臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の成れの果て 中島敦『山月記』
今回は学生時代、読んだ作品を取り挙げたい。
・題名 『山月記』
・原作 中島敦
・新潮社 新潮文庫
・昭和44年 9月発行
・昭和17年 2月発表
目次
登場人物
◆李徴
若くにして科挙に合格。才気溢れる青年であったが、自分の自尊心が災いして、官吏を辞職。
詩人として後世の名を残そうとするも、夢叶わず。
再び下級官吏となるが、その辱めに耐え切れず、発狂の後、出奔。以後行方知れずとなる。
◆袁傪
嘗て李徴と同じくして科挙に合格。穏便な性格であった為、血気盛んな李徴とは衝突せず、知遇を温めた仲だった。
或る時、勅命にて江南地区に赴いた際、道にて人喰い虎に襲われる。
危うい処で難を逃れたが、虎が茂みに隠れた時、茂みから嘗て旧友であった李徴の声を聞く。
不思議に思い、叢に声を掛けてみれば。
作品概要
時代は中国唐王朝、玄宗皇帝時。隴西(現中国甘粛省あたり)出身の李徴は、若くにして博学多才にして科挙に合格。
江南の地方長官に叙されたが、自分の才能を過信。
他人との妥協を許さず、下賤の官職に甘んじる事を潔しとせず、間もなく官を辞す。
官を辞した後、詩人として後世の名を残そうとするも、功ならず。
生活苦の為、再び下級の官を拝すも、既に同僚は遥か高位に昇進。
それが益々李徴の自尊心を傷付け、終いに発狂。何処とも知れず、立ち去ってしまった。
李徴が行方不明になった翌年、官吏袁傪と言う者、嶺南地区の商於(南嶺山脈、江西省あたりであろうか)に宿泊。
翌朝早く、宿を立ち、目的地に向かおうとした際、人喰い虎に襲われた。
虎は一瞬、袁傪に襲いかかるが、何を思ったの虎は身を翻し、叢に隠れた。
叢に隠れた虎の辺りから、人間らしき声が聞こえた。
袁傪は声に聞き覚えがあった。袁傪は思わず、虎が隠れた茂みに話かけた。
それは自分が嘗て同時期に科挙に合格した、李徴の声に似ていた為。
袁傪が話かければ、暫く返事はなかったが、叢から返事があった。いかにも自分は李徴であると。
袁傪は懐かしさのあまり李徴に話かけ、どうして李徴が今の身に至ったのか理由を問うた。
李徴が述べるには、役目にて旅先で宿泊した際、夜にて自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
声を頼りに外に飛び出す中に、山林に入りこみ、ふと気が付けば獣の姿に成り果ててしまったとの事。
獣になるが、数時間は自分の中の人間なる部分が蘇るとの事。
人間の心を取り戻した時、獣時の所業を振り返るのが恐ろしく、情けないと述べた。
しかし次第に人間に戻る時間も少なくなり、やがて完全に獣になってしまうだろうとも述べた。
更に李徴は人間の心が失われない中に、嘗て自分が詩人を目指していた頃作成した漢詩を袁傪に託した。
李徴は旧友に詩を託した後、自分の妻子の身を袁傪に託した。
託した後、自分が何故人間の身から、獣の身に成り果てた理由を、自嘲気味に述べた。
理由を述べた後、自分の現在の姿を晒し、自分の身を憐れむのであれば二度と自分の前に現れない事を願い、立ち去った。
要点
李徴が虎になったのは、人間時に持っていた自分のプライドの象徴と思われる。
作品中では英気に溢れ、自尊心の高い李徴が、権威主義の象徴である官僚制に不満を持ち、組織から飛び出す。
詩人として後世の名を残そうとするも夢叶わず、生きる為に再び下級役人になる。
しかし嘗て自分が俗物であると蔑んでいた同僚は、既に遥か高位に就いている。
再び自尊心がゆるさず、終いに発狂。挙句には獣に姿を変えてしまうのは、紛れもなく、中島敦本人を投影したもの。
中島敦自身、あまり報われる事なく、生涯を終えた。僅か34歳の若さで夭折。
生まれながらあまり家庭環境に恵まれず、戦争が本人に暗い影を落としていたのは確か。
作品が発表されたのが、昭和17年である事を考えれば、丁度、太平洋戦争が始まった翌年。
作品時代も何か暗い影を落としている様に見えるのは、気のせいであろうか。
更に先天的な喘息に悩まされ、病弱な体だった模様。作品も本人の死後発表され、名声を得たものが多い。
同じ中島敦の代表作『李陵』なども同じ。
作品中で李徴は虎の姿になりながらも、旧友袁傪に自分の人間時代の生きた証を残そうと、袁傪に嘗て詩人を目指した頃の漢詩を託している。
託しながらも、落魄した現在の身を自嘲気味に語っているのは、やはり李徴の自尊心が災いしたもの。
人は若かりし頃、一度は自らの才能を過信・溺れる事がままにある。
しかしその才能を発揮できるのは、ほんの一握り人間。
幼少時、神童と呼ばれた子供も、数年経てば普通の大人になっている事が多い。つまり、早熟。
若くにして才能を認められたが、其の後ぱっとしない人間も世の中に大勢いる。
李徴の場合、どのパターンか分からないが、途中で挫折した事に変わりない。
それは誰しも経験があるのではなかろうか。学生時代であれ、社会人であれ。何か身につまされる話だった。
逆に才知を意識せず、自分の途を一歩一歩進んだ人間が、長い目でみれば成功者となる事もままにある。
李徴という人間は、それができなかった人間の一人。
漢詩を唄った後、李徴が己の言葉で
が原因と述べているが、それが全てを物語っている。
獣になり人の心を奪われた際、悲しみを訴える為に咆哮する獣の姿は、自分の才能が世間に認められず、嘆いている姿に等しい。
最後に李徴は獣になる間際、漸く自分の妻子の身の上を、嘗ての知人袁傪に託している。
作品中、李徴自身も述べているが、本来なら世に埋もれた自分の作品(漢詩)を友人に託すのではなく、自分が残した妻子の安否を気遣うのが先。
此処にも李徴が人間として、失敗した原因があると思われる。
結果論になるが、自分が獣になり初めて、人間時代の自分の姿を客観的に判断できたのではなかろうか。
最後に李徴が獣の姿を袁傪に見せたのは、李徴の自分に対する最後の自嘲だったのかもしれない。
追記
中島敦の作品の特徴は、まるで中国古典のように漢字がふんだんに使われている。
此れは中島敦の家系の影響とも言える。祖父の時代から、漢学者の一家であった。
当然作者は、幼少の頃から読まされたものと思われる。
現代社会では中国古典・漢詩は、殆ど身近なものではなくなったが、昔は教養・嗜みとして漢学がもて囃されていた。
大昔を遡れば、日本の平安時代では貴族の教養・嗜みは漢字だった。
貴族間では漢字が読める事が知性を示すものであり、出世の道具でもあった。今に例えるならば、英会話の様なものであろうか。
(文中敬称略)