啄木鳥戦法、武田信玄と上杉謙信の一騎打ち。第4次川中島の戦い

戦国時代、甲斐の武田信玄・越後の上杉謙信は、川中島で度々対峙した。凡そ5回ほど対峙。

中でも最も激しく干戈を交えたのが、1561(永禄4)年に行われた第4次の合戦。

 

此の戦いでは珍しく、大将同士の一騎打ちもあったと伝えられている。

川中島の戦い迄の流れ

そもそも戦国時代で有名な戦いの一つに挙げられる「川中島の戦い」が、何故起こったのかを説明しなければならない。

川中島の戦いの原因は、甲斐国の「武田信玄」が信濃を攻略。諏訪を攻略、「諏訪頼重」を降伏させる。

 

次に深志城の「小笠原長時」を攻略。長時は木曽福島の「木曽義康」、葛尾城の「村上義清」と同盟。信玄の侵攻に対抗する。

しかし同盟虚しく、長時の深志城が陥落。続いて葛尾城・戸石城の義清も陥落。

北信濃の失地回復の為、村上義清が越後の「上杉謙信」に助けを請うたのがきっかけだった。

 

謙信は義清の願いを聞き入れた。同様に、信濃の豪族「高梨政頼」「井上昌満」も謙信を頼った。

結果として、信玄と謙信の戦いに発展した。

 

川中島の戦いと言えば、大概1553(天文22)年~1564(永禄7)年までの戦いを指す。

最も有名なのは、第四次川中島の戦いである。※1561(永禄4)年

 

この戦いでは、大規模な戦闘が行われた。

因みに前年の1560(永禄3)年、「桶狭間の戦い」が行われている。

歴史観点から見れば、何気に重要かもしれない。

信玄、川中島に兵を進める

1561年、信玄はそれまで謙信と度々川中島で睨み合っていたが、再び兵を川中島に進めた。

今回の進軍は今迄とは違い、上杉軍に大打撃を与え、上杉軍が二度と信濃に侵攻できないように企んだ。

従って今度の出兵は、並々ならぬ意気込みが伺えた。武田軍約2万。対する上杉軍約1万6千で対峙した。

武田軍は甲府を出立。8月24日、一旦茶臼山近くに陣を張った。その後の8月29日、善光寺平にある「海津城」に入城した。

 

一方上杉軍は8月15日、善光寺まで兵を進め、海津城を迂回。8月16日、城を見渡せる「妻女山」に布陣した。

謙信の本拠地「春日山城」には留守隊として、約2万の兵を残している。

 

対陣する事、約20日。武田軍が動きを見せた。甲府から離れ、長陣する事で味方の士気が低下するのをおそれた為。

作戦は軍師「山本勘助」が提案した。

 

本隊を二つに分け、一隊を妻女山の背後に迂回させ夜襲を行う。

もう一隊は妻女山の前面、八幡原に陣取り迎え撃つ。

上杉軍が夜襲にて山を降りてきた際、前と後ろで挟み撃ちする作戦。

鳥の啄木鳥が木の虫を取る際、木を嘴で叩き、虫が驚いて木から出て来た時、啄木鳥に捕らえられるのに譬え、「啄木鳥戦法」と呼ばれた。

 

妻女山の上杉軍は妻女山に布陣した後、詩吟・歌舞伎などを催し、全く動く気配がなかった。

しかし上杉軍は武田軍の作戦を察知。全軍に下山を命じた。

何故察知したのかと言えば、海津城から上がる炊事の煙が、いつもより多かった為と伝えられている。

しかし専ら、間者からの情報と考えられる。先に上杉軍が川中島に到着していた為、情報網が整っていたのかもしれない。

上杉軍、鞭声粛々 夜河を渡る

9月9日武田軍は夜、奇襲部隊1万2千を編成。

海津城城代「高坂昌信」を先頭部隊に、「馬場信房・飯富虎昌」等が妻女山に向かった。

上杉軍は武田軍の動きを察知。

僅かばかりの隊を残し、大軍がいるよう見せかける為、多くの篝火を炊いた。夜襲部隊の囮の為。

 

