愚直で、融通が利かなかった奉行『石田三成』

戦国時代、天下を統一した太閤秀吉。秀吉の側近に内政実務に長けた人物がいた。

その人物の名は『石田三成』。

1600年関ヶ原の戦いでは、実質的西軍(豊臣方)のリーダーであったのは言うまでもない。

今回は、石田三成を取り挙げてみたいと思う。

 

経歴

・名前    石田佐吉、石田三成

・生涯    1560年(生)~1600年(没)

・主君    羽柴秀吉→秀頼

・氏族    石田氏

・官位    従五位下・治部少輔

 

生涯

石田三成は1560(永禄3)年、近江国坂田郡石田村にて石田正継の二男として生まれる。

幼名は佐吉といった。

 

三成は二男であったが戦国時代、佐吉は血筋を絶やさない為、幼くして寺に入られたと言われている。

父正継が京極家に仕えていたとする説もあるが、真偽は定かではない。

土豪、地侍の類かと思われる。

三成が寺の小坊主になった出来事は三成自身の人生はおろか、後の日本史の大きな関わりを持つ事となる。

 

三成の機転

1574(元亀4、天正元)年の頃と言われているが、当時信長から長浜を治めるよう命ぜられた「羽柴秀吉」が鷹狩りの際、喉の渇きを覚えた為、観音寺に立ち寄った。

寺で茶を所望した時、接待にあたった寺の小姓が秀吉に対し、一番初めに「ぬるめ」のお茶を差し出した。

喉が渇いていた秀吉は、すぐさまそのお茶を飲み干した。

 

秀吉が引き続き茶を所望した際、寺の小姓は今度「少し熱め」のお茶を差し出た。

一杯目は、喉が渇いていた為、直飲み干すと見込み、態とぬるめのお茶を秀吉に差し出した。

二杯目は秀吉の喉が潤されている為、少し熱めのお茶を差し出すと言う寺の小僧の機転に感服した秀吉は、寺の住職に話をして、寺の小姓を貰い受け、自分の側近(小姓)に取り立てたと言われている。

 

これは秀吉と三成の運命的な出会いのシーンとして、伝えられている有名な話。

JR長浜駅では、この逸話はモチーフとして二人の(秀吉と三成)の銅像が建てられてる。

当時三成は、13才と言われている。

 

三成の歴史的因縁
石田三成の誕生は、1560年。この年は、織田信長が桶狭間の奇襲にて「今川義元」を討ち取った年。更に信長が宿年の敵、浅井・朝倉は滅亡させたのが、1573年。その手柄として秀吉は、旧浅井領であった「長浜」を信長から貰い受けた。秀吉自身、長浜は本格的に一から築き上げた町であり、秀吉にとり出世城と言われている。その翌年の出会いである為、何か歴史的縁を感じざるを得ない。歴史にもしはないと言われているが、もし秀吉が長浜に赴任しなければ、三成は寺の小姓として、歴史に埋もれていたかもしれない。

 

何はともあれ三成は、当時信長軍団の出世頭である、羽柴秀吉の側近として使える身となった。

 

三成の才気と抜擢

羽柴秀吉の側近となった三成であるが、秀吉の側近には後に大きな関係を持つ事になる大谷佐吉、福島正則、加藤清正がいた。

三成は秀吉との出会いでも理解できる様に、知的な面では優れていたが、他の小姓たちとは違い、武の面では頗る劣っていた。

三成は能吏ではあったが、太刀を取り戦場にて駆け出し武勲を挙げる人物ではなかった。

つまり文官タイプと言える。後に秀吉軍の中核として戦う武官とは、明らかに違っていた。

 

此れが後々の秀吉亡き後、豊臣家滅亡の遠因ともなる。

この事は以前関ヶ原の際も述べているが、重要な事なので後述した。

実際に三成が活躍するのは秀吉が信長の臣下の時代ではなく、秀吉が信長亡き後、秀吉が織田家を乗っ取り、同じ家臣でライバルであった旧信長家臣を滅ぼした後の事。

 

秀吉台頭の転機となった本能寺の変

本能寺の変後、秀吉の動きは此れまで何度も述べている為、敢えて繰り返さないが、秀吉が信長の後継者の地位に躍り出た事により、三成の手腕も遺憾なく発揮される事になる。

秀吉は本能寺の変の翌年、清洲会議でも対立した信長の宿老であった柴田勝家と賤ヶ岳にて戦禍を交え、勝家を滅ぼす。

数々の敵、ライバルを蹴散らした1585(天正13)年、秀吉は公家以外で初めて「関白」の就任となった。

尚、武家の最高と言われた「平清盛」は、その一つ下の位と言われている「太政大臣」までとなっている。

 

