夏の甲子園が近づく度、思い出す「記録ではなく記憶のチーム」

夏の甲子園が近づくにつれ、忘れらないないチームがある。思い入れは、人により様々。

史上最強といわれた、K・Kコンビを擁したPL学園。松坂投手を擁し、春夏連覇を果たした横浜。

古豪では松山商、広島商、中京など。

 

今回は優勝したチームでなく、優勝できなかったチームにスポットを当ててみたい。

つまり「記録に残るチームではなく、記憶に残るチーム」と言えば良いであろうか。

前置きが長くなったが、話を進めよう。

 

嘗て野球の後進地域と言われた北陸

古くからの高校野球のファンであれば分かるが、嘗て北陸は野球の後進地域と呼ばれ、春の選抜、夏の選手権では勝率が低い地域で有名だった。

今でこそ全国から優秀な選手を集めるなどして然程地域格差はなくなったが、一昔前では北陸と言えば野球の弱小地域として有名だった。

 

敢えて失礼を承知で申し上げれば、甲子園大会の抽選で北陸勢に当たったチームは、内心ほくそ笑むんだものだった。

此れは本当の話。選手を始め、関係者、OB、PTA等は小躍りした。

 

ほんの少し前まで北陸勢は、春夏合わせて優勝旗を持ってきた事のない地域(調べた結果、東北勢も同じ)だった。

2015年春の選抜で、福井県の敦賀気比が優勝。春夏を通じ、初めて優勝旗が北陸に齎された。

しかし夏の甲子園では、未だに優勝はない。

 

今回はあと一歩まで迫りながら、優勝を逃し続けてきた石川県の星稜高校を取り挙げてみたい。

断っておきますが、私は決して星稜高校の関係者でもなければ、宣伝する訳でもありません。

数ある甲子園出場校の中、私の独断と偏見で(気になる高校)今回取り挙げました。

 

星稜高校の甲子園での歩み

先ずは星稜高校のこれ迄の、甲子園での戦歴を述べたいと思う。

・初出場 昭和47年夏 1回戦 星稜 X  北見工 8-1で初勝利。2回戦、九州の柳井に敗北。

 

・昭和51年夏 プロ野球中日ドラゴンズで活躍した「小松辰雄」を擁し、ベスト4に進出。

ベスト4では優勝した東京代表、桜美林に1-4で敗退。

 

・昭和52年春の選抜、初出場。1回戦 近畿代表 滝川に0-4で敗北。

・同年、夏の大会も出場するも1回戦 奈良代表、智弁学園に敗退。

 

此処辺りまでは、星稜高校の黎明期とも言えるかもしれない。私自身も印象が薄い。

 

次に星稜の名を、全国に轟かす時代に入る。

・昭和54年春の選抜1回戦 四国代表の川之江に敗退。

 

・同年の夏の甲子園に出場。2回戦から登場。京都の宇治に8-0で勝利。

・3回戦 春の選抜優勝の和歌山代表、箕島相手に一歩も引かず、延長18回裏まで戦う。

最後は3-4のサヨナラ負け。

この試合により星稜高校は、「石川に星稜あり」と全国に名を轟かせた。

尚、この試合は後程、詳しく説明する。

 

その後、暫く低迷期が続く。たとえ出場しても初戦敗退が続く。

・昭和57年夏、2回戦から出場。

2回戦では当時甲子園のアイドル「荒木大輔」投手を擁した早実に、1-10で敗退。

この頃の輝かしい戦歴と言えば、昭和58年春、準優勝した横浜商相手に2回戦 0-1で敗退した事だろうか。

 

再び星稜が全国に名を轟かせたのは、平成の御代になってからの事。

平成元年、1年から4番に座り、卒業まで星稜の中心選手だった「松井秀喜」がいた時代。

説明するまでもないと思うが、松井は高校卒業後、プロ野球巨人に入団して活躍。

大リーグでも活躍したスーパースター。松井の時代も後程、詳しく述べる。

 

・平成7年春、プロ野球で活躍した「山本省吾」投手を擁し、準々決勝に進む。

準々決勝では、優勝した四国代表、観音寺中央に敗退。

・同年夏の大会、星稜は決勝戦まで駒を進め、東京代表の帝京に1-3で敗退。準優勝を果たす。

これが星稜の甲子園での最高成績(2019年7月現在)。

 

