新型コロナウイルス騒動 一年経った其の後

一昨年暮れ辺りから存在が確認された、新型コロナウイルス。

昨年の今頃、世界各国で大騒ぎしていたが、其の後一年経ち、世の中はどう変わったのか。

今回は久々に時事問題を取り上げたい。

 

一年前の今頃

ほぼ一年前の今頃、日本はおろか世界各国では新型コロナウイルスの存在が猛威を振るい、世間は大騒ぎしていた。

その頃の日本は、ほぼ3月に新型コロナウイルスが海外から持ち込まれ、大騒ぎとなった。

 

今となってはバカバカしいが、あるデマにより店頭からトイレの紙が消え、ウイルスの消毒の為、衛生用品がバカ売れ。此れも世の中の店頭から一時期消え、品切れとなる珍現象が起きた。

徐々に日本各地にて、新型コロナウイルスが蔓延。不要不急の外出自粛が通告され、日本各地の都道府県で、非常事態宣言が出された。

 

此れが凡その一年前の出来事。其の後、ウイルスに関しては其の後、殆ど改善される様子はなく、現在に至る状況。

その為、去年の夏開催される予定だった2020年、夏季五輪の一年延期が発表された。

 

そして一年経過後

前述したが、約一年が経過したが、結論から述べれば、大した動きは見られない。

大した動きと云うのは、大幅な改善が見られないと云う事。

 

海外の数社から製薬会社から新型コロナウイルスのワクチンが開発され、世界各国に輸入されたが、100%の効果があるとは言い難い。

日本にも輸入され接種が始まったが(2021年4月現在)、ハッキリとした効果がまだ判明せず、何度も接種しなければ、効果がないかもしれないとの報道も散見された。

 

緊急事態宣言は解除されたが

日本政府は3月、昨年12月から継続していた緊急事態宣言を解除した。

此れも結論から言えば、ウイルスの蔓延が抑制されたからではなく、ある大人の事情でなし崩しに解除されたと言っても過言でない。

「ある大人の事情」とは。

 

それはやはり「五輪開催に向けた、強引な解除」と云っても差し支えないだろう。

五輪開催に向けた動きを云えば、一番初めに思い浮かぶのが「聖火リレー」。

ご存じの通り聖火リレーとは、聖火を持ったランナーが沿道を走り、一般国民が聖火リレーを見て、五輪の成功と期待を願うイベントである。

 

過去の聖火リレーをみれば分かるが、有名人が聖火を持ち、観衆が見学。

聖火を見て盛り上がるのだが、此れはまさに政府がコロナウイルス予防に呼び掛けている「三密」そのもの。

自ずとコロナウイルスの蔓延に力を貸す事になりのが、一目瞭然。だが政府は批判をよそに、緊急事態宣言を解除した。

 

流石に政府・各自治体も世間の批判を気にしてか、無観客で聖火リレーを実施する箇所が、随所に見られた。

しかし素朴な疑問だが、「それほど世間は五輪に向け関心を寄せているのだろうか」。

 

あくまで私の意見だが、昨年五輪が実施されていればまだ関心があったが、「一年延期された為、既に関心が薄れた」感がある。

既に五輪まで100日を切ったが、何故か国民の五輪に対する関心が甚だ薄いのではないかと、犇々と感じる。

 

改めていうが、あくまで私個人の意見だが。

聖火リレーも無観客で行われ、譬え行われても人数制限での開催。国民全体が関心を寄せているとは、あまり思われない。

 

昔の私の体験を述べれば、或るイベントが開催された時、必ず動員(つまりサクラ)なるものが存在する。

動員は、開催者側が世間に盛り上がりを見せる為の行動(悪く言えば、やらせ)。

 

ある一定の人間が盛り上がれば、「バスに乗り遅れまいとする」、他の人間も一緒に盛り上がらせるという、一種の「群集心理」を利用したモノと云える。

好し悪しは別として、こればイベントでは必ず行われる行為。此れは否定できない。

大昔、所属していた会社では、動員と云う名目で私も何度も駆り出された。

 

参考までにその会社はイベント会社ではなく、世間では或る一定のスティタスを持った「社会の木鐸」と自負する会社だった。

故に政府が緊急事態宣言を解除したのはやはり、五輪を盛り上げる為の聖火リレーを実施する為だったと言わざるを得ない。

 

新型コロナウイルスの変種

年が明けた頃、今度は世界各国で新型コロナウイルスの変種が発見されるとの報道が、世界を駆け巡った。

変種とは元来の新型コロナウイルスが人を介在して伝染を重ねた後、或る時、ウイルスの病原体が突然変異を起こす現象をいう。

つまり新型コロナウイルスが変化して、更に強力になった事を物語っている。

変化を遂げれば、現在開発されているワクチンは、当然あまり効果を成さない。

 

又新たに変種のワクチンを開発しなければ、ほぼ100%病原菌を押さえる事は不可能と云える。

まさにいたちごっこの様相を呈している。

 