信長の草履取りから始まった秀吉が、とうとう人臣の最高の位である、「関白」まで昇りつめた。

秀吉が関白就任の頃、三成は従五位下治部少輔に叙任される。

同年末、秀吉から近江国水口4万石を与えられたとされている。

此れも少し異論があり、はっきりしないが今回は話を進める上で、事実としておく。

 

三成の「武」の部分を補った「島清興:左近」との出会い

水口4万石を秀吉から授かった三成は、任官地の近くに当時大和の筒井家から出奔。

隠遁していたと言われる武名高い「島清興」を幕下に加えようと思い、清興の隠遁の寓を訪れた。

三成は左近(以下、左近)は説得したが、左近はなかなか首を縦に振らない。

そこで三成は、左近を説き伏せる為、当時秀吉から貰った知行国4万石の証文を半分ちぎり、左近に渡したと言われている。

 

これはつまり当時三成の知行の半分を渡す、つまり三成の給料の半分を渡し貴殿(左近)を迎え入れたいとの意味。

三成の手厚い処遇に感銘した左近は、三成に仕える決心をしたと言われている。

真偽はさておき、有名な逸話となっている。

此れは三成の主君である秀吉も感銘した様で、左近に褒美をとらしている模様。

因みに左近は、三成が豊臣家の命運をかけ東軍(徳川軍)と戦った関ヶ原まで運命を共にしている。

 

三成の出世

主君秀吉が権力者に成るにつれ、側近であった三成の地位もエスカレーター式にどんどん上がっていった。

そして秀吉が天下人になる最後の仕上げとして、関東の雄「北条家の小田原」攻めの忍城の攻略にて、三成は水攻めにて功をなす。

愈々秀吉が天下統一した後、三成は筆頭重臣として大坂城にて秀吉の庇護の下、権力を発揮する。

歴史上で有名な「太閤検地」でも三成は各地の検地奉行を秀吉に任され、能吏の手腕を首尾よく発揮した。

後に盟友となる、「大谷吉継」との一緒に奉行を務め、互いに絆を深めていった。

 

尚、三成と同じく内政に手腕を発揮した人物に、「増田長盛」「長束正家」「小西行長」「前田玄以」などがいる。

これは後の五奉行となり、秀吉死後の文治派・武断派の対立の基ともなる。

この時から対立の火種が芽生えていたと言える。

更に述べれば、現場と内部との乖離とでも表せば良いであろうか。

その対立の基となった(三成憎し)出来事を次に述べたい。

 

武断派の三成の敵視

日本国内を統一した秀吉は、国内統一の余勢を今度は朝鮮国、ひいては明国に攻め入ろうと計画した。

所謂、「朝鮮出兵:唐入り」である。

 

日本軍は戦闘開始当初は善戦した。

朝鮮国、宗主国であった明が準備不足だった事も幸いした。

しかし日本軍は兵站が延び切り、補給などで苦戦。

朝鮮国の冬の情報も知らず、凍傷や疫病などで苦戦した。

更に明国の来援もあり、徐々に戦いは膠着状態に陥った。

 

秀吉は肥前国名護屋城を本拠地として主に西国の大名を朝鮮国に渡航させ、現地にて戦わせていた。

西国の大名の中心は加藤清正、黒田長政、小早川秀秋等であった。

三成は軍監として、朝鮮に渡航した。しかし戦いは膠着。

日本軍の戦いは、あまり芳しくなく三成から報告される戦況の報告は、太閤秀吉の機嫌を損ねるばかりだった。

 

現地の渡航した大名の兵力・軍費は勿論、自弁。

一方、軍監として渡航した文治派(官僚・内政派)は、全く腹が痛まない。

現地の武将達は、自分達は現地で苦労しているが、秀吉に上がる報告は評価が芳しくない。

自ずと現地武将の恨みの対象は、現地の内政派の人間に向く。三成・長盛・行長に充てられた。

 

小西行長は渡航した武将だったが、元々は堺の商人出身で算盤勘定が得意な人間。

何方かと言えば、文治派に近かった。

秀吉の晩年、三成と行長は明国との和平交渉にあたり、二人は耄碌した秀吉を見て明国との和平交渉の文章を改竄した可能性がある。

秀吉はあくまで明国に対し、強きの交渉で臨んでいた。

 

