甲斐性の無い男の嫉妬 松本清張『喪失』

★松本清張短編小説シリーズ
・題名 『喪失』
・双葉社 双葉文庫
・発行 1995年5月 【「顔」内】
・発表 1957年3月 新潮
目次
登場人物
◆田代二郎
28才の妻子持ちの男性。運送会社の経理に勤める。
田代は家庭をもつ傍ら、小さな製薬会社の事務員を務める桑島あさ子と関係を持っていた。
◆桑島あさ子
田代二郎と同じ28才の女性。独身だが、子供ある。
子供は田舎の実母に預け、現在は一人住まい。小さな製薬会社で、事務員として働いていた。
◆須田
あさ子が再就職F相互銀行の集金人。年齢は57、58ほど。
この道のベテランで、月々の営業成績は何時も1,2位を争うほどの腕前。
ふとしたきっかけで、あさ子と親密になる。
あらすじ
田代二郎は運送会社の経理に勤める、28才の妻子持ちの男だった。
男はとりたて高給取りではなかったが、何故か同じ年齢の愛人がいた。
女は桑島あさ子を云い、小さな製薬会社の事務員を務めていた。
小さな製薬会社の為、あさ子の給料は僅かだったが、その中から必死にやり繰りして、田舎に預けてある子供の仕送りや生活費などを賄った。
残ったお金で二郎への愛情の印として、少しばかりの贅沢な食事、身の回りのものなどに充てていた。
二郎はあさ子の住む安アパートに通っていた。2年ばかり続いたであろうか。
アパートの住民は、二郎があさ子の正式な夫でなく、特殊関係人である事に薄々気づいていた。
ある時、あさ子が勤める小さな製薬会社が倒産した。あさ子は失職して、再就職先を探した。
探したが、28才で何も手に職を持たない女の仕事探しは難航した。
そんな女にできる仕事を云えば、女中、家政婦、仲居、保険勧誘員ぐらいだった。
あさ子が潰れた会社の口利きで、某相互銀行お集金人の職に就いた。
職に就いたはいいが、女の身には、なかなかきつい仕事だった。
貸付金の回収と供に、新たに融資の契約も取らねばならない仕組み。
仕事は歩合制で、あさ子は朝から晩まで必死に働き、僅かばかりの報酬を得るといった具合だった。
二郎はそんなあさ子を見ながら、慰めはするがどうにもする事ができない。
あさ子は日増しに疲れていった。
何時もの様にあさ子は遅くまで働いていた時、立ち寄った寿司屋で初老の男性に声を掛けられた。
あさ子に声を掛けたのは、同じ相互銀行で働く須田という57,58才程の男だった。
須田は月末の成績は支店では、一、二位を争うほどのやり手だった。
その時あさ子は須田に対し、特別な感情は抱かなかった。
しかし月末、須田は自分の契約の一部をあさ子に分けてくれた。
そんな事が続く中、あさ子は給料が増え、研修期間を終え、無事本採用となった。
本採用となったあさ子だが、あさ子を須田に対し気兼ねした。
須田は今の処、何も見返りを求めていない。それがあさ子にとり、何か心苦しかった。
あさ子は田代に、須田の事を話した。
田代は初めは只、あさ子の話しを軽く受け流す程度だった。
しかし、徐々に須田があさ子に対し、親密な関係を求めるに連れ、田代は次第に、須田に嫉妬と対抗心を燃やした。
田代の怒りは、愛人のあさ子に向けられた。
田代は失職したあさ子に何の力添えもできなかったが、嫉妬心だけは人一倍に燃やした。
田代は執拗に、あさ子を詰った。あさ子は、田代の追求が苦痛に感じ始めた。
どれだけ須田とは、無関係だと説明しても田代は信じなかった。
それどころか益々、嫉妬の憎悪をたぎらせた。
流石に相互銀行間でも、薄々須田とあさ子に関係を疑い始めた。
須田は銀行内の噂を歯牙にもかけず、あさ子を連れ回した。
次第に須田はあさ子に対し、明らかに親密な関係を求めつつあった。
あさ子は須田の迫りくる攻めを、ぎりぎりの処で躱していた。
田代のあさ子に対する追求は、次第に辛辣なものとなった。相変わらず田代はあさ子に対し、何の援助もできずにいた。
しかしあさ子の自分に対する報いは、しっかり享受していた。
皮肉な事にあさ子の現在の生活は、須田があさ子に契約を回してくれる事で成り立っていた。
或る日、夜遅く知人と名乗る人間に連れられ、酔った須田が、あさ子のアパートを訪ねてきた。
知人は半ば無理やり酔った須田を、あさ子に預けるようなかたちで、自分一人で帰宅した。
須田は暫く横になっていたが、須田の手がさりげなくあさ子の体に伸びた。
その時は距離があった為、あさ子の体に触れる事はできなかった。
再び須田は横になっていたが、意識はあると見えた。もう須田の目的は明らか。
あさ子がどうしたものかと思案に暮れていた時、いきなり田代があさ子に部屋に入ってきた。
