偉大な父と名門の重圧に負けた男 『武田勝頼』

今回偉大な父から家を継承。没落させたは男を紹介したい。男の名は『武田勝頼』。

会社に喩えれば、立派な経営者だった父の跡を継ぎ、有名な会社を継承したが、父の偉大さと名門の重責に負け、会社を倒産させたとでも云えば良いであろうか。

それを考えれば、十分現代でも通ずる話と思われる。

 

経歴

・名前    諏訪勝頼、諏訪四郎勝頼、伊奈四郎勝頼、武田勝頼

・生誕    1546(天文15)年(生)~1582(天正10)年(没)

・家柄    諏訪氏→武田氏

・主君    武田信玄

・親族    武田信玄(父)、諏訪頼重の娘(母)

・官位    大膳大夫、

 

生涯

信濃侵攻して、諏訪氏を滅ぼした武田信玄の四男として生まれる。母は滅ぼされた諏訪氏の娘であり、当初は庶子(傍系)扱いだった。

其の後、嫡男太郎義信が謀反の罪で、廃嫡。二男竜芳は盲目の為、出家。三男信之は幼少期にて夭折。

その為、勝頼は庶子でありながら、武田家の家督を継ぐ事となる。1573(元亀3)年の頃。

 

家督を継いだ勝頼は版図を広げるべく、積極的な外征を行った。父信玄が落とせなかった高天神城を攻略。

武田家の版図は拡大。信玄以上の、最大の版図を誇った。

しかし1575(天正3)年、長篠の戦いにて織田・徳川軍に大敗。それ以後、没落の一途を辿る。

 

長篠の戦い後の7年後、一族の外戚だった木曽義昌が織田方に寝返る。頃合い良しと見た織田軍が、武田攻めを開始。

勝頼は信玄以来の本拠地、躑躅ヶ崎館を放棄。韮崎にて新たな城(新府城)を着工するも、織田・徳川・北条に攻められ、新府城を放棄。

天目山まで逃げ延びるが、最後は一族・家臣の相次ぐ離反に遭う。もはや此れ迄と思い、一族諸共切腹する。

新羅三郎以来、名門武田家が滅亡した瞬間であった。

 

出自

1546(天文15)年、武田信玄の四男として生まれる。母は信玄に滅ぼされた、諏訪頼重の娘。

母が側室の為、勝頼は傍系(庶子)扱いとなる。

幼少期は甲府の躑躅ヶ崎館で暮らしたとも云われているが、詳細は不明。母は勝頼を生んだ後、死去している。

傅役は跡部勝資と云われているが、此れも詳細は不明。ただ跡部は後に勝頼の家老格となっている為、ほぼ正しいのではないかと云われている。

跡部は後に勝頼が武田家家督を相続後に重用され、信玄以来の重臣と対立する気配もあった。

此れが後の武田家衰退の要因となる「長篠の戦い」の敗北にも繋がる。

 

勝頼、武田家の家督を相続

勝頼は庶子扱いの為、母方の姓である諏訪家の名を語り、諏訪四郎勝頼と名乗った。

勝頼は元服後、高遠城の城主となる。初陣は、1563(永禄6)年の上野箕輪城攻めとされている。

 

1565(永禄8)年、信玄の嫡男義信が信玄に対し、謀反を起こす騒ぎが発生した。事件の連座で太郎の傅役、飯富虎昌は自害。義信は幽閉された。

義信は幽閉後、自害する。

嫡男義信は自害。二男竜芳は盲目の為、出家。三男信之は早逝。本家に後継ぎがいなくなり、勝頼は武田家の家督を継ぐ為、本家に迎えられた(1571年の頃)。

勝頼が正式に武田家の家督を継ぐのは、信玄が死去(1573年)した後。

 

信玄の西進と死去

1572(元亀2)年の暮、武田信玄は約2万5千の兵を引き連れ、西進した。勝頼も父信玄に従軍する。

遠江の浜松城を通過後、三方ヶ原で追い縋る徳川軍を鎧袖一触で打ち破り、武田軍は岐阜城を攻める直前まで進んだ。

岐阜城を攻める手前の野田城で手こずり、その最中に信玄の体調が悪化。甲斐に引き返す途中、信濃の駒場あたりで信玄はなくなった。享年53才と云われている。

信玄は自らの死を3年秘せよと遺言した。英雄武田信玄が亡くなり、勝頼は正式に武田家の家督を相続する。

 

