死者の尊厳を考えさせられた作品 『死体は語る』著者:上野正彦

今回紹介する作品は、『死体は語る』です。

実は今回のブログは、前回のブログより先に発表するつもでしたが、前回の話題がニュースとなり、急遽上げた形となりました。

本来は、此方が先に上げるつもりでした。

 

何故、逆になったのか。それは余りにも前回の話題が私にとり、腹立だしかった為です。

では気を取り直し、今回の書物を紹介したいと思います。

 

・題名      『死体は語る』

・出版社     時事通信社   

・発行      1989年 9月20日

・著者      上野正彦

 

医者には、臨床医と監察医が存在する

いきなり難しい言葉を使用したが、簡単に述べれば普段私達が日常生活で体調が悪くなった、或いは怪我をした際、診てもらう医者は臨床医。

一方、生きた人間でなく死んだ人(死体)を診て死因を検証するのが、監察医と区別すれば分かり易いかもしれない。

 

今回は主に死んだ人を中心に診断する、監察医にスポットを当てた作品。

テレビ・映画等で殺人現場にて死体を検視、凡その死亡時刻、死亡解剖に携わる人物と思っていただければ理解しやすのではないだろうか。

 

文中にて、何度も出てくる言葉

私が今回書物を読み直して(初読は10年以上前)、暫し著者が文中で繰り返している言葉に気づいた。

それは

 

 「死者の人権を擁護する」 

 

この言葉が著者が法医学に携わってきた動機であり、執筆した動機と云えるのではないか。

私も作品を通し、一貫して上記の言葉が仕事に対する著者の思いが込められているのを実感した。

 

文中にて「モノを言わずして死亡した人々の人権を擁護する」、「死者の生前の人権を擁護する」等、度々使用されている。

更に作品の最後に、著者自らが、上記の言葉を説明している。

長い間法医学に携わってきた著者の思い、又は使命感と云うべき言葉なのかもしれない。

 

それでは文中にて、私が印象深かった事件を幾つか述べたい。

 

死者の声を聞く。モノを言わぬ死体は嘘をつかない

♦死者との対話

事件概要は幼児がはいはいして、石油ストーブにぶっかった。その弾みで熱湯入りの薬缶が幼児(性別は女)の背中を直撃。

病院に担がれたが、一日後、死亡した。

 

母親は半狂乱状態。担当医は火傷死の死亡診断書を発行した。

父親は区役所に死亡届を提出したが、受理されなかった。

理由は、火傷などの外因死が原因の場合、変死扱いとなり、警察立ち合いの下、監察医の検死が必要とされた。

 

解剖の結果、幼女は過失による死ではなく、殺人と断定された。

何故なら、もし幼女が熱湯を背中に被ったのであれば、背中には不整形に火傷の跡がないといけない。

しかし幼女の背中には、丸い火傷の跡があった。

 

警察その事実を母親に追求すると、母親は漸く犯行を自供した。

母親が我が子を殺害した理由は、「幼女が知恵遅れの為、一家、本人の将来の考え、犯行に及んだ」との事。

母親の自分本位の犯行だったが、もしわが身の場合、どうしたか考えさせられた事件である。

 

著者の上野氏は、こう述べている。

監察医は臨床医と全く逆の方向から、医学をみる。

生きている人の言葉には嘘がある。しかし、もの言わぬ死体は決して嘘を言わない。

丹念に検死をし、解剖することによって、なぜ死に至ったかを、死体自らが語ってくれる。

その死者の声を聞くのが、監察医の仕事である。

 

※『死体は語る』著者:上野正彦 引用

 

何か今回の作品の全てを物語った言葉と云えるかもしれない。

 

♦親子鑑定

子供のいない或る会社の支店長が自殺した。発作的な自殺だった。

通夜の晩、遺族と会社関係者に、は見慣れない中年女性と年令的に9~10才の男の子が弔問に訪れた。

 

その女性は亡くなった支店長と生前、親しかった事を喪主の妻に告げた。

つまり支店長は妻の他に、外に愛人を持ち、愛人は連れてきた子供は亡くなった支店長の子と主張した。

 

本妻は、更に亡くなった夫には、そのような事実はないと否定した。

処が珍客は此れが証拠と、3人が睦まじく写っている写真を提示した。

写っている人物は紛れもなく、自殺した夫だった。

 