その後は、代表になるも初戦敗退が続く。

以後あまり輝かしい成績もなく、第二の低迷期に入る。

再び県代表の常連校になるのは、平成26年頃であろうか。

 

・平成30年の春、当時2年で今年のドラフト候補「奥川恭伸」投手を擁し、準々決勝に進む。

準々決勝では、東海代表の三重に敗退。

・同年夏の大会に出場。ダークホース的存在と言われ、1回戦大分代表、藤蔭に9-4で勝利。2回戦に進む。

 

迎えた2回戦。愛媛代表、済美と対戦。

序盤大量リードするも、終盤追いつかれ、最後は今大会から採用されたタイブレークでのサヨナラ満塁ホームラン負け。

これも後程、詳しく述べたい。

 

・平成最後の31年春の選抜。

大会では3年生になった大会ナンバー1と言われた奥川投手を擁し、優勝候補にまで挙げられた。

1回戦は、近畿代表の履正社。事実上の決勝戦とまで言われ、3-0で星稜が勝利。

星稜が勢いで、頂点まで進むかと思われた。

 

しかし運命の悪戯とでも言おうか。2回戦にて関東代表、古豪習志野に1-3で敗退。

試合後、監督同士のサイン盗みの騒動のおまけもあり、何とも後味の悪い試合となった。

 

大まかに星稜の甲子園での戦歴を振り返ってみたが、次に私が星稜高校は

記録ではなく、記憶に残るチーム」

と述べる理由を説明したい。

 

記録ではなく、記憶に残るチーム

1979年(昭和54年)8月16日、戦後一番の名勝負と言われる試合が行われた。

第4試合「星稜 X 箕島」の3回戦。

箕島は、同年春の選抜で優勝していた。

因みに春の決勝の相手は、後にプロでも活躍した「牛島和彦、香川伸行」を擁した近畿代表の浪商。

 

春の選抜優勝後、箕島は夏にも出場する。

箕島は春夏優勝をかけ、3回戦に進出した。箕島バッテリーは、後にプロに進んだ「石井毅」投手と「島田宗彦」の捕手。

一方、星稜は「堅田外司昭」投手を中心に、なかなか打線が充実。後にプロに進んだ「音重鎮」「北安博」などがいた。

 

試合は星稜の先攻で始まった。試合は3回裏まで進むが、両チーム無得点。

試合が動いたのは、4回表星稜の攻撃。エース堅田のタイムリーで、星稜が1点先取。

 

その裏の箕島の攻撃。箕島も6番打者のタイムリーで、すかさず1点を返す。

点を取り、直さま取り返す展開が続く。

これがその後に延長18回迄続くとは、この時誰も予想だにしなかった。

 

その後は互いにチャンスを作りながらも、無得点。

試合は同点のまま進み、1-1のまま、延長戦に突入した。

下馬評では箕島有利だったが、星稜が戦前の予想を覆し、互いに一歩も譲らなかった。

 

当時私は、TVで観戦していた。幼少の頃だったが、何故か途中から無性に試合が気になり、結局最後まで見てしまった。

途中から、寝食も忘れていたと思う。

 

再び試合が動いたのは、12回表の星稜。箕島のエラーで、星稜が1点勝ち越し。

その後も星稜のチャンスが続くが、星稜のスクイズ失敗で、2-1のまま攻撃終了。

後がない箕島。1番島田捕手が、千金値の同点ソロ。試合を振り出しに戻す。

 

延長14回裏の箕島の攻撃、1アウト3塁。箕島サヨナラのチャンス。ここで世紀のビックリが行われる。

星稜「隠し球」で、3塁ランナーアウト。箕島、チャンスを潰す。

 

この隠し球は、今でも印象的。

初めは3塁塁審(達磨省一氏)が、何故アウトをコールするのか分からなかった。

緊張した中にも、笑いありと言った処だろうか。

 

延長16回表の星稜の攻撃、星稜7番打者のタイムーで再び勝ち越し。3-2となる。

勝利の女神は星稜に微笑むかに思われた。

 