上杉軍は静かに下山。千曲川を渡り、川中島に進んだ。

「頼山陽」の漢詩「川中島」の「鞭声粛々夜河を渡る」は、この時を唄ったもの。

 

武田の夜襲部隊が妻女山を降り、本隊に合流するのを防ぐ為、千曲川の渡河地点に約1千人程、兵を割いた。

武田軍本隊約8千の兵は、八幡原に布陣。

「武田信繁(信玄の実弟:次男)・武田信廉(信玄の実弟:三男)」「山県昌景・内藤昌豊・穴山信君」などが備えた。

 

明けた9月10日、川中島は深い霧に包まれていた。一寸先は全く分からない状態。

武田軍は妻女山から鬨の声が上がり、上杉軍が下山するのを待った。

夜が明け始め、霧が薄くなり始めた。霧が晴れがかった時、上杉軍は武田本隊の目の前にいた。

霧が晴れ、上杉軍が眼前にて戦闘開始

川中島の霧が晴れた時、武田本隊の前に妻女山にいると思われた上杉軍が突如現れた。

さしも百戦錬磨の武田軍も、この時は仰天した。

 

武田軍は「鶴翼の陣」に立て直し、上杉軍に備えた。

上杉軍は、妻女山の夜襲部隊が戻ってくる迄が勝負と踏み、「車懸りの陣」で対抗した。

霧が晴れたと同時に、戦闘が開始された。

 

武田軍は夜襲で兵を割いていた為、苦戦。夜襲部隊が戻ってくる迄、必死に上杉軍の猛攻を凌いだ。

しかし不意を取られた事、兵数が劣勢な事もあり、武田信繁・軍師山本勘助が討ち死に。大苦戦を強いられた。

相当苦戦した模様。

因みに松本清張の書では、山本勘助は架空の人物と断言しているが、今回は実在した人物として話を進める。

 

本当か伝説かはさておき、この時武田軍の本陣は、相当混乱していた。

第4次川中島の戦いの目玉、記念碑なども建てられ話に伝わる、戦国時代では珍しい大将同士の一騎打ちが行われた。

 

上杉謙信が単身で武田軍の本陣に突っ込み、武田信玄に一太刀浴びせたと言われる。

信玄は謙信の太刀を、指揮をとる軍配で受け止めたと伝えられている。

真田幸村が「大坂夏の陣」で家康本陣に突入した時と同様、戦国時代の名場面の一つとして数えられている。

 

この時、信玄は謙信に斬られ、刀傷を負ったとされている。

尚、この時負った刀傷を題材として、黒澤明映画「影武者」が作られた。

映画は以前ブログで紹介しましたが、ご興味があれば御覧下さい。

※参考:盗人から一国城主となった男の数奇な運命を描く 黒澤明『影武者』

 

やがて妻女山の夜襲部隊は、渡海地点の上杉軍を撃破。本隊に合流した。

合流した時点で、形勢が一転。

今度は武田軍有利となり、上杉軍を蹴散らし始めた。

形勢不利となった上杉軍は善光寺に退却。武田軍も上杉軍の撤退を見計らい、撤退した。

 

両軍それぞれが、勝利を宣言。戦いで上杉軍約3千人、武田軍約4千人の死者が出たと言われている。

「甲陽軍鑑」では、「前半は上杉軍の勝利。後半は武田軍の勝利」と評している。

戦後の武田・上杉軍の動き

かくして第4次川中島の戦いは、両軍多数の死者を出して終了した。

此の戦いで、何方が勝った言えば、やはりどちらが勝ったとは言えないと思う。あくまで私の考えだが。

まず上杉軍は今回の戦いで損害が大きく、実質其の後、川中島の出兵はなくなった。

信玄としては戦後、上杉軍が積極的に川中島に出兵してこなくなった事実は、戦略的に勝利と言える。

 