本妻は珍客の出現と10年来、夫が自分を騙し続け、子供がいる事に動揺した。

当然珍客は、遺産分与を請求した。

 

最初は動揺していた本妻だったが、徐々に落ち着きを取り戻し、愛人に対し、ある夫の秘密を打ち明けた。

その秘密とは。亡くなった夫は、「無精子症」だったと。

 

これで勝負ありと思いきや、愛人もさるもの。

その時に供え、反証を提示した。愛人は

「自殺した現場で、自殺した人間の肉片を拾ってきた。これを血液鑑定をして、親子と立証したい」

と申し出た。

 

当然判定は、民事裁判に持ち込まれた。

親子認定は今でこそ、DNA鑑定が主流だが、当時はまだ確立されておらず、血液判定が主流だった。

 

愛人が持ち込んだ肉片を鑑定した結果、人間のモノである事は間違いないが、亡くなった支店長のモノとは断定できなかった。

更に事件を聞き駆け付けた愛人が現場に乗り込み、肉片を拾った姿は確認されなかった。

 

結局最後の決め手となったのは、自殺した支店長が我が子と思い送金した、封筒に付着した唾液だった。

唾液を鑑定した結果、愛人が産んだ子と自殺した支店長の血液型が一致しなかった。

やはり本妻が主張した亡夫は、無精子症だった事が立証された。

 

皮肉にも自殺した支店長の遺児と主張した愛人は、自らの行為により、支店長の子でなかった事を知る羽目となった。

裁判所は親子関係は認められないとの判断を下した。

 

それでは愛人の子の父親は?

愛人は自殺した支店長と同時期、年下の男と交際していた。僅か一ヵ月の間に愛人は若い男の子を身もごった。

愛人はその後、支店長を選び、関係を続けた。支店長は何も知らず、子が出来たと喜んだ。

 

果たして愛人は何方が幸せだったのか?

考えさせられた案件だった。

 

♦安楽死

老夫婦には知恵遅れの子がいた。老夫婦は子の将来を案じ、自分達が生きている間に施設に預けようとした。

処が、両親が健在の間は、施設には入れられないと断られた。

 

父親は心労からノイローゼ、不眠症となった。遂には妻が留守中、知恵遅れの子を絞殺。自らは睡眠薬で自殺を図った。

幸い妻が帰宅。発見され、病院に運ばれ夫は未遂に終わった。

裁判の末、夫は無罪となった。理由は事件当時、夫は心神喪失状態にあり、刑事責任を受ける能力に欠けていると判断された。

 

別の事件だが、52才の父親が病気で苦しみ、余命一週間と判断された。苦しみを見かねた息子が、飲み物に農薬を入れ、死なせてしまった。

当然検察側は、殺人を主張。それも刑が重い「尊属殺人」を唱えた。

一方、弁護側は安楽死の立場を取り、真っ向から対立した。

 

結果、一審では検察側の主張が通り、尊属殺人として、3年6ヵ月の懲役。

二審では嘱託殺人とし、懲役1年、執行猶予3年となった。

 

この案件を読んだ後、私は真っ先に以前ブログで紹介した森鴎外作:『高瀬舟』を思い出した。

「安楽死」の定義は、もう助からないのであれば、苦痛を取り除く為、速やかに死なせてあげるのが人道的だとの解釈。

 

我が国ではまだ、安楽死は認められていない。延命治療が行われている。

しかしそう遠くない将来、安楽死が検討されるだろう。それは何故か。

以前から何度も述べているように、私が老後を迎え、年金が支給される頃、安楽死が検討され、法案が施行されるであろう。

理由は簡単。年金が足りない、今より更なる少子高齢化が加速する為。

 

何度も述べ来たが、私が丁度団塊二世に当たる。同世代が一番多かった世代。

この世代が進学で苦しみ、就職で苦労し、そして結婚もままならぬ世代だった。

 

この世代が現役を終え老後になった時、日本は破産の危機を迎える。

この世代が社会の屋台骨を支えてきたが、現役を終えた時、未曾有の社会的混乱が伴う。

当然、この世代が少なくなれば、それも少しは解消する。

 

政府もそれを予測。年金支払いの延長の議論を始めた。

終には「安楽死の法案」の検討、成立、施行となるであろう。

全く生まれてきた時代が悪かったと諦めるべきだろうか。

 