拡大路線と長篠の大敗

信玄の死後、勝頼は父の拡大路線を踏襲。版図を広げるべく、外征を繰り返した。有名なのは、1564(天正2)年、高天神城の攻略。

高天神城は、父信玄でも落とせなかった城。偉大な父を越えたい。更には、父からの重臣達に一泡吹かせたいとの思いがあったのであろう。

両方の思いが勝頼にあり、徳川方の要衝地、高天神城を攻略したと思われる。

尚、武田家の最大の版図は信玄時代ではなく、勝頼の時代である。此処までが勝頼の絶頂期だったと云える。

 

1575(天正3)年、前年に高天神城を落とし東遠江を制圧した勝頼は、信玄の死後、徳川方の付いた長篠城の奥平貞能・信昌親子を成敗すべく、約1万5千の兵を率い、奥三河の長篠城に攻めかかった。

此の戦いは有名「長篠の戦い」となるが、長篠の戦いも嘗てブログにて詳しく述べた為、今回は省略する。

 

参考までにリンクを貼ります。

参考:織田・徳川鉄砲隊が武田騎馬隊を撃破、戦法の転換期となった「長篠の戦い」

 

結果は武田軍の惨敗。勝頼は這う這うの体で戦場から抜け出し、命からがら甲斐に逃げ戻った。

戦いにて武田家は信玄以来の多くの重臣を失い、武田家は戦国の一流国家からの地位を滑り落ちる事となった。

戦法も有名だが、武田家が没落の要因となった事でも有名な戦いだった。

これ以後、武田家は没落の一途を辿る。

 

謙信の死後と御館の乱

長篠の敗戦後、勝頼は北条家と上杉家との関係修復に努めた。もはや武田家のみでは、織田・徳川家の対抗できないと悟つたからであろう。

北条家とは以前との関係もあり、割合すんなりと関係が修復された。信玄死後、上杉家と戦いはなかったが、緊張関係は続いていた。

その時、信長に京を追われ、毛利家の庇護にいた足利義昭が信長に対抗する為、上杉家・武田家との和睦の斡旋を進める動きがあった。

 

勝頼は渡りに船と思い、義昭の斡旋に乗じた。上杉謙信も既に信濃出兵を諦めていた為、此れに応じた。

しかし上杉家は直前まで北条家と同盟していたが、勝手に手切り。武田家と関係を修復した北条家を快く思っておらず、三国同盟には至らなかった(越後・甲斐・相模)。

 

1578(天正8)年、父信玄のライバルだった上杉謙信が急逝する。謙信は後継者を指名していなかった為、越後ではたちまち後継者争いが勃発した(御館の乱)。

越後で内紛が起こった為、これ幸いと北条家と武田家は上杉領を切り取るべきく、出兵した。

 

前述したが、此れが武田家滅亡の遠因ともなった。

上杉領に攻め入り、切り取る事に成功したが、此れが反って北条家との諍いに発展。武田家と北条家との関係は悪化した。

其の後、武田家と北条家の同盟は破棄された。北条家は武田家を見捨て、徳川家と手を結び武田家に対抗した。

御館の乱で勝利した上杉景勝だったが、内乱の末に国力を削がれた。それ故、武田家に対し、強固な力添えとなる事はなかった。

従って武田家は、北条家・徳川家に牽制される形となった。

 

信長の侵攻と武田家の滅亡

勝頼の相次ぐ外征に因り、武田家の国力は疲弊した。北条・徳川の挟撃に遭い、次第に武田家は力を分散させられ、領土を侵されていった。

勝頼は躑躅ヶ崎館では敵の防衛に不利と見做し、1581(天正9)年、韮崎にて新府城を普請し始めた。

 

度重なる遠征、新府城の築城に伴う軍資金・軍役(賦役)の為、武田領の国人衆からは、不平不満が相次いだ。

更に同時期、勝頼が落とした高天神城が徳川方に攻められた際、後詰めの兵を送れなかった事が多くの家臣の離反を招く結果となった。

翌年の1582(天正10)年1月、外戚の木曽義昌(信玄の娘婿)が、織田家に寝返った。

勝頼は木曽義昌を誅すべく、討伐軍を編成。討伐軍を差し向けるも、討伐に失敗。武田家の威信は地に落ちた。

 