その裏の16回箕島の攻撃。箕島、簡単に2死になり、絶対絶命のピンチ。

6番打者の打球は一塁ファールグランドに舞い上がった。

皆が箕島、万事休すと思われた。

 

処が星稜の一塁手が人口芝の緑に足をとられ、落球する。

安心したのかどうか分からないが、箕島の6番打者はその後、起死回生のソロホームランを打つ。

星稜、あと一歩の処で、勝利が手からこぼれ落ちた瞬間だった。

因みに起死回生のホームランを打った選手は、延長14回の裏、三塁で隠し球でアウトになった選手。

 

そしていよいよ運命の延長18回。

表の星稜の攻撃。1死満塁のチャンスを作るも無得点。

この時点で本日の星稜の勝ちは消滅。もし引き分けになれば、明日の第一試合の8時半からの再試合が予定されていた。

今思えば、もし再試合が行われていたら、その後の大会の行方も変わっていたかもしれない。

理由は後述する。

 

延長18回裏の箕島の攻撃。星稜堅田投手、勝ちが無くなった事。

表の攻撃で味方がチャンスを潰し、勝ち越す事が出来なかった心理的影響からか、2者連続のファボールで無死ランナー1、2塁。

最後は3番打者のタイムリーで2塁ランナーが生還し、箕島のサヨナラ勝ち。

3時間50分、終了時間19時56分の死闘は幕を閉じた。

 

後に此の試合は、各方面に様々な影響を与え、色々な人が当時の試合を執筆している。

その為、これ以上詳しくは述べないが、数々のドラマが生まれた事は間違いない。

星稜堅田投手の投球は、208球。箕島石井投手の投球は、257球。

互いに死力を尽くしたと言っても良いだろう。

 

前述したが、もし引き分け再試合で翌日の第一試合に組み込まれていたとすれば、両投手連投の疲れもあり、仮令どちら勝ったとしても、次の試合は疲れの為、勝ち進む事は難しかったかもしれない。

 

箕島は延長18回まで戦ったが、次の試合まで間があった為、疲れを癒す事が出来た。

箕島は其の後優勝を果たし、見事春夏連覇を成し遂げた。

箕島とすれば星稜戦がまさに、薄氷を踏む思いだったのかもしれない。

 

箕島は、「試合に勝って、勝負で負けた」とも言える。

 

リアルタイムで見ていた私は、途中から何が起こっているのか分からず、試合終了後もしばらくは呆然として、その場を動けなかった。

それ程、衝撃を受けた試合だった。

 

この試合は今でも、高校野球ファンの間では名勝負の一つとして語り継がれている。

記憶では8月16日はお盆休みで、私は家族と一緒に見ていた。

家族も試合終了後は、暫くは無言だった。

あまりにも凄い事が目の前で起こり、理解するのに時間を要したと言える。

 

試合終了後、永野球審はゲームセットになった試合球を、負けた堅田投手に手渡した。

この時の三塁塁審を務め、NHKの解説も務めた達磨省一氏は、後々までこの試合を語り続けた。

 

星稜の堅田投手は社会人野球を経て、後に高校野球の審判となり、審判としても甲子園を経験している。

この試合後、星稜・箕島の交流は続き、試合は今も継続しているとの事。

 

問題を投げ掛けた、5連続敬遠

星稜・箕島戦が「石川に星稜あり」と全国に名を轟かせ、良い意味での記憶とすれば、必ず触れなければいけないもう一つの試合が存在する。

前述したが、星稜を卒業後、プロ野球の進み、大リーグでも活躍した「松井秀喜」に纏わる試合。

勘のいい方は既にお分かりかと思うが、試合後、問題を投げかけた「松井5連続敬遠」である。

話をする前、松井の1年生からの経歴を簡単に振り返ってみたい。

 

松井秀喜、石川県根上町出身。中学時代は投手・捕手も務め、既に体が大きく打者としての飛距離も別格だった。

中学卒業後、地元石川で野球の強豪校で有名な、星稜高校に入学する。

入学後、三塁手に転向。いきなり1年生で4番に定着。1年夏で甲子園出場を果たす。

平成2年夏 1回戦東京代表、日大鶴ケ丘戦。3-7で敗退。

 

