優柔不断の将軍とエゴの塊の天皇 「足利尊氏 X 後醍醐天皇」の争い

1192年、源頼朝が創設した鎌倉幕府は、嘗て平家滅亡の如く、あっけなく滅びた。1333(元弘3)年の出来事。

滅亡後、後醍醐天皇を中心として、「建武の新政」と呼ばれる政治が始まる。

始まって間もなく、鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏と後醍醐天皇が対立。建武の新政はあっけなく挫折。僅か2年で崩壊する。

今回は僅か2年で崩壊、其の後長く続く、南北朝の動乱へと原因を探りたい。

 

鎌倉幕府の崩壊

権勢を誇った平家打倒後、源頼朝が鎌倉幕府を創設。100年以上に渡り続いた幕府も、やがて歪が生じた。

詳細は省くが幕府が崩壊した大きな理由は、鎌倉幕府の一員である有力御家人「足利尊氏」、「新田義貞」の裏切りと思われる。

何故幕府を構成する有力御家人が幕府に背き、倒幕側に回ったのか。

結論から言えば、幕府が御家人たちの利益を代弁しなくなった為。

 

現代社会でも同じ。国民が支持する政治を実行すれば政権維持は可能だが、国民の支持を失えば、政権の座から滑り落ちる。

今は選挙で自分の好きな政党を選ぶ事が可能だが、当時は選挙などあり得ない。自ずと武力での政権交代となる。

 

江戸末期も同じ。家康以来の盤石な江戸幕府がどうして揺らぎ、最後に倒幕したのか。

それは武士が貨幣経済に巻き込まれ、経済的基盤が緩み、武士の地位が著しく衰えた為。

武家社会での経済基盤は土地、つまり米経済。鎌倉~江戸に続く武家は米経済が中心。

しかし米は商品作物であり、価格が変動して不安定になり易い。必然的に商品作物を扱う商人が台頭する。

江戸時代では基本的に、武士は商売を禁じられていた(朱子学の影響)。

 

いつの時代も有力な商人が現れ、時の権力者と結託。繁栄を築く構図が見られる。

信長・秀吉・家康・幕末の志士達等も、商人の力を理解していた。巧みに商人を利用している。

商人たちも慣れたもので、先行投資と思えば活動資金を出資した。

 

朝廷側の後醍醐天皇は、武家側の混乱を巧みに利用した。

当時幕府体制に靡かず、独自の経済的基盤を持っていた「悪党」と呼ばれる層とも歴史の流れの中、結託する。

具体的な人物を挙げれば、「楠木正成」。当時あらゆる反幕府勢力が必然的に、後醍醐の倒幕運動に結集する。

歴史の必然だが、「敵の敵は味方」という法則がここでもなり立つと言える。

反信長勢力が包囲網を結成。第二次大戦に反ドイツ(ナチ)連合国が結託したと同様に。

しかし反幕勢力の結集は倒幕後、建武の新政が忽ち崩壊してしまう原因となる。

理由は後ほど述べたい。

 

建武の新政

各反幕府勢力を結集。1333年、1192年以来続いた鎌倉幕府は滅亡した。

倒幕したまでは良かったが、中心人物であった後醍醐天皇には、滅亡後の明確なビジョンがなかった。

無いと云うよりも、倒幕に協力した勢力とは全く違う政治を目指したと言った方が的確かもしれない。

 

後醍醐が目指した政治は言うなれば、「天皇親政」であろうか。

つまり天皇のみに権力が集中する、独裁政治といって良いかもしれない。

元号の「建武」も後醍醐が周囲の反対を押し切り、ごり押ししたもの。建武の文字を天皇に当て嵌めてみれば、理解し易い。

 

此処まで後醍醐天皇の人間性を説明していなかったが、後醍醐天皇は簡単に述べれば、

「自分勝手で、我儘」と言える存在だった。

後醍醐は倒幕後、己を地位・権益を高めるのみ。此れまで協力した勢力の一部を除き、全く無視した。

 

後醍醐政権から除外された勢力は、主に足利尊氏を始めとする武家勢力だった。

後醍醐倒幕時、さんざん利用しておきながら倒幕後、手の平を返したように武家を除外した。

 

