石田三成の足りない「武」を補った武将 『島清興:左近』
今回は関ヶ原の合戦で実質上のリーダーだった、石田三成の右腕だった島清興(通称:左近)を取り上げたい。
以前石田三成を紹介した際、触れた事があると思うが改めてスポットを当ててみたい。
石田三成は西軍の実質的な指導者だったが、武将ではない。官僚と云えば的確かもしれない。
その三成の不足した「武」の部分を補ったのが、左近と云われている。
目次
経歴
・名前 島清興、島勝猛、島左近(通称)
・生誕 1540(天文9)年(生)~1600(慶長5)年(没)?
・家柄 島氏
・主君 畠山高政→筒井順政→順慶→定次→豊臣秀長→秀保→石田三成
・親族 島清国(父)、茶々(妻)
生涯
左近は大和国平群郡の国人の家系に生まれたとされている。
されていると書いたのは、多分に漏れず他の武将と同じく石田三成に仕えるまで、謎の部分が多い。
伝えらえている処によれば、隣国の河内の大名、畠山氏が次第に大和国に勢力を拡大。畠山高政に仕えたと云われている。
高政は当時日の出の勢いであった三好長慶と戦い敗北。畠山氏の没落後、同じ大和の筒井氏に仕えた。
筒井氏は先程述べた三好長慶の祐筆で、其の後主家を凌ぐ程にまで力を付けた、松永久秀と争う。
左近は筒井氏の従軍し、久秀と戦ったとされている。
やがて筒井家の当主、順昭が死去。僅か2才で家督を継いだ筒井順慶を盛り立てた。
その順慶も死去。順慶の死去後、跡を継いだ甥の定次と折り合いがあわず、出奔したとされている。
出奔後は蒲生氏郷、大和郡山を統治した豊臣秀長、秀長の跡を継いだ秀保に仕えた。
秀保に仕えたが、その秀保も死去。
秀長の秀保は無嗣だった為、秀長の家系は途絶え、左近も豊臣家を去ったと伝えられている。
その後左近は近江の山中にて隠遁した。
隠遁中、有力な武将が近くにいると聞きつけた石田三成が、左近を傘下に加えたいと思い左近の寓居を訪れた。
この出会いが、後の関ヶ原まで続く左近と三成の深い関係の始まりである。
左近と三成の出会い
左近が豊臣家を去り、近江の山中にて隠遁。
当時水口城主となったばかりの石田三成が左近の噂を聞きつけた。
左近を是非幕下に加えたたいと思い、左近の寓居を訪ねた。石田三成の訪問を受けた左近は当初、なかなか首を縦に振らなかった。
なかなか首を縦に振らない左近を三成は説得する為、当時約4万石だった知行の半分を渡す意味を示す為、秀吉から渡された証文の半分をちぎり、左近に手渡した。
当時自分の給料の半分を与えても、左近は召し抱える価値がある人物であると云う事を、三成は示したのであろう。
三成の行為に感服した左近は、心良く三成の申し出を受けたと伝えられている。此れは戦国時代でも有名なエピソードの一つ。
真偽の程は定かでないが。
因みに三成の寓居を訪ね、幕下に加える事を納得させたという話は以前紹介した、竹中半兵衛も同じ。
此れは何れも中国の三国時代の劉備玄徳、諸葛亮孔明の出会いを捩ったと云われている。
諺「三顧の礼を尽くす」という言葉は、此処から生まれている。
三成に仕えた後
左近が三成の要請に応え、三成の傘下に加わったのが凡そ1588(天正16)年の頃と云われている。
三成の臣下後、左近の然したる大きな動きはあまり見られない。
せいぜい1590(天正18)年、秀吉の小田原征伐の際、北条氏の忍城攻略で手柄があったとされているが、正式な記録はない。
更に小田原征伐の最中、東北方面での外交交渉をなしていたとの記録も散見されるが、然したる大きな功績と云えない。
唯秀吉が天下統一後、側近だった三成が秀吉の引けで出世。豊臣政権下で重要な位置を占めた事により、左近の地位も上がったとされる。
1591(天正19)年、三成が佐和山城主の就任後、関ヶ原まで左近も三成の臣下にて過ごしたとされる。
左近の運命が変わり始めるのは太閤秀吉の死後、主君石田三成が秀吉の後ろ盾がなくなり、当時武断派と呼ばれる連中に激しく命を狙われていた時期だった。
武断派との争いに敗れた三成は責任を取り、中央政権から退き、居城の佐和山城にて蟄居・隠居の身となった(1598年の頃)。
其の後関ヶ原までの約2年間、三成は佐和山にて鬱積した日々を過ごした。
左近も三成と同じく、雌雄の日々を過ごしたと思われる。
1600(慶長5)年、五大老の一人である上杉景勝が同じ五大老に一人である内府家康の横暴に耐え兼ね、大坂を辞す。
領国の米沢に帰り、反家康を露わにした。
家康は当然見過ごす事は出来ず、豊臣秀頼の大義名分を貰い、上杉討伐を画策。
各大名に召集を命じ、上杉討伐を実行した。
当然家康憎しと思っていた三成は、好機逸すべからずと思い、主に西軍の将を募り、反家康軍を編成。
ほぼ日本を二分、東軍・西軍に別れ戦をする経緯となった。
此れは過去、何度も述べている為、省略するが、左近が人生において一番輝いたのは、関ヶ原の合戦だったと云える。
過去のブログに重複する部分もあるが、敢えて紹介したい。
関ヶ原での左近の働き
