真面目な男が、一度道を踏み外した時 松本清張『坂道の家』
★松本清張 短編小説シリーズ
・題名 『坂道の家』
・新潮社 新潮文庫
・昭和 昭和46年10月 発行 【「黒い画集」内】
・発表 「週刊朝日」 昭和34年1月4日号~4月19日号
目次
登場人物
◆杉田りえ子
杉田りえ子は、新宿のバー「キュリアス」に勤めるホステス。
偶々、寺島吉太郎が経営する小間物店に立ち寄り買い物をする。
買い物をする際、普段はケチな吉太郎だったが、若いりえ子に興味を持ち、りえ子に便宜を図る。
それが切っ掛けで、二人は深い仲となる。
◆寺島吉太郎
小間物店を経営する中年男性。或る日、たまたま店を訪れた杉田りえ子に興味をもつ。
りえ子がバー勤めのホステスと知った後、りえ子の店に通い始める。
今迄商売筋で、派手な遊びをする男でなかった吉太郎だが、りえ子に入れ込み、徐々に身を持ち崩す。
更に、りえ子を独占したいあまり一軒家を借り、りえ子を囲う。
しかしそんな生活も長く続かず、終いに商売も家庭も失い、やがて身の破滅を招く。
◆寺島の女房
あまり風采の上がらない、ぱっとしない女房。二人の間には子もいない。
今迄吉太郎と一緒に手堅く商売を切り盛りしていたが、吉太郎が杉田りえ子に入れ込むのを知り、次第に夫婦仲が悪くなる。
◆山口武重
杉田りえ子のヒモ。バーの見習いだが、将来独立を考えている。
その為りえ子に入れ込んでいる吉太郎から金を巻き上げる為、りえ子に積極的に吉太郎の相手をするよう勧める。
あらすじ
杉田りえ子は、新宿のバー「キュリアス」に勤めるホステス。源氏名は「八重子」。
或る日、寺島吉太郎が経営する小間物店に立ち寄り買い物をする。
買い物をした際、いつもは強欲ではケチな吉太郎だったが、偶々りえ子に興味を持ち、りえ子に便宜を図る。
それが切っ掛けで、二人は深い仲となる。
深い仲になった後、りえ子は吉太郎から色々援助して貰う。
金は勿論の事。洋服、装飾品、一軒家なども。しかしそんな生活は長くは続かない。
吉太郎の浮気が女房にバレ、終いに吉太郎は商売もうまくいかなくなり、仕事も家庭も崩壊する。
金がなくなった吉太郎に若いりえ子は、既に用無し。
りえ子は必死に吉太郎から逃れようとするが、吉太郎の嫉妬と独占欲は益々強くなるばかり。
りえ子は吉太郎の存在をだんだん疎ましく感じ、最後は愛人の山口武重と共謀。
吉太郎を事故死にみせかけた殺害を計画、実行する。
その二人の企んだ偽装殺人の犯罪とは。
要点
寺島吉太郎は小間物を扱う商売を営んでいた。
年齢46歳、商売一筋で過ごし女房はいるが子はいない。
楽しみと云えば仕事が引けた後、駅前のおでん屋で一杯ひっかける程度。
店自体、場末のこじんまりとした店だったが、吉太郎の商売熱心が功を奏し、店はなかなか繁盛していた。
或る日、吉太郎の店にホステス風の女性が訪れた。
初めはひやかし程度で、何も買わず出て行った。
数日後、その女は再び吉太郎の店を訪れた。
女は紙入れを所望した。吉太郎は幾つか紙入れを見せた。
女はある紙入れを気に入ったようだが、あいにく女の予算が合わない様子。
普段の吉太郎ならば、びた一文もまけない。
しかしその時、何故か女の媚態に魅惑されたのか、吉太郎は女にタダで譲った。
女は杉田りえ子と云った。
りえ子は初めて吉太郎の店を訪れた際、出入りの外交員と吉太郎が想像した通り、新宿のバーに勤めるホステスだった。
吉太郎は46歳になる迄、バー通いなどした事がなかった。
吉太郎はりえ子に惹かれ、初めてりえ子が勤めるバーに通った。
今迄遊びというものを知らなかった吉太郎は、遊びの味を知り、深みに嵌る。
吉太郎は次第にりえ子に溺れ、商売一筋だったが商売にまるで身が入らなくなった。
やがてりえ子の存在は女房にバレ、商売と家庭の両方を失ってしまう。
商売と家庭を失った吉太郎だが、決してりえ子を諦める訳でない。益々のめり込んでいった。
次第に、吉太郎の独占欲と嫉妬心は拡大。
吉太郎はりえ子を独占する為、勤めを辞めさせ、りえ子の為に一軒家を借り、りえ子を家に閉じ込めた。
若いりえ子には、そんな生活は堪らない。りえ子には、若い愛人がいた。
りえ子は吉太郎に愛人を、自分の弟だと誤魔化していた。りえ子は吉太郎から巻き上げた金を、若い愛人に貢いでいた。
しかし何時しか、吉太郎に愛人の存在がバレた。吉太郎の嫉妬心は益々増幅した。