鎌倉幕府が滅亡して原因は何だったであろうか。

前述したが幕府を構成する御家人の権益を、幕府は保護しなくなった為。

幕府が御家人の権利・権益を守らなくなった為、御家人は幕府に代わる新しい体制を求めた。

結果、鎌倉幕府は滅亡した。

 

折角協力して倒幕したが、何も利益がなければ不満を持つのは当然。

後醍醐が行った政治は、公家・貴族勢力の弱体化を図った事。

今迄、摂関政治の藤原史の様に天皇家を脅かす公家・貴族勢力の地位を落とし、天皇のみを中心とする政治体制をつくり上げようとした為。

 

これが前述した建武の新政が直に挫折した理由。倒幕の為には、武力が必要。

しかし朝廷には独自の軍隊がない。軍が無い為、倒幕の為に何れかの軍の助力が必要だった。

 

結局独自の軍が無い為、反幕府の勢力を集める必要があった。結集後、倒幕に成功した。

成功後、協力した人間の地位・名誉・恩賞を与えず、自分一人で独占してしまえば、今まで協力して来た人間の支持を失うのは当たり前。

 

後醍醐はこの事を、全く理解していなかった。楠木正成の様な独自の経済圏をもつ武士はまだ良しとしても、他の武士団は倒幕後、寧ろ後醍醐に反感を持った。

後醍醐は自分の権力の強化のみに努め、更に新しい自分の御所造営の為、増税を課した。

これで後醍醐の支持は地に落ちた。

 

そんな時勢を見計らい鎌倉幕府の執権であった北条氏一族の残党が、反新政府の反乱を起こした。

中先代の乱である。

 

中先代の乱

中先代の乱とは「旧鎌倉幕府執権、北条高時の遺児時行」が引き起こした乱の事。北条時行は鎌倉幕府滅亡後、信濃に逃れ匿われていた。

時行は足利尊氏と同じ新政府で冷や飯を喰っていた、公家の西園寺公宗の求めに応じ、反政府の兵を挙げた。

 

計画は事前に漏れ、都の公宗は失脚。後醍醐とは反対の系統であった、持明院統の上皇3人(後伏見、花園、光厳)を幽閉した。

幽閉した理由は、公宗が後醍醐の出身である大覚寺統に対抗する為、3上皇のいずれかを担ぎ出そうとした事に因る。

後にも触れるが此の幽閉は、後醍醐天皇と足利尊氏の対立にも深く根を下す事になる。

 

公宗は逮捕されたが、北条時行は兵を挙げ、鎌倉奪還を目指し兵を進めた。勢いに乗り、一時期鎌倉を奪還した。

政府は鎌倉奪還する為、再び軍を派遣しなければならなかった。

しかし前述の如く、朝廷は直属の軍をもっていない。倒幕できたのは、反幕府勢力である武士団が力を結集して倒した為。

これが新政府が抱える矛盾だった。

 

後醍醐天皇、足利尊氏の対立

朝廷は占領された鎌倉を奪還する為、軍を派遣しなかればならなかった。当然朝廷側にいた軍を指揮できる第一人者と云えば、足利尊氏しかいない。

尊氏本人も鎌倉の留守所として常駐していた弟「直義」を救う為として、反乱の鎮圧を志願した。

 

しかし後醍醐は拒否した。何故かと云えば、新政府は自分が中心であり、武士は倒幕に力を貸してもらっても、其の後の政治参加を除外していた。

新政府には各地に反乱がおきても、鎮圧する軍を持たなかった。

以前頼朝・義経の対立。鎌倉幕府の成立過程を話した際、頼朝がどうして武士団の棟梁に担ぎ出されたのか理由を述べた。

それは「武士団の地位・権益向上の為」である。

 

後醍醐は、武力を徹底的に排除した。その為、反乱を押さえる軍など持つ筈がない。

僅かだが、自分の皇子「護良親王」を征夷大将軍に任命したが、直に役職を取り上げてしまった。

理由は後醍醐が、「軍はケガレタ存在であり、必要ない」と思った為。

 