しかし三成・行長は、どうやら日本国が敗北に近い形で和平交渉を進めていた。

その証左として秀吉死後、日本軍は朝鮮国から撤退した。

 

朝鮮出兵の際、三成の報告で秀吉から叱責された武将がいる。

黒田長政、蜂須賀家政(小六の子)、小早川秀秋である。

小早川秀秋などは、秀吉の正妻、「北の政所」の甥にあたる人物。

秀吉は子に恵まれていなかった為、秀吉は一時自分の後継者として秀秋を考え、養子にしていた時期もあった。

 

しかしその後に秀頼が生まれ、秀秋は子がいなかった小早川隆景の養子となり、小早川家を継いでいた。

当初秀吉は小早川家の本家である毛利家の当主輝元に秀秋を押し付けようとしていたが、本家危うしと言う事で、分家の小早川家が犠牲となる経緯があった。

 

秀吉は秀秋を引き取って貰った恩義もあったのか、小早川家(秀秋)を筑前・筑後の約55万石に封じていた。

処がこの殿(秀秋)は、大変な暗愚、つまり「バカ殿」だった。

秀吉の親族で大封の主であった為、朝鮮現地の総司令官に任命されていた。

しかし朝鮮で失敗を重ね、三成からの報告を得た秀吉に因り、現地総司令官の地位を解任されていた。

 

厳罰の追加で筑前・筑後を没収。越前国北の庄、約16万石に減封されていた。

秀秋はバカ殿で、当然の処置と思われたが、人間の感情はなかなか自分が悪いとは理解できない。

秀秋も当然、三成を憎んだ。

 

秀秋は秀吉の死後、家康の口利きで旧領土を回復するが、この出来事などもあり、後の関ヶ原で秀秋が西軍を裏切りる要因ともなったと思われる。

 

繰り返すが秀吉の死後、日本軍は朝鮮から撤退。

朝鮮国に出兵した大名は何も得る事はなく、ただ戦費と兵力を徒に浪費したのみだった。

此れは武断派の三成憎しを、益々強固なものにした。

 

もう一つの三成憎しの出来事

秀吉の朝鮮出兵とほぼ同時期、三成憎しと他の人間から恨みを買う出来事が起こった。

前述した朝鮮出兵は秀吉の失政とも言えるが、此れはどうやら三成の計略ではないかと思われる事件である。

それは次期秀吉の後継者とされていた、「関白秀次」一族殺害事件に関して。

秀次は秀秋と同様、子宝に恵まれなかった秀吉が自分の後継者として考え、擁立していた人物であった。

因みに、秀次も秀吉の甥の関係。

秀次は元々武将ではなく、文化人であった。当時の文化人たちと交流、文化人としての地位を固めつつあった。

 

子に恵まれない秀吉が後継者にと考え、1591(天正19)年、自分が退任した後の関白の座に秀次を据えた。

秀次は関白就任後、当時の文化人たちと益々交流を深め、文化の隆盛に力を注いだ様だ。

 

しかし秀次の運命は一変する。

秀吉の側室「淀殿」の子の誕生、則ち秀頼の誕生である。

秀頼の誕生により、秀次の人生は一変した。秀頼の誕生で秀吉と秀頼の関係は悪化した。

 

現代でもよくある話。

なかなか子供が出来ず、後継者にと養子を貰った処、夫婦の間に実子が生まれる事が。

当然、その家の行く末は御家騒動。

豊臣家も秀頼誕生で、御家騒動に発展したとみて良い。

 

秀吉・淀殿は当然、秀頼を後継者にと画策。秀次の存在が邪魔になる。

この頃になると秀吉もだいぶ歳をとり、耄碌が進む。

数少ない秀吉の親族で、切れ者であった秀長も既になくなっていた。

 

秀吉の暴走を止める人物など、既に誰もいなかった。

その結果は、火を見るよりも明らか。秀次一族は誅殺。

秀吉は秀頼が将来豊臣家を継いた際、秀頼の敵となる勢力の抹殺を実行した。

 

文化人と持て囃された秀次は、何時の間にか奇行・横暴を働く「殺生(摂政を捩ったもの)関白」との汚名を着せられ、挙句に秀吉に対し謀叛を計画したとの罪により、女子供の一族もろとも処刑された。

どうやら秀次は無実と思われたが、当時の側近三成・長盛の讒言により、秀次一族が処罰された。

処刑の立会人も三成・長盛だった。恨みを買うのは、当然かもしれない。

 