以前TVで松井は、

「過去に一度だけバッターボックスに立ち、足が震えた事がある。それは夢に迄見た甲子園の打席に初めてたった時。この時は足が震えた」

とコメントしている。

因みに、甲子園の初打席の結果は四球だった。

 

本人曰く、

「緊張していた為、どんな球が来ても振れなかった。偶々四球でよかった」

と話していたのが印象的。「松井も、人の子」と思わせるエピソード。

 

夏の大会の後、星稜は秋季大会で負け、翌年の選抜出場を逃す。

2年の夏、甲子園出場。順調に勝ち進み、準決勝に進む。

準決勝では優勝した大阪桐蔭に1-7で敗退。今を時めく大阪桐蔭。この時は、初出場で初優勝を成し遂げた。

 

3年春の選抜。準々決勝まで進むが、1-5で天理に敗退。いよいよ最後の夏を迎える。

問題の3年の夏。星稜は順調に県予選を勝ち抜き、甲子園に駒を進めた。

一回戦、新潟代表の長岡向陽戦を11-0で危なげなく勝ち、2回戦に進出した。

 

平成4年(1992年)8月16日、問題の試合。神様の悪戯かどうか分からないが、8月16日は奇しくも14年前、星稜が箕島と延長18回を戦い、敗退した日。

偶然、私も同じ14年後の同日、試合をTV観戦する機会を得た。

試合経過は主に、松井を中心に述べたい。

 

1回の表、星稜の攻撃。2死3塁で松井の打席。明徳投手は四球を与える。後続が討ち取られ無得点。

2回の裏、明徳2点先取。明徳2点リード。

3回の表、星稜の攻撃。1死2、3塁のチャンスで松井。松井四球で満塁。5番がスクイズを決め、1点目。後続が打ち取られ、1点のみ。1-2で終了。

3回の裏、明徳の攻撃。1点を入れ1-3とリード。

5回の表、星稜の攻撃。1死1塁でバッター松井。3打席目。一塁にランナーがいるにも係らず、敬遠気味の四球。

 

流石に此処までくれば、明徳側が故意に松井を敬遠しているのは明らかだった。その後、6番打者のタイムリーで2-3となる。

7回の表、星稜の攻撃。2死ランナーなし。バッター松井。明らかにボールと分かる四球。此処あたりで、球場から不穏な空気が流れ出す。

 

星稜側からは勿論の事、明徳側のスタンドからも、四球に対する明らかなヤジが飛び交った。2死ランナーなしで四球を与えるのは、明徳の明らかな意思表示と言えた。

「今後松井に打席が回っても、決して勝負はしない」
という意思表示。

 

両チーム追加点なく9回表、星稜の攻撃を迎える。星稜既に2死ランナーなし。3番投手山口が、松井の打席に回す3塁打を放つ。

3塁上で山口投手が松井に回した事で、飛び上がりガッツポーズしたのを、TVの映像がハッキリ撮らえていた。

 

「さあ松井まで回したぞ。明徳よ勝負しろ」

 

といった心境だろうか。

 

しかし明徳の投手は明らかなボール球を投げ、松井との勝負を避け一塁に歩かせた。

その直後のライトスタンドの星稜応援席から、抗議の為の応援メガホンがグランドに投げ込まれた。

 

試合は一時中断。球場全体が異様な雰囲気に包まれた。

投げ込まれたメガホンを拾う為、星稜の選手が拾いにいった

その時の両監督の姿がTVで映されていたのも、鮮明に記憶している。

両監督なんともやるせない、見ている人間もやるせない映像だった。

 

試合再開後、星稜5番打者が3塁ゴロに倒れ、試合終了。

星稜の5番打者は、一塁迄の距離が遠く感じたであろう。

ヘッドスライディング後、暫く起き上がれなかった。

 

怪物松井は2回戦、一度もバットを振る事なく甲子園を去った。

繰り返すが、8月16日は奇しくも14年前、延長18回で星稜が箕島に敗れた日。

当に「運命の悪戯」ではなかろうか。

 

