金の有無で、判決が変わるのか 松本清張『霧の旗』
★松本清張 長編小説シリーズ
・題名 『霧の旗』
・新潮社 新潮文庫
・発行 昭和47年 1月
・連載 昭和34年 7月~昭和35年 3月『婦人公論』
目次
登場人物
◆柳田桐子
強盗殺人の罪で逮捕された兄(柳田正夫)の妹。
兄の無罪を晴らす為、東京で有名な弁護士(大塚欽三)に弁護を依頼にいく。
遥々九州から上京するが、大塚弁護士にすげなく断られる。
断られた後、兄を死をもって上京。
兄の弁護を引き受けなかった大塚弁護士に対し、復讐を企む。
◆柳田正夫
柳田桐子の兄。九州のK市で小学校教師をしていた。
小学校の修学旅行の旅費を無くしてしまい、高利貸から金を借りる。
金の返済に困り、暫し貸主から矢のような催促を迫られていた。
或る日、利息分を払いに高利貸の家を訪ねた際、高利貸は死亡していた。
咄嗟に嫌疑が自分にかかると思い、借用証を拝借。
その事で足が付き、強盗殺人容疑で逮捕される。
逮捕はされたが、殺人を否認。被疑者否認のまま、一審で死刑判決。控訴二審中、獄死する。
◆阿部啓一
東京の論壇誌で活躍する編集記者。
偶然上京した柳田桐子の電話を立ち聞きし、柳田桐子に興味を持つ。
桐子に話を聞こうとするが、桐子はそのまま立ち去り、以後消息不明となる。
暫くして二人は東京で偶然再会する。
再会後二人は度々おち合い、桐子の兄の事件について話合う。
やがて阿部は知らず知らずのうちに、桐子の復讐の片棒を担がされる羽目になる。
◆大塚欽三
東京で有名な弁護士。
柳田桐子が弁護の依頼に来た際、弁護料、当日愛人の河野径子と会う約束があった為、すげなく断る。
その後、桐子の兄が獄死。桐子から恨みを含んだ葉書を貰う。
大塚は葉書の言葉が心に引っ掛かり、柳田桐子の兄の事件を調べ始める。
調査をした結果、桐子の兄は殺人に関し、無罪である事を突き止める。
◆河野径子
大塚欽三の愛人。離婚相談の為、大塚弁護士を訪ね、その後深い関係となる。
柳田桐子が大塚弁護士事務所を訪ねた際、伊豆の川奈にて大塚とゴルフの約束をしていた。
径子は、銀座でフランス料理を経営。
大塚と関係を続けると以前、従業員の杉浦健次と関係を重ねていた。
◆杉浦健次
河野径子が経営するレストランの給仕頭。
桐子が東京で勤めるバー(海草)の経営者の弟。桐子の先輩で同バーの女給、信子とは恋人同士。
◆山上武雄
桐子と同じ九州K市近くの村出身。高校時代、野球で鳴らしたサウスポーの投手。
杉浦健次とは知人。
◆信子
桐子と同じバーに勤める女給。桐子とは同じ故郷出身。
バーの経営者の弟(杉浦健次)とは、恋仲。
或る日、健次の浮気を疑い、桐子に健次の尾行を依頼する。
◆渡辺キク
九州K市にて、高利貸を営む老婆。或る日、自宅にて死体となって発見される。
警察は強盗殺人として捜査。捜査の結果、K市の小学校教師、柳田正夫が逮捕される。
◆奥村
大塚弁護士事務所に勤務する事務員。九州からやってきた柳田桐子の応対をした人物。
大塚弁護士が桐子の依頼を断った翌日、電話にて再び桐子の応対をした。
後に桐子の事件を大塚弁護士が調べ直す時、手配した人物。
良い意味で、出来た事務員。悪く言えば、文字通り事務的な人間。
作品概要
九州K市で強盗殺人が発生。被疑者として小学校教師、柳田正夫が逮捕された。
逮捕された柳田正夫は殺人を否認。
兄の冤罪を晴らす為、妹の柳田桐子は東京で有名な大塚弁護士に弁護を依頼する。
遥々上京した桐子であったが、大塚弁護士は桐子が弁護料が払えない事、私用で忙しい事を理由に、桐子の依頼を断る。
弁護を断られ桐子は、すごすごと九州に帰る。
後日大塚弁護士の許に、桐子から葉書が届く。
葉書の内容は、桐子の兄正夫は一審で死刑判決。控訴公判中、獄死したとの知らせだった。
月日は流れ、柳田桐子は兄の死後、上京。銀座のバーに勤め始めた。バーのマダムには、弟がいた。名前は杉浦健次と云った。
健次は桐子が勤めるバーの同僚の信子と、恋仲だった。
更に健次は勤め先のレストラン経営者、河野径子とも深い関係だった。
一方河野径子は従業員杉浦健次と付き合う傍ら、離婚相談で世話になった大塚弁護士とも恋仲になった。
以後径子を中心とした、三角関係が続いていた。
或る日、杉浦健次が河野径子と逢瀬を重ねていた場所で殺害された。