秀頼の母は、淀殿。これも何気に重要。

三成が秀吉に抜擢された逸話を思い出して頂きたい。

三成は長浜の寺で小姓をしていた時、秀吉に抜擢された。

長浜は旧浅井家の領地。淀殿の父は、浅井長政。母は勿論信長の妹、お市の方。

当然三成が旧浅井領出身で、淀殿は同じ浅井家の血縁。淀殿に味方するのも分からなくはない。

 

後の武断派の代表であり同じ秀吉の小姓であった福島正則、加藤清正は尾張出身。派閥が出来ていても可笑しくない。

武将だが関ヶ原の際、刎頸の交わりであった大谷吉継は近江出身。

三成と大谷が仲が良かったのも、同郷の誼で当然だったかもしれない。

追加で武断派・文治派の対立と並行して、北の政所・淀殿の対立構造の原型とも言える。

武断派は北の政所、文治派は淀殿。此れは豊臣家滅亡の「大坂、夏の陣」迄、続いた。

 

秀吉の死後

天下の英雄秀吉が1598(慶長3)年、亡くなった。

秀吉の死後、豊臣政権の動揺は関ヶ原の章で詳しく述べた為、省略するが、明らかに三成の地位は危うくなった。

 

秀吉存命中、秀吉の威光で隠れていたが、秀吉なき後、三成に対する各将の不満が一挙に爆発した。

まず三成憎しの急先鋒となったのは、何度も述べているが武断派の連中。

武断派の連中は、朝鮮の役での三成の論功行賞などに不満をもっていた。

更に秀吉の末期、五奉行として三成は辣腕を振っていたが、三成の横柄な言動と態度に対し、他の家臣・大名達はあまり三成に好意を持っていなかった。

 

こう考えて頂きたい。自分の勤める会社に、カリスマ的な指導者がいた。そのカリスマ的指導者に付き添い(側近、秘書の類)、色々現場に口うるさく干渉してくる人間がいた。

内心皆快く思っていないが、カリスマ指導者の威光をおそれ、皆は渋々従っていた。

 

此方が意見具申しようとも、そのカリスマ指導者に纏わりついている側近(茶坊主)どもが、次々に握り潰す。

現代社会でもしばしみられる光景。何時の時代も同じと思われる。

 

洒落ではないが三成は元々、寺の茶坊主をして秀吉に取り立てられた。

秀吉の死後、三成の運命に暗雲が立ち込めたと言える。

 

三成の失脚

秀吉の死後、五大老の筆頭格であった徳川家康の横暴が激しくなった。

秀吉の墳墓の土が乾かぬ中に、次々に亡き太閤殿下の掟を公然と家康は破り始めた。

 

太閤亡き後、幼少の秀頼ではなく、実質的中心人物は家康といっても過言でない。

他の大名は口には出さないが、皆家康の存在を認めていた。

 

その為、太閤亡き後、家康の行動を咎めるものなど誰もいなかった。

いるとすれば、豊臣家の実質的指導者淀殿、その淀殿に忠誠を誓う家臣、三成ぐらいであろうか。

 

三成は家康に対し、太閤殿下なき後の掟破りの所業を厳しく問い質した。

しかし家康はその度にのらりくらりとかわし、切り抜けていた。

 

家康としては、やがて起こる武断派と文治派の対立を、手薬煉ひいて待っていたと思われる。

むしろ武断派の連中を嗾け、争いを激化させていた節があった。

 

此れも関ヶ原の章で詳しく述べた為、省略したい。

対立は五大老の一人、秀吉が尾張時代からの盟友であった、前田利家の死の直後に起こった。

武断派の連中が、三成を誅殺すべく、三成を追い回した。

 

三成は窮地を逃れるべく、奇想天外な策で逃れた。

武断派を陰で操っていた家康の屋敷に飛び込み、家康に助けを求めた。

 

流石の武断派の連中も家康の屋敷にまで手を出せず、三成暗殺を断念した。

家康は敵三成を助ける条件として、三成を豊臣政権の中枢から離れ、居所佐和山城に蟄居。隠居の身となった。

三成は此の時、約19万石の大名だった。

 

三成が佐和山城に退去する際、家康の次男秀康に護衛され佐和山城に辿り着いた。

やはり家康も後に天下を獲る人物。

三成を殺そうと思えば殺せたが、今はまだ時期尚早として三成を生かし、護衛までつけ三成を生かした。

これが後々、大きな代償となり家康に戻ってくる。

 