これは現代も同じ。

貴人になればなる程、ケガレと云われる事には近づかない、手を触れない。後醍醐の考えはこれと全く同じ。

尊氏は後醍醐の命を受けず、独断で兵を募り、鎌倉を目指した。

その為仕方なく事後承認と云う形で、後醍醐はしぶしぶ認めた。

しかし「征夷大将軍」ではなく、あくまで「征東大将」という役職だった。絶対に征夷大将軍の地位は認めなかった。

 

尊氏は、あっさり反乱軍を鎮圧した。反乱鎮圧後、尊氏はそのまま関東に居座った。まるで鎌倉幕府成立前の頼朝と同様に。

うっかり京に帰れば、いつ天皇側に捕られ、処罰されるか分からなかった。

 

尊氏本人は鎮圧後、天皇の帰還の命に従おうとしたが側近が尊氏を諭し、必死で止めた。

頼朝が征夷大将軍に任命されたのは、後白河法皇が亡くなってからの事。

尊氏もいつ暗殺されるとも限らない状況だった。

 

尊氏は戦争には強いが、政治的センスはまるでない。嘗て義経が軍事では強かったが、政治的センスまるでなかったのに似ている。

代わりに政治面で力を発揮したのが、尊氏の弟直義だった。全く頼朝・義経兄弟とは逆だった。

尊氏・直義兄弟は、後醍醐天皇に公然と対抗した。

 

一方後醍醐天皇は尊氏・直義兄弟を討つ為、新田義貞に追討を命じた。新田義貞は緒戦に勝った。

勝った理由は、足利軍は尊氏でなく、直義が総大将として出陣していた為。

その時尊氏は何をしていたか。尊氏は公然と朝廷側に反旗を翻したにも係らず、朝廷軍と戦う事を拒否していた。

此処が尊氏の何か煮え切らない、優柔不断な処と言える。

反旗を翻したのであれば徹底的に戦うのでなく、時折不可解な行動をとる。

尊氏の優柔不断さは、後の歴史に大きく影響する事になる。

 

尊氏は周囲の説得で、再び軍を指揮。新田義貞軍を蹴散らす事に成功する。

戦場に立てば強いが、一旦戦場を離れれば、凡人以下になる人間も珍しい。

新田義貞が敗北後、それまで日和見だった武士達が、続々に尊氏に味方した。西国播磨を根城とした、正成と同じ悪党「赤松円心」も尊氏に味方した。

円心とすれば、同じ悪党の正成に対抗したのかもしれない。此れも敵の敵は、味方の法則。

 

だいぶ後の事だが、赤松氏は室町幕府成立後、幕府の有力守護として残った。

1441年(嘉吉元)の嘉吉の乱にて六代将軍「足利義教」が暗殺されるが、暗殺したのは円心の子孫。

 

尊氏一時期、京を占拠

勢いに乗じ尊氏は、そのまま京を目指し進撃した。1335(建武2)年12月の事。翌1336年(建武3)年1月、京を占拠した。

後醍醐天皇は一度京を捨て、比叡山に逃げた。

しかし京を占拠した尊氏だが、再び兵を率いてきた義貞・正成軍に敗れ、尊氏は西国に敗走する。

尊氏は九州に行き兵を募り、再起を図ろうとした。

尊氏が九州で兵を募っている間、前述した播磨国の赤松氏が必死に朝廷軍を足止めした。

関ヶ原に向かう秀忠軍を釘付けにした、上田城の真田軍に似ている。

 

赤松氏が時間を稼ぐ間、尊氏は九州で兵を募り、再び京を目指し進撃した。

途中で尊氏は、後醍醐に軟禁されていた光厳上皇に院宣を貰う事に成功した。

上皇の院宣を貰う事で、大義名分を立てた。

光厳側の持明院統も後醍醐以来、冷や飯を喰った状態だった為、一泡吹かせる意味もあり、あわよくば再び皇位に就けるとの狙いで、尊氏に院宣を出した。

この時点で既に、後に60年近く続く、南北朝の下地ができたと言える。

 