田代はどうやら、一部始終をみていたようだ。田代は興奮して、須田を殺すと息巻いた。
あさ子は田代を宥め、必死で食い止めようとした。
2人が揉み合っている最中、不意に須田が起き上がり、あさ子に声をかけ、そそくさと部屋を後にした。
2人は不意を突かれ驚いた。あさ子は驚いたと同時に、今の生活が逃げてしまった事を実感した。
要点
甲斐性の無い男(田代二郎)には、同年の愛人(桑島あさ子)がいた。
或る日、女の会社が倒産。女は失職した。
女が失職した為、男が面倒をみれば良かったが、男には家庭と妻子があった。
男はとても愛人の世話する甲斐性はない。
女は職を探したが、なかなか見つからず倒産した会社のくちききで、相互銀行の集金人の職に就いた。
職に就いたはいいが、集金だけに限らず、契約も取ってこなければならない。
契約の歩合で女の給料が決まる仕組み。女に契約など、なかなか取れる筈もない。
肝心の男に契約を頼んでも、男は梲も上がらず、コネもなく、女の契約など取ってくる力量もない。
女は途方に暮れている時、同じ銀行で成績が優秀な初老の男(須田)が、あさ子に自分の契約を回してくれた。
あさ子は初めは気づかなかったが、初老の男には明らかな下心があった。
須田はあさ子と親密になる目論見があった。
あさ子の話を面白おかしく聞いていた田代も、だんだん須田に対し嫉妬を感じ始めた。
田代の怒りは、愛人のあさ子に向けられた。
田代の嫉妬心は、益々増大。あさ子と須田の行動を監視し始めた。
或るとき酔った須田が知人と供に、あさ子のアパートを訪ねた。
須田の目的は、酔った振りをしてあさ子に関係を迫る事だった。
その様子を見ていた田代は、嫉妬と憎悪のあまり須田を殺害しようとした。
2人が揉み合っている時、命の危険を感じた須田が咄嗟に起き上がり、そそくさとあさ子に部屋を後にした。
須田の足取りは明らかに酔った人間の足取りではなく、素面の人間の足取りだった。
あさ子は田代の凶行を防ぐ事はできたが、今後の生活基盤が喪失したのをひしひしと感じた。
追記
話の全体は、生活がおぼつかない2人が、関係を持ったが、男は甲斐性がなく、女の窮乏を救う事ができなかった。
女の窮乏を救う事はできなかったが、嫉妬心だけは人一倍持っていた。
何か矛盾したものが感じるが、人間とは所詮、いい加減なもの。
同じ立場になればおそらく世間の男は皆、田代のような行動をとるのではなかろうか。
自分(男)は浮気するが、自分の女房(妻)が浮気をすれば、男は女を何故か許せない。それと同じ心境かもしれない。
今回の作品をみた時、内容は全く違うが、以前紹介した清張作品『一年半待て』を思い出した。
あの作品は裁判制度の矛盾を問うものだが、今回と同様、梲が上がらず、甲斐性がない男が登場する。
そんな男が、苦労している女の足を引っ張る話だった。
女は不甲斐ない男に捕まって、何かやりきれない。
しかしそれは、お互い様かもしれないが。
参考までに作品中で登場する相互銀行は、現在では全て普通銀行に変遷している。
作者は「相互銀行と云っても、昔の無尽と然程変わらない」と述べている。
無尽に関しては若干知識が必要かもしれないが、あまり趣旨とは関係ない為、今回は省略したい。
作中で相互銀行(当時の名称)の外務員の報酬を説明する項目で、契約で入る報酬(歩合)を「ボテ」と呼んでいる。
このボテを貰う事で報酬が、支店長より多い者もいると書かれている。
此れは何も相互銀行の外務員に限らず、似たような形式をとる生命保険なども同じ。
生命保険の営業人は、俗に「外交員」と呼ばれている。
長年勤めている外交員の中では、支店長より多く貰っている者もいる。
かなり年配の外交員などは殆どが、該当する。
支店長は会社の定期の人事異動でいなくなるが、外交員は支店を変わる事はめったにない。
その為ベテラン外交員は、支店長より権限を持つ場合もある。幅を利かせているとでも云えば良いであろうか。
此の慣習が、この業界特有の少し歪な処かもしれない。
この報酬制度は、住宅・マンション・リフォーム等の不動産関係、自動車販売、健康食品等の営業にも多く採用されている。
殆ど完全歩合と云っても過言でない。その為、営業マン同士の激しい顧客の取り合いも行われる。
或る意味、同じ会社に所属しているが、互にライバルである事が多い。
組織中では、外から見えないドロドロした人間関係が存在する。まさに足の引っ張り合いとでもいうのだろうか。
一度その世界に足を踏み入れた人間であれば、きっとご理解いただけると思う。
私も嘗て同じ世界にいた過去がある。
最も今ではその世界から足を洗い、少しばかりゆとりのある仕事をしているが。
(文中敬称略)