家康に天下を獲らせた関ヶ原の戦い

三成が豊臣政権の中枢から去った後、家康の専横は益々極めた。

家康と同じ五大老の上杉景勝は家康の横暴を潔しとせず、自国に帰り明確に家康の対し反旗を翻した。

此れも以前関ヶ原と大谷吉継を紹介した章で述べたが、家康は秀頼の名において、景勝に対し詰問状を出した。

その返書が、有名な直江状である。

 

直江状の返書を受けた家康は「今迄このような無礼な手紙を貰った記憶はない」と呟き、上杉景勝討伐の軍を編成した。

上杉討伐は家康として名目に過ぎず、おそらく自分(家康)が大坂を留守にした際、起こりうる出来事を予測しての行動と思われる。

 

起こりうる出来事とは、自分が留守の間に佐和山城の三成が、「自分を除く為に挙兵するであろうと」の予測。

その証拠として家康は上杉討伐軍の際、東海道をゆるりゆるりと行軍。自国の居城である江戸城には、20日近くも滞在した。

 

普通であれば、相手の陣容(上杉軍)が整わない中に攻めるのが、戦の常道。

しかし家康の行軍は、何故か緩やかだった。

 

三成は家康が投げた餌に、喰いついた。

家康はやはり、三成の挙兵を予測していた。

三成が挙兵した際、真っ先に狙われる城は京都の伏見城。

 

家康は上杉討伐に向かう際、城代として三河時代からの譜代の老将「鳥居元忠」を任命した。

勿論元忠も主君家康に、天下を獲らす為の捨て石である事を悟っていた。

二人は今生の別れとして家康が出征の際、一緒に最後の世を過ごしたと言われている。

 

一方、三成も家康が会津上杉討伐に出征すると聞き、次期到来として反徳川軍を編成。

豊臣家の将来を揺るがす家康を討とうと計画した。

 

三成が一番初めに家康討伐の計画を打ち明けたのは、以前大谷吉継を紹介した際、述べた。

吉継は家康の上杉討伐軍に参加しようとして、美濃国垂井まで来た。

垂井で佐和山城の三成の使者をうけ、佐和山城に赴いた。

吉継はそこで初めて三成の計画を打ち明けられた。

 

繰り返しになるが、吉継は三成から計画を聞いた際、三成に即座に「やめろ」と告げた。

成功の見込みがない為と付け加え。

三成に対し、「君は人望がない。それに優柔不断である為、成功しない」と。

君は普段から他人に対し、横柄な口の利き方をする。

他人は太閤殿下が生存の時は、殿下の威光で君に(三成)ひれ伏していたが、太閤殿下亡き後、誰も君をおそれる者などいない。此れだけハッキリ吉継は三成に告げた。

 

もしそれでも反家康軍の挙兵をするのであれば、君の禄では格が違う。

此処は一つ毛利輝元殿か、宇喜多秀家殿を担ぎ出し、総大将になって貰えば、他の大名も味方につくであろうと助言した。

実際三成は吉継の助言を聞き容れ、西軍の総大将として毛利輝元を毛利方の安国寺恵瓊を通じ、担ぎ出す事に成功した。

 

吉継はその場で三成に味方する事を固辞したが、垂井の陣に戻った後、三成との積年の友情・茶会での出来事を考えた。

その後吉嗣は負けると分っていたが、三成に味方する事を決意。

垂井の陣を引き払い、自国の敦賀に引き返した。

こうして後に東軍(徳川方)、西軍(豊臣方)と言われる勢力に別れ、天下分け目の戦いに突入する事になる。

 

五奉行の内紛

大坂に入城した三成は反家康軍を編成する為、主に西国の大名を中心に反家康軍に参加するよう味方を募った。

更に太閤殿下亡き後、家康の横暴ふりを弾劾する書状を作成。

天下に五奉行の名の下で発布、如何に家康が亡き太閤殿下の掟を反故にした不届き者として喧伝した。

 

しかし家康の弾劾状に名を連ねていたが、大坂方を裏切り東軍に三成挙兵の情報を知らせていた者がいた。

以前三成が城主を務めていて、現在大和郡山城主の「増田長盛」だった。

 

元々長盛は丹羽長秀の家臣であったが、算盤勘定が上手く、秀吉が長秀に話をつけ幕下に加えた人物であった。

三成も内政に優れた吏官であった。長盛は武将というよりも、商人といった方が的確かもしれない。

 