吉太郎はりえ子に対し一時は怒りを覚えたが、愛人の存在を詰る事でりえ子に反感を買い、りえ子を失う事を恐れた。
りえ子は廃業し、金もなくなった吉太郎に対して既に興味を失せていた。
りえ子は吉太郎から何とか逃れようとするが、吉太郎は以前も増し、りえ子にのめり込んだ。
当然二人の感情は対立した。吉太郎は女房と喧嘩後、家を出た。
吉太郎は、りえ子に一軒家に転がり込んだ。
つまり46時中、りえ子は吉太郎と過ごす事になった。
鬱陶しさのあまり、りえ子は何時しか、吉太郎に殺意を抱いた。その殺意は後に、現実的なものとなった。
りえ子は、若い愛人と結託。
吉太郎を事故死に見せかけた、殺人を思いつく。
計画のカラクリは、吉太郎にビールを飲ませ酩酊状態にする。
酩酊状態のまま、氷の風呂に入れる。中年の吉太郎は当然、心筋梗塞に近い状態に陥る。
吉太郎は、二人の思惑通り絶命する。
其の後、二人は死亡推定時刻を狂わす為、石炭を炊き吉太郎の死体を熱し、死亡推定時刻を大幅に狂わすアリバイ工作をする。
アリバイ工作をした筈の二人であったが、二人に誤算が生じた。
誤算の一つ目は、
僅かな大鋸屑が浮かんでいる事で、風呂を炊く前、風呂に氷柱が浮かんでいた事実が判明した。
今ではめっきり少なくなったが、昔は氷屋が存在した。文字通り、氷を売る店。
氷屋では氷が溶けないように大鋸屑をよく使う。
二つ目の誤算は、
りえ子本人は知らないが、りえ子の家を近所の浪人生が観察していた。
浪人生は年頃と云う事もあり、若いりえ子の家を興味本位で観察していた。
観察と云えば聞こえはよいが、実際は「覗き」である。
潤いの無い浪人生にすれば、若い女の家を覗く事は一種の息抜き、或るは励みになっていたのかもしれない。
浪人生は、いつも同じ時刻に風呂を沸かす煙が出るが、事件当日は全く違った時刻に煙が出ていたと証言した。
此の二つの証言が決め手となり、事件が解決した。
ほんの些細な事だが、何気に重要な証言。
もし二つの誤算が無ければ、吉太郎の死は単なる事故死として処理されていたかもしれない。
追記
小説の前半は今迄商売一筋で遊びも知らなかった中年男が、店に来た若いホステスに溺れ、堕落する話。
男は次第に若い女を独占しようと試み、女が求めるもの全てを与えた。家・洋服、そして金。
しかしそんな状態は、長く続かない。
男の商売は行き詰まり、愛人の存在も女房に知られ、金も家庭も失う。
金がなくなった中年男など、若い女は興味はない。
小説の後半は若い女が如何に中年男の独占欲と嫉妬から逃れる為、若い男の愛人と結託。
中年男を事故死と見せかけ、殺害してしまう。
話の内容としては分からなくもないが、清張好きな私としても、珍しくこの作品はあまり好きではない。
何故なら他の短編小説のように、割と少ないページで話の内容が描ける為。
作品は約200ページ近く割いているが、要点を纏めれば、僅か数ページで済む。
途中で細かい描写もあるが、左程重要とは思われない。
あまり使いたくないが、清張にしてみれば珍しく「失敗の部類」に入るのではなかろうか。
それとも前半は、平凡な男が或る程度の金をもった後、陥りやすい罠を描く。
後半は、殺人事件とアリバイ工作の話と割り切って読めば、違和感がないのかもしれない。
そう思い乍、作品を読み返した。
しかし意外にもTVでは、何度かリメイクされている。私も映像でつくられた作品を、幾つか見た。
映像で作品を視れば、不思議と清張作品には珍しく、原作より映像の方が面白いと感じる。
此れは今までとは違い、何か不思議な感覚に捕らわれた。
大概映像化しても原作を越えるのは、かなり至難の業。
理由を考えた末、一つの結論に辿り着いた。
それは作品のタイトル『坂道の家』が関係しているのではないか。
小説ではタイトルとの関連性が僅か数行で説明されているが、映像では杉田りえ子がパトロンの寺島に宛がわれた一軒家が、本当に坂道の上にある。
寺島がりえ子に会う為、息を切らし、苦労して坂道を登っていく姿がとても印象深かった。
此れが「文字と映像の違い」。
それを考えれば今回の作品は、文章より映像的作品と云えるかもしれない。
作品をTVで見た時、私はまだ子供だった。
子供だったが、寺島吉太郎を演じた役者さんが息を切らし、坂道を登っていくシーンが今でも鮮明に脳に焼き付いている。
内容は殆ど覚えていなかったが、何故かそのシーンだけは印象深かった。
何も分からない子供にも、何か訴えるものがあったのではないかと思う。
(文中敬称略)