各々、異なる証言。果たして真相は 芥川龍之介『藪の中』
以前、映画『羅生門』を紹介した際、題名は羅生門だが、内容は同じ芥川の小説『藪の中』だと述べた。
そのブログが何故か有難い事に、閲覧数の上位にランキングされているのが何か不思議な気がする。
今回は映画の内容を改にする為、小説『藪の中』を紹介したい。
★芥川龍之介短編小説シリーズ
・題名 『藪の中』
・新潮社 新潮文庫 『地獄変・偸盗』内
・昭和 43年11月15日発行
・発表 大正11年1月 『新潮』
・原作 『今昔物語』19巻
目次
登場人物
◆多襄丸
洛中(現京都)に徘徊する盗人。女好きで有名。
◆真砂
若狭の侍(金沢武弘)の女房。夫の故郷若狭に帰る途中、多襄丸に出会い、災難にあう。
◆金沢武弘
若狭の国府に勤める侍(26才)。女房(真砂)と一緒に都から若狭に途中、多襄丸に出会い、災難にあう。災難の末、落命する。
◆木樵
藪の中で死体を発見する。死体は若狭の侍、金沢武弘と判明。
◆旅法師
死んだ侍を前日に見かけた旅法師。旅法師が侍を見た時、侍は馬に跨った女房と一緒だった。
◆放免
多襄丸を捕まえた役人。多襄丸が馬から落ちて、唸っていた処をひっ捕らえる。
放免は以前、多襄丸を取り逃がしていた。尚、放免とは検非違使の下働きをする役目。
◆媼
真砂の母親。
あらすじ
山科(現在の京都の地名)の山奥の藪の中で、男(若狭の侍)の死体が発見された。
死体を発見したのは、近所に住む木樵だった。
死体の男は前日、男の女房と思われる人物と一緒にいる処を旅法師に目撃されていた。
死んだ男は多襄丸という洛中を荒らしまわっている盗人と何らかの関わりをもち、死に至ったと断定された。
多襄丸は偶然、馬から落ちて蹲っている処を役人の放免に捕まった。
捕縛された多襄丸は、検非違使の尋問を受けた。
尋問を受けた多襄丸は臆する事なく、包み隠さず検非違使の質問に答えた。
堂々と尋問に答えた多襄丸であったが、多襄丸の証言は他の事件の関係者の証言とは微妙に異なっていた。
多襄丸の証言は何れも証言した人物の内容とは若干異なる部分があり、各々の証言は全く整合性が取れなかった。
各証言の整合性が取れないという事は誰かが勘違い、又は嘘を付いているという事。
果たしてウソをついている人間は一体、誰であろうか。
一人かもしれない。二人かもしれない。
或いは誰かと誰かが共謀(口裏を合わせ)、嘘の証言をしているのかもしれない。
可笑しな事に図らずも皆が自己弁護をする為、又は誰かを庇う為、全員が無意識に嘘を付いているのかもしれない。
それは全く分からない。果たして真相の行方は。
因みに、芥川の作品が元になったのであろうか。
物事の認識が食い違う際、真相は全て「藪の中」という喩えが暫し使われるのも、此の作品からと言える。
さて皆様のご判断は。
要点
学生時代、『羅生門』を授業で習った際、同じ芥川の作品『藪の中』が教師の口から出た。
内容は学生(当時は中学生)だった為、流石に教科書に載せるのは憚れらたのかもしれない。
何か似た作品であると話を聞き、早速読んでみた。
読んでみたが未だ年齢が若い為、更に内容が複雑過ぎて全く理解できなかった。
歳を経て改めて読み返せば、漸く内容が理解できた。
つまり登場する人間が証言する内容が、全く食い違うという事。
小説を読み返し感じた事。
現代風に喩えれば、警察か検察官が事件に関係した人間の事情聴取した際、各人間の証言がそれぞれ食い違い、誰の証言が正しいのか判断しかねるといった処であろうか。
皆目、見当がつかない状態。
各々の証言は何れも主観性が強く客観性を欠き、自分に都合の良い意見を述べていると推測される。
果たして誤った証言を述べているのは一体、誰なのか。
それは誰にも分からない。分からないから面白い。
作者芥川は、その判断を読者に委ねている。あなたなら、どう判断するのか。
それが誠に興味深い。
尚、参考までに各々の証言を掻い摘んで明記したい。
混乱を避ける為、作品の順序通りに明記する。
<木樵の証言>
侍の死体を裏山の藪の中で発見。発見現場では争った形跡があり、縄一筋と櫛が落ちていた。
周囲には太刀などの所持品はなく、侍のものと思われる馬はいなかった。
<旅法師の証言>
死体発見の前日、死んだ侍と馬に跨った女房らしき人物を目撃する。
男は太刀を帯びていて、弓矢も携えていた。女の顔は見ていない。
<放免の証言>
馬から落ちて蹲っていた有名な盗人、多襄丸を捕縛する。
放免は以前、多襄丸を取り逃がしていた。服装の特徴は取り逃がした前回と同じ。
打出しの太刀と弓矢の類も携えていた。馬も死んだ侍のものと推測される。
<媼の証言>
媼は死んだ侍の女房、真砂の母親。死んだ侍は若狭の国府に勤める26才で、名は金沢武弘。
娘の真砂は、19才。
真砂は男にも劣らない程、勝気な娘と発言。
真砂お特徴は浅黒い、左の眼尻に黒子のある小さい瓜実顔。
死んだ婿殿(金沢武弘)は仕方ないとしても、娘の行方を案じている様子。
証言後はただ、泣き崩れるばかり。
<多襄丸の証言>
