戦国時代、遅れて来た東北の英雄 独眼竜『伊達政宗』
今回は戦国時代、東北をほぼ統一した英雄『伊達政宗』を紹介したい。
目次
経歴
・名前 梵天丸→伊達政宗
・生誕 1567(永禄10)年(生)~1636(寛永13)年(没)
・家柄 伊達氏
・主君 豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光
・親族 伊達輝宗(父)、最上義守の娘(母)
・官位 従四位下右近衛権少将、陸奥守、従三位下権中納言
生涯
伊達政宗は1567(永禄10)年、出羽米沢城主輝宗の嫡男として生まれる。幼名、梵天丸といった。
幼少時、疱瘡を患い、膿が右眼に入り失明。隻眼となり、後に独眼竜と呼ばれた。
伊達家は鎌倉時代、源頼朝から陸奥国伊達村郡の地頭に任じられ、室町幕府時代は奥羽両国の守護に任じられた名門。
父輝宗は16代で、政宗は17代に当たる。
政宗は15才にて、元服。1584(天正12)年、18才にて伊達家の家督を相続する。
家督相続後、近隣諸国を征服。ほぼ奥州を統一する。
奥州統一後、1590(天正18)年、秀吉の小田原討伐が勃発。政宗は北条氏と同盟していたが、北条氏の形成不利とみるや、秀吉に服属を決意。
秀吉の小田原陣中にて、降伏を申し入れ、許諾される。
以後、豊臣政権下では秀吉に仕え、朝鮮出兵にて秀吉が威信を失うに連れ、五大老の一人家康に接近。
秀吉の死後、勃発した関ヶ原の戦いでは、東軍家康に与し、家名を後世に残す。
仙台藩約62万石の初代藩主となる。
和歌・茶道を嗜み、ローマに支倉常長を派遣するなど、誠に稀有な将軍だった。
尚、現代でも残る「伊達者」の由来は、伊達政宗と云われている。
家督相続後の悲劇
政宗が家督を相続した翌年の1585(天正13)年、悲劇を起こった。
それは政宗の父が一旦降伏した二本松城主、畠山義継が登城。挨拶に来たと思いきや、反旗を翻し、父輝宗を人質にとり、逃走。
鷹狩りに出かけていた政宗は、知らせを聞き、畠山義継を追跡。
畠山は輝宗と逃走したが、追手が迫り、もはや此れ迄と思い、輝宗を刺殺。
その直後、政宗の命により家臣は輝宗諸共、畠山を銃殺した。
尚、伊達家は江戸時代を経て、明治維新を迎えた為、伊達家の不名誉の為か、あまり詳しい資料は残されていない。
政宗、周辺諸国を平定
1586(天正14)年、満を持した政宗は、二本松城攻めを決意。前年の父の無念を晴らすべく、自ら出陣した。
畠山は必死に防戦するも、持ちこたえら事が困難となり、相馬義胤の仲介にて、畠山を支えていた芦名義広と和議。
畠山は二本松城を明け渡し、蘆名の許に身を寄せた。畠山氏は事実上、滅亡する。
1587(天正15)年、信長の後継者の地位を獲得した秀吉は、東北諸大名に対し、惣無事令を発し、各大名に服属を命じた。
しかし政宗以下、大名は命令を無視。領国の拡大を目指した。。
1588(天正16)年、政宗は芦名・佐竹の連合軍を、安積平野にて撃破。再び芦名氏との和議が成立する。
1589(天正17)年、摺上原にて芦名義広と戦い、勝利。芦名義広は本拠地黒川城を放棄。
実家の佐竹氏に逃げ延び、蘆名氏は滅亡する。
東北の有力な大名を滅ぼした政宗の許に、他の大名は帰属、或いは恭順の意を示す。
此処に於いて政宗は、ほぼ東北の大半を手中に治めた。
政宗が自国の為に戦ったのは、この時をもって最後と云える。
何故ならこの後政宗は、既に天下の大勢がほぼ決まりつつある情勢の為、苦渋の選択を迫られる事となる。
秀吉に服属を決意
政宗がほぼ東北を治めた頃、天下の趨勢は秀吉を中心に回っていた。
信長亡き後、巧みに織田家を乗っ取り、後継者の地位を確立したのは、羽柴(後に豊臣)秀吉だった。
その秀吉は1590(天正18)年、天下統一の最後の仕上げとして、小田原城を本拠地とする後北条家の討伐に乗り出した。
当然政宗の許に、秀吉から小田原参陣の催促(命令)が来た。
政宗の重臣たちは、意見が割れた。
天下無双の小田原城を秀吉が攻めている間、他国の領土を攻め、北関東・東北の要害を武器にして、秀吉軍を迎え討てば防げるのではないかと
しかし政宗の重臣、片倉小十郎景綱は「秀吉は一度追い払っても、又攻めてくるだろう」と述べ、政宗も片倉の意見を採用。
