大国に囲まれた、小国故の悲哀 松本清張『柳生一族』

★松本清張短編小説シリーズ
・題名 『柳生一族』 松本清張短編小説全集 04【殺意】内
・光文社 光文社文庫
・発行 2008年12月発行
・発表 昭和30年10月『小説新潮』
目次
登場人物
◆柳生宗厳
大和国の小さな土豪。剣術に優れている。伊勢国北畠具教の許に神陰流の祖、上泉伊勢守がいた時、手合わせをする。
試合の末、上泉伊勢守に弟子入りする。腕を磨き数年後、同弟子の松田織部之助と供に免許皆伝を受ける。
其の後、戦国の習いで松田織部之助と袂を分かつ。秀吉時代の時、隠田の科を問われ、領地没収。一家離散の身となる。
◆上泉伊勢守
上州出身、神陰流の祖。伊勢国北畠具教の許に着いた際、大和国柳生の庄にある柳生宗厳と手合わせする。
手合わせに勝ち、其の後柳生宗厳の弟子入りを認める。数年後、宗厳とほぼ同じ腕を持つ松田織部之助と供に免許皆伝を与える。
◆松田織部之助
柳生宗厳と供に、神陰流の祖である上泉伊勢守の弟子となる。互いに腕を磨き、宗厳と一緒に上泉伊勢守から皆伝を受ける。
◆柳生宗頼(宗矩)
柳生宗厳(石舟斎)の次男。父宗厳は天正の石高直しの際、隠田を密告され領地没収となる。
一家離散となるも、秀吉の死後、豊臣家と徳川家との対立の際、徳川方に見いだされ家康に出仕する。
◆柳生十兵衛(三厳)
柳生宗頼(宗矩)の嫡男。剣の道を究めるべく、権力者に近づき家の安泰を図る父宗頼に反抗。出奔する。
数年諸国を放浪。放浪中、父の心情を理解。家に戻る。
◆庄田喜右衛門
柳生宗厳(石舟斎)の弟子。嘗ての仇である松田織部之助を討つべく、藩主柳生宗矩に命じられる。
庄田は見事に仇を討ち、松田織部之助の首を持ち帰る。
あらすじ
戦国時代、柳生宗厳は大和国柳生の庄を治める、小さな土豪だった。
1563(永禄6)年、伊勢国北畠具教の許に、神陰流の祖「上泉伊勢守」が邸にいた。
上泉伊勢守は北畠具教から、「貴公に叶うのはこの辺では、大和国柳生の庄、柳生宗厳であろう」と云う事を聞いた。
上泉伊勢守は早速手合わせをしたいと思い、柳生の庄に赴いた。柳生宗厳は当時、中流派の名人で名を馳せていた。
伊勢守は手始めに、同行人で甥の疋田文五郎を戦わせた。手
合わせの末、柳生宗厳は自らの未熟さを悟り、その場で伊勢守に弟子入りした。
伊勢守に弟子入り後、柳生の邸に入門者が殺到した。その中に松田織部之助がいた。
織部之助は宗厳と供に腕を磨き、数年後、供に伊勢守から免許皆伝を許された。
2人は同門と云う事で仲が良かった。しかし戦国時代何が起こるか分からない。
其の後2人は時代の趨勢に巻き込まれ、ちょっとしたボタンの掛け違いで、仲違いした。
1582(天正10)年、本能寺の変が勃発。
天下は後継者争いに勝った豊臣(羽柴)秀吉が、織田信長の意志を継ぐ。
秀吉は1590(天正18)年、天下を統一した。
天下を統一した秀吉は、全国に検地を命じた。
検地で石高を明確にし、年貢徴収を確実にする事を目指した。
柳生の庄も当然、検地の対象となった。
秀吉が実施した検地は大変厳しく、柳生宗厳は隠田があると誰に密告された。
当時大和国領地だった豊臣秀長に領地を没収され、柳生家は一家離散の身となる。
一家離散の憂き目をあった柳生宗厳は、隠居を決意。3人の息子(厳勝、宗頼、五郎)は散りじりとなった。
1598(慶長3)年8月、天下を統一した稀代の英雄、豊臣秀吉が死去する。
秀吉の死後、徳川家と豊臣家は逼迫ならぬ関係となった。
徳川家康は大坂の豊臣家に対抗すべく、大坂に近く周辺の地形・情勢に詳しい柳生家を思い出した。
家康は隠居の身である柳生宗厳(石舟斎)に、教えを請うと名目で呼び出した。
宗厳を味方に引き入れ、次男宗頼を徳川家に出仕させた。
家康の目論見は的中。宗頼を引き立てた2年後、1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いが勃発した。
家康は豊臣家と周辺大名の動向を探らせるべく、柳生宗頼を旧地の大和国に潜伏させ、逐次家康に報告させた。
関ヶ原は見事、東軍(徳川家)の勝利。宗頼は功により、旧地の大和国柳生の庄を家康から貰い受けた。
旧地に戻った宗頼は、往年の仇松田織部之助を部下に討たせた。父宗厳は、既に他界していた。
織部之助も歳をとり、既に事の次第を察していた。