思えば秀次処刑の際、三成と同じ行動をした人物。

今度は三成と家康を両天秤にかけ、何方が勝っても生き残る様に保険をかけた。

 

しかし結果を述べれば長盛の目論見は外れ、長盛は関ヶ原の後、家康から領地を召し上げられ、長盛は間もなく切腹している。

 

更に吉継が心配していた事が的中。

三成の優柔不断さと横柄な態度で、西軍は戦う前から既にガタガタだった。

そして迎えた運命の関ヶ原の戦い。

 

関ヶ原の戦いとそれ以後

戦う前から既に亀裂が生じていた西軍。詳細は既に何度も述べている為、割愛する。

戦いは半日でケリがついた。

 

西軍の主たる軍は、三成軍・宇喜多軍・大谷軍しか戦わず、後は日和見を決め込み、最終的な勝負処は西軍小早川秀秋の裏切りで決着した。

小早川秀秋の裏切り。

それは前述した朝鮮出兵の際、三成は秀秋から恨みを買っていた事は間違いない。

 

しかし三成自身は、只単に自分の業務を全うしたと主張するに違いない。

それが或る意味、三成の融通が利かない処かもしれない。

 

所詮、人間は感情の生き物である。人間理屈では割り切れない処がある。

吉継が三成に対し、横柄な言動であるから注意しろと述べたのは此の事かもしれない。

 

更に三成は、島津軍が献策した案を鮸(にべ)なく退いている。

戦いの最中、島津軍が動かなかったのは、この為だった。

相次ぐ三成の横柄な言動により、島津軍は心理的にとうに西軍から離反していた。

 

しかし三成自身は、全く自覚がなかった。

嘗て同じ秀吉の小姓であった恩顧の福島正則・加藤清正などが反三成として東軍についたのも、無理がないかもしれない。

三成は武断派の人間に、其処迄嫌われれていたと言う事。

三成自身、今回の挙兵はあくまでも豊臣家安泰の為と思っていたが、他の恩顧の大名は決してそうは思っていなかった。

 

三成は敗戦後、伊吹山を経て領地の近江古橋村に潜んだ。

しかし家康の必死の探索で、逃げ切れないと自覚。

三成探索の奉行に任命されていた昔馴染みの田中直政に自分の居所を知らせ、捕縛させた。

 

捕えられた後、三成は大津城の城門前に晒され、東軍の武将に辱めを受けた。

中には嘗て同じ小姓であった福島正則からも罵倒を受けた。

 

中には西軍であったが裏切り、東軍に勝利を齎した小早川秀秋もいた。

三成は大津城で曝された後、京に護送され六条河原で露と果てた。

 

護送中、喉が渇いた為、白湯を所望した処、白湯はないが干柿ならあると護送の兵に差し出された。

すると三成は干柿は喉に悪いと断った。

三成の言葉を聞いた兵士は、此れから処刑されるのに喉に悪いもあるかと面罵した。

その返答として三成は、「忠臣とは命がある限り最後まで主家の安泰の為に尽くすものだ」と呟いたと言われている。

 

誠に愚直で忠君な三成の言葉とも言える。

尚、三成に足りない武の部分を補った「島左近」は、関ヶ原で獅子奮迅の活躍をしたが、左近を狙う黒田長政の鉄砲隊に撃たれた。

其の後の行方は分からず、その時を境に歴史から姿を消す。

戦い以後、どうなったのか全く不明。

 

西軍を裏切った小早川秀秋は数年後、精神に異常をきたし、死亡。

無嗣であった為、小早川家は御家断絶。

 

加藤清正は秀頼・家康の面会の後、帰郷の途中急死。

 

福島正則は関ヶ原の功績で広島にて大幅な加増であったが、後に制定された武家諸法度違反の罪で改易。

後に許され川中島にて僅か4万石程の禄であった。正則は晩年、放心状態だった。

 

反三成で東軍に参加したが、行く末はあまり幸ある人生とはいかなかった様だ。

これも家康が天下を獲った後、あざとい手で豊臣恩顧の大名を潰したとも言える。

結局三成の尽力とは裏腹に、豊臣家は1615年に滅び、約270年近くの徳川の治世が続く事となる。

 

(文中敬称略)

 

 

・参考文献一覧

【逆説の日本史12 近世暁光編】井沢元彦

(小学館・小学館文庫 2008年7月発行)

 

【私説・日本合戦譚】松本清張

(文藝春秋・文春文庫  1977年11月発行)