試合終了後の明徳の校歌斉唱中、明徳ナインに罵声と「帰れコール」が浴びせられたのは、紛れもない事実。

リアルタイムで見ていた私は、はっきり覚えている。

 

You Tubeでその時の動画が度々UPされるが、すぐ消されてしまう。

しかし消されても何度もUPされている。どれだけ世間に問題を投げ掛けたのか、理解できる。

当時は社会問題にもなり、TV・新聞・雑誌・書物などでデカデカ取り上げられた。

 

明徳は試合後、脅迫などを受け、宿舎や次の試合で警備が付く程。

心理的なものも影響したのであろうか。明徳は、次戦の広島工に大敗する。

 

賛否両論、色々あるが両監督のコメントを載せてみたい。

・勝った明徳、馬淵監督のコメント。

「高知の野球が石川の野球には負けられない」

 

・一方負けた星稜、山下監督のコメント。

「うちはいつも負けて有名になる。雪国独特の優しさ、そういう性格がそのままでたんじゃないでしょうか」

 

何か対照的なコメントと感じる。判断は読者に任せます。

 

あくまで私個人の意見ですが、プロ・社会人であれば、敬遠策は止むを得ないと思う。

それは商業野球の為、勝ちに拘るのは当然の事。

 

しかし高校野球は「損得なしで勝負ができる」アマチュア最後の場所。 更に失敗しても許される最後の砦だと思う。

 

延長18回の箕島戦、星稜の一塁手がファールフライを取り損ね、直後にホームランを打たれた。

試合は再び同点。

最後に星稜はサヨナラ負けを喰らったが、星稜の選手は試合に対し、決して悔いは残らなかった。

力を出し切った故の負けであった為、心残り・蟠り(わだかま)は全く無かったと云える。

 

しかし明徳戦は違う。

明徳戦は星稜・明徳の両選手・関係者・会場に足を運んだ観客、そしてTV・ラジオ等の視聴者が何か納得できないモヤモヤとした、後味の悪いものしか残らなかった。

 

此れが決定的な違い。

明徳戦は

「納得した人が少ない事」

此れに尽きると思う。

 

更に明徳が敬遠策を取った事で、可能性のある二人の選手の将来を潰したのではないかと思う。

二人の選手とは、星稜の5番の選手、松井を敬遠した明徳の投手の事。

 

二人の其の後を調べてみたが、星稜の5番だった選手は、教師を目指し大学に進んだ。

しかし入部で訪れた大学の野球部で甲子園の件(敬遠の事)を揶揄され、喧嘩。

そのまま退部、大学も辞めている。

 

明徳の投手も大学に進学。プロを目指したがドラフトにかからず、プロを目指し乍、職業野球を続けていた。

しかし最後まで、プロになれなかった。

決して大学時代、松井を敬遠した事で、周囲からの評価が影響しなかったとは言い切れまい。

 

一方、5連続敬遠された松井は繰り返すが、プロに進み大活躍する。

試合には負けたが長いスパンでみた時、果たしてどちらが本当の人生の勝利者だったのか。

それは誰の目から見ても明らか。

「星稜 X 明徳」戦は、そんな思いがする試合だった。

 

再び負けて記憶に残るチーム

時は巡り、平成30年の夏の大会。記念すべき100回大会。

記念大会と言う事もあり、大会主催者側は過去の甲子園で活躍したレジェンド達を迎え、始球式のイベントを行った。

 

記念すべき開幕試合での始球式を行った人物は、「松井秀喜」

如何に長い月日が流れたのかを実感した。あの松井が現役を引退。始球式をする人物になるとは、想像もできなかった。

 

更に松井の球を受けるチームはなんと、松井の母校「星稜」。何と不思議な因縁かと思われた。

始球式は流石に現役を離れて久しいのか、松井の力み・緊張もあり、ワンバウンド投球だった。

しかし後輩捕手が見事のキャッチングで暴投を阻止。チョットした余興だった。

 

それはさておき、今回大会の星稜は2年生ながら、なかなか評判の高い好投手「奥川恭伸」を擁し、星稜は大会のダークホース的存在だった。

開幕試合の1回戦、大分代表の藤蔭に危なげなく、9-4で勝利。2回戦に進む。

 