南北朝の動乱

尊氏が九州で兵を募っていた時、正成は何をしていたのか。意外にも正成は、後醍醐天皇に尊氏との和睦を勧めていた。

やはり武家をまとめ混乱を収め、武家を政治参加させるには、尊氏しかいないと判断した為と思われる。

しかし後醍醐天皇は正成の助言をにべもなく却下した。現在有利な状況で、和睦などあり得ないと判断した。

この時後醍醐でなくても、有利な状況から和睦を持ち出すのは困難だったと推測する。

 

尊氏は九州で再挙兵。九州、四国、中国地方の武士団をまとめ、再度京に攻め入った。

正成は更に後醍醐天皇に尊氏の大軍を迎え討つべく、作戦を献策したが、これも却下された。

 

仕方なく正成は負け戦と悟りながら、尊氏の大軍を迎え討つ為、少数の兵で出撃した。

「湊川の合戦」である。

多勢無勢、あえなく総崩れとなり、正成は戦場離脱。近くの寺で切腹を決意。

死の寸前、弟正孝に来世に生まれ変わるならば、何がよいと尋ねた際、正孝が答えた言葉が有名な「七生報国」である。

 

正成は無謀な命令でも従った忠臣として称賛され、明治維新後の「皇国史観」に利用され戦前の教科書には「山中鹿之助」と並び、必ず掲載された人物。

正成の業績を讃え東京の皇居外苑の一角には、楠木正成の銅像が立っている。

 

湊川の戦いで、正成は自害。新田義貞は敗走した。

尊氏は京に進撃、石清水八幡宮に陣を構えた。此処で尊氏に院宣を与えた、光厳上皇と合流した。尊氏・義直は光厳上皇に天皇即位を迫った。

過去に一度三種の神器がなくとも即位した天皇がいた。先程と同様、鎌倉幕府成立の際に述べた「鳥羽天皇」である。

光厳上皇は初めは躊躇ったが、一度は表舞台から消えた身でありながら、引きたててくれた尊氏・義直の顔を立て、即位する。

形式的には「光明天皇」だった。

しかし光明天皇は後の南北朝統一後、正式には南朝が正当と見做され、歴代天皇には数えられていない。

 

後醍醐天皇は再び京を逃れ、比叡山に落ち延びた。尊氏は後醍醐天皇に退位と、三種の神器の受け渡しを迫った。

後醍醐は仕方なく、申し出を受けた。

しかし此処から後醍醐の人間的欠陥が、遺憾なく発揮される。

尊氏の要求を受けたふりをして、楠木正成を切捨てたと同様、今度は新田義貞を切り捨てようとした。

 

新田義貞に自分の皇子「恒良」に帝位を譲ると述べ、北陸に逃げ再起を図るよう促した。

新田義貞は皇子を従え、北陸を目指し落ち延びた。

 

後醍醐は尊氏の使いがきた時、新田義貞・皇子が落ち延びた事を伏せ、尊氏の求めに応じ、三種の神器を明け渡した。

其の後の1336年12月、後醍醐は奈良の吉野に逃げ延びた。

 

吉野に入った途端、後醍醐がした事は、北陸に逃げた皇子の事、京の光明天皇の事など全く無視。

新たに自分が本当の天皇である事を宣言した。

先程尊氏に渡した三種の神器は、全くの偽物と宣わった。

自分だけが良い、自分だけが助かれば良いというのが、後醍醐という人間の本性と思われる。

 

結局これが、後の室町幕府の三代将軍「足利義満」の手により、1392(明徳3)年に統一される迄の56年に続く、南北朝の動乱の始まりとなった。

明徳とは北朝の元号。因みに南朝では元弘9年。

 

余談だが三代将軍足利義満は、室町幕府の最盛期を作り出している。政治家として絶大な権力を誇った。

有名な金閣寺は、義満が建立したもの。なかなかのやり手だった。機会があれば述べたい。

「一休さん」と云うアニメがあったが、アニメ中で何か間抜けの様に描かれているバカ将軍が登場する。

実はアニメ中の将軍が、足利義満。だいぶ後に知り、意外な気がした。

 