しかし戦略的勝利と言えども、武田軍も損傷が激しい。

約10年後の1572年、信玄自らが軍を率いて西上の途につくが、今回の戦の為に計画が大幅に遅れてしまったと言わざるを得ない。

 

川中島の戦いに兵力と時間を費やしていなければ、もっと早く西上の途に就けたかもしれない。

 

謙信は北信濃の元豪族に頼まれ、兵を川中島に進めた。

信玄が早期に謙信の言い分を認め、ある程度の譲歩していれば、5度に渡る川中島の戦いは起きなかった可能性が高い。

謙信は関東の北条家、北陸の信長配下の柴田勝家と常に対峙していた。謙信は信玄と早めに和睦すれば良かった。

能登国七尾城は堅古な城で、謙信は落とすのに相当苦労している。武田家は今川義元が討たれた後、駿河を攻めた。

甲相駿の三国同盟は一度は崩れたが、北条氏康の死後、修復している。謙信も武田家と和睦すれば、北条とは上手くいったかもしれない。

そうなれば、上杉・武田・北条の同盟に近いものが出来、織田・徳川軍に対抗できた可能性もある。

 

冒頭で第4次川中島が、桶狭間の戦いの翌年に発生した出来事にも注目と述べた。

以前ブログの「桶狭間の戦い」でも述べたが、織田信長は1560年の桶狭間の戦い後、歴史の表舞台に躍り出た。

以後歴史は、信長を中心に回り出す。

もし第4次川中島で武田・上杉軍の損害が甚大でなければ、勢力がまだ大きくない早目の段階で信長を叩けたかもしれない。

 

実際に上洛を目指し挙兵した際、信玄は晩年に近かった。

1573(元亀3)年、野田城を落とした時点で武田軍は引き返し、信玄は信州駒場で亡くなる。享年53才と云われている。

信玄は、岐阜城を囲む寸前だった。

戦国時代、織田信長と武田信玄の直接対決は一度もない。対決する寸前、信玄は病に倒れた。

三方ヶ原で鎧袖一触、精強と言われた三河軍を蹴散らした信玄であったが、病には勝てなかった。

 

もし10年早く信玄が上洛の途についていれば、信長も危うかった。

信長は長篠の戦い(1575年)の際、鉄砲3000挺を集めるのは困難だったに違いない。

この時(10年前)の織田は今川義元を破ったと雖も、まだよちよち歩きの段階だった。

桶狭間の戦いから美濃を落とすまで、7年近くかかっている。美濃を落とした以後、信長の勢いは凄まじいものだった。

 

繰り返すが、確かに武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いは、戦国史を語る上で華やかである。

しかし歴史の大きな潮流から見れば、数ある中の局地戦の一つに過ぎない。

「桶狭間」、「長篠」、「山崎」、「賤ヶ岳」、「小田原征伐」、「関ヶ原」、「大坂の陣」と比較すれば

、時代の趨勢にあまり関係がない。

 

しかし川中島の戦いが歴史ファンの興味とロマンをかき立てるのは、やはり武田信玄と上杉謙信という両雄のキャラの印象が強いからではなかろうか。

どちらかに天下を取らせてみたかったと言える。

 

今回の川中島の戦いを振り返り、そんな事が頭を過った。

敢えて言うならば、互いに強敵に領土を囲まれた為、時間と労力を費やしてしまった。

天下を狙う一歩手前で、事果ててしまった悲劇性のようなものが、我々歴史ファンの心を駆り立てるのかもしれない。

 

(文中敬称略)

 

・参考文献

【逆説の日本史10 戦国覇王編】井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2006年7月発行)

 

【私説・日本合戦譚】松本清張

(文藝春秋・文春文庫 1977年11月発行)