迎えた2回戦。愛媛代表の済美。試合序盤から星稜打線が爆発。前半から大量リードを奪い、このまま終わるかと思われた。

処が済美が8回に一挙8点を奪い、7-9で逆転してしまう。

9回表、2点を入れた星稜はなんとか同点に持ち込み、延長戦に突入する。

延長突入後は互いに無得点が続き、12回終了時点で同点。試合は今大会から採用された、タイブレーク方式となった。

 

13回表、星稜タイブレーク方式で2点を入れ、11-9と勝ち越し。

13回裏、済美タイブレーク方式で1死満塁とし、サヨナラ満塁ホームラン。11-13で勝利する。

 

星稜、初めて採用されたタイブレークでのサヨナラ負け。

再び負ける事で有名になった星稜。何か因縁めいたものを感じる。

 

元山下監督の言葉ではないが、何か負けて有名になるという言葉が当て嵌るチームと言える。

これが星稜が、「記録ではなく、記憶に残るチーム」と言われる所以であろうか。

 

尚、タイブレークに関し私の意見を述べたい。結論を先に述べれば、タイブレークは導入して欲しくなかった。

何故ならタイブレークを導入する事で、試合前後の内容がガラリと変わってしまう為。

それまでの試合の流れと、全く様相が異なってしまう。野球というゲーム全体の流れが変わってしまう為。

 

タイブレークになれば、凡そ攻め方が決まる。また打順にも大きく左右される。

上位打線から始まる場合と下位打線から始まるとでは、大きな差がでる。

攻め方に関して言えば、だいたいパターン化してしまう。

 

・無死1、2塁であれば、当然送りバンド。

・成功して1死2、3塁。守る側としては、守り易くする為、敬遠満塁策をとる。

 

大概、1死満塁からの真剣勝負になるのではないかと思う。

その為、サヨナラ満塁ホームランの土壌ができやすい状況。

「星稜 X 済美戦」は、典型的な試合だった。

 

追加で、タイブレークはあまり意味がない。

現に星稜とのタイブレークに勝った済美の投手は其の後、準決勝まで勝ち進み、大会を一人で投げ抜いた。

元来タイブレークは投手・選手の疲労緩和の為、導入された制度。

処が制度本来の目的が守られず、最終的に監督・選手の判断に任せるのであれば、タイブレークを採用した意味が全くない。

 

因みに済美の投手は、地方大会から全て一人で投げ抜いた。全く導入された意味がない証拠と言える。

高校野球であれば、監督の命令は絶対。逆らう事など許されない。

監督に「行けるか」と聞かれれば、投手は「行けます」と答えるしかない。これが現実。

 

突き詰めれば、松井の5連続敬遠も選手の判断ではなく、監督の指示の下、行われた行為。やはり勝負に拘れば、弊害がでるという実例かもしれない。

 

投手の酷使に関して言えば、前述したが、大阪桐蔭が初優勝を遂げた時も問題となった。

1991年夏の決勝。「大阪桐蔭 X 沖縄水産」戦。

 

前半沖縄水産は大量リードを奪い、試合はこのまま終了かと思われた。

しかし途中で大阪桐蔭の打線が爆発。終わってみれば、13-8で大阪桐蔭の勝利となった。

 

試合後、沖縄水産の投手は疲労骨折していたのにも係らず、全試合完投していた事が問題となった。

昨年の済美の件を見ても、この頃から全く変わってないと認識できる。

因って、タイブレークはあまり意味のない制度と思う。

 

それならばタイブレークよりも、日程に余裕を持たせるなどの措置を取れば良いと思う。

なかなか運営側が予算の関係、プロ野球の日程の関係で難しいとは思うが。

結局本格的な議論がなされないまま、なし崩し的に導入され、中途半端になっているのが現状。

 

平成最後の春の選抜

迎えた平成最後の選抜大会。星稜は再び敗戦後、物議を醸しだす。問題の発覚は、2回戦。

順を追って説明したい。

 