秀吉に降る事を決意した。
小田原にて
さて秀吉に服属を決意した政宗だったが、3年前に秀吉からの惣無事令を無視し、東北諸国を攻めた事。
今回の小田原遅参を、どう秀吉に言い訳すべきか、策を練った。
策を練った末、政宗は考え出した案とは。
政宗は髪を水引きで結び、白麻の陣羽織の死装束の姿で秀吉以下、他の諸大名が居並ぶ中を罷り出た。
政宗を見た秀吉は政宗を近くに呼び、持っていた杖で政宗の首をつつき、
つまり政宗がもう少し小田原に来るのが遅ければ、秀吉は政宗の首を斬っていたという意味だった。
この時政宗、24才。秀吉、55才。
秀吉に許された政宗は、秀吉直々に小田原の陣中を案内された。この時秀吉は殆ど丸腰同然で、政宗が秀吉の太刀を奪い、秀吉を斬りつける事も可能だった。
秀吉はまるで、政宗を試しているかのようだった。
政宗は一瞬、秀吉を斬りつける事を頭を過ったが、本能寺の変での明智光秀が頭に浮かんだ。
政宗はいまさら秀吉を討っても、天下の情勢に逆行するのみと思い、断念した。
秀吉に許された政宗は、若干領土を削られたが、大半の地を安堵された。
其の後、1591(天正19)年、政宗の旧領陸奥にて一揆が発生。政宗の関与が疑われたが、政宗は急ぎ上洛して、秀吉に弁明。
嫌疑は晴れ、秀吉から羽柴姓を下賜された。
秀吉政権下にて
1593(文禄2)年、秀吉は正式に朝鮮を攻め、その勢いで唐入りを計画。実行した。
政宗も秀吉の命に従い、従軍した。
秀吉に従軍した政宗軍は、たいそう絢爛豪華な装いをしていた。政宗自身、派手好きだった事もあろう。
この政宗軍を見た民衆は以後、伊達者と呼ぶようになったと伝えらえている。
政宗は朝鮮に渡海。金海、蔚山、晋州などを転戦。手柄を立てた。
この功績が認めらえたのか分からないが、慶長の役では政宗は戦に参加していない。
この頃、以前から仲が良かった浅野長政(五奉行の一人)と仲たがいしており、あまり政権下にて、立場が良くなかったとも云われている。
その為政宗は、朝鮮出兵で人臣を失いかけた豊臣政権から微妙に離れ、秀吉政権での五大老の一人である、徳川家康に近づく。
実際に政宗は、家康の六男忠輝に娘を嫁がせる約束をする。
秀吉の死、其の後の関ヶ原
秀吉が1598(慶長3)年、亡くなった。其の後は過去の何度も述べてきた為、省略するが、天下の行く末は、家康を中心に回り出した。
秀吉の死から2年後、上杉景勝が会津で家康に反旗を翻した。家康は上杉討伐の名目で、会津攻めを敢行した。
家康の留守を見越して佐和山城で隠居中の石田三成が、ア喪に西国の大名を集め、反家康の軍を結集した。
此れが東軍・西軍に二分した、関ヶ原の戦いである。
結果は何度も述べているが、東軍の圧勝。西軍の惨敗。政宗は時代の趨勢を見据え、東軍に味方した。
政宗の領土は東北だった為、東軍の背後を襲う可能性があった上杉を牽制する為、上杉の白石城を攻め、落城させた。
しかし政宗の活躍もここ迄で、あとは上杉領を攻めるも、悉く上杉軍に防御され、さしたる戦果は上げれなかった。
関ヶ原以後
関ヶ原以後、政宗は居城を仙台に移した。関ヶ原では上杉勢を牽制したが、然程の成果もなく、政宗が望んだ恩賞とは程遠く、若干の加増のみだった。
しかし領土は約62万石に膨らみ、親藩以外の大名としては加賀前家に次ぐ大藩となる。
幕府開設後、2代目将軍秀忠より、松平姓を下賜されている。
其の後政宗は領土経営に力を注ぎ、戦国最後の決戦となる大坂の陣を迎える事となる。
大坂の陣
1614(慶長19)年、方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣家と徳川家の仲が拗れた。
此れが戦国時代の最後を飾る、大坂の冬の陣となる。
冬の陣では過去、真田幸村を取り上げた時、詳しく述べた為、詳細は省く。
政宗は関ヶ原同様、徳川軍(幕府軍)として参陣した。
大坂冬・夏の陣後、豊臣家は滅亡。天下は戦の無い世の中となった(元和偃武)。
話は前後するが、政宗は大坂の陣が始める前年の1613(慶長18)年、支倉常長を中心とした一行を、ローマに派遣した(慶長遣欧使節)。