侍殺しを自白。女(真砂)の行方は知らない。侍夫婦とは、昨日の昼過ぎ山中にて出会う。
女を一目見た瞬間、自分のモノにしたくなり、犯行を計画。実行に移す。
侍の欲に付け込み男を誘い出し、隙をみて捕縛。其の後、女を手籠めにする策略。
策略は、まんまと成功する。
女は手籠めにされる寸前、女が所持していた小刀で激しく抵抗した。
暫く格闘の後、多襄丸は女をモノした。多襄丸は男の命は取らずとも女を手にいれたと証言。
一連の行為後、その場を立ち去ろうとすると、女が泣きながら自分(多襄丸)の腕に縋った。
女は二人の男に恥を見せるのは死ぬよりも辛い。生き残った何方かに連れ添いたいと述べた。
多襄丸は女の発言を聞き女を愛しく想い、無性に男(真砂の夫)を殺したい衝動に駆られた。
女の言葉に因り、多襄丸は侍をなき者にしようと決めた。
しかし其処は流石に天下に名の知れた多襄丸の事。
決して卑怯な真似はしたくないと思い、侍の縄目を解き堂々と侍との太刀打ちを挑んだ。
苦戦の末、漸く侍を斬り捨てたが既に女の姿はなく、何処かに立ち去った後だった。
女が立ち去った為、多襄丸は侍の馬と所持していた弓矢を奪い、その場を立ち去った。
多襄丸の証言は以上だが、多襄丸は尋問の際、何気に重要な意味の発言をしている。
それは人間の宿痾とでも云うのか、何か皮肉めいたものにも感ずる。
敢えて表記したい。
更に、
とも証言している。
何れも人間の罪の深さを表しているのかもしれない。
<真砂の発言>
女は多襄丸に手籠めにされた後、縄で縛られた夫(金沢武弘)を眺めた。すると夫は私(真砂)を蔑んだ冷たい目で見つめた。
夫の冷たい視線をみた後、女は気を失った。
暫くして気が付けば、多襄丸は既に立ち去った後。其の場にはただ縄で縛られた夫が佇んでいるだけだった。
女が再び夫を見つめた際、夫は先程と聊かも変わらない位の冷たい視線を真砂に浴びせた。
真砂は夫の視線により、恥ずかしさ・悲しさ・腹立たしさを感じ、夫と供に自害する決意した。
夫の太刀は既に多襄丸に持ち去られていた為、落ちていた真砂の小刀で夫の胸を突き刺した。
突き刺した後、真砂は再度気を失った。
再び気を取り戻した時、夫は既に息絶えていた。
真砂は死体から縄目を解いた。
其の後、色々死のうと試みたが死にきれず、清水寺までやってきたと証言した。
<巫女の口を借りた死んだ侍の発言>
盗人(多襄丸)は自分の目の前で妻を手籠めにした後、妻を慰め始めた。
自分は妻に目配せをして、盗人の言葉を受け入れないように指示した。
処が妻は初めは盗人の話を聞かぬようにしていたが、だんだん盗人の言葉に聞き入っているような素振りをみせ始めた。
私(死んだ侍)は徐々に、多襄丸に対し妬ましさを覚えた。
盗人に対し妻は、今迄自分には見せた事もない美しい顔を多襄丸に見せた。
とうとう妻は多襄丸に対し、「何処へでも連れて行って下さい」と述べた。
更に妻は斯うも述べた。「私を連れてくのなら、縄に縛られた夫を殺して下さい」と。
妻の多襄丸への言葉を聞いた時、私は奈落の底に突き落とされた気がした。
妻の言葉を聞き流石の多襄丸も気が引けたと見え、暫く返事をしなかった。と思った瞬間多襄丸は、妻を竹の落葉に蹴飛ばした。
蹴飛ばした後、多襄丸は妻に対し呆れたのか縛られた私に対し、「あの女を殺すか、助けるか」尋ねた。
多襄丸に辱めを受けた私だが、多襄丸の此の一言で私は多襄丸の罪を赦す気になった。
私が返事に躊躇するうちに、妻は何かを叫び藪の中へと走っていった。
妻が立ち去った後、多襄丸は私の縄目に切れ目をいれ、逃げやすくしてその場を立ち去った。
二人が立ち去った後、静寂だけが訪れた。
自分は漸く我身に返った。ふと目の前に妻の小刀が落ちていた。
自分は小刀を取りあげると、小刀を自分の胸に突き刺した。
自分は徐々に意識が薄れていった。
意識が薄れる中、誰かが自分の近くに忍び寄り、そっと自分の胸に刺した小刀を引き抜いた。
その人物が誰であるのか、顔を覗こうとしたが既に息が絶えてしまった。
さて皆様、如何でしたでしょうか?
登場した人物の発言を、掻い摘んで表記しました。皆様はどう判断されるでしょうか。
追記
要点の欄でも触れたが、若い頃は分からなかったが、歳をとり理解できた事がある。
代表的な例として今回の作品中で述べれば、作品の最後に死んだ男が巫女口を借り証言する場面がある。
男が自殺を遂げた後、息絶える寸前に自分の胸から小刀を引き抜いた人物がいると証言した。
中学生の時、小刀の抜いた人物は多襄丸か真砂のどちらかの二人と思っていたが、今にして思えば小刀を抜いた人物はおそらく、死体を発見した木樵だと思われる。
それだけ自分が歳をとり、物を見る目が肥えたのかもしれない。
以前紹介した映画『羅生門』では、羅生門に佇む木樵と旅法師の話を聞いた下人が小刀を持ち逃げしたのは、紛れもなく死体を発見した木樵(杣売り)だと見破った。
作品を読み既に何十年経過していたが、今では最後の文章の意味が漸く理解できた。
それだけでも今回の収穫と云える。
(文中敬称略)