去年の夏、タイブレークで敗れた星稜は秋の北信越大会を制し、選抜に駒を進めた。

2年エースの奥川は3年となり、選抜では優勝候補の一角に挙げられた。

春の選抜を迎え、1回戦の相手は、同じく優勝候補の近畿代表の履正社。事実上の決勝戦とまで言われた試合。

星稜、履正社ともに力を出し合い好勝負を演じ、3-0で星稜が勝利。このまま星稜が頂点まで突き進むかと思われた。

 

2回戦、星稜の相手は関東代表の習志野。下馬評では星稜の圧倒的有利。

しかし終わってみれば、1-3で星稜の敗北。

投手はなかなかの出来であったが、星稜打線が湿り、投手が耐え切れなくなり、失点してしまったパターン。

 

問題は試合後、星稜の監督がサインを盗まれたと主張。習志野の監督に抗議したとの報道が流れた。

報道後、賛否両論あったが世論は星稜の監督に冷たく、星稜の監督の活動自粛にまで発展した。

 

習志野戦も松井の5連続敬遠と同様、バツの悪い遺恨試合となってしまった。

星稜が勝っていれば、世論は味方したかもしれないが、負けた事で負け惜しみにしか見えなかったのであろう。

何か松井の5連続敬遠と同様に、後味の悪いものとなったのは間違いない。

 

サイン盗みの件に関して言えば、各チームは決して表立って口にしないが、どのチームもやっていると思われる。

行為自体は以前問題になり、大会側からは禁止となっている。

だがテクノロジーが発達した現代社会において、どのチームも試合中、色々な方法を駆使して行っている。

繰り返すが、決して公にはしないが。

 

松井5連続敬遠後、元山下監督が思わず本音を漏らし、世間から批判を浴びたと同じで、今回の星稜の監督も、あまりにも正直すぎたかもしれない。

世論は勿論の事、野球指導者関係からも、非難を浴びたのではないかと思う。言葉汚く言えば、

「余計な事を言うな

と言った処だろうか。

 

この様に振り返れば、星稜と言うチームは「勝つ事ではなく、負ける事で有名になるチームだ」と再認識した。

負ける事で有名になった「星稜 X 箕島」戦はさておき、振り返った残りの試合はいずれも、負けた事で何かの物議を醸しだした試合と言える。

いずれもあまり宜しくない面での物議で。

 

戦後一番の名勝負と言われる延長18回を戦った試合は、皆が称え、皆が感動した。

試合後は良い面こそあれ、悪い面など殆ど見当たらなかった。

 

しかし物議を醸しだした試合を見直せば、何れも究極的な事を云えば、「勝利至上主義」に辿り着くのではないかと思う。

松井の敬遠。タイブレークでの星稜の敗退と相手(済美)投手の連投。サイン盗みの件(習志野)も結局は、勝利至上主義と云う言葉が当て嵌まる。

 

これが北陸勢が未だに夏の甲子園で、優勝旗を持って来れない原因の一つかもしれない。

優しさと言うのか、甘さとも云うのか。

逆に言えば、「勝負に対する非情さが欠けている」と言える。

それこそ明徳の馬淵監督のコメント「高知の野球が石川に負ける訳にはいかん」と言う言葉に、凝縮されているかもしれない。

 

星稜の甲子園での戦い方は、何か高校野球の歴史の一面を見ている様に思われた。

偶然にも「星稜 X 箕島」戦、「星稜 X 明徳」戦の2試合をリアルタイムで見た自分には、そう思えて仕方がなかった。

 

また今年も夏の甲子園が開催される。毎年の注目として嘗ては「野球後進地域」と呼ばれ、其の後力をつけ、強豪校になった北陸勢の活躍を見守りたい。

 

追記

8月22日、全国夏の甲子園大会決勝。星稜高校は地区予選、本戦を見事に勝ち抜き、決勝進出を果たす。

決勝進出を果たすも決勝で大阪代表、履正社に3-5と敗れ、又もや涙を飲んだ。

皮肉な事に、過去4回ベスト4に進むも、東京代表に2回、大阪代表に2回敗れている。

何れも激戦区を勝ち抜いた地区の代表。

 

星稜高校の「記憶ではなく、記録のチーム」への脱却には、まだ暫く時間がかかりそうだ。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献

【甲子園が割れた日】中村計

(新潮社・新潮文庫 2010年8月発行)