ぞ存じの通り関ヶ原の戦いとは、ほぼ東西を二分。
未曾有うの大軍同士が関ヶ原にて激突。天下の覇権を争った戦いだった。
結果は僅か半日で、東軍の圧勝。
負けた西軍の豊臣家は、約15年後の大坂の陣にて滅亡する。
その西軍の実質的リーダーだったのが、当時隠居の身であった石田三成だった。
名目上のリーダーは、大坂城にいた毛利輝元。
関ヶ原の前線で指揮を執ったのが三成だとすれば、その傍らで三成を補佐したのが、左近だった。
左近は積極果敢に三成を鼓舞、補佐した。
上杉討伐の際、家康が兵を率い水口城にやってきた。水口城の城主は、当時五奉行で反家康の長束正家。
長束正家は家康に対し、水口城にて昼食の接待をしたいと申し出た。
家康も初めは正家の招待を受けた。しかし家康の隠密が、正家に家康暗殺の疑いがあると報告。
更に島左近が兵を率い、家康を強襲する可能性ありとの報告を受け、家康は夜のうちに水口を脱出。
家康は危うく、虎口を逃れた。
家康の暗殺機会を逃した左近は、地団駄を踏み悔しがったと云われている。
此れは、後々まで響く結果となった。
夜襲と云えば家康が決戦の寸前、赤坂の陣に布陣した夜、西軍の島津義弘が同じく三成に夜襲決行を提案している。
しかし三成は此れもにべもなく一蹴している。
此れで完全に島津隊は心が離れ、関ヶ原でも最後まで動こうとしなかった。
戦の決着がついた時、島津隊は中央突破という堂々とした退却で家康を震え上がらせ、合戦以後ほぼ御咎めなく本領を安堵された。
色々な武将の思惑が交錯。やがて天下分け目の戦いの幕が切って落とされた。
戦い序盤は宇喜多隊が、東軍福島隊を圧倒。あわや全滅にまで追い込んだ。
石田隊の奮闘も間覚ましく、三成に変わって指揮を執った左近、蒲生郷舎の活躍で黒田隊を相手に、有利に戦いを進めた。
戦い序盤は、西軍が東軍を圧倒していた。
その様子を桃配山で伺っていた家康は、イライラした模様で終始爪を噛んでいたと云われている。
家康が爪を噛むのは、イライラした時する癖と云われていた。
家康は味方の不甲斐ない戦いに激怒。味方を鼓舞する為、本陣を桃配山から前線に推し進めた。
家康本陣が詰めてきたため、必然的に第二陣、第三陣が押し出される形となり、戦は大混乱の様相を呈した。
東軍田中吉政はこの時、「死兵」を見たと云われている。
死兵とは、死ぬことも厭わない兵の事。つまり島左近の部隊だったと云われている。
島左近自身、合戦にて獅子奮迅の働きをしたと伝えられている。
此れはたまらないと思った長政は島左近を撃ちとるべく鉄砲隊を招集。島左近を撃つ狙撃隊を編成した。
関ヶ原町の民俗資料館にて飾ってある「関ヶ原合戦図屏風」では、島左近が長政が編成した狙撃隊に撃たれ、負傷した様子がはっきり描かれている。
私も現地に赴き、二度見た経験あり。ガラス越しで確認できた。
一度目は場所がわからず、唯全体を眺めたのみだったが。
二回目は事前に学習。ほぼ各武将の位置を頭に描き、屏風図を眺め確認できた。
実は左近はこの時、撃たれたのは略間違いないとされている。
しかし其の後左近がどうなったのかは、はっきりしない。
以前もブログで述べたが、この時のケガが原因で死去。死体は部下の手で、戦場近くに埋められた。
はたまた戦場離脱後、放浪した等の説は色々あるが、其の後の消息は不明。
確実に云えるのは、この時を境に左近は歴史の表舞台から消えた。
皆の心に生き続けた島左近
隆慶一郎氏の時代小説『影武者徳川家康』では、東軍の大将家康の暗殺に成功。
成功したが、家康の影武者に見事な采配を振るわれ、西軍は敗退。
敗退後、左近は京都に潜伏。潜伏時、自らの忍びを通じ今度は敵だった影武者と手を結び、影武者の敵である秀忠に対抗する話。
尚、漫画で原哲夫氏が「週刊少年ジャンプ」にて、分かり易く描いている。
なかなか面白い内容だったと記憶している。
おそらく源平時代の義経生存説を真似たのではないかと思われる。
偉人は死んだ事にするより、後々まで生きたと信じる方が、伝説として皆の心中で生き続ける事が多々ある。同じ類かと思われる。
私が思うにおそらく、戦場にて死亡。
左近の部下が決して左近の首を渡さないと誓い、戦場近くの土中に埋めたものとされるのが、正しいと想像する。
同じ西軍の将、大谷吉嗣も同じと思われる。
吉嗣も首は発見されなかった。最後に介錯した湯浅五助がおそら首を持ち去り、何処かの土中に埋めたと予測する。
逆に二人とも発見されなかった事が幸せだったのではあるまいか。
敵の首実験に晒され、首を発見した者の手柄にならなかったのが善かったと私も思う。
利用されるより、ましという処であろうか。
こうして関ヶ原以後、左近の消息は途絶えた。
消息は途絶えたが、約400年以上の時を経て現代でも話題となるのは、生死はともかくとして幸せな事ではあるまいか。
それは義を通じ主君三成に仕え、合戦の最中、華々しく散っていった英雄のせめてもの手向けなのかもしれない。
そう思った今回のブログだった。
(文中敬称略)