政宗としては次の時代を見越して、使節と云う名の欧州視察といった処であろうか。
当時家康も三浦按針と海外顧問にするなど、諸外国に興味を示していた為、先を見据えた行動だったと思われる。
しかし結果として、この政策は失敗終わった。何故ならこの後、幕府は3代将軍家光の時代、鎖国政策をとる事となる。
しかし後の歴史を鑑みれば、政宗の行為は決して無駄ではなかったと思われる。
世情が安定した後、政宗は益々領国経営に励み、仙台を現代まで続く穀倉地帯にまで発展させた。
数々の功績を残した英雄政宗だったが、1634(寛永11)年、遂に病を患い、体調不良となった。
1636(寛永13)年、参勤交代にて江戸在住中、政宗は息を引き取った。享年70才と云われている。
遅れてきた英雄
政宗はまさに遅れてきた英雄と云える。何故なら、生誕が1567(永禄10)年。
1567(永禄10)年は、織田信長が足利義昭を従え、上洛する前年。
戦国の世は、信長を中心に動き始めていた。
翌年信長は上洛。上洛後、近畿地方を平定。次第に勢力を各方面に伸ばしていった。
信長は急ピッチで領土を拡大。
本能寺の変にて死去する直前には、越後の上杉、西国の毛利、四国の長曾我部を攻め、更なる領土を拡大する寸前だった。
信長の権力が絶頂の1582(天正10)年、戦国史最大の事件が発生した
本能寺の変である。
本能寺の変の際、政宗はまだ16才。前年、元服を済ませたばかりだった。
政宗が家督を相続したのが、18才の1584(天正12)年の時。
信長亡き後、1583(天正11)年、賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉は、信長の後継者の地位を獲得した。
其の後の秀吉の活躍ぶりは過去何度も述べた為、省略するが、政宗が伊達家の家督を相続した時点で、天下の情勢はほぼ決まりつつあった。
秀吉は賤ヶ岳の後、毛利氏と和解。その4年後の1587(天正15)年、九州征伐を敢行。
九州の島津氏を屈服させ、九州を平定した。
秀吉が九州征伐を敢行している間、政宗は父からの悲願であった、東北制覇に明け暮れていた。
秀吉は既に関東・東北以外の地域を手中に収め、残るは関東の雄、後北条家を残すのみとなった。
秀吉にすれば、関東を平定すれば、全国統一を果たしたも同じとみたであろう。
東北統一を目指していた政宗も、おそらく同じ考えだったに違いない。
東北を統一しても、関東を平定した秀吉は、最後の仕上げとして東北を攻めてくるのは、火を見るより明らかだった。
既に天下の趨勢が決まり、自分だけが抵抗しても、勝ち目はないと思ったであろう。
その為、秀吉の小田原攻めの際、白装束のパフォーマンスで秀吉の前に現れ、服属した。
もし10年早く生まれていれば、政宗の人生も変っていたかもしれない。10年早ければ、東北を統一。
其の後、関東に食指を伸ばし、関東を併呑した。或いは越後の上杉と対立していたかもしれない。
逆に関東の北条、越後の上杉と手を結び、信長と対立していたかもしれない。想像は尽きない。
しかし現実は違った。以前同じ遅れてきた英雄として真田信繁(幸村)を取り上げたが、まさに同じかもしれない。
ただ二人の違いは、同じ後世に名を残したが、伊達政宗は生き残り死去後も伊達家は江戸時代を生き、目出度く明治維新を迎えたが、真田幸村は大坂の陣で、華々しく戦場に散った。
幸村の場合、関ヶ原で袂を分かった兄信幸(信之)が東軍に味方。江戸時代を生き抜き、見事明治維新を迎えた。
果たして何方が幸せだったのかは分からないが、何方の英雄も歴史に、偉大な名を連ねた事は相違ない。
追記
政宗は隻眼だった為、「独眼竜」と呼ばれていた。
隻眼だったのは幼少の頃、疱瘡にかかり膿が右眼に入り、潰れたと云われている。
家康の死後、老中酒井忠勝が権力を振るうが、政宗が参勤交代時、江戸城中にて酒井忠勝と出くわした。
その時政宗は戯言として、自分より20才ほど若い忠勝に相撲を申し込んだ。
当然結果は、政宗の負け。
しかし政宗の行為は、時の権力者忠勝に取り入ると同時に、伊達家は徳川家に叶わない、決して逆らう事はしないというアピールだったと云われている。
真偽の程は定かではないが。
(文中敬称略)