結局、去年から蔓延している新型コロナウイルスのワクチン接種が始まったが、ワクチンは変種にはあまり対応できないと云えるだろう。

一定の効果はあるかもしれないが。

 

現に政府の緊急事態宣言が解除された後、東京を始めとして各地で再びコロナウイルスの蔓延が報道されている。

とくに大阪は連日、患者の数が増え、3日連続で罹患者が1000人を超える事もあった。

 

その為政府、自治体は「蔓延防止重点措置」の適用に踏み切った。

一般人にすれば、蔓延防止重点措置とは「緊急事態宣言」とはどのような違いがあるのか、あまり検討がつかない。

 

参考までに東京・大阪・千葉・埼玉・神奈川県での適用が決定された。此れはほぼ大都市圏といってもよい。

東京・神奈川・埼玉・千葉の人口は、日本の約25%強に値する。それに大阪を合わせれば、約30%近くになろう。

 

其の後、大阪近郊の兵庫・京都辺りも追加されると予測する。そうなれば、緊急事態宣言と殆ど変わらない。解除した意味が、全くないに等しい。

結論を述べれば、緊急事態宣言を解除する意味がなかったと云える。

 

過去にも似た動き

実は政府は過去に、似た動きをとった形跡がある。

それは去年10月頃、何の検証もなく見切り発車で実行された、悪名高き政策と云われた「GO TO トラベル」。

 

「GO TO トラベル」が実施された昨年10月、私は当ブログでGO TO トラベルついて述べた。

その時のタイトルは

「GoToトラベル」政策 果たして一体、誰の為

 

その際、ブログ内にて凡その経緯を述べた為、今回は言及しないが、端的に述べればGO TO トラベルは国民の為ではなく、旅行会社に携わる人間・旅行に関係する業者の為の政策だと述べた。

 

もし詳しく御知りになりたい方は、リンクにて御参考にされて下さい。

意外な事だが、時事問題はあまり閲覧数が伸びないが、その時に限り旬なネタだったのか、閲覧数が伸びた記憶がある。

とても有難い事だった。

 

話を戻すが、GO TO トラベルが実施された時も、コロナウイルスに罹患者が爆発的に増え、政府は慌てて政策を延期した。

其の後再開のめどは立っていない。

おそらく延期と云う名の、中止と思われる。

「延期とい云う名の中止」と云う言葉を用いいたが、実はこの言葉は約一年前にも使用した。

そう新型コロナウイルスが拡大した昨年、五輪が延期となった時、私は「延期と云う名の中止」ではないかと予測した。

そして一年後の現在。状況は一年前とほぼ変わっていない。

 

先日、五輪が開催される東京都の都知事が、「可能でない限り、東京に来ないでください」と発言。

この発言が全てを物語っている。

五輪は選手は勿論の事、イベントを盛り上げる観客がなければあまり開催する意味がないのではかと思う。

 

大昔の古代五輪の開催目的は、「強い軍隊の育成」の為。

各都市の身体能力の優れた者を集め、競技を行ったが、近代五輪では観客が無ければ、ほぼ不可能。

 

何故ならそれは、大きなお金を動く為。つまり「お金」。

近代五輪は既に、お金(商業主義)と切っても切れない関係。

今回のテーマは五輪とお金ではない為、機会があれば述べるが。

少なくとも今回の話とは「近からずとも、遠からず」と云える。

 

最後に

結局、私が去年から一貫して述べている事は、政府はその時その時の場当たり的な対応のみに終始。

今回のブログを書くにあたり、去年の新型コロナウイルスに関するブログを読み返した際、約1年後の現在、改めて1年前の状況と全く変わっていないのに気づく。

ブログの内容も、そのまま現在でも通じる内容ではないかと、再認識した。

それ程、状況が変わっていない事が分かる。全くこの一年間、政府は何をしてきたのか。

 

先程から政府ばかりを批判しているが、国民も全く同じ。

国民の新型コロナウイルスに対する概念も、然程変わっていない。

 

極端な事を云えば、人間は然程変化しない生き物だと認識した。

つまり昔も今も、同じ考え・行動を繰り返す生き物だと云う事。

 

ただ国民に関して言えば、聊か同情の余地はある。

何故なら、お上(政治家・官僚)が、恰も特権階級のように自分達は特別とばかり思い、総理を始めとして、新型コロナウイルスに対処する厚生労働省の幹部たちが、自分達が決めたコロナ拡散防止の御触れを破っていたのが判明した為。

自分達が決めた事を、自らが破っているようでは、所詮国民も従う筈がない。

つまり、「人に厳しく、自分に甘い」ようでは、コロナウイルス騒動が終焉する処か、益々拡散するのは当たり前。

 

結局、ウイルスに関しては今後も変らないと予測する。

ウイルスに対する全世界の対応は、実は今迄人類があらゆる困難に瀕した際、とる行動ではないかと、今更ながら認識した。

その考えを再認識しただけでも、今回の大きな収穫だったのかもしれない。

 

(文中敬称略)