柳田桐子は同僚の信子に健次の尾行を頼まれ、健次を尾行していた。
健次が密会の場(建物)に入ったのを確認した。
暫く付近で時間を潰していると、河野径子がやって来た。
河野径子は建物に入ったが、慌ててすぐ出て来た。
径子が慌てて出来て来たのは、健次が建物の中で殺害されていたからだった。
径子は咄嗟に表で出くわした桐子に、証言を頼んだ。証言を頼み、急いでその場を立ち去った。
桐子は建物に入り殺害現場で健次の所持品ではなく、犯人が落としていったと思われるライターを咄嗟に持ち去った。
此処から柳田桐子の、大塚弁護士に対する復讐劇が始まった。
要点
被疑者柳田正夫の妹、柳田桐子が放った言葉
「貧乏人には、裁判にも絶望しなければならないことがよく分りましたわ」
此れが今回の作品のキーワード。
此の言葉通り、桐子の兄正夫は控訴公判中、獄死する。
公判中の被疑者死亡だが桐子にとり、冤罪のまま死亡したと同じ認識。
桐子の怒りの矛先は、兄の弁護を断った大塚弁護士に向けられた。
その後、大塚弁護士に対する桐子の執拗な復讐が始まった。
大塚弁護士は桐子の兄の事件が気になり、事件が発生したK市に住む後輩の弁護士に頼み、裁判記録を見せて貰う。
大塚弁護士は後輩の弁護士から事件記録をかり、事件概要を調べる。
何れも人間の利き腕を注意して見れば、謎が解ける。
強盗殺人として逮捕された被疑者が、借用書の強盗は認めるも殺人は否認する。
しかし取調べが進むにつれ、一度は殺人を自白する。
後に再び殺人を否認するパターンは、清張作品『渡された場面』に似ている。
異なるのは『渡された場面』は後に被疑者は殺人は無罪と判明するが、今回は被疑者は無罪が認められないまま、獄死している処。
松本清張は作品を通じ、暗に裁判の理不尽さを暗に皮肉っている。
清張作品『一年半待て』も裁判制度の欠陥、「一時不再理」を利用したもの。
日本が明治維新を迎え、近代国家の道を歩み始め今日に至るが、明治以降、司法制度は殆ど変化していない。
明治以降、そして令和を迎えた現在でも司法制度のみ、未だ前近代的な制度となっているのは有名な話。
中には、現代にそぐわない法律が多く存在する。
色々指摘されているが、一向に変わる気配がない。
理由は司法界全体が、閉塞・膠着している為。
清張は閉塞・膠着した司法制度に、矛盾を問い掛けている。
作品が発表されて既に40年以上経つが、司法の現状は全く変わっていない。
世の中がめまぐるしく変化する中、司法界ではまるで時が止まったまま。
近年、陪審制度と云われる仕組みも取り入れられたが、あまり変わったとは言えない。
実は大昔、日本でも陪審員制度が採用されていた時期があった。
何時の間にか廃止されたが、近年の世論・諸外国(主にアメリカ)等の影響もあり、申し合わせの様に復活した。
しかし実際は、殆ど形骸化している。日本人は裁判はあまり好まない民族と云われている。
逆にそれが、司法制度の見直しを阻んでいるとも云える。
但し、あまりにも裁判沙汰が多くなるのも、考え物。
何故なら、アメリカ社会を考えれば分かり易い。
アメリカはご存じのように、訴訟大国。それ程、身近な出来事。
ほんの些細な事でも、訴訟になるのが当たり前の社会。
自ずと裁判になれば、弁護士が必要となる。
アメリカ社会では、弁護士は人気な職種。
過去アメリカ大統領、議員などの政治家は、元弁護士が多い。
それ程人気稼業で、数も多い。日本ではあまり考えられない話。
アメリカの裁判は今回の作品の様に、金さえあれば被疑者に有利な判決が下る事が多い。
それは日本より遥かに顕著。
前述した陪審員制度も重なり、驚くべき判決が下る場合もある。
これは長い間、アメリカ社会の裁判の欠陥と指摘されているが、一向に変わる気配はない。
作品の如く、アメリカでは貧乏人は不当な判決を受ける場合があるが、金持ちは自分に有利な判決を勝ち取る事が可能。
その為、弁護士稼業が持て囃されるという訳。
日本の諺で云われる「地獄の沙汰も、金次第」であろうか。
因みにアメリカ社会では、あまり優秀でない貧乏弁護士は「救急車を追いかける、弁護士」と揶揄されている。
何故かと言えば、人が亡くなれば、遺産相続が発生する。
遺産相続になれば相続で紛糾したり、何かと手続きが必要。
その仕事にありつく為、死にかけた人を探す意味で、「救急車を追いかける人」云う意味で使われる。