話を元に戻すが、実際三種の神器は、本物か偽物か確かめようがない。

何故なら以前も述べたように、神剣は源平の戦いの壇之浦で海底深く沈んでいる。

沈んだ後、色々な理由で複製が作られたと想像される。

 

北陸に落ち延びた新田義貞は、越前藤島城にて戦死。あっけない最後を遂げた。

尊氏に比べ義貞は、あまり武士達の間では人気がなかった。

新田義貞の戦死の報を聞き北朝の光明天皇は、足利尊氏を晴れて征夷大将軍に任命した。

 

後醍醐は再起を図ろうとしたが、腹心の部下に次々に見放され、奥州で再起を図ろうとした北畠氏も尊氏軍に敗れ、成す術がなくなった。

時代をかき回した稀有な天皇は、1339(南朝延元4)年、尊氏に対し恨み事を述べ、息を引き取った。

享年52歳の生涯を終える。

 

尊氏と後醍醐

足利尊氏と云う人物、実はあまり評判が良くない。

前述したようにガチガチの皇国史観の人間には、悪人とされている。尊氏という男、戦には強いが政治的センスはまるでなく、弟の直義の方が優れていた。

室町幕府が開かれた後、尊氏は持ち前の政治力の無さと優柔不断が災いし、いくつもの危機を招いている。

後に直義とも対立するに至るが、その際も優柔不断さが災いして混乱を招いている。

直義との対立中、こともあろうか直義を排除する為、敵であった南朝に対し、手助けを求める有様だった。

虫の息だった南朝はこれで息を吹き返し、南北朝の動乱を長引かせる原因を作ってしまった。

 

一方後醍醐天皇と云えば、建武の新政が成功する前に2度も倒幕の計画を立てた。過去2度、失敗に終わっている。

失敗に終わる度、自分の部下・側近に罪をなすりつけ、自分はいけしゃしゃと生き延びている。

倒幕後、建武の新政が始まると唯我独尊の独裁政治を始め、倒幕に協力した武家を無視・蔑ろにし、政治に参加させなかった。

忠臣であった楠木正成ですら、同様。当然武士たちの不満を招く。

 

やがて鎌倉幕府の残党が、反乱の兵を挙げる。しかし新政府は暴徒を鎮圧ができない。

反乱がおきても朝廷は鎮圧軍を派遣できず、仕方なく自己判断で尊氏が鎮圧に向かった後、しぶしぶ事後承認として認める有様。幸い、反乱は直に鎮圧された。

しかし尊氏が鎮圧しても、後醍醐は当然評価しない。朝廷は徐々に拡大する武士の不満を抑えきれず、今度は尊氏を反乱軍と見做し、成敗しようとする。

後醍醐は一度は尊氏を追い詰めるが、止めを刺さず再起の時間を与えてしまい敗走。忠実な部下であった楠木正成、新田義貞を見殺す。

しかし全く詫び入れる様子もない。自分が都合が悪くなれば、あっさり部下を切捨てるのが後醍醐の今までの生き方。

 

こんな人間の部下であれば、いつ自分の身が危うくなるか分からない。しかし後醍醐は、自分に責任があると全く自覚がない。

むしろ上手くいかないのは、他人が悪いからだ言い出す始末。これでは仮令倒幕しても、後が続かないのも分かるような気がする。

古今東西、独裁者と呼ばれる人間は、大方このような資質・思考パターンを持つ。

死ぬ直前まで、自分の過ち責任など一切認めず、都合の悪い事は全て他人のせいにする。

此れは共通している。ヒトラー然り、スターリン然り。後醍醐も全く同様と言える。

 

いつも歴史は大きな流れとして見るべきと述べている。

後醍醐の歴史的役割は鎌倉幕府を倒幕する為の象徴のみであり、倒幕後は何もビジョンがなく、徒に混乱を招いたに過ぎない。

我儘天皇が意のままに時代を振りまわそうとしたが、時代の流れを止められず、社会的混乱・停滞を招いたと言えよう。

今回の歴史を振り返った際、私の率直な感想だった。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献

【逆説の日本史6 中世神風編】井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2002年7月発行)

 

【逆説の日本史7 中世王権編】井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2003年3月発行)