♦相続人

日常生活で死亡時刻はあまり意味がないが、ある特別な場合、非常に重要になる事を教えてくれた事例。

ある資産家が病院で死亡した。男には内縁の妻がいた。

内縁の妻は主治医に死亡時刻は朝だが、死亡時刻を夕方にして欲しいと依頼した。

主治医は内妻の願いを承諾した。

 

処が内妻は昼間に役所に行き、婚姻届けを提出した。亡くなった男の財産を独り占めしようと企んだ。

しかし男の身内が訝り、調査。内妻の企みが発覚。医師も悪事に加担したとされ、社会的信用を失った。

 

更に深刻な事例は、地下の工事中、地盤沈下。

民家の下を通るガス管にヒビが入り、近くの民家にガスが充満。爆発した。

数軒が被害にあい、その中で一家5人が死体となり発見された。内訳は夫婦2人と、子供3人。

 

夫と子供は、一酸化炭素による中毒死。妻は丸焦げで発見され、焼死と判断された。

果たして何が問題なのか?

 

問題は、夫と妻の死亡時刻のズレ。正確に言えば、妻は他の4人より、10分後に亡くなっていた。

その10分の開きに何が問題か?

 

答えは、亡くなった一家はお気の毒と言うしかないが、残された遺族間に争いが生じた爲。

過失責任者は、当然遺族に賠償金を支払わなければならない。今回の場合、工事を請け負った会社。

つまり賠償金を巡り、亡くなった夫の親族と妻の親族に争いが起こった。

 

妻が夫と子より10分長く生きていたと言う事は、賠償金の支払い権利は、全て妻に引き継がれる。

ややこしいが全員死亡したが、少しでも長く生きていた人間は先になくなった家族の賠償金を受け取る権利があるとの解釈。

 

当然夫側の遺族は、納得できない。結局、裁判に持ち込まれた。

裁判は3年後に結審。裁判所は両方に和解を宣告。一家は同時刻死亡を訂正された。

 

この事件がきっかけで、一家が同状況下で死亡した場合、遺産相続に当たり、同時刻で死亡という見解が採用される事となった。

私くとしても非常に印象深い出来事だった。

しかし亡くなった人間を偲ぶより、残された遺族が争うとは、何とも言えない気持ちに駆られた

 

♦保険金がらみ

会社経営の母親が、業績不振から自殺した。

第一発見者の息子は自殺では保険金が下りないと考え、物取りの犯行と見せかけ現場を偽装。

強盗殺人にように見せかけた。

 

似た事件で、若い女性が睡眠薬を多量に服用。自殺を図った。家族が発見した時は既に遅く、死亡していた。

しかし両親は生命保険が下りない事と考え、娘が誤って睡眠薬を服用。不慮の事故を主張した。

 

検死の結果、不審な点があり、捜査の末、両親が自殺では世間体が悪い為、遺書を破棄。

不慮の事故と見せかけていた。

当時は生命保険に加入しても、一年未満の自殺であれば、保険金は支払われない事になっていた。

二つの件は何れも、一年未満の自殺の為、遺族が保険金の支払いを考え、自殺以外の死として偽装したものだった。

 

自殺した本人の意思と反し、残った遺族が金の為、死んだ人間の意思を捻じ曲げるのは、如何とも言い難い。

何となく前述した、相続人の死亡時刻のズレによる、遺族間の争いに通ずるものがある。

人間、金が絡むと醜いものだ。

 

♦崩壊

文中では2つの出来事を取り上げているが、今回は後半の出来事を紹介させて頂く。

理由は、今日の日本の高齢化社会を暗示した出来事の為。

 

話の内容は、家庭内に於ける老人の孤独。老人の自殺の動機は一人暮らしの寂しからでなく、家庭内での疎外感であると。

著者は、自殺した老人の家庭に検死に出向いた際、「家庭内での老人に対する冷やかさを」感じたと述べている。

 

自殺の動機を家族に聞いても、実に曖昧で、挙句に自殺した老人を迷惑がる次第との事。

理由は、家族は老人を最早重荷としてしか感じておらず、自殺の動機は病苦によるものとしか答えないようだ。

家族は体裁を取り繕う為の単なる言い訳としか感じず、老人に対する家庭内の対応が冷たさからと述べている。

 

つまり同居はしているが身内から理解されず、孤独を感じ、自殺に及んだと断言している。

意外にも幸せと思われた3世代同居の老人が一番自殺が多い事も指摘している。

 

本書が発行されてから既に、30年以上の月日が流れた。

当時と比べ、然程状況は変わっていないと思われる。寧ろ、益々悪くなっているかもしれない。

 

今後、社会の根幹を支えて来た団塊二世がそろそろ現役を終え、老境に差し掛かろうとしている。

安楽死の箇所でも述べたが、この世代が一番世代間が多く、進学、就職、結婚に苦労した世代。

その世代が年金生活を迎える頃、社会の少子高齢化が加速する。

 

果たして日本は持ちこたえる事ができるだろうか?