今回の作品も国柄は違うが、似た矛盾を読者に投げかけている。
しかし柳田桐子の復讐の矛先が司法制度でなく、依頼を断わられた弁護士に向いたのは意外。
もし自分が大塚弁護士の立場だとしたら、一体どうしたであろうか、と考えずにはいられない。
仮令愛人である河野径子の存在がなかったとしても、もし私が柳田桐子の依頼をうけたと仮定した場合、やはり大塚弁護士と同じ態度を示したと思う。
自分がまだ未熟で駆け出しであれば、世間に名を売る為、手弁当で弁護を引き受けたかもしれない。
しかし或る程度有名になれば、やはり仕事を取捨選択するのは、当然の成り行き。
此れは何も弁護士業に限らず、他の商売でも同じ。民間は決して、公務員のような公僕ではない。
弁護士もやはり、人の子。算盤勘定が入るのは、当たり前。
今回の依頼は、難しい判断だったと思う。
逆に大塚弁護士は、善い人だったのだろう。
善い人だからこそ、引き受けてもいない九州の事件を再調査。見事に、桐子の兄の無罪の証拠を発見した。
その結果、良心の呵責に苛まれた。
大塚弁護士はその優しさ故、身の破滅を招く羽目になろうとは思いもしなかった。
悪徳弁護士であれば、決して良心が痛むわけでもなく、寧ろ自分の行動を正当化したと思われる。
清張は裁判制度の矛盾と供に、弁護士が身の破滅を招く不条理さを作品中で描きたかったのかもしれない。
作品中、柳田桐子は意志の強い、頑固な女性として描かれている。
その芯の強い女性が違った方向に向かえば、他人を不幸にしてしまう可能性もありえると。
何か身につまされる話だった。
作品中にて登場する編集者の阿部啓一・大塚弁護士は、柳田桐子の気丈な気配を感じ取った。
彼女が気になり、桐子の兄の事件に興味を持ち始めた。
桐子の気丈な態度と振る舞いが、兄の冤罪の解明に結びつかせたとも言える。
桐子の大塚弁護士に対する復讐のきっかけは、全くの偶然だった。
桐子は同じバーで働く信子の頼みで、信子と恋仲のバーのマダムの弟、杉浦健次を尾行した。
桐子が尾行中、杉浦健次が殺害される。
殺害現場は、健次が勤めるレストランの経営者、河野径子と逢瀬を重ねていた秘密の隠れ家だった。
杉浦が先に密会の場に着く。40分後に河野径子が建物に入った際、健次は既に何者かに殺害されていた。
桐子は健次を尾行していた。健次が径子に会うのが目的で、家に入るのを目撃していた。
河野径子が現場に到着したばかりと言う事も、桐子は目撃していた。
殺害現場には、ライターが落ちていた。桐子は咄嗟に落ちていたライターを拾い、持ち去った。
そのライターは桐子が以前、見たものだった。
ライターは桐子の勤めるバーに健次の友人としてやってきた、山上のライターと記憶していた。
桐子の復讐はまるで、桐子の兄が冤罪になったと全く同じ状況。
先に殺人が行われ、その後訪ねてきた人間が被疑者扱いにされた事。
桐子と大塚弁護士の立場が、逆転した瞬間だった。
しかしいくら桐子が復讐の為、河野径子を陥れたとしても径子は離婚後、大塚弁護士・杉浦健次の両方と付き合っていた。
径子が殺人容疑の被疑者として拘束され、取調べを受けた際、健次との逢瀬に関して自分は手を切りたかったが、相手(健次)が関係の継続を望んでいたと証言している。
死人に口なしと云えばそれまでだが、やはり河野径子が年上である以上、健次との関係を上手く清算できなかった事にも問題がある。
職場の経営者と従業員との、立場上の関係もあろう。
大塚弁護士は、全く杉浦健次の存在が分かっていなかった。いい面の皮と言える。
河野径子は殺人容疑で逮捕された。しかし真犯人は別にいた。
犯人は前述した、ライターの持ち主だった山上武雄。
何故山上が杉浦を殺害したのかと云えば、杉浦は山上の弱味を握っていた。
弱味を握っていた為、山上を強請っていた。
その強請のネタとは。
強請のネタとは、紛れもなく山上が故郷で引き起こした事件。
その事件とは皮肉にも、柳田桐子の兄が冤罪で捕まった事件。
つまり九州K市で起きた、強盗殺人事件の件。
真犯人は杉浦殺しと全くの同一人物、山上武雄だった。
柳田桐子は河野径子が検事に述べた証言を全面否定した。
殺人現場に行った事もなければ、河野径子などに会った事もないと。
冷静に考えれば、桐子の否定にも若干無理がある。