仇討ちに来た庄田喜右衛門に対し、自分が編み出した型を見せ、庄田喜右衛門の手にかかった。
宗頼は父宗厳の生前の願いを、見事に果たした。
1616(元和2)年、柳生を引き立てくれた家康が無くなった。
家康の死後、宗頼は御家存続の為、時の権力者、老中の土井利勝に摺り寄った。
宗頼は父宗厳が戦国時代、小国の故、時の趨勢に気を配り、常に大国の意向に従わざるを得ない悲哀を目の当たりにした。
他人の讒言で、領地没収。一家離散の目にもあった。
それ故、御家存続の為には、権力者に摺り寄るしか方法はないと実感していた。
剣術には優れた一家でも、所詮権力には無に等しいと悟っていたのであろう。
宗頼には3人の息子がいた。その中で一番剣術に優れていたのは、長男十兵衛三厳だった。
十兵衛は剣術の道を究めたいが故、権力者に摺り寄る父宗頼に反抗心をもった。
反抗するが故、或る日突然、出奔した。
一方柳生家は宗頼の甲斐もあってか、宗頼は2代将軍秀忠の剣法指南役となる。
3代目将軍家光の代には、将軍家の正式な剣法に採用された。
父に反抗した十兵衛は10年以上、諸国を放浪。己の腕を磨いた。
10年以上の放浪後、十兵衛は漸く父宗頼の気持が理解できた。
時代は既に戦を必要としない時代となり、巷には浪人が溢れた。世の中は安定するとともに、階級差が生まれ始めた。
十兵衛が求めた剣の道は所詮、一対一の戦いに必要なのみ。今の社会では、全く意味をなさない事を悟った。
その事を悟った十兵衛は、父の許に戻った。十兵衛が戻ったのを父宗頼は快く迎えた。
齢は既に、60才を超えていた。
折角家に戻り柳生家を継いだ十兵衛だったが、僅か数年で病にかかり、父宗頼より先に亡くなった。
皮肉にも柳生家は、一番剣術の腕が劣っていた次男宗冬が家督を継いだ。
要点
現代社会に今にも伝わる、剣術一家で有名な「柳生家」。時代劇などで暫し、柳生十兵衛を御存じの方も多いと思う。
しかしその柳生も戦国時代では、大和国(現代の奈良県あたり)の小さな土豪に過ぎなかった。
弱小国故、常に周囲の情勢に気を配り、生きざるを得なかった。
つまり隣国で有利な場合、其方に付き、形成不利と見るや否や、あっさり見限り昨日まで敵であった相手と手を組み、生き残るしか術はなかった。
「小国故の悲しさ」とでもいうのだろうか。
物語りは柳生の代名詞として有名な「剣術」で話が進んでいるが、実は戦国の世、柳生が如何にして剣術を武器に時の権力者に摺り寄り、御家の存続に尽力した事を中心に描かれている。
この事は、何も剣術の柳生に限った事ではない。今では高尚と称される、「茶道」「能」「歌舞伎」等、殆ど似たような経緯。
何れも当時、あまり身分の高くない層、寧ろ卑しい身分とされた階層の娯楽が発祥。後に大衆化した。
歌舞伎は田楽・猿楽から発達したものと云われている。つまり一年の農作業を終えた農民の、ささやかな娯楽だった。
大衆から広がりを見せたモノが、次第に時の権力者の目に留まり持て囃された。
其の後、権力者の庇護を受け、次第に高級化。やがて身分の高い人たちが独占した。
そう考えれば「華道」などの「道」がつくモノの歴史は、全て同じ経緯を辿っている。
それは独占・寡占状態となり、軈て家元制となる。
皮肉にも其の後は裾野が広がらず、その道の発展を妨げる結果となっているのかもしれない。
今回はそれが主題でないので、話す機会があれば詳しく述べたいが、例えば西洋で発展しているオペラは全く違う。
才能があれば、誰もがテノールに成れる可能性がある。それだけ門戸が開かれている。
それにはある程度のパトロンも必要だが。
海外からみた時、日本の不思議なモノの一つに、「家元制」がある事は述べておきたい。
どんなものでも、或る程度発展すれば、必ず家元制になる。
家元制となれば、家元が一人いて、その下に多くの名取がいる。筆頭名取となる為には、多くの門弟が必要。
何故なら、多くの門弟を抱える事で、家元に送るお金が多くなる為。
本家にお金を多く送金すれば、それだけ自分の地位も高くなると云う事。
実力も影響するが、結局の処、どれだけ門弟を抱えるかで名取の出世が決まる。
よく言われる家元の跡継ぎ問題の「御家騒動」も、此処に端を発する事が多い。
やがて不満を感じた弟子が、一門を飛び出す。其の後、別の流派を作るのは、此れが原因。
此れは、宗教も同じ。実は、根は同じ。いずれも内部から分裂したものが大半。