頃合い良しとみた織田信長は北条・徳川を誘い、嫡男信忠を総大将として武田攻めを敢行した。

三方から攻められた武田家は、成す術もなく敗北を重ねる。

敗北を重ねる中、相次ぐ重臣と国人衆が離反。

新府城も支えきれないとみた勝頼は、新府城を退去。放火後、岩殿城に落ち延びようとした。

落ち延びる途中、一族の叔父である信廉、木曽義昌と同じ信玄の娘婿だった穴山信君が離反。

向かう先である岩殿城の小山田信茂ですら勝頼を見限り、離反する。

 

もはや此れ迄と観念した勝頼は、追手の滝川一益の兵に追いつかれた後、天目山の麓(田野)にて勝頼以下、一族諸共自害する。

自害した中には、勝頼の嫡男信勝、後室の北条家から嫁いだ娘(桂林院)もいた。

 

戦国時代の習いとは言え、まさに非情で残酷。あっけない武田家の滅亡となった。

勝頼、享年37才と云われている。

長篠の戦いから僅か、7年後の事であった。

 

追記

今回有名な父信玄ではなく、勝頼を取り上げた。理由は、父信玄があまりにも有名な為、敢えて紹介する必要がないと思った為。

父が偉大すぎ、家督を継いだ勝頼が暗愚・凡将と思われがちだが、決してそうとは思われない。私から見れば、時代とタイミングが合わず、没落したのではないかと思う。

実際信玄の時ではなく、勝頼の時が武田家が最大版図だった。

 

しかし有名な「長篠の戦い」で壊滅的な打撃を受け、其の後衰退の一途を辿り、やがて長篠の7年後に滅亡する。

長篠の戦いで信玄の置き土産である、数々の重臣を失った事が大きい。

又越後上杉謙信亡き後、「御館の乱」にて越後出兵した事が、結果的に武田家の滅亡を招いた原因の一つ。

越後出兵にて北条家の不信を招き、北条家との関係が悪化。北条家は武田家を見限り、徳川家と手を結んだ。

北条家・徳川家、そして織田家の挟撃にあい、武田家は滅亡する。

 

もう一つ、没落の原因を挙げるとするならば、前述した武田家版図の最大が勝頼の時と述べたが、裏を返せば、外征続きで国力が悪化。

民心と従う家臣に、疲弊・厭世感が起こったのではあるまいか。

勝頼は偉大な父を越えようとするあまり、外征を繰り返した。父信玄でも落とせなかった「高天神城」を落とした。

しかし滅亡の原因の遠因となったのも、皮肉にも同じ高天神城。高天神城の奪取を試みる徳川家に対し、後詰めの兵を送る事ができなかった。

援軍を送れず高天神城を見捨てた事により、家臣の離反を招く形となった。

 

何故勝頼があくなき外征を繰り返したのか。やはり父を越えようとした事。

拡大路線に走り、本国の国力を疲弊させてしまった。

 

更に穿った見方をすれば、勝頼は元々武田家の本筋の人間ではない。

武田家本家の騒動で後継者がいなくなり、傍系から本家に迎えられた経緯がある。その事が勝頼に、暗い影を落としたのではあるまいか。

「ひけめ」とでも云うのだろうか。

もし義信(嫡男)が謀反の疑いがなければ、勝頼は諏訪家を継ぎ、武田家の従属扱いとなっていた。

本家に後継者がいれば、一生武田家の本家には頭があがらない存在だったに違いない。それが巡り巡り、跡目のチャンスが回ってきた。

家督を継いだ勝頼だったが、信玄以来の重臣が勝頼に対し何かと助言との名目で諫める為、勝頼も内心うんざりしていたのではないか。

 

信玄以来の重臣も内心、「勝頼は本来なら武田家を継ぐ人ではなかった」と思っていたかもしれない。

それが互いにぎくしゃくしたものとなり、長篠の戦いで決定的なものとなり、大敗を喫したのかもしれない。

そう考えれば、何か勝頼も不幸な男だったと言えざるを得ない。それが前述した時代とタイミングが合わなかったと述べた理由。

 

冒頭でも述べたが、有名な会社を継いだ息子が、父を越えようと闇雲に経営を拡大。手を広げすぎ、軈てにっちもさっちもいかなくなり、没落していく様子に何か似ている。

それが勝頼が残した、一番の教訓と云えるのかもしれない。

 

尚、以前映画で紹介した黒澤明監督『影武者』は、信玄の死後の武田家を描いている。

表の主人公は影武者だが、裏の主人公は「武田勝頼」になっている。

ご興味がある方は、其方もご覧ください。

 

参考:盗人から一国城主となった男の数奇な運命を描く 黒澤明『影武者』

 

(文中敬称略)