警察も真剣に河野径子の証言の裏を取れば、柳田桐子の矛盾に気が付いた筈。
柳田桐子が当日、何故店を休んだのか。それは同僚の信子に頼まれ、健次を尾行していた為。
信子に当たれば、桐子の嘘を見破れたと思われる。
信子も健次が殺害された理由・状況など、桐子に詳しく聞いたと思われる。
恋人を殺された信子は犯人憎しで、寧ろ積極的に警察に協力したかもしれない。
桐子が健次を追跡した際、桐子はタクシーを利用した。
タクシー会社を当たれば、運転手の証言で桐子の嘘がバレた可能性もある。
もう一つは、径子が逢引に使用していた、家の留守番の中年女性。
桐子は中年の女性が家を出た時、咄嗟に話かけている。
留守番役の女性に当たってみるのも良かったのではないかと思う。
此れはライターに固執した、大塚弁護士も同じ事が云える。
一番重要なのは、検察側は柳田桐子の過去を洗わなかったのかと言う事。
桐子の過去を洗えば、桐子の兄の事件が必ず浮上する。桐子の兄が獄死した事件。
桐子は兄が存命中、兄の弁護を大塚弁護士に依頼した形跡があった等の事実が浮かび上がったと思われる。
利用されていたと言えば、大塚弁護士と同じ阿部啓一も、利用されていたのかもしれない。
大塚弁護士と杉浦健次との関係。
杉浦健次と河野径子との関係に繋がるヒントを桐子に与えたのは、阿部啓一だった。
違った意味で、マヌケなピエロかもしれない。
一方大塚弁護士も、桐子が持ち去ったライターの特徴が分かっているのであれば、ライターの出処を追跡。
真犯人(山上武雄)を特定して、径子を救う手立てもあったと思う。
尚、作品の最後は
東京から桐子の消息が絶えた
で終わっている。この終わり方は何か、芥川龍之介作品『羅生門』
下人の行方は、誰も知らない
に似ている。清張は作家になる以前、芥川の作品を好んでいたと云われている。
今回の最後は、羅生門の最後を捩ったのかもしれない。
※参考 K市とはおそらく佐賀県唐津市、N新聞とは、福岡県に本社がある、西日本新聞と思われる。
追記
余談だが、桐子は嘗て九州から兄の弁護の依頼で上京した時、まだあどけなさを残した少女だった。
しかし兄の死を経験。再び上京してバー勤めになった後、僅か数か月で都会の女に成り果てた。
私にも経験がある。
私は大学進学の為、上京した。
上京当初は右も左も分からない状態だったが、自分も気づかぬ中に、何時の間にか都会で生きる術を身に付けていた。
若い時は猶更。慣れるのに、ほんの半年程だったと思う。
月日が経ち、新しく自分と同じ境遇の人間が上京する。
上京したての頃は初々しいさが残り、傍で見ていても何か危なっかしさを感じる。
しかし暫くすれば嘗ての自分と同じく、知らぬ間に都会に生きる術と強かさを身に付ける。
人間とは、全く不思議な生き物ものだと実感する。柳田桐子も同じであろうか。
今回の作品も他の作品と同様、過去に何度もTV番組等で映像化されている。
リメイクで、現代版にアレンジされている事もあるが、作品の趣旨は然程変わっていない。
何故なら前述した如く、司法制度が明治以降、殆ど変化が見られない為。
内容の根幹が変わる事が殆ど無い。作品の本質を鑑みれば、当然の結果と言える。
原作者(松本清張)は、明らかに司法制度に欠陥があると主張している。
最後に作品の題名が『霧の旗』となっているが、作者の内容と題名の意図があまり呑み込めなかった。
何回も読み返す中に、自分なりの解釈ができたので述べてみたい。
作品中で、大塚弁護士が「霧は音を立てる」と呟く。
これが唯一、題名と繋がりを持つと推測される。
霧を想像すれば、「何かもやもやとして、先が見えない」曖昧模糊等のイメージがある。
要するに霧は、「不安定・不確実なもの」として考えられる。
不安定・不確実なもの。
それは我々が生きる「人間社会」を示しているのではないかと思う。
当に先行きが見えない、「現代社会の暗示」とも言える。
普段私たちは、先行きが見えない不安定な社会で生きている。
その不安定な社会で人間は決して表立って声を発しないが、
「人間の一人一人は確実に自分の明確な声(意思・意見)を発している」
と、清張が主張しているように思われた。
旗の本来の目的は、「目印」。他人に自分の位置(存在)を知らせる事。
音→旗→人間の声・存在を示すもの(人間の意思)ではないかと自分で勝手に理解した。
(文中敬称略)