小田原城を落とした。

小田原城を秀吉軍が取り囲んでいる際、小田原城の北条家は成す術もなく軍議を重ね、無駄な時間を過ごした。

その状況を捩った言葉が、「小田原評定を繰り返す」という語源を生んだ。

 

尚、小田原城攻防は、明治以降の陸軍士官学校では図上演習でも取り上げられる程、有名な話。

如何に小田原城を落とすのか、士官候補生にとり重要な課題だったと思われる。

 

(文中敬称略)