私は不可能ではないかと予測する。

 

因みに私が丁度、その団塊二世に当たる。

当に身につまされる話である。

 

感想

上記で作品中でとても印象深かったエピソードを幾つか紹介した。他にも色々興味深いものもあったが、書面の関係の爲、割愛した。

しかし全てのエピソードに言える事は、文中にて著者が何度も述べているように、

 

 「死者の人権を擁護する」 

 

これに尽きるのではないかと思う。読みながら私は、初めて聞く言葉と感じた。

事故死、或いは人が変死した際、どのように扱われるか認識した。

 

更に著者は文中で、監察医制度が全国的に推進される事を望んでいた。

しかし今日では全国的に発足される事なく、現在は縮小傾向にある。

作品が掛かれた時は、東京23区、大阪市、名古屋市、横浜市、神戸市に存在していたが、財政上の都合で2014年横浜市が廃止。

 

現在まともに機能しているのは、東京、大阪市、神戸市のみ。

此れは著者の指摘から逆行してると言わざるを得ない。

 

廃止の理由は、財政上の都合との事だが、私の考えでは、何か無駄遣いしなければ、予算の工面ができると思うが。

何か政治家と役人の意識は、庶民と大きくかけ離れているようだ。

 

著者の言葉を借りれば、

 

「死者はどのような制度があっても生き返らない、などとあきらめてはならない。死者の側に立って人権を擁護している医師もいるのである」

 

※『死体は語る』著者:上野正彦 引用

 

その通りだと思う。

死者は口は開かない、しかし死体は正直に語る。死後、関係者は自らの都合の良いように、口裏を合わせる事ができる。

私は、決してそのような事があってはならないと考える。

 

追記

今回は昔読んで、久しく忘れていた作品を紹介した。

理由は昔読んだ時は心に響かなかったが、今になり作品の内容が心に沁みた為。

何故今になり、心に沁みたのか。それは自分が歳をとった為。

 

自然は毎年、同じ景色を繰り返すが、人間は一年を重ねる毎に、一歳を取る。

読者は、「それは当たり前ではないか」と述べるかもしれません。しかし人間、若かりし頃、誰も死を身近なものと感じない。

処が人間、年を取るに連れ、自らを老いを犇々と感ずる。

 

私事で恐縮だが、先日初めて腰痛、つまり「ギックリ腰」になった。

今迄、何度か腰痛はあったが、立てなくなるのは、初めてだった。

 

人生で初めて立ちたいのに、立てないと言う経験をした。立とうにも、激痛が走り、思い通り立てなかった。

人の手を借りるか、物に掴まらなければ、立てない状態だった。

原因はおそらく、昨日の作業と推測された。

 

痛みが引くのを待ち、2日後、漸く近くの整体に行った。

診断の結果、やはりギックリ腰。マッサージを受け、痛みがなくなるまでに回復した。

 

痛みが引くまで横になり、本当に何もする事が出来なかった。

ふとその時、たまたま本棚に視線を向けた際、今回の作品が目に留まった。

 

何か運命に引きずられるように、作品を読み返した。

すると前回読んだ頃と違い、全く違った観点で作品を見る事ができた。

 

前回と今回の違いを表せば前述したが、明らかに歳を取り、死を意識して読んだからであろう。

意識の違いと云うべきかもしれない。

 

繰り返すが人間は当たり前だが、生きると必ず歳を取る。

子供の頃は早く歳を取りたいと望んでいたが、人生も大半を過ぎれば、一年が早く感じ、歳を取るのが億劫になる。

 

誰も避ける事ができないもの。それは「自らの死」。

自らの死を身近に感じ始めたからこそ、全く違った作品をして読めたと思う。

 

今回腰痛になり、改めて人生の意義を知らされたのかもしれない。

今回作品を読み返し、久しぶりにタイムリーな作品と認識した。自らの生命を振り返る又とない、良い機会となった。

 

(文中敬称略)