実はこれが、
人間は所詮、義でなく、利で動く。
話は逸れてしまったが剣術で有名な柳生も、一度は隠田があった科で、当時の大和郡山領主、豊臣秀長に領地を没収された。
後年、時の権力者、豊臣秀吉が死去。豊臣家と徳川家が、対立するようになった。
家康は豊臣家の本拠地大坂に近い、嘗て大和国に領地があった柳生を利用。
対立させる目的で、豊臣秀長に領地を没収された柳生宗厳を見出し、宗厳の次男宗頼を徳川家に出仕させた。
家康の目論見は、まんまと的中。2年後、関ヶ原が勃発。
戦の際、豊臣家の本拠地の地形に詳しい柳生宗頼を旧領地に行かせ、豊臣家と周辺大名の動向を探らせた。
柳生宗頼は旧領大和国に行き、逐次西軍の動向を家康に知らせ、大功を立てた。
戦後、宗頼は大功により家康から旧領の大和国を貰い受けた。
藩主になった宗頼は、嘗ての仇敵、松田織部之助を父の弟子庄田喜右衛門に命じ討たせた。
父の仇を討った宗頼は其の後、御家存続の為、時の権力で老中の土井利勝に摺り寄った。
土井利勝に気に入られた宗頼は、2代目将軍秀忠の代、将軍家の剣法指南役となった。
文中では宗頼の心境を語れば
「強力な権力の前には、無力者と等しい」
又は
「剣の道一つだけでは知れている」
つまり権力者に近いところに座を占めることだ
と示している。
まさに当時の柳生一家は、此の様な心境だったと推測される。
権力に摺り寄る父宗頼(宗矩)を嫌い、嫡男十兵衛(三厳)が反抗心で出奔。各国を放浪する。
十兵衛は剣の道を真剣に究めようと志した為、父の考えが我慢できなかった。
十兵衛は放浪中、剣の腕を磨いた。
放浪して10年近く経った後、十兵衛は漸く、父の考えを受け入れる事ができた。
十兵衛は家に戻った。時代の変遷と供に、剣術は必要とされない時代となった事を悟った。
十兵衛が家に戻り、家督を継いだ僅か数年後、齢にして41才で十兵衛は病で亡くなった。
柳生家は皮肉にも、最も剣術に疎かった次男宗冬が、家督を継いだ。
繰り返すが、時代は既に戦上手が生きるのではなく、生き残る術に長けた人間が生き残る時代となったのである。
家光の代には、浪人が増えた。その家光が死去。
家光の子家綱が将軍職に就こうとした慶安4(1651)年、軍学者「由比正雪」が乱を起こし、幕府の転覆を目論んだ。
結果は未遂に終わるが、幕府は事件をきっかけに武断政治を緩め、浪人の増加を防ぐ為、末期養子の禁を緩めた。
※末期養子とは、後継ぎがいない大名が死去する寸前、養子制度を認め、御家存続を認める制度。
幕府は末期養子を認めておらず、御家断絶にて浪人が増大した。浪人が増える事で、治安が悪化した。
追記
今回の小説は、清張のオリジナルというよりも、戦国時代から江戸時代に於ける柳生一族の生き様(歴史)そのものと云える。
多少は清張の主観もあるが、戦国史の好きな者から見れば、凡そ柳生一族の浮き沈み、そして大国に囲まれた弱小の土豪が、どの様にして現代社会に名を残したのか詳しく書かれている。
今回のスポットは柳生だが、他の土豪もほぼ似た生き方をして、現代まで生き残った。
柳生と似た境遇の一家と云えば、以前紹介した「真田一族」であろうか。
真田一族も戦国時代、周囲を武田・上杉・北条・今川などに囲まれ、小国故の生き方を否応なくさせられた。
真田は更に関ヶ原の戦いでは、親子で東軍・西軍に別れ戦をした。それは何方が勝っても、家の存続を図った故の行動。
関ヶ原では東軍が勝利し、東軍に味方した真田信幸(信之)が真田家の家督を継ぐ結果となった。
15年後、戦国の最後を告げる大坂の陣では、戦国史最後の英雄として信之の弟、真田幸村(信繁)が有名となり、兄よりも後世に名を残す事になるのが、如何にも皮肉。
しかし徳川(江戸)時代、将軍家から色々な嫌がらせを受け乍ら、最後まで生き残り、目出度く明治維新を迎えたのは、紛れもなく真田信之の血筋だった。
柳生家も真田家と同様、小国故、いつ大国から潰されるとも限らない身だった。
その為、権力者に摺り寄るしかない父と、まっすぐに剣の道を目指す息子(十兵衛)との間に葛藤が見られた。
それは男であれば誰にもある「父に対する、息子の反抗」かもしれない。
男ならば、誰も心当たりがあろう。父の実力、父の気持ちを理解した時、息子は初めて父を越えたと云える。
今回の作品を読んだ後、ふとそのような考えが頭を